くにたち蟄居日記 -125ページ目

「 考える日々 Ⅲ 」 池田 晶子

 池田晶子の「考える日々」三巻を一気に読了した。平易な日本語で難しいことを放言する本シリーズは、啖呵の心地よさで直ぐに読んだ。

 いわゆる「言論界」で、本書はさぞかし毀誉褒貶に包まれたに違いない。若しくは、無視を決め込んだ方も多かったのではなかろうか。池田という方と議論をすること自体が不可能であるし、まず勝ち目が無さそうだからである。
 放言する美貌の哲学者と議論して勝てるのは、どんな人であろうか?


 池田という方は、自分が美貌であることを利用しぬいたのではないかと思う。

 本書の183頁に

  「もしも、体力も容貌も二十代、三十代のままで百五十まで生きられるということになったら、
   けっこう人はそれを望むのではなかろうか。どうだろうか、あなたはどうですか」

 とある。
 もし著者が 男性であったり、若しくは美貌ではない女性だったら、この文章の中で「容貌」などという言葉を使うとは思えないからだ。普通なら「体力も知力も」と書くべき場面ではないのか。そこに池田が敢えて「容貌」という言葉を使ったのは、勿論自覚的に、であろう。

 池田が麗人で良かったと思う。彼女の放言は楽しい。もし麗人でなかったら、その放言の余り、発表の機会もなかったかもしれないからだ。そうして 彼女は百五十歳を待たずして、若くしてこの世を去った

無内容

 「 情報伝達機器が発達するほど、伝達される情報の無内容が露呈してくるというのは、皮肉なことだ 」
 
                                 --「考える日々 Ⅲ」 池田晶子 三十九頁 --
 
 池田晶子という方の著書をまとめて読んでいる。
 
 池田という方の本を読みだした理由は、「美人の哲学者」という「初期設定」に惹かれたからである、と正直に申告しておこう。
 動機としては不純かもしれないが、なに、全ての動機は不純なのだと居直るしかない。妻にも 池田晶子の本を読み始めた理由を訊かれたので、正直に、上記の通りに答えたところだ。
 
 それで何が悪い?
 
 
 引用した一文は、ある意味で正確ではない気がした。「伝達される情報」の大半は、僕にとっては そもそも無内容であるからだ。
 
 サラリーマンの一員として、僕も毎日、日経新聞くらいは読んでいる。日々の日経新聞に載っている情報たるや膨大だ。読む時には、ユーロ危機、金利、為替、デフレ、環境問題などを、日々の自分の仕事に引きつけて考えようとは思っている。それらが、どんな影響を、自分の仕事に齎すかを考えるようにはしている。
 但し、それは「風が吹けば、桶屋が儲かる」以上でも以下でもないことも確かだ。それって 本質的には、僕にとっては無内容ではなかろうか?
 
 僕が桶屋であるとして、桶屋である時間帯においては、風の情報は意味があるかもしれない。但し、桶屋ではない時間帯では意味がない。また、飯屋に転職してしまったら、飯屋である時間帯においても風情報は意味がなくなるかもしれない。
 
 僕自身は、その間には、変わっていないと証明することが出来たならば、つまり 風情報は、無内容なのではなかろうかとも言える。
 
 ここまで考えると、じゃあ情報とは何なんだという疑問が出てくることがきっと自然なのだろうな。
 
 そう思ったところだが、残念ながら考える体力が尽きてきたので、これはまた次回に考えるか。
 
 
 
 
 
 
 
 

「日本人へ  国家と歴史編」  塩野七生

 塩野七生の著書「日本人へ  国家と歴史編」を読んだ。
 
 著者の強みは二点ある。一つはイタリアという海外に永きに渡り在住してきたこと。一つは欧州の歴史から物事を照らして見ることができること。この二点が、塩野という方の背骨になっている。
 

 僕自身、海外に暮らした年数は本日段階で七年くらいになる。四十五年の人生において、七年を海外に過ごすという経験を得たことは得難い。自分では気がつかなくなくても物の見方には影響が出ているはずだ。

 ぼんくらの僕にしてもそうであるなら、鋭敏な著者はもっと影響を受けているはずだ。また、そんな影響を自覚的に捉えて、その「眼」で日本を見るくらいの戦略は、著者にとっては朝飯前に違いない。
 それに加えて欧州の歴史というもう一つの強みがある。ローマ帝国とルネサンスという、世界史としても魅力ある時代を研究し、その上で、創作を行ってきたことで「見えてきているもの」が著者にはある。それも十分本書で実感される。
 

 塩野という方は、つくづく 愛国者なのだろう。それが最終的な読後感である。彼女はカエサルを愛し、マキャベリを愛し、日本を愛していることがひしひしと伝わってくる。日本人の中で、著者の愛を受けられる人がいるかどうかは疑問なのだが、それでも「国」に対しての 塩野の愛情は誠に深い。そんな愛情に応えられるのかが問われているということか。

「皇居吹上御苑の生き物」

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 都内のど真ん中に、常人が入れない自然の楽園がある。皇居という名前だ。そこには いったい どんな生物が棲息しているのか?

