震災体験を持たなかった自分というもの | くにたち蟄居日記

震災体験を持たなかった自分というもの

 大震災が起きて二週間以上経ったところだ。
 
 僕はインドネシアからTVやネットで大震災の状況を知る事しかできない。日本にいる妻や子供達と電話で話していると、「東京での震災」体験というものを彼らが彼らなりに感じていることが分かる。
 
 上の娘は地震当日には鉄道が止まり、帰宅するのに苦労した。
 妻は地元のスーパーに買い物に行って、品切れ商品があることを目の当たりにした。
 
 三陸や福島の方に比べると、比較にならないくらい小さな話だ。但しそれはそれで一つの「震災体験」であることも確かだ。
 
 今回の大震災は日本のスキームを変える事になると僕は思う。政治の有り方、経済の有り方、国の有り方、人間の有り方 に対して、強烈な問題提起になるだろう。今、この瞬間は目の前の危機対応に日本中が必死だが、それを乗り越えた段階でそれらが議論になるはずだ。
 
 そんな時に僕は自分が震災体験を持たなかったことで、何か理解できないものがあるかもしれない。震災体験を具体的に持った方と、持たなかった僕との間には、なんらかの断絶が産まれるのではないだろうか。
 
 最近そんな気がしている。