くにたち蟄居日記 -116ページ目

さよならだけが人生だ

 「こんにちは」という言葉と「さようなら」という言葉がある。
 
 使用する数は「こんにちは」の方が圧倒的に多い気がする。「こんにちは」とは誰に対しても、簡単に使える
言葉だからだ。
 
 「さようなら」という言葉を使う相手は案外限られているような気がする。僕にとって、大多数の人とは「こんにちは」という相手だけであって、「さようなら」という言葉までかけるほど 親密にならないからだ。
 
 知らない人に対して「こんにちは」とは言えても、「さようなら」とは言わない。そんな気がした。
 

Jさんのブログへのコメント 里山 その2

Jさんへ 
 
 奈良の三輪神社も確か、山が御神体になっていたと記憶しています。

 そう考えると「里山」という言葉も面白いかもしれません。「里山」の「山」とはどうみても荒ぶる神ではなく、地元の鎮守様のような感じです。
 
 「山」を「里」に取り込み、飼いならしたものが「里山」なのかなとちょっと思いました。
 人間にとっては、神をどうやって上手に取り込むかは大きな課題だったはずですし、その一環としての「里山」というものが僕らの心の奥底にあるのかなとも思います。
 
 山登りというものの起源にも、何かそういう「神の取り込み」というようなものはなかったのかなと思います。何もない山の頂上を目指す気持ちには「神の征服」だとか「神の『見える化』というようなものがなかったですかね?

耳触りな音

 耳触りな音がある。例えば黒板を爪でひっかく際のような。
 
 人間の五感で不快なものには、何か不快であるべき理由があるはずだと僕は思っている。例えば排泄物の臭気は人間の嗅覚では悪臭であるが、一部の昆虫たちにとっては良い香りなのであろう。であるからふんころがしであるとかハエが寄って来る。
 なぜ人間にとって悪臭になっているのかというと、「それを食べないようにするため」に悪臭として感じるようになっているのではないかということが僕の仮説だ。
 
 だとしたら耳触りな音とは何か?
 
 全くの妄説だが、むかし人間が恐れていた敵が出す鳴き声が、かような音であったのではなかろうか。それを聞くたびに神経に感じる不快さとは、敵への恐れであったと考えたらどうか。
 
 ということで、恐竜の鳴き声とは、黒板をひっかく音に似ているということが僕の仮説である。そういえば、ゴジラの鳴き声も若干似ていないだろうか?

信用出来るということ

 
 先日タイの同業他社の方が 僕を評して「交渉はきついが、信用出来る人間だ」と言っていたと聞いた。その方は業界では中々偉い方なので、お世辞としても、そう言われて悪い気はしなかった。というか、僕自身はお世辞や物に弱いことも確かであるのだが。
 
 
 同業他社とは、基本的には競合相手である。つまり平たく言うと「敵」であるということだ。「敵」から信用を受けるということはどういうことなのかとふと考えた。
 
 
 僕が思ったことは、「信用」ということは、敵と味方の間にも成立しうるものだ ということである。
 
 相手を信用するということは、まず第一に相手がどういう人間かを理解するということだ。相手に対して、こう言えば、こう考えて、こう反応してくるだろうということを出来るだけ読むこと自体が「交渉」の第一歩である。
 相手が理解できるという前提に立たないと、交渉も競合も不可能である。なにせ相手の反応が全く予想もつかないという事態においては、こちらとしても動けないし、動いたとしても非常に小さい動きとなる。これは相手にとっても同じことだ。
 お互い動けなくなると、物事の速度が遅くなり、結果として時間的にもコストがお互いに掛かってしまうことになる。
 
 お互いに相手が理解でき、相手の反応が読めることで、交渉と競合を行うに当たってのお互いのコストを下げることになる。この状態を「相手を信用する」ということではないかと思った次第だ。
 例えば、ちょっと話は違うが、車の運転において、対向車線を走っている車が突っ込んでくるといつも考えていたら車の運転など出来ないに違いない。「突っ込んでこない」と相手を「信用」することで運転出来ている。それに似た心の動きがあるのではないかということだ。
 

