くにたち蟄居日記 -122ページ目

NHKスペシャル「核廃絶と非核三原則」

 家族を日本に本帰国させたので休日が暇である。NHKスペシャルを見る癖がついてきた。
 
 今回の特集は、日本がかつて核兵器を保有することを真剣に検討したというスクープである。非核三原則を打ち出した時期に、核保有を模索していたということだ。もう少し言うなら、核保有を検討し、断念した事で、非核三原則を打ち出したとも読める展開になっている。
 
 歴史を振り返ると、力と力のぶつかり合いであることが良く分かる。これは人間だけではなく、動植物全てがそうだ。多様な動植物が共存しているのは、お互いに他を思いやっているからではない。戦いの上で、微妙なバランスに立って共存しているということが実態なのだと思う。
 
 核は、その「力」の頂点に立つものなのかもしれない。それを人類が今、放棄することを模索している。歴史的に見ても 力を放棄するということ自体は、極めてユニークな発想だろう。果たして上手く行くかどうかは分からない。分かっていることとしては、それが達成されるには数世紀かかるだろうということだ。勿論、地球の歴史から見ると、数世紀とは、非常に短い時間だ。例え、僕が、それを見ることが出来ないにせよ。

コーヒー

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「 こうしてコーヒーはヨーロッパ世界において着々と地歩を築いていったが、アラビアが生豆の
 国外持ち出しを禁じていたため、各国は苦労をし続けていた。しかし十七世紀半ばにはオランダが
 生豆の持ち出しに成功して、ジャワやスマトラなどの植民地で栽培を始めた 」
 
                    --「コーヒーハウス」 小林章夫 (講談社学術文庫)18頁
 
 インドネシアは、トラジャコーヒーで有名だが、オランダ経由だったとは初めて知った。しかも原産が
イスラムで繋がるアラブであるわけだ。
 

NHKスペシャルの「特捜検察」関係を見て

 今回の特捜検察の話を NHKは早くも特集しているのを見た。
 
 個人的には、今回の資料改竄問題には余り驚きは無い。また、昔から行われてきたのであろうとも思う。やり方が稚拙になって、今回ばれてしまったことだけが、関係者の痛恨であったに違いない。「なんで、もっと上手くやれなかったのか」というような話が、検察の上層部でなされているような気すらしている。
 
 
 要は、人間は「物語の動物」なのだろう。僕らは、あらゆる局面において、色々な「物語」を組み立てて、その「物語」を生きるという、ある種の本能を持っているのだと思う。これは公私を問わず、人間として何かを考える際に、基本的な動作なのだと思う。今回の検察も、非常にざっくり言うと、自分が作った「物語」に固執してしまった方の喜劇なのだと思う。
 
 
 勿論、国家権力の在り方、冤罪問題といった、大きな問題含みであり、その意味でも本件は、今後それなりの捜査が行われると思うが、その「捜査」にも、きっと既に「物語」が出来上がっているような気がしてならない。少なくとも、マスコミは、国民の期待する「物語」を敏感に察知した上で、そういう報道を「物語」として作っていくのだろうし、期待する「物語」を与えられた国民も、それを消費していくということなのだろう。
 つまり「物語を作り、消費する」という地点では、検察もマスコミも僕らも、同じ地平線に立っているだけなのでは無いだろうか。
 
 佐藤優が喝破した「国策調査」も、「物語」の一つのバージョンだった。尖閣諸島も、ナショナリズムという糸で織られていくも「物語」になるに違いない。終わりなき「物語」の洪水の中で、僕らは何を考えれば良いのか。

ドバイ   バベルの塔 Burj Khalifa

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 828メートルという高さを誇る、ドバイのBurj Khalifaに登った。今年の1月にオープンした新しい世界最高層の建物だ。
 
 バベルの塔を思い出した。この塔も あと何年で取り壊されるのだろうか。神の怒り以前に、時の審判によって。

死海

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 死海は 海抜マイナス400メートルである。海面から400mも下の高さに こんな風景が有る。
 
 死海を見下ろしながら、麦酒を飲んだ。乾いた大気と、暑い日差しは麦酒を美味しくする。それが、午前中から麦酒を飲む免罪符である。

N君への手紙

N君
 
 昨日読んだ「新自由主義と権力 ― フーコーから現在性の哲学へー」という本に面白い話がありました。
 
1 麻薬の販売を取り締まる際に供給側を取り締まると、供給側の少数精鋭化、
  販売網の独占化、麻薬の単価上昇=>麻薬中毒患者による犯罪の増加
  (高額な麻薬を買うためのお金を得るため) という結果を齎す。
 
 
2 従い取り締まり先を供給先ではなく、需要先=麻薬中毒患者側にした
  方が良い。そうすると、需要減=>麻薬の単価下落=>供給側の新規
  参入障壁となる。
  また 供給側は、新規顧客(=新規中毒患者)に対しては、安く供給
  することで常習化させる一方、常習患者に対しては高く売るようにする。
  従い取り締まる方(=政府)としては、新規顧客への価格が高くなるように
  する一方、常習患者への価格は低く抑えるようにすることで常習患者の
  起こす犯罪を抑えるようにすべき
 
