くにたち蟄居日記 -118ページ目

「カラマーゾフの兄弟 第三巻」

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 初めて読んでいるカラマーゾフである。二巻までしか買っていなかったが、今回日本帰国の際に残りも買ってきた。海外の不便さは、読書に関しては非常なるハンディである。

 三巻はアクションの巻である。二巻が大審問官とゾシマ長老の物語をじっくり聴かせたのに対し、一転して殺人事件を追いかける早い展開となっている。早さだけではなく、過剰さにも充ち溢れている事が特に印象に残った。主人公達の話振りも、僕にとってはちょっと理解に苦しむくらいに過剰であるし、乱痴気騒ぎとも言うべきパーティーの場面も過剰以外の何物でもない。ガルガンチュアという「過剰さ」の大先輩を輩出している欧州ならではの場面なのだろうかと幾度か感じ入った次第だ。

 とにかく二巻との対比で、ある種の圧倒性がある。四巻が待ち遠しい一書となった。

「戦後政治史」 

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 3時間程度で本書を読了した。読後感は二点である。

 まず、本書はストイックなまでに、淡々と政治史を書いている点である。著者の一人である石川は「『論』ではない『史』に徹する」ことを本書の目的としたというが、それを厳格なまでに守っている。
 考えてみると、僕らが何かを発信する際には、そこに必ず自分の「論」が入る事は普通である。意識して「論」を入れる場合にはともかく、無意識のうちに入れてしまうことが人間だ。「論」が入る事の弊害は、当然、事実が屈折される点にある。本書の著者達は、その点を最も自分に戒めながら書いたことが読みとれる。


 次に、改めて「儚さ」を痛感した。
 本書を読むにつれて、色々なことが有ったことを思い出した。僕自身は昭和39年生まれなので政治に関して「物心」がついたのは、せいぜい昭和50年代である。以来、30年程度経ったわけだが、本書を読むことで思い出した歴史が多かった。
 思い出す中で、逆にいかにそれを忘れてきたのかということを痛感した。
 本書に登場する数々の人は、その時々に自分の野心や日本を想って色々な歴史を積み上げてきた。そんな生々しい歴史が、時が経つにつれて風化され、忘れられていくという事実には個人的に一種の感慨を覚えた次第だ。

 「歴史の審判を受ける」という言い方があるが、審判を受ける以前に、裁判所にも入れない「歴史」が大半なのだ。そんな「時」と闘うことの「儚さ」が、淡々とした本書の底辺に流れていると読んだ。著者の一人である石川も、不帰の客である。

「倭人伝をよみなおす」 森 浩一

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 著者の記事を新聞で読んだことで本書を読む機会を得た。普段は古代史の本を読む機会は限られており、懐かしさを覚えながら読んだ。本書で学んだ点は二点だ。

 一点目。著者は「魏志倭人伝」だけを取り出して読むことを厳に戒めている。それを書いた著者の意図を汲み上げる為には、それ以外の部分も含めて読まないと理解出来ないと言っている。これは言われてみると、ごもっともとしか言いようが無いが、言われるまでは気が付かないことも確かだった。
 結局「理解する」ということはどういうことなのかという課題なのだと思う。「その人がその時代に何を考えていたのか」を知ることは、後世の人には非常に難しい。それにどのように迫るのかが歴史学の一つの挑戦であろう。それに際しては厳密な歴史家としての立場に加えて、豊かな想像力が必要である点も垣間見えた。


 二点目。著者はフィールドワークの重要性を繰り返す。例えば対馬に言った事が無い倭人伝の大家を認めないというくだりもあった。
 歴史を学ぶに際して、フィールドワークが何故必要なのだろうかと考え込んでしまう。基本的には当時と現代の風景は異なっている可能性も高いだろう。変わり果てた現地を見ることにどのようなメリットがあるのだろうか。
 僕自身が歴史家でもなんでもないので答えは見つけられない。但し思う事としては、「豊かな想像力」を持つには、現地を見るということは、コロンブスの卵的に大事なのではないだろうか。著者も本書では対馬を旅行した際の印象をはっきりと書いている。旅行が本書を書く大きな原動力となっている点が見えてくる。

国立の紅葉

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 会議のためにまた帰国しているところだ。
 
 国立の最も美しい時期のひとつである。

Tさんへのメール   中間管理職とは

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Tさん
 
 
 優れた中間管理職は部下から上がってくる一次情報に正しい付加価値をつけて、経営陣に
渡すことで、「経営陣の負荷を下げる」ということは可能です。
 
 ユニクロは創業者が全て決めているという記事を紹介頂いたわけですが、実際にそんなことが
可能なのかはいささか疑問です。もちろんかような負荷に耐えられる点が天才なのかもしれませんが。
 但し、一般論的に中間管理職が「中間管理職としての優秀さ」を持てるかどうかというと、これは難しいのかもしれません。
ということで、中間管理職の「弊害」の方が強いのかもしれませんね。
  
 会社の管理職は、基本的には下に情報を出さないことで、その権威を守っていると僕は断じています。
 「ここだけの話」だとか「君にだけは言っておくが」という枕詞で語られる「情報」の多さには、個人的には辟易しています。
 その意味では尖閣諸島映像の流出は象徴的です。国会議員だけしか見れず、それゆえ「見た人の権威」が高まるはずだったあの映像が流出したことで一番怒ったのは、彼らだったかもしれません。
 国民の間に妙に存在した「流出者へのエール」は、そんな権威を嫌った部分もあったのではないでしょうか。

