くにたち蟄居日記 -123ページ目

一時帰国して

イメージ 1
 一時帰国中である。
 
 猛暑の中、久しぶりに ママ下湧水を歩いた。

「ワールド イズ ブルー」  シルビア アール

 イメージ 1感想は二点だ。

 一点目。海への興味が我々には薄いのではないかという警告だ。著者は宇宙には興味を持ち、膨大な研究開発費を投入している一方、海に関する研究には人間は案外無頓着であると指摘する。言われてみると、確かに海をアカデミックに意識する機会は案外少ない。僕自身、多くの人と同様に海は好きだが、それはせいぜい浜辺を散歩したりする程度に過ぎない。海の殆どのことに関しては無知であることは間違いない。

 そもそも「海」という言葉が喚起するイメージも各人ばらばらだろう。僕のイメージと今住んでいるインドネシアの人の「海」へのイメージとは怖ろしいくらいに違いがあるだろう。「海とは何なのか」という次元で、すでに色々な問題提起の可能性があるに違いない。

 二点目。もし人間が海から陸に揚がらず、今もって海に住んでいたとしたら、どうなっていたのだろうかとふと考えた。そもそも地球は圧倒的に海の方が広い。表面積の70%が海であるという。それなら生活の場が海であったとしてもおかしくなかったとは思う。但し 祖先は陸を選び、そうして、今、海への関心の薄さが問われているわけだ。

 もし海に住んでいたら、海は圧倒的な問題としてのしかかって来てはいるだろうが、それ以前に、海を破壊してしまっているかもしれない。人間という極めて罪深い動物は、何かを創造する能力には長けているが、それ以上に何かを破壊する能力も有しているのだから。

善意の怖さ

 最近たまに思うのは、善意は時として怖ろしいということだ。
 
 善意でなにかを申し出て、それが受け入れられない時に人が見せる怒りは非常に強い。受け入れられなかったということを冷静に考えてみると、要は相手にとっては有難迷惑だったわけなのだろうが、その点がなかなか理解できないということなのだと思う。
 
 ある意味で 悪意に関しては対処する方法を考えることが出来る。悪意を持った同士は、案外一緒に仕事が出来るものだ。「相手は悪意を持っている」という前提に立っていれば、うまく行かなくても 意外と腹が立たない。上手くいかないことが「想定内」だからなのだろう。例えば 国と国との外交は良い例だと思う。お互いに国益を争うという「悪意」を持っていることが分かっているからこそ、妥協点が出てくるのだ。
 
 善意には妥協点はない。限りない愛情は、時として悪意以上に悪魔的になるのだ。そうして対処する方法が本当に限られている。
イメージ 1
 

「大川周明  イスラームと天皇のはざまで」 

イメージ 1
 
 
 僕は現在、インドネシアの日系企業に勤務している。その立場で本書を読んだ。


 一点目。少子高齢化の下、多くの日本企業は、アジアでの成長を求められている。それが大川周明等、戦前のアジア主義に重なる点を再度痛感した。

 大川は、仏教や儒教等の東洋の思想が純化結晶化されたのが日本であると断じた上で、欧米に対抗するアジア連合のリーダーとしての日本を主張した。これは現在言われる「日本の技術をアジアで展開することでリーダーシップを取る」という姿に実に似ている。日本だけでは生きていけないという切迫感は同じだ。アジアに進出している日系企業で働く僕自身はまさにその尖兵とも言えないだろうかと絶えず自問しながら読んだ。



 二点目。イスラムを踏まえて世界を見るという視点は日本には極めて薄い。例えば代表的なイスラム圏である中東に対する原油依存度が高い割に、中東への知識も興味も少ないのが日本である。

 イスラムは世界第三位の信者を持つ世界宗教だ。かつ、断食や食事制限等の厳しい戒律を、今なお維持している活きた宗教である。インドネシアに住んでいると、イスラム教が生きていることは日々痛感する。

 大川は、戦前という時代に、イスラムの可能性に目を付けた。これは慧眼以外の何物でもない。イスラムという宗教に一種の世界統一を見出した大川の予見性は、今なお新鮮だ。イスラムがいまだに信者を増やしており、近い未来には25億人になると聞く。世界同時期に一斉に行われる断食等を通じて、国を超えた大イスラム圏という意識も高まっているという。グローバリゼーションと唱えるからには、一大思想であるイスラムをある程度理解していないといけないのではないだろうか。

