くにたち蟄居日記 -113ページ目

「出口なお」  安丸良夫

イメージ 1
 
 日本の近代化の下、凄まじい困窮に耐えながら大本教を開祖した女性の話である。本書が現代にどのように反映されるかを考えさせられた。

 出口なおは、明治維新以来の富国強兵の中で、その犠牲ともいうべき状況の下、極貧の生活を強いられた。「強いられた」という言い方にはやや受動的な響きがあるとしたら、ここにはふさわしくなかったかもしれない。著者の描く出口なおはむしろ能動的に極貧生活を耐え抜いたように見える。
 但し、限りない自己犠牲の中で、どうしてもその不条理に耐えかねた時に、彼女の情念が宗教という方向性に放出されたという話だ。不条理を「終末観」に因って葬り去り、新しい世が来るという「物語」を作り上げるという人間の考え方のスキームは千年王国思想等、人間には普遍的なものだと聞く。

 この文脈で現代の日本を考えてみるとどうか。

 今の日本もグローバリズムという大きな流れの中で、切り捨てられる人が急増していくことが目に見えてきている。本書が書かれた1976年の日本と、2011年の日本は既に全く違う。一億総中流という幻想を持てた時代が懐かしい。現在は出口なおと同じく、時代に取り残された人が増えていないだろうか。そういう人達の情念が、ある種の方向性に放出され始めてはいないだろうか。

 出口なおは自分の情念を自分で「物語」化することが出来たと僕は思う。一見荒唐無稽であっても「物語」には「論理」が構成される。「論理」が構成されれば、その中に身を置くことが出来る。
 一方、自分で物語化出来ない場合には、他の人が作った物語に身を置くことも可能だ。オウム真理教もその一つだろうし、もっと一般的に言うと、日本の企業社会文化ですら、そんな「物語」の一つなのだと思う。「物語に参加出来ているという実感」が無ければ、往復の満員電車に揺られて通勤等出来ないと僕は思う。
 
 現代はそんな「物語」が枯渇しつつあるのではないかと僕は思う。今、放出される情念がどのような結晶を齎すのかは見えにくくなっている。それは例えば無差別な暴力という形かもしれないのだ。

 そう思う中で、35年前に書かれた本書は今なお示唆に富む。僕はそう考えた。

「世界」 2011年4月号  TPP特集

イメージ 1
 
 TPP特集である。感想は二点だ。

 一点目。TPPという言葉自体は新聞で良く見かけたが、その中身に関しての理解は極めて少なかった。今回本誌を読んだことで大変勉強になった。特に、日頃購読している日経新聞には書かれていない内容があった。
 
 日経新聞は面白い新聞であるとは思うが、やはりある種の偏向はある。これは日経新聞に限らず、あらゆるメディアにも言えることだ。従い、日経新聞を責める積りはない。要は、自分なりにソースを複数持って、出来るだけ自分で「考える」ということなのだと思う。


 二点目。大震災を経験した後でTPPに何が起こるのか。

 今回の震災ではっきりしたのは首都東京は福島県がリスクを取って設置した原発に大きく頼っていたという事実である。また、これは今後じわじわ出てくるだろうが、農産物に関しても北関東への依存度が強いことが見えてくるはずだ。

 端的にいうと「外部に頼る経営体質」ということだ。これをTPPと絡めて考えると、再度食糧自給への議論が沸騰してもおかしくないと僕は思う。TPPを受け入れることで、日本の食糧自給がどうなるかという点は再度検証されるべきだろう。「計画停電」ならぬ「計画断食」というようなものが、将来の日本に発生しないとは誰も言えないだろう。

 今度の震災の後にしばらく読書も、ままならず、ただネットとTVを見ているだけの時間が過ぎていた。そろそろ、我に返らなくてはならない。本誌は、それを手伝ってくれた。

3月27日 NHKスペシャル「震災特集」を見て

 3月27日NHKスペシャルのキーワードは「物流」である。
 
 番組では、食糧、薬、ガソリンが物理的に届かないと何が起こるのかということを取材している。原因は「物流」が寸断されたという点に尽きている。
 
 物流とはこちらとあちらをつなぐ経路だ。「こちら」の生活を維持する為に、いかにたくさんの「あちら」が必要であり、かつ、その多くの「あちら」といかに「常に繋がっていなくてはならないか」ということがはっきりしたということだろう。
 
