くにたち蟄居日記 -120ページ目

災害大国としてのインドネシア

 先週はインドネシアには散々な週だった。
 
 スマトラでは地震による津波で数百人が亡くなり、ジャワでは火山の噴火で数十人が亡くなった。
 
 インドネシアという国は、まことに災害大国であると思わざるを得ない。ある意味では日本に似ている。日本も津波や噴火には十分悩まされて来ているからだ。
 
 防災という点で、日本が役に立てる場面もあるのだろうなと、ぼんやりと思っているところだ。

虫について    Sさんとのやりとり

<sさんからのメール>
くにたち蟄居日記さんのメールを読んでふと浮かんだ疑問を聞いてください。
私は小学生の頃 **に一時期住んでいたことがありました。そのため、夏は、学校から帰ると、虫取り網と虫かごを持って、毎日のように山や川へ虫取りに出かけ、夕方には、虫かごに何十匹ものトンボや蝶を入れて、友達にどれだけ多く取れたか自慢しあっていました。
それにもかかわらず、今は虫が怖くてしょうがないです。蝶が特に怖いです。
いつから蝶が怖くなったのでしょうか。その他の虫も、小さな頃は飼ったり触ったりしていたのに、
いつから怖い存在になってしまったのでしょうか・・・
どうして大人になると虫が怖くなるのか・・・
ふと、不思議におもいました。
<sさんへの返信>

Sさん
  
それは貴女が虫の怖さを直観的に理解しているからです、きっと。
  
虫って結構怖いんですよ。例えば
  
1 虫の知らせ
2 虫の居所が悪い
3 虫が好かない
4 虫送り
  
という例を見ていると、そこに出てくる「虫」とは 一種の魔力を持った
異界の存在です。
 
ね、結構不思議な言葉として「虫」を使っているでしょう?
  
だからこそ「堤中納言物語」の「虫愛でる姫」は 異界と通じた存在ということに
なり、一篇の短編にまでなったのだと思います。風の谷のナウシカの原型にもなった
と聞きますよね。
 
貴女は、きっと、そんな怖さを本能的に感じて、怖いのではないですかね?
 
 
くにたち蟄居日記
  

「共産党宣言」 

 
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産まれて初めて「共産党宣言」を読む機会を得た。

 本書の第一章を読んでいて、本書が1847年に書かれた本であることが俄かに信じられなかった。1847年というと、日本ではまだ江戸時代である。

 1847年にマルクス・エンゲルスが予言した資本主義社会の問題は、そのまま160年後の今日に僕らが目の当たりにしている事態である。人間社会を貨幣という尺度だけで測ってしまうことの危険性、資本が増殖を求めて全地球を駆け巡るという今日のグローバリゼーションの予見、「あたらしい欲望」が常に産まれてくる仕組、資本主義国は資本主義という仕組そのものを他国に輸出したがる宿命があること、等などを読んでいると、これはまさに現代そのものである。


 共産主義という一つの実験は20世紀においては大きな失敗に終わったということが歴史での評価となるかと思う。但し、それは、たまたま20世紀というたかだか100年程度の短い期間での実験に過ぎない。その失敗を見て、「マルクス主義を過去の遺物である」と考えることは間違っている可能性が高い。例えば、リーマンショック以降に本屋でマルクス主義の再評価、再読を主張する本が増えたこともその証左である。


 本書の今日的価値を再評価する動きが出てきてもおかしくない。また、実際出てきているとも聞く。岩波文庫の翻訳は1951年が初版だが、2007年に第86刷改版、2009年に第89刷となっている。21世紀になってもきちんと読まれていることが窺える。僕自身読んでみて、それは素直に頷けるものがあった。まだまだ本書は新しい。

海外と言う言葉

 日本人は海外旅行のことを「海外」旅行という。つまり、海の外が外国という意味だ。海に囲まれた国ゆえ当然の表現であろう。
 
 英語でoverseas tripという言葉がある。このoverseasという意味も、日本語の「海外」ということなのだろうが、それでは陸続きの外国に行く場合には、何というのだろうか。
 