 大川という思想家は、今見直されてよい方だ。それが本書の最後の感想である。

過渡期 1

イメージ 1
 あらゆるものは 常に過渡期だ。 
 
 そんなふうに考えるべきではないかと思っている。
 
 例えば、人間という動物も 今の人間が完成形だろうか?断じて違うにきまっているのだ。例えば、多くの
人が、腰痛に悩まされているが、それだって、頭が重すぎて、腰に負担が掛かるからだと聞いた。
 
 動物として、腰痛で走れないような場面があったとしたら、もう、その時は死んでもおかしくないのだと思う。そもそも、動物は走れなくなったら、だいたいは天敵にやられてしまうではないか。
 
 そう考えると、頭の重さをどう解決するだろうかと、頬杖をついて、考えてしまう。
 
 頭が軽量化されるのか、腰が強化されるのか、はたまた、第三の解決策があるのか。
 
 どんな結論が出るのかは神のみぞ知る、 なのだろうが、いずれにせよ、なんらかの対応をするに違いないし、その意味でも、今の人間なぞ、未完成な 過渡期的動物であることは間違いないのではないか?
 
 未完成な人間として産まれて、未完成なままで死んでいく。それが、今の自分の人生なのだと考えると、何やら可笑しくなる。だいたい、「完成」なんてものもきっとないのだろうとも思いながら。
 
 
 

「デフレの正体」 藻谷浩介

イメージ 1
 
会社での友人に借りて読んだ。感想は三点だ。

 一点目。本書の主張は「生産年齢人口=現役世代の数の減少こそが、日本経済の問題である」という点に尽きる。消費する人が物理的に減少したことで内需縮小になったという話だ。

 この指摘は従来漫然と「経済成長」「GDP拡大」「内需拡大」と考えていた僕にとって明快な話だった。現役世代の減少とは20-40年前に胚胎された問題の顕在化であり、タイムマシンが無い僕らには処方箋が極めて限られているという点は良く分かった。
 

 二点目。では「内需」や「消費」とは何なのだろうか。

 「モッタイナイ」という考え方が、日本には伝統的にある。近年も見直されている。「浪費を慎む」という美徳と、内需拡大とはどのように折り合いがつけられるのか。著者は食糧問題に関して「現在の膨大な食品廃棄も見直されていくでしょう」(186頁)と言うが、その廃棄こそが食品業界にとっては「内需」だ。

 人間の「浪費」に関しては、文化人類学の「贈与」という観点で見るなら、極めて人間らしい行為ということになるのかもしれないが、いずれにせよ、本書での著者は、この点に関しては明快な意見は無く、僕自身は尚更答えが出せない。
 
 

 三点目。著者は愛国者であることを強く感じた。

 企業が多国籍化していくなか、日本がこの状況であるなら、本社を移転してしまう可能性は常にあるのではないか。そう思いながら、読み続けた

 著者は地域振興を専門にしている。日本の市町村の99.9%を概ね私費で廻ったという。そんな著者の日本に対する偏愛が見て取れる。それは本書の後書きで著者が言う「美しい田園が織りなす日本」に集約されている。

 著者は251頁で、日本人は日本を出ていけないと言いきっている。その思いが「日本の内需をなんとかしなくてはならない」という熱さとなっている一方、実際の企業等が、同じ熱を共有するかどうかは、僕には定かではない。

「セゾンの挫折と再生」 

 
イメージ 1
学生時代に映画を中心にセゾンに憧れた。そのセゾンの興亡は代表だった堤清二という方の哲学にあることを再度認識した。

 学生運動から共産党に入ったという思想と、詩人で作家であるという美学を、どうやって資本主義の中で実現していくか。それがセゾンの本質であったことが本書からよく理解出来た。
 実際、映画や本好きな学生であった僕にしても、セゾンが繰り出す文化には息を呑んだものだ。セゾンがなかったら紹介されなかった映画も多かったと今でも思う。そんな堤の「賭け」は、ある時期までは大成功し、一時代を築いた。

 しかし バブルという資本主義の鬼子が津波を齎した。セゾンも窒息を余儀なくされていった。「思想と美学」という「重い頭」を支える足腰が幾分弱い中では、波に耐えて立っていることは出来なかった。それが本書が描くもうひとつのセゾンである。不動産に手を出して経営破綻する姿は、別にセゾンだけではない。1990年代の「時代の風景」だったのだ。セゾンの挫折は、どこにでもあった風景の一つと言えるだろう。

 幾分理想的に堤が描いた「緩やかな連携」をとってきたセゾングループの各社は、「セゾンの挫折」以降、各々の道を歩くことになった。破綻したグループにあったにしては、優良会社も多かったことも確かだ。それを「再生」という表題にも込めているのが著者達の考え方である。

