「出口なお」  安丸良夫 | くにたち蟄居日記

「出口なお」  安丸良夫

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 日本の近代化の下、凄まじい困窮に耐えながら大本教を開祖した女性の話である。本書が現代にどのように反映されるかを考えさせられた。

 出口なおは、明治維新以来の富国強兵の中で、その犠牲ともいうべき状況の下、極貧の生活を強いられた。「強いられた」という言い方にはやや受動的な響きがあるとしたら、ここにはふさわしくなかったかもしれない。著者の描く出口なおはむしろ能動的に極貧生活を耐え抜いたように見える。
 但し、限りない自己犠牲の中で、どうしてもその不条理に耐えかねた時に、彼女の情念が宗教という方向性に放出されたという話だ。不条理を「終末観」に因って葬り去り、新しい世が来るという「物語」を作り上げるという人間の考え方のスキームは千年王国思想等、人間には普遍的なものだと聞く。

 この文脈で現代の日本を考えてみるとどうか。

 今の日本もグローバリズムという大きな流れの中で、切り捨てられる人が急増していくことが目に見えてきている。本書が書かれた1976年の日本と、2011年の日本は既に全く違う。一億総中流という幻想を持てた時代が懐かしい。現在は出口なおと同じく、時代に取り残された人が増えていないだろうか。そういう人達の情念が、ある種の方向性に放出され始めてはいないだろうか。

 出口なおは自分の情念を自分で「物語」化することが出来たと僕は思う。一見荒唐無稽であっても「物語」には「論理」が構成される。「論理」が構成されれば、その中に身を置くことが出来る。
 一方、自分で物語化出来ない場合には、他の人が作った物語に身を置くことも可能だ。オウム真理教もその一つだろうし、もっと一般的に言うと、日本の企業社会文化ですら、そんな「物語」の一つなのだと思う。「物語に参加出来ているという実感」が無ければ、往復の満員電車に揺られて通勤等出来ないと僕は思う。
 
 現代はそんな「物語」が枯渇しつつあるのではないかと僕は思う。今、放出される情念がどのような結晶を齎すのかは見えにくくなっている。それは例えば無差別な暴力という形かもしれないのだ。

 そう思う中で、35年前に書かれた本書は今なお示唆に富む。僕はそう考えた。