くにたち蟄居日記 -114ページ目

「タンポポ」  伊丹十三

イメージ 1
 
 
異論は多いと思うが、このタンポポが伊丹の最高傑作だったと考えている。
 
 
 興行的には失敗だったと聞く。この作品の後の「マルサの女」は大ヒットだった。「タンポポ」の不振と「マルサの女」の成功が、その後の伊丹の映画の低迷を運命付けたのではないか。「タンポポ」の失敗によって、「お葬式」と「「タンポポ」という初期二作に見られた伊丹の独創性を彼自身が葬り去ってしまった気がする。
 
 この映画を見直して気が付いたことがある。この映画には「死」を扱ったエピソードが2つある。一つは役所広司が射殺されるものだが、これは話しの展開上、違和感は無い。但し、もうひとつのエピソードが強く引っ掛った。

 もうひとつは死の床の妻が、最後の食事を作るエピソードである。笑が取れるエピソードが続く中で、このエピソードには笑は無い。ブラックユーモアであるとも見て取れるが、この映画に必要であるという必然性は比較的薄い。何故伊丹はこれを選んだのだろうか。
 
 
 本作のテーマは食とセックスが前面に出てきている点は誰が見てもはっきりしている。但し、底辺に「死」を挿入していることも伊丹の味付けだ。冒頭の大友柳太郎が、撮影翌日に投身自殺したことは有名な話だ。伊丹もメイキングでその話に拘っていた。その辺りから本作には「死」に付きまとわれたのかもしれない。
 

 登場人物に老人も多い。「カマンベールの老婆」「大学教授の詐欺師」「乞食の師匠」「喉を詰らせる老人」等。食とセックスというテーマにしては老人が多くないだろうか。彼ら一人一人は生き生きとしているが、それでもメークを見ていても「老」を厚めに出してきている。
 
 
 それだけに最後の場面の赤ん坊が際立つ。赤ん坊が無心に母親の乳房を吸う場面は感動的だ。食とセックスとは同じものだと思わせる実に秀逸な場面だ。
 但しそれだけではない。赤ん坊とそれまでの老人達を比較させられる中で、老いと死も思わせる作りになっている。
 
 
 伊丹は、その後自ら死を選んだ。このタンポポが興行的に成功していたら、と思う次第だ。

Sさんへのメール

Sさん
 
 
 インドネシアに戻りました。あれからサウジの人とも話しましたが、彼らはそれなりに自国への不安感は持っていました。サウジは中東でも優等生なのでしょうが.......

 しかし 中東という地域は案外この30年間はあまり変わっていなかったということなのでしょうか?
 
 湾岸戦争やイラク戦争などがあって「激動」だったのかと思っていましたが、考えてみるとそれらは米国を中心とした西側(もう古い言葉ですが)の介入ばかりで、自国の中から沸き上がる「革命」という点では今回が久しぶりの動きなのかなと。中東各国の「制度疲労」が見えてきたのかなとか思っています。

「郵便配達は二度ベルを鳴らす」  ヴィスコンティ

  
イメージ 1
 
 ヴィスコンティの映画をゆっくり観ている。本作は僕が観た6作目だ。彼のデビュー作だという。

 「郵便配達は二度ベルを鳴らす 」はいくどか映画化されているが、本作が初めてである。他の作品を観てみないとなんとも言えないが、本作に限ると、非常に感情移入が難しい作品である。

 主人公らの心の動きに移入出来ないし、それ以上にいささか理解が出来ない部分があるからだ。一瞬の情熱に囚われた男と、冷徹な悪女というように言ってみたところで、本作が説明出来たとも思えない。

 敢えて似ている映画を考えると、黒澤明の「蜘蛛巣城」に似ているような気がする。あの映画も女にそそのかされた男が人を殺し、それに悩む話だった。感情移入が難しい点も似ている。「蜘蛛巣城」はシェイクスピアのマクベスの翻案だが、この「郵便配達は二度ベルを鳴らす 」にもマクベスを思わせる部分も多い。

 一方時折出てくる祭りの場面がきらりと光った。カーニバルとも言うべき喧騒は白黒の画面からも立ちあがって来ている。そこはヴィスコンティの後年の作品の萌芽がみられると言えるのではないか。といっても、たかが6作しか観ていない僕にはそこまで言う権利もないと思うが。

ドバイにて

 出張でドバイに来ている。昨晩はエジプトの方との会食だった。
 
 今回のエジプトの「革命」で一番彼として驚いたことは「革命が可能であった」という点に尽きるらしい。まさか実現するとは思ってもいなかったような事が実現されてしまったという一種のあっけなさが そこにはある様子だ。
 
  但し、エジプトはこれから憲法改正もあるし、まだまだ混乱は続くだろうとも言っていた。なにより誰が新しいリーダーなのかが見えにくいらしい。「まあ 合議制でやるしかないよな」ということらしい。
 