 堤清二という実業家は辻井喬というペンネームで詩や小説を書いてきた。但し、本当は、辻井喬という方が 堤清二というペンネームで、セゾンという一大劇場を試みたのではないだろうか。劇場は既に閉まり、集まっていた観客も雲散霧消した中でも、どこかでカーテンコールの響きは残っているような気がしてならない。セゾンの評価は、まだ定まっていないのだと僕は思う。それは僕の思い入れもあるのだろうが。

断食の頃

 イスラムの断食の時期が来た。
 
 今 これを書いている時間は 朝4時過ぎ。昨晩、22時頃には寝てしまったので こういう時間に起きてしまうのはしょうがないのか。窓の外では、コーランが朗詠されている。インドネシアのいつもの朝なのだ。
 
 「信仰行為の一つで、暁から日没まで飲・食・性を断つこと」( 岩波イスラーム辞典から)
 
 つまり 「白昼堂々 飲食をしたり、ましてや ことに及んでは駄目である」ということなわけだ。セックスまで禁止されているとは知らなかった。飲食性行為なぞ、人間にとって、もっとも基本的な生存理由ではないか。それを一年のうちの一カ月もの間 禁止するとは、これまた、厳しい掟を作ったものだ。
 
 
 勤務している会社のイスラム教徒の方は、本当にきちんと断食を守っている。「生きている宗教」を目の当たりにすることは、常に、驚きだ。彼岸を信じるものと、信じられないものがいるとしたら、やはり前者の方が、幸せなのではないだろうかと、ふと思う。コーランの向こうには 彼岸を見つめる人たちがいるわけだ。
 
 鳥が鳴き始めた。まだ 真っ暗なのに、朝はそこまで来ている。鳥には、それが分かっているのか。夜明け前がもっとも暗いのに。

N君への手紙 2

N君
 
 仕事をするにおいて、考える立ち位置は色々とあるよね。
 
1 目先の利益を確保して、組織の決算を支える=部分最適
 
2 中期的な展望に立って、客先との関係も含めた全体最適を目指す
 
3 仕事とはどうあるべきかという個人の哲学、思想を満足させる(「生きがい」であるとか「やりがい」という
  言葉で表される)
 
という3次方程式をどうやって解いていくのかということが、僕らの課題なのでしょう。。特に組織長になると1が重いという事実は確かです。僕も、課長時代はそうだったし、海外の事業会社では 尚 そうです。「目先が一番!!」というのが呪文です。
 
 個人的には 3こそが その人の本当のモチベーションの源泉なので、ここが最も 大事なのだが、そこまで掘り下げて話をするということは、基本的に非常に難しいことだとは思う。逆に そこまでを自分で把握した上で(僕は大多数の人が この3に関して そもそも意識を余りしていないと思う)、人と話せる人は余り居ないかな。

 勿論僕も 全く出来ていない。

 
 
くにたち蟄居日記

N君への手紙

N君
 
 結局人間が生きるということのむずかしさはそこにあるよ。

 マズロー的に考えると、5段階も欲求があるから、自殺率も高いのだと思う。他の動物が食欲、性欲、睡眠欲だけで満足して 粛々とその一生を過ごしていく。人間だけが それ以上の欲があるから、絶望だとか生まれるのでしょう。
 人間は理性をもった過渡期的な動物なので 与えられた理性をどう使うのかが課題でしょう。下手すると理性に使われてしまっている感じも受ける。
 
 さて これから人間は どんな進化をするのか??あと 数万年程度先にどうなっているのかを考えることは
常に楽しい。
 
 「清く正しく美しく」というスローガンは 誰もが笑ったのだと思うが、真面目に言い続けた点が凄かったね。
 
 確かに、仕事をやっていて 例えば客先なりとぎりぎりの交渉をしている際に「相手が信用できるかどうか」という点は非常に大事だと思う。これは佐藤優が推薦していた「交渉術入門」(日経文庫)で読んで はっとしたのだが、ハードネゴになればなるほど、相手の信頼性が大事になる。相手が信頼出来ないと譲歩もできなくなるし、約束だって守ってくれないかもしれないと思うよね。
 そう考えると その信頼とは何かというと、上記スローガンに近いものかもしれない。「清く正しく」というのは例えば、きっとヤクザだとか悪党の中にも、あるのだと思うね。「ゴッドファーザー」を見ていてもマフィアの間の「仁義」という部分も良くわかるような気がする。あれも「清く正しく美しく」ということなんだろうなと。
 
 
くにたち蟄居日記