 例えば人体を考えてみると、血液がそれに当たる。「血」には、基本的には色々なものを運んでいる機能がある。出血多量で人が死ぬのは、その運ばれている「色々なもの」が体の随所に届かなくなるからだ。今被災地で起こっていることは、基本的にはそれと同じことだ。
 
 今、日本がおこなっていることは「輸血」である。災害発生後二週間という時間が経ち、輸血の効果は確実に出てきていると信じたい。但し、本当の「痛み」が出てくるのは、これからに違いあるまい。血を得て、意識が回復した時に、初めて自分の体が受けたダメージに気が付くようになるだろう。そこからの「痛み」は長く続くはずだ。僕らは、どのようにして、その「痛み」を耐えていくのか。それをまだ考える余裕は無い。

プロメテウスの火

 引き続き全く予断を許さない原発の状況を見ていて、やはり原子力は「神の火」なのだなと考えてしまう。
 
 日本は唯一の原爆の体験を持っている。その66年後には、世界史最悪の原子力事故を体験してしまうかもしれない立場に立たされている。原発に対応されている方の信じられないような献身的な努力が一刻も早く実を結ぶことを祈りつつも、「神の火」は人間には到底御せるものではないのかもしれないと考えてしまう。
 
 一方、東京の停電振りを見るにつけても、既に原発無しでは成り立たない日本という姿も見えてくる。多くの組織が東京一極集中を慌てて見直しているが、次の原発事故は、移転先で起こるかもしれないのだ。
 
 「想定外」という言葉が流れる。便利な言葉だ。結局「物事は想定出来る」という驕りがそこにあるだけなのだ。
 
 想定外だったという今回の地震が地球史上最大の地震というわけでもない。地球の地殻変動の歴史を
考えてみると、おそらく、大した規模ではないはずだ。今後我々は、どんな「想定」が出来るというのだろうか。
 
 
 プロメテウスは生きながら猛禽に内蔵を食べられるという拷問を受けた。人類のこれからもそういう苦闘が続くだろう。
 人類が原子力を天に返す日が直ぐに来るとは思えない。電力というものを見つけた日から、人類は電力で生きることを選んでしまったからだ。勿論、太陽光発電等への取り組みは加速的に高まるだろう。但し、原子力発電が無くてもやっていける日は遠い先に違いあるまい。それまで僕らはプロメテウスの火と共に生きるしかないのだ。

震災体験を持たなかった自分というもの

 大震災が起きて二週間以上経ったところだ。
 
 僕はインドネシアからTVやネットで大震災の状況を知る事しかできない。日本にいる妻や子供達と電話で話していると、「東京での震災」体験というものを彼らが彼らなりに感じていることが分かる。
 
 上の娘は地震当日には鉄道が止まり、帰宅するのに苦労した。
 妻は地元のスーパーに買い物に行って、品切れ商品があることを目の当たりにした。
 
 三陸や福島の方に比べると、比較にならないくらい小さな話だ。但しそれはそれで一つの「震災体験」であることも確かだ。
 
 今回の大震災は日本のスキームを変える事になると僕は思う。政治の有り方、経済の有り方、国の有り方、人間の有り方 に対して、強烈な問題提起になるだろう。今、この瞬間は目の前の危機対応に日本中が必死だが、それを乗り越えた段階でそれらが議論になるはずだ。
 
 そんな時に僕は自分が震災体験を持たなかったことで、何か理解できないものがあるかもしれない。震災体験を具体的に持った方と、持たなかった僕との間には、なんらかの断絶が産まれるのではないだろうか。
 
 最近そんな気がしている。

CKさんの詩の紹介 「もし わたしが」

 CKさんの詩を紹介する・
 
+++++++
 
 もし わたしが 水だったら
 あなたの 渇きを 癒せるだろう
 
 もし わたしが ミルクだったら
 あなたの赤ん坊に 飲ませることが 出来るだろう
 
 もし わたしが 毛布だったら
 あなたを 温めることが 出来るだろう
 
 もし わたしが あなたが喪った人だったら
 あなたの 隣に 座ることが 出来るだろう
 
 
 
 もし わたしが それらの
 全てだったら
 あなたは 直ぐに 立ち上がることが 出来るだろう
 
 
 もし わたしが それらの
 どれか 一つでさえ あることが 出来たら
 それが どれだけ小さいことだったとしても
 わたしは どれだけ うれしいだろう
 
 
+++++++
 
 
 
 
 
 