 
 一方 リビアに関してはカダフィ大佐体制の崩壊は時間の問題であること、次はイエメンとアルジェリアであろうと、その後に若しかしたらサウジアラビアも楽観できないだろうと。「液状化」は留まることを知らないとでも言いたいような口ぶりだった。エジプト人の彼としては一種の達成感も見え隠れした。
 
  将来、2011年が中東にとってどのような評価になっているのか。何かの始まりだったのか、何かの終わりだったのか、終わりの始まりだったのか、始まりの終わりだったのか。そんな言葉遊びを頭の中で繰り返して
いる。
 
 ドバイの日曜日の朝は静かなものだ。但し日曜日はこの国では日本の月曜日に当たる仕事をする日でもある。
 
 

「作る動物」

 
 「人間は食料を発見し、衣服をまとい、外部からの危険にたいして安全を守り、みずからを 防衛する
 
  手段を作りだした。そのために自然が人間に与えたのは、雄牛の角でも、ライオンの爪でも、犬の牙
 
  でもなく、ただ両手だった。
 
  そして人生を楽しいものにしてくれるすべての娯楽も、人間の洞察力も賢明さも、意志の善良さも、
 
  そのすべては人間がみずから作りだしたものである。」
 
               -- 「永遠の平和のために/啓蒙論」 カント 光文社古典新訳文庫 38頁 --
 
 
 これを読んでいて成程と思った。人間とは作ることが出来る動物なわけだ。
 
 もし人間が空を飛ぼうと思ったとしよう。自然に任せて羽が生えるようになるまでの進化の時間は相当掛かるはずだ。何十万年も掛かるかもしれない。
 
 それに対して人間は飛行機を作ることで解決したわけだ。実に短期間に。挙句の果てに宇宙にまで出かけることが出来るようになった。僕の知る限り、宇宙に自力で行った動物は人間だけだ。
 
 「作ることが出来る動物」になったことで現在の人類があると考えることは色々な示唆に富む。これはこれでゆっくり考えて見たい。今はまだそこまでなのだが。
 
 

「『正義』を考える」  大澤真幸

イメージ 1
 
 変面白く読んだ。アマゾンで書評が大きく割れている点も興味深い。

 なぜ今「正義」という言葉が日本で語られるのかということをずっと考えながら読んできた。「正義」という言葉に反応する僕らがいるとしたら、それは正義を「欲している」からだろう。著者が言う「物語の喪失」の中で、より普遍的な「正義」という観念に頼ることで、新しい立ち位置を探しているのが僕らなのかもしれない。

 「正義」が欲しくなる場面とは大体において自分の状況が「不正義」にある時だと思う。自分が恵まれている環境にあるのなら正義などを考えたりすることはしないはずだ。そういう前提で本日、即ち、2011年2月25日の世界を俯瞰すると、中東におけるドミノ現象は、明らかに「正義」を求める声に満ちている。

 一方本書やサンデルの本が読まれる日本という国はどうか。

 格差問題や貧困問題を抱えつつある日本には「不正義」を感じている人は確実に増えているはずだ。特に若年層にしわ寄せが行く現在のスキームで、彼らが「不正義」を感じることはむしろ当然だろう。その意味では日本も中東と余り変わらない地平線にいる。たまたま幾分デフレであるから未だ問題は少ないが、インフレにぶれた段階でかなりの社会変動も予想されよう。

 繰り返すが「各人の小さな物語」が壊れて行く中で「普遍的な正義」を探すという心の動きがあるとしたら、それは色々なものになり得る。それは「新しいファシズム」かもしれないし、「新しい宗教」かもしれない。僕らは「正義」という言葉には弱いのだ。

「バクダッド・カフェ」 

イメージ 1
 
 日本に帰国するといつもお邪魔する喫茶店のマスターに推薦されて鑑賞する機会を得た。

 日本で大層ヒットした映画だと聞く。「何故日本で人気が出たのか」と思いながら見ていたが直ぐに思い当たった。これは「長屋」の話である。

 「長屋」の映画は川島雄三の「貸間あり」だとか、黒澤明の「どん底」等がある。またコミックの「めぞん一刻」等も典型的な長屋の物語だ。つまり、日本人として本作の設定には既視感を覚えることが出来るのではないか。その「共感」があるからこそ物語に入って行けるし、従い日本で人気を博したと言う事は理解しやすい。


 本作の本当の主人公は「砂漠」なのだと僕は思う。劇中誰かがバクダッドカフェを「砂漠のオアシス」と表現していた。オアシスは砂漠がないと成立しない特異な場所である。ジャングルの中にオアシスは有り得ない。

 この砂漠の表情が段々と変わって行く点が本作の見どころだ。

 前半部分の砂漠はいかにも厳しく、いささか薄汚れた風景だ。それをジャスミンがあらゆる意味で清掃していく。清掃していくジャスミンが表の主人公だが、清掃されていく砂漠が本当の主人公だ。

 大きな意味で「砂漠」と言うなら、ブレンダ初め 登場人物達も全て「砂漠」であると言って良い。一人一人、ひとつひとつがジャスミンによって「清掃」されていく姿が感動的だ。ジャスミン自身は劇中変わって行くわけではない。変わって行くのはジャスミンの周りの「砂漠」達なのである。