 そういえば「舶来」という言葉も昔は有った。いまでも輸入品は大半が船で来ているので「舶来」であるはずだが、この言葉もいささかレトロな死語になりつつある感じも受ける。
 
 日本人が「海」とか「船」に持つ、一種特殊なイメージがあるのかなと思っていたりしているところだ。

「ポピュリズムへの反撃 現代民主主義復活の条件」 山口二郎

 本書で著者が目指していることは「考える世論の育成」であると読んだ。

 ここ十年の選挙を考えると、その時々のムードに強く引きずられている国民が浮かび上がる。また、その国民に更に引きずられる政治がある。一種の「愚のスパイラル」の中で、結果として社会が弱体化してきたことが、最近の日本だということが著者の最大の問題意識であろう。


 では、その「考える」ということは何なのか。著者はそれを語る為に「考えない」ということをポピュリズムという概念を通じて、描き出す。物事を単純化し、ステレオタイプに分け、敵と味方という二元対立を構成することによる判断停止状態を描き出す部分が本書の白眉だ。


 そこにはメディアの罪もうっすらと描き出されている。所詮、視聴率や購読者数という論理で動く私企業としてのメディアが、いかに小泉純一郎を始祖とする劇場政治に助けられたか。それは想像に難くない。政治のスポーツ化、ドラマ化はメディアにとって「美味しい」話だったに違いない。勿論 著者自身も、そんなメディアの構成要素の一人であるはずだ。


 それでは「考えた」挙句にどんな社会が有り得るのか。この点に関しては、著者も明快なモデルを提出しているわけではない。もっと言うと、少なくとも本書で著者はそれを提出しようとは考えなかったはずだ。
著者は「複雑さに耐えること」「幻滅への慣れ」「悪さ加減の選択」を主張する。要は「考えたとは簡単に言うな」ということだ。それが副題である「現代民主主義復活の条件」なのだろう。


 「考える」ことがいかに困難かは、人類の歴史を見れば良く分かる。但し、人類は途方もなく「考えてきた」ことも確かだ。「冷めた楽観、ねばり強い楽観」という著者の言葉が明るく感じられたのは、そんなところにあるのかもしれない。
 例え足が徳俵に掛かっていても、押し返す力は、「社会」にはあるはずだ。

「ワーキングプア」

 最近日本の貧困問題に関する本を読む機会が増えてきた。

 日本は豊かな国だと言われる。僕自身、今住んでいるインドネシアと日本を比較すると、日本の方が遥かに豊かであるように見える。但し、日本の貧困関係を考える機会が増えてきた中で、インドネシアに対する見方も変わってきた。

 インドネシアでは路地や田舎道の傍にも小さな商店がある。屋台に毛が生えた程度の店で、食料品や簡単な食事を出している店だ。大体、女性が一人で切り盛りしているが、それで生活が成り立っている様子に見える。片や「シャッター通り」と言われるように、日本では中小の商店街で生活を成り立たせることが難しい事と対照的だ。これを見ていると、インドネシアの方が経済的にも豊かであるのではないかとすら考えてしまう。



 そもそも「豊かな生活とは何なのか」という地点から考えなくてはならない。本書で紹介される「ワーキングプア」の例を見ていると、まず貧困があることが分かるが、それ以上に、その貧困が原因で、人間としての尊厳を自ら持ち得なくなっている事態が見えてくる。仕事を通じて、自分が社会に貢献している、社会から認められているという感覚を得られるとしたら、その機会が失われつつあるのだ。本書の底辺には、そんな喪失感が流れている。

 インドネシアの屋台をやっている人も決して裕福ではないだろう。しかしかような「喪失感」を感じさせることはまず無い。勿論、外国人である僕には実態は分かりようもないが、少なくとも彼らの顔を見る限りでは、間違っても絶望感は読みとれない。その意味では「上から目線」かもしれないが、インドネシアの方の方が、「豊か」であるような気がしてならない。