Tさんへのメール   登山口

 
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Tさん
 
思うのですが、例えば 一つの山の頂上に登る道は沢山あり
登り道の困難度の違いは多少あっても 登れば登れるという
状況があるとします。
 
 その場合 登り口を議論しすぎると 結局議論に疲れて、山登り自体を
辞めてしまうという可能性があります。
 それよりは、どれでも良いから登り口を決めて、登り始める方が
頂上につける可能性は高いのかもしれません。
 
ではリーダーの決断は何かと言うと、その登り口を決めてしまうこと
なのでしょう。結果として、難しい登り口だった ということに
なってしまうかもしれませんし、若しかしたら頂上に着かない可能性も
あるかもしれませんが、確率としては麓で議論しているよりは ずっと
頂上に早く着く可能性は高いと思われます。その確率を取る為に
決断するということかと思います。
 
この場合のリーダーの責任は、決断責任です。難しい登り口を選んで
しまった場合には、その点への批判を甘んじて受ける覚悟があるかどうか
ということでしょうね。

モスリムの夢

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 イスラムにとって、もっとも重要な行事がメッカ巡礼である。今月がそのピークである。
 
 今年は全世界から300百万人が参加しているとのことだが、インドネシアからは、22万人が行っている。国別でいうと、世界一位であるという。
 
 、巡礼中に亡くなる方も多いらしい。今年は400名余のインドネシア人が、メッカで亡くなっているとのことである。
 
 メッカ巡礼はモスリムにとっては一生一度の大行事である。費用も掛かる。お金を貯めるのに時間も掛かり、巡礼出来る余裕が出来た時には、かなりの年齢になっている。体力が落ちている中で、過度の興奮が強いられ、気候的にも厳しいサウジアラビアで数日を過ごすと体調を壊す方が多いのも想像が付く。
 
 メッカ巡礼中に亡くなるということは、ある種の夢なのだろうか。

卑怯者の知恵

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 「 やはり愚劣なら愚劣なほど本題に近づくというところだよ。
 
  愚劣は明晰の母、とでもいうのかね。
 
  愚劣さっていうのは、だいたい単純で実直なもんだが、知恵っていうやつは言い逃れはする、
  正体はくらますだからな。
 
  知恵は卑怯者だが 愚劣は真っ正直で、誠実だよ。」
 
 
                                                                   --  「カラマーゾフの兄弟2」 220頁 --
 
  「大賢は大愚に似たり」という言葉があるが、それと同じことをドストエフスキーが言っている。もっというと、「知恵」というものの小賢しさを主張しているのかもしれない。
 

決まりきった運動を繰り返す機構

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 「これらの先住民にとって、社会から期待できるものは何もないと言いうるだろうか。
 
  さまざまの制度や慣習は、彼らにとっては、偶然や幸運や才能の働く余地のない、決まりきった運動を
  繰り返す機構に等しいものなのかもしれない。
 
  この宿命を人力で変える唯一の方法は、社会の規範が意味を持つことをやめ、同時に、彼らの属する
  集団の保証や要求が消滅する危険に充ちた辺境まで思いきって行ってみることである」
 
                                  -- 「悲しき熱帯」 レヴィ・ストロース 52頁 --
 
 
 この文章を読んでいて直ぐに思ったことは現在の日本の格差社会だ。
 
 最近 格差に関して読む機会がいくつか有ったが、その大きな問題としては、格差がついてしまっている人にとっては、今の日本の社会はまさに「偶然や幸運や才能の働く余地のない、決まりきった運動を繰り返す機構」になっているはいないだろうか。
 
 もし、そうだとしたら、「危険に充ちた辺境」を目指す動きが社会に出てきてもおかしくないだろう。赤木智弘という方が書いた本の中に「戦争を期待する」という趣旨の事が書いてあったが、まさに戦争もかような一つの「辺境」なのだろう。
 
 こういう読み方をされることにレヴィ・ストロースが賛成するかどうか分からないが、読んだ瞬間に感じたことを書きとめておく次第だ。
 
 

読書という罠

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読書について考えている。
 
 僕は比較的本が好きだと人に言われるし、自分でも好きだと思ってはいる。これは小学校以来だ。
 
 但し、今冷静に考えてみると、自分がどれくらい本を読めているのか本当に心もとない気がする。また本棚に山のように置いてある、まだ読んでいたい本の山を見るにつけて、僕は本を読むことが好きというよりは、本を買うことが好きなのではないかと、いささか絶望的な気分になる。
 
 では、いつ読むか分からない本を買ってしまうのは何故なのだろうか。読んでいない本をたくさん抱えながら、更に本を買ってしまう自分とは何なのだろうか。
 
 その辺りを突き詰めていくと、僕が一番好きなのは、「本を読む自分」ということではないかと考えてしまう。Aという本が好きなのではなく。「Aという本を読む自分」が好きなだけではないのか。
 
 そう考えてしまうと、ますます絶望的な気分になる。要は、唯のミーハーに過ぎないということだからだ。
 
 でも、まあ、それで良しとすべきなのかもしれない。そういうスノッブな自分がいるということをきちんと踏まえていることが出来れば、いつかは本当に本が読めるようになるかもしれないから。