 本作は決して緻密な作品ではないと僕は思う。ある意味でざっくりとした「筆の粗さ」がある。個々のエピソードももう少し深掘りしても良い気もした。但し、それが勢いのよさを産んでいることも確かだ。大変面白く鑑賞することが出来た。帰国したらマスターには感謝しなくてはならない。

2月20日 NHKスペシャル「独裁政権 VS 若者たち」

 本日のNHKスペシャルは、チュニジアとエジプトの「革命」を取材した番組であった。
 
 
 最後のNHKアナウンサーのコメントでは、「日本は中東にエネルギーを頼っているので本件は日本の問題である」というような趣旨の発言があった。それはそれで正しい内容であると思うのだが、「今回の中東の革命をどう見るか」という点ではいささか卑近な見方ではないか。
 
 そのコメントを更に読むと「エネルギーが安定供給される為には、独裁政権であっても日本としては好都合だ」という方向性も出てきてしまう。国際政治というリアリズムの中で、そういう考え方を否定するわけではないが、僕がこの番組を観て一番感じたのは日本のエネルギー危機以上に、「同じような革命が日本で起こる可能性があるのではないか」という危機感である。
 
 エジプトやチュニジアの革命の担い手は20歳代の若者だ。番組で見る限り彼らは高い失業率に悩み、閉そく感の有る社会に押し込められてきた。ITという新しい道具が出てきたことで、小さな声が爆発的に集まったことで今回のような状況が発生した。
 では日本の若者の状況はどうなのかと考え直すと、「閉そく感」という意味では、かなり近い地点まで来ているような気がする。最近の格差問題から貧困問題への展開を見ていると、若者の置かれている状況は今までになく難しくなっていることが見えてくる。であるなら、日本でも同じことが起こる可能性はあるのではないかということだ。
 
 

「失われた歴史」  マイケル・ハミルトン・モーガン

 
イメージ 1
 
 
インドネシアに住んでいることでイスラムに興味が増えたことで本書を読んだ。
 
 本書ではイスラムの科学・思想・芸術がいかにして現代のそれらの一つのベースを与えているかがテーマである。僕も、例えばアルゴリズムというような言葉がイスラムの人名であるとは想像もしていなかっただけに大変驚かされた。ギリシャ時代の思想がイスラムによって保存され、ルネサンスになって欧州で再度花開いたというような話は聞いたことがあったが、本書を読んで、それはイスラムの貢献のごく一部に過ぎなかったことも良く分かった思いがした。
 
 
 ここでやはり考えなくてはならないものは「歴史」というものだ。「歴史」には真実というものは本来無い。あるのは、どうやって歴史を切り取るかという「手さばき」だけだ。同じものにナイフを入れても、入れ方によって断面は無数に有り得る。一つ一つの断面は、それはそれで正しいのだろうが、違いというものはあるし、かつ優劣というものはない。断面は全て断面であるという点において一致しているだけなのだ。
 
 
 そう考えると、僕らが受けてきた歴史教育というものも、一つの断面でしかないことが分かる。アルゴリズムの名前の起源を教えない歴史教育があるとしたら、アルゴリズムの由来を教える歴史教育も有り得るのだ。
 そういう一種の相対化という面で本書は得難い一冊だ。欧州中心の歴史に偏ってきた自分というものを強く反省しているところである。

百聞は一見に如かず

 チュニジアやエジプトの「革命」を見ていると、インターネットが齎した情報の威力がまざまざと感じられた。動画配信等で映し出される「画像」の説得力は凄まじい。各国の政府が 思わずインターネットの規制に走ってしまうのも良く理解出来るというものだ。いかに従来の政府が「情報統制」で、「知らしむべからず、因らしむるべし」ということをやってきたということなのだろう。
 
 百聞は一見に如かずという言葉がある。Seeing is believingという英語もあるくらいだから、世界共通の考え方なのだろう。誠に僕らは、「見る」ということに大きく頼っている。今、ここに目の不自由な方がいらっしゃる場合には、いささか礼を逸した発言だとは思うが、人間が視覚を信頼しているものには大きなものがある。
 
 ところで、僕らは、インターネットが流してくれる映像を本当に信じて良いのだろうか。
 
 映画の技術の進歩というものがある。僕らは特殊撮影によって、とても有り得ないような映像を観ることが出来ることが、この20年だと思う。映画なら、そもそも作りものだと分かっているから、安心して観ていられるわけだが、それでは、ネット配信されている映像が、特殊撮影に因るものではないと僕らはどうやって検証出来るのだろうか。
 
 視覚に頼っているだけに、僕らは有る意味 たちが悪くはないだろうか。見たものを信じてしまうということがSeeing is believingの訳なのかもしれないのだ。そう考えると、ネット時代において、僕らはそのような距離感で自分の視覚と向き合うのかという課題が見えてきていると思う。
 
 一見より、百聞の方が、実は正しいことを知る事が出来るのかもしれない。そんな反省を僕らは強いられる場面もあるかもしれないのだ。