「下流志向 ー学ばない子どもたち 働かない若者たちー」 内田樹

 数時間で楽しく読み切った。
 
 この本を読むに際しては、自分の立ち位置を良く考えないと行けないと感じる。もっと言うと、著者が本書の読者として設定しているのは副題の「学ばない子どもたち 働かない若者たち」本人ではなく、彼らの親や上司であると僕は理解した。従い、本書の読者が、著者の設定した立場にいるか、いないかで本書の読み方も多分全く変わってくるはずだ。
 
 
 僕自身は幸か不幸か著者の設定した読者の範疇にいると思う。中年を迎えて、子供の勉強が気になったり、会社においても部下のモチベーションを考えることが多くなっている。その立場から本書を読むと、誠に快刀乱麻であり非常に説得された。但し、「学ばない子どもたち 働かない若者たち」が本書を読んだ場合にどのような反応を示すのだろうか?
 
 
 「設定されていない読者」として、彼らが本書をどのように読むのかを考えることは中々難しい。そもそも、彼らが本書を手に取るかどうかすら分からない。「学ばない子どもたち 働かない若者たち」という表現には、著者が彼らとの間に取っている一種の「距離感」が有る。その「距離感」に彼らが耐えつつ、本書を読破することが出来るかどうかということは僕の疑問だ。
 
 
 それにしても内田という方の論にはいつも感嘆する。内田の本の魅力は、読んでいて その全く新しい独創的な論に魅了されるという点にあるわけではない。むしろ「そうそう、僕もそう思っていた」という、一種の既視感に囚われることが多い。自分で考えていたことをすらりと纏めてくれる味方のような印象を受けてしまう。
 

 勿論、そこに内田という方のたぐいまれな話術がある。内田の論を「前からそう僕も思っていた」と思わされてしまった段階で、強烈な説得力になる。なぜなら、その段階で内田の論を「自分の意見」と勘違いしてしまっているからだ。人間は常に「自分の意見」だと思っていることに固執することも確かだ。

「エル スール」 ビクトルエリセ

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 20年ぶりに見直した。20年以上前に見た際の記憶はいささか曖昧だったが、いくつかの場面はほぼ正確に覚えていた。やはり当時も大変印象的な映画だったということなのだろう。
 
 ビクトル・エリセは非常に寡作な映画監督だ。もう70歳でありながら、いまだに数作しか製作していない。どのような事情があるのかは僕には分からないのだが、これだけ優れた作品を作り上げることが出来る芸術家が、作品を発表出来る機会が少ないことは僕らにとっても損失であると思わざるを得ない。
 
 確かに、鬼面人を驚かすような物語があるわけでもなければ、SFX等で彩られた画像があるわけでもない。エリセは淡々と静かな物語を語るだけだ。商業的に成功しようと思っていないことも無いだろうが、例えばハリウッドが彼に出資して映画を作らせようとも思わないのだろう。

 但し、彼の静謐な作品を観ていると、自分の心の奥底に何かが届けられた思いがある。それが何なのかは言葉には表せないのだが、確かに「何か」が存在している。だからこそ、彼の映画には熱心なファンが、決して少なくない数で、存在しているのだろう。
 
 本作で主人公の父が、井戸の水を探す場面がある。荒れ地に、分銅を持ってゆっくり歩いている。あれは実はエリセが映画を作っている姿なのではないだろうか。父の寡黙で禁欲的な姿が、寡作に耐えるエリセに重なる思いがした。

「ノルウェイの森」

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 原作を読んで20年経って映画を見た。

 原作への思い入れもあるせいか、本作は原作とはまた別物であると理解するしかなかった。但しそれはこの映画を貶めるということでもない。本作はある意味では非常に真面目な作品であり、監督の原作「ノルウェイの森」への思い入れも十分伝わってくる。監督の「思い入れ」と僕の「思い入れ」が違うということはしょうがないし、そこに優劣も上下も無い。