3 つまりは 麻薬のような「犯罪」にも需要供給分析を導入することで、
  「麻薬市場」という環境に「介入」し、「最適化」を図るという手法がある
  という話らしい。また 犯罪を0にすることにはコストが掛かるので
  費用対効果を勘案して「この程度までの犯罪なら許容すべき」という
 判断を行うというシナリオにもなるとのことです。
 
 犯罪を経済的に扱うことの面白さとでも言うべきか?これを敷衍すると、例えば
 会社の内部管理に対しても 費用対効果を導入してほしいところ。「歩留まりとして
 有る程度のミスや不正が発生することはしょうがない」と前提した上で、「いかに
 ミスと不正を最小化にさせるかという環境介入」に重きを置けないかなとも思ったもの。
 
 それにしても「経済学」とは、有る意味で恐ろしいな。見える化=数値化する
 ことで 一見「公明正大」な雰囲気を漂わせるが、その後ろに「権力」が
 隠れることが出来るのであろうという点において。
 
 
くにたち蟄居日記@死海

ドバイのマック

 
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 ドバイの空港に朝5時半に着いた。ジャカルタから 7時間半のフライトだった。ヨルダンに行く為のTransitである。
 
 
 次のフライトを待っている間に空港内のマクドナルドに座った。隣の席に 飲み終わったコーヒーがあったので
それを自分の席において、さも自分が飲み終えた振りをして、結局何も注文しないまま、朝のドバイを過ごした。
 
 
 早朝のドバイの空港は、もう満員である。一体皆さんは朝からどこに行くのかと不思議だったが、僕自身も、そんな不思議な人の一人であることに気がついて、苦笑した。
 
 
 後ろの席に日本人の観光客が座った。彼らの話す日本語を聞きながらも、なんだか距離を感じてしまうのは、僕が日本に今住んでいないからなのだろう。
 そんなことをぼんやり考えながら、朝のドバイを過ごした。 

「新自由主義と権力 ―フーコーから現在性の哲学へ」 佐藤嘉幸

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本書は二部に分かれる。前半は「新自由主義」の解釈であり、後半は「新自由主義」への対抗策となっている。
 

 前半は極めて興味深く読めた。新自由主義とは自由放任では全く無く、むしろ、競争原理をあらゆる社会に徹底するという権力に基づくという解釈には目から鱗であった。

 僕らの身近にも競争は満ち満ちている。受験に始まり、就職、就職後の仕事、結婚等においても「競争原理」とは非常に日常的な概念だ。「フェア―な競争」という「呪文」もある。そのフェア―という美名の元に勝者は賛美され、敗者は「自己責任」という「敗因」を抱え込んで退席するという場面は良く見られる。最近の格差社会~貧困社会もこの延長上にあるわけだが、そもそも「競争原理」を社会の至る所に埋め込み、それを日常化したことが始まりだったと考えると、この世の中の風景も違って見えてくる。



 後半は、それに対する「処方箋」部分なのだろうが、僕にとっては非常に難解な部分であった。フランス現代哲学に対する知見が無い僕の能力を越えているというしか無く、これは今後勉強するというしかない。

バンコクにて

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  一年ぶりのバンコク。窓から見る街は、どこか物憂い。

「希望格差社会」 山田昌弘

 
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2004年の本が2007年に文庫化され、それを2010年9月に読んだ。


 一点目。高度経済成長の日本を、「職業・家庭・教育の安定」で分析した点は非常に納得が行った。特に受験競争を職業選択のパイプラインであるとした上で、それを一種の「あきらめのシステム」に仕立ててあったという説明には目から鱗が落ちた。
 受験と言う制度と職業選択をリンクするに際して、必ずしも思うようにいかなかった人にも「あきらめ」という形で納得させてきたシステムだったという著者の指摘は鋭いものがある。


 二点目。著者は表題の通り「希望」が持てるかどうかという部分に日本の社会の強弱を見ようとしている。
 本作は2004年に書かれ、2007年に文庫化された点を勘案するとしょうがないのかもしれないが、その後の日本を襲った「貧困問題」まではくっきりとは視野に入っていない。というか、おそらく2004年以降に状況が更に悪化したということなのだと思う。
 希望が持てるかどうか以前に、貧困に苦しむ多くの日本人が「発見」されたことが、2007年以降の数年の特徴だ。本書では「富める人」と「貧しい人」との二極化までは説明しているが、その「貧しさ」がどういうものなのかという点において、まだ楽観的だったのではないか。


 「格差社会」には、まだ議論の余地は多いが、「貧困社会」には議論の余地は少ない。本書で著者は1998年を格差が発生しはじめた年と位置付けているが、その10年後の2008年のリーマンショックが、貧困を浮かび上がらせた新しい節目の年だったのかもしれない。

 そう考えながら読むと、非常に怖い。読後感は、背筋に来た。