 GDPというような数字を追う中で、見失った物があるのではないか。それがここ数年の貧困を巡る議論だ。「見失った物」が見えてきただけでも大きな進歩だろう。正に日本は正念場を迎えているのかもしれない。

「夢をみるために 毎朝僕は目覚めるのです」 

  村上の特徴は、自作との距離感にある点を強く感じた。

 村上は繰り返し本を書き始めた時には結末がどうなるか分かっていないと言う。
 書いて行く内に、その物語が「語って欲しい事」を見つけ、イタコが語るかのように書くというイメージだ。物語自身は、紛れもなく村上由来であるだけに異様な話だ。「語る自分」と「語られる物語」の間にある距離感を強く感じる。


 村上は地下室と井戸を語る。それは自身の心の奥にある暗闇であり、そこには自分の持つ悪と毒があると彼は言う。その暗闇に入り、その悪と毒を吸い、そこから戻ってイタコのように語る。それが彼の創作なのだろうか。自らにある暗闇を相対化し、距離感を組んだ上で、それが自ら語るに任せることが彼の作品なのか。


 産み落とした作品への距離感の取り方も独自だ。村上は自作を語る際にも「これは僕個人の意見です」と繰り返す。作品は作品であり、作者であったとしても、既に自分の手を離れた作品に対しては、潔癖とも言える距離感を言う。


 村上は、ランニングで象徴される健康的な生活の信奉者だ。その「健康」が何に必要なのかが見えてくる思いがした。「自らの暗闇」及びその結晶としての「作品」との間の距離感を適正に保つということは「健康」でなければ出来ないと彼は言う。距離感が失われたら、村上自身が自分の暗闇に呑みこまれてしまうに違いない。

 その意味では本書は「走ることについて語るときに僕の語ること」と対になった作品である。前著が「健康になるために必死の作業」を書いていたとしたら、今回の作品は「僕が健康を必要とするわけ」を素直に書いているのだから。


 つくづく村上は真摯な方だと思う。僕自身本書を読んでいて、本当に勉強になった。それは僕自身の中にも「ささやかな暗闇」があるからだろう。そういえば 「偉大なる暗闇」という言葉は、著者が敬愛を示す夏目漱石の言葉だ。

「もう使いこなせなくなった魔法使い」 

 
 「 かくも巨大な生産手段や交通手段を魔法で呼び出した近代ブルジョワ社会は、
 
   自分が呼び出した地下の悪魔をもう使いこなせなくなった魔法使いに似ている 」
 
                              -- 「共産党宣言」  50頁 --
 
 これを読んで、ようやくファンタジアにも出てきた「魔法使いの弟子」の真意が分かった。
 
 
 交通手段をインターネットとでも置き換えてみると、そのまま現代の風景だ。僕らは自分たちが呼び出した悪魔を御することが出来ない。これに関しては、以前読んだ本を思い出した。その本では
 
 
 「新しい技術には必ず毒がある。その毒をどうやって御すのかがポイントだ」
 
 と書いてあった。毒と悪魔は同じ意味として捉えることが出来る。

共産党宣言から

 「共産党宣言」を初めて読んでいるところだが、正直 この本が1847年に書かれたとは思えない。日本でいうと、江戸時代だ。まだ読んでいるところだが、正直、唸ってしまっている。
 
 「自分の生産物の販路をつねにますます拡大しようという欲望にかりたてられて、ブルジョア階級は
 
  全地球をかけまわる。どんなところにも、かれらは巣を作り、どんなところをも開拓し、どんな
 
  ところとも関係を結ばねばならない。」
 
                   --「共産党宣言」 (岩波文庫) 47頁
 
 今のグローバリゼーションの話と同じだ。確かに、東インド会社などの伝統を有していた欧州だからこそ、19世紀の段階で、これが言えたということか。

一定のポイントを越えてしまえば  

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 「 ある種の 精神の傷は、一定のポイントを越えてしまえば、人間にとって治療不能なものになる。
 
  それはもはや傷として完結するしかないのだ。 」
 
                     --「心臓を貫かれて」 マイケルギルモア   村上春樹訳  598頁 --