 ただし本作を観たことで非常に原作への勉強になったことも確かだ。原作の主人公は当然「ワタナベ君」であるわけだが、本作では直子が主人公になっていると強く感じた。
 結局 直子という主人公とどのように関わっていくのかということがテーマだと思う。「ワタナベ君」の主体性のなさ、自殺してしまうキズキ、直子の自殺を契機して療養所を出るレイコさん等を見ていると中心に直子がいることがわかる。だからこそ、原作では強い存在感を発揮していた小林緑が本作では薄い存在になっているのだと思う。それは小林緑の直子との接点が「ワタナベ君」経由だけだったという「関係の薄さ」から来ている。僕はそう考えた。


 美しい映画だ。描かれる日本の風景は、しかし、どこか日本離れしている。それが外国人が本作を監督したからなのだろうか

「街場のアメリカ論」 内田樹

 
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 内田樹のアメリカ論である。本当に興味深く読め、途中ではたと膝を打つ場面も多かった。但し読後に一度冷静になる必要があると考えているところだ。

 僕にとって一番不思議だったのは「はたと膝を打つ」自分自身である。なぜなら僕自身は殆どアメリカを知らないからだ。仕事でアメリカに行った回数を考えてみても大した数字は出てこない。アメリカ人の友人がいるかと考えても、知り合いレベルで数人だろう。アメリカの新聞を読んでいるわけでもない。アメリカの映画を観ることは好きだとしても年に数本程度だ。一言でいうと、「全くアメリカに関する知見がない」ということが僕自身の実態である。
 そんな僕がなぜ本書を読んでいて「はたと膝を打つ」のだろうか。アメリカを知らない人がアメリカ論を読んで頷いてしまうとはどういうことなのか。

 極言すると本書とは「日本人が理解しているアメリカ像」を切れ味よく書きあげた本なのだと思う。僕もアメリカを知らないとはいえ「日本人として理解しているアメリカ」という一種の共同幻想のようなものを持っているということなのだろう。そうして、その幻想をきれいに説明する言説に出会った際に感じる一種の既視感が、僕をして僕の膝を打たしめると考えることで、漸く理解出来てきたような気がする。

 それはそれで重要な事なのだと思う。自分自身がある種の共同幻想に取り込まれていると理解することは、相対化することでもあるからだ。自分を少し離れたところから見つめるという作業は、常に大事なのだと僕は考える。

Tさんへのメール

Tさん
 
 「なんでローカルスタッフに権限を委譲しなくてはならないのか?」と
たまに考えますが 小生にとっては答えは簡単です。それは「自分では分からない」からなんだと思います。
 
 例えば当社で日本人が本当にインドネシア、インドネシア人、会社を分かっているのかと考えると、最終的には疑問です。
 
 「分からない」のであるなら「少なくとも自分より分かりそうな人」を見つけて権限を
委譲するということかなと。 
 
 そう考えるとグローバル企業の内部とは「訳の分からない人や組織の固まり」なのかもしれませんね。
 
 若しかしたら 「全てを分かろうと思う人」ということではなくて「分からないことに耐えられる人」がグローバルな人材なのかもしれません。

「未来惑星ブラジル」

 カルト映画として名高い本作を2010年の年末になって漸く見る機会を得た。
 
 まず視覚的なイメージは圧倒的である。
 
 本作は1985年に作られたというから、もう25年前の作品であるわけだが、とてもそんな昔の作品だとは信じられない。
 そのイメージも「美」と「狂」との間に存在している。実際ある種の狂気は非常なる「美」を伴うものがある。例えばゴッホのいくつかの作品がその例として挙げられると僕は考える。「未来惑星ブラジル」には、そんなゴッホの絵のような趣があるのではなかろうか。
 
 

 本作で語られる未来は悪夢以外の何物でもない。そんな時代は来る訳が無いと思いたい。但し、悪夢というものは、気が付かないうちに背後から侵入してくるものでもある。

 ソフトな形での情報統制は既に始まっているのが現在ではないだろうか。各種の検索をネットで使っている間に、「この人は何を検索しているのか」という形で、個人の嗜好を他人が分析出来てしまう状況は、ある種の情報統制であると考えることも出来る。「ブラジル」は既に「未来世紀」ではなく、現代なのかもしれない。そう考えながら本作を観ることは非常に刺激的な体験になる。