頑張れ

 引き続きインドネシアで日本の惨状をTVとネットで見ている。
 
 原発への放水関連を見るにつけて、胸がつぶれる思いがする。自らの命を大きなリスクに曝して任務に当たっている多くの人がいることに正直驚嘆している。
 
 それが仕事だからという理由だけでそういうことが出来るのだろうかと思いながら。
 
 僕がそういう任務を与えられたらやれるのだろうかと思いながら。
 
 
 国難の度合いは日に日に高まっている。海外が称賛する日本の冷静な対応にも疲弊の色は濃いだろう。崩れ落ちるのは原発だけではない。人の心が内部から崩れ落ちることもあるのだ。そういうあらゆる意味での危機の中で、それでも、日本は不屈の精神で前を向いているように見えている。
 
 国難は始まったばかりだろう。僕はそう思う。東京の停電にしても、これからボディーブローのように効いてくる大きな問題だ。殆ど解決策が無いように見える難問ぞろいなのではないか。正直、僕自身がかような国難を経験するとは全く考えていなかった。
 
 但し、繰り返すが、日本は突発的な危機には強いという歴史がある。「禍転じて福となす」という言葉もあるではないか。このところの20年間世界に批判をされてきた日本が、どう立ちあがるのか。試されている日本が何を運命に対して投げ返すことが出来るのか。
 

頑張れ

 インドネシアでNHKを通じて見ている日本のあまりの惨状に茫然としている。
 
 地震、津波、火災、原発、電力問題等、まさに次から次へと難題が襲いかかっている。常に時間が限られている中で、必死の対応をしている事が、海外に居ても痛いほど感じる。
 
 海外の報道の中にも、日本人の対応ぶりを称賛する声が出てきている。冷静さ、助け合い精神、我慢強さ等に対して感銘を受けたという声だ。自分が日本人であるというひいき目もあろうが、TVで見ている限りは同感だ。
 
 今はそんな声に喜んでいる時間などは全く無い。ただし、今回の大災害の中で、再度、日本が団結し、立ちあがることが出来たとしたら、ここ20年もの間「ふがいない」と世界中から言われ続けた日本が復活するかもしれないという気がしてきた。
 
 日本人は基本的には突発的な危機には強いことが歴史なのだと思う。おそらくは 太平洋戦争の敗戦以来の国難であろう、今回の大災害に対して、その強さを再度見せる時が来たのだと思いたい。

絶対主義

 普段の読書の際には高校の歴史の教科書を脇に置いておくことが多い。高校時代に世界史を勉強した記憶が無く、従って知識が怖ろしいくらい少ない。
 
 ところで先ほど 「詳説 世界史」 (山川出版社1997年改訂)に以下文章を見つけたところだ。
 
 「絶対主義の国家は、富国強兵をめざして国内の商工業を保護育成し、
 
 貿易の振興によって、できるだけ多くの貨幣を手に入れようとした。
 
 この政策を重商主義という。そこでヨーロッパ列強は、自国製品のための
 
 海外市場として植民地を求め、激しく争った。」   163頁
 
 
 この言葉を少し書き変えてみよう。
 
 
 「当社は、自社利益の最大化をめざして、国内の製造拠点を育成する一方、海外展開によって
 
  可能な限りの収益拡大を目指します。
 
  この戦略は いわばグローバリゼーションと言えます。
 
  当社は 競合相手がいる中、自社製品販売の為の海外市場開拓に全力を尽くしています」
 
 
 教科書の項目は16-18世紀の絶対主義の話である。それから 数百年たっても 同じことをやっているわけかと妙に感心したところだ。
 
 やれやれ。
 

本箱

イメージ 1
 
 
どなたかが本で言われていたと記憶するのだが、「本箱」とは、その人が「なりたい自分」を表現している場所だと思う。
 
 例えば、本箱に十冊ものダイエット本があったとしたら、その人はどちらかというと太っている人ではないかと思う。タバコを吸わない人の家に禁煙の本が山積みされているとも思えない。タバコを止めたくても止められない人に違いないと想像が付く。
 
 そう考えて自分の本棚を眺めてみると苦笑するしかない。確かに「こういう本を読む自分でありたい」とおもうような本が並んでいるからだ。
 
 「この本が好きだ」ということと「この本が好きな自分が好きだ」ということの間には驚くくらい大きな溝が横たわっている。
 
 国立市の古書店の主人の話では、哲学書は良く入るし、直ぐに売れていくそうだ。哲学書は読んでも良く分からないわりには、買いたくなるという気持ちがそこに想像できて可笑しかった。勿論僕もそんなスノッブな一人なのだが。