 こう書きだしてみる。 「ジュラシックパーク」であるとか コナンドイルの「失われた世界」と基本線で同じであることが分かろうというものだ。 さすがに皇居に、恐竜がいるとは思わないが、それでもオオタカやホタルが住んでいるとは。 タヌキまで棲みついているらしいが、それにしても、どこから来たのだろうか。
 

 本書は、各生物の専門家の調査を集めたもの。
 各専門家は、おのおの発見に感動していることは伝わってくる。都会の真ん中で息づいている生物たちへの愛情に溢れている。
 
 
 但し、一般の読者である僕にとってはいささか高度すぎた。 新種のダニだとかの発見は、それはそれできっと大変なことなのだろうが、それなら僕の留守宅の国立のちっちゃい庭にも、一種類くらいは、新しいダニ
だとか団子虫がいてもおかしくないんじゃないの。
 
 それでも、楽しく読めてしまうのは、前記の通り、一種のテーマパークの研究書として読めるからだ。手つかずの自然を東京の真ん中に維持したという見識と知恵は、そこに色々な政治的判断があったにせよ、結果としては非常に良いことだったと断言したい。

「はやさ という 呪い」

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  「はやさ という 呪い」という言葉を ひょっと 思いついた。
 
 「はやい」という言葉は妙にイメージが良くはないだろうか。
 
     「仕事がはやい」
 
     「頭の回転が はやい」
 
     「動きがはやい」
 
 「はやい」代わりに「おそい」を上記に入れたら、かなりの悪口ではないか。相手が会社の同僚であろうと、親であろうと、妻であろうと、見知らぬ人であろうと、 かかる悪口を言った日には、何が起こるかしれたもんじゃない。かように 「悪口」なのだ。
 
 でも、いったい 「はやい」ことって そんなに良いことなのかいな?
 
 そんな疑問がちらと心を横切る日もある。大体、何かに疲れて、寝転がっている午後だ、そんなことを考えてしまうのは。
 
 ええい、なんで、はやくなくてはいけないのか。いったい、だれがいつそれを決めたんだ。
 
 「はやさ」が見逃すものだって、きっとあるに違いない。「はやい」ことで、出来なくなっているものはあるのではないだろうか?
 
 寝転んで、上を見ながら、そんなことを考えている。
 
 僕らは 「はやさ」に取りつかれている。「はやくあるべきだ」ということに縛られている。もう、これは「呪い」ではないか。 もっと 豊饒な「遅さ」を考えるべきではないのか。
 
 
 
 
 
 

「 考える日々  Ⅱ  」 池田晶子

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 「 考える日々 I 」に続けて本書を読んだところだ。

 相変わらずの快刀乱麻。もっと言うと、まことに放言集と言って良い。但し著者に「放言ではないですか」と言ってみよう。きっと「放言以外に人間は何を語れるというのですか」と切り返されるだけだ。それでおしまいなのだと思う。「ああ言えば、こう言う」という表現は悪口だ。しかし著者の場合には、それが確信犯であるから、爽快感がある。

 著者が考えた事のかなりの部分が「死」である。本書においても、「死」に対する発言は多い。これは前作でも同じだったところを見ると、著者は本当に、毎日死を想っていたということなのだろう。

 想い過ぎたせいか、著者は四十七歳という若さで亡くなってしまった。但し、それまで死を想うことに掛けた時間は、天寿を全うする方とも比較にならないくらい有ったのかもしれない。
 勿論、若い内に考える「死」というものが、どんな現実感があったのかは分からない。しかし そもそもどんな年齢のどんな方なら死というものを、現実感をもって想うことが出来るのか。それも分からないではないか。
 であるなら、著者は既に十分すぎるほどの永きに渡り、死を想い、そうしてこの世を去ったのかもしれない。そんな著者の死を「老衰」と言ったならば、池田晶子という方は破顔一笑してくれるかもしれない。

日本旅行記  登戸の鰻

 西国立駅から南武線というのんびりした鉄道に乗って、登戸駅で降りた。登戸駅で降りたのは、乗り換える為だが、ここではその話は関係無い。
 
 鰻の話である。
 
 その鰻は登戸駅の駅ビルの魚屋のなかにあった水槽に居た。「多摩川の天然鰻です」と書かれた水槽に中に鎮座ましましているのである。50センチくらいはありそうで、細長い割には まるまる太っている感じもある。そうして、鰻の常だが、水槽の底にだらしなく寝転がっているだけだ。泳がない魚の代表選手の一人ではないか、鰻は。
 
 多摩川の鰻か。いや、鰻の多摩川なのか。
 
 多摩川が、今なお現役でバリバリやれている川であることをすっかり忘れていた。そうか、今でも鰻くらいは十分養えている、隆々たる大河であったわけだ。ふうむ、これは失礼した。
 
 そういえば甲州街道だって、多摩川があったからこそ、出来た道筋なんだろうし、うっかり乗ってきた南武線なども多摩川沿いに走っているわけではないか。民を養ってきた母なる川、いや、河だったことをすっかり失念していた。
 
 ということで、多摩川の鰻にお詫びに頭を下げた次第だ。水槽に頭を下げている中年男というのも不気味だが、そのくらいの敬意は払っても良いではないか。終の住処と考えている国立とて多摩川沿いなのだから。

「考える日々 Ⅰ」 池田 晶子

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 池田晶子という方の本を初めて読んだところだ。

 美人の哲学者という「設定」自体が男として楽しい点は認めなくてはならない。「才色兼備」という言葉は断じて、女性の為にあるのではなく。男性の為にある。これは僕の独断かもしれないが、ある種の男性は 女性の「才」に、いわゆる「萌え」を感じるはずだ。そうして、著者にはそれが分かっている。悪魔的と言ってよい。いや、魔女というべきか。

 但し、本書の魅力は、作者の「設定」にあるわけだけでは。文体にある。それが僕の第一印象だ。

 快刀乱麻、と言ってよいのではないか。作者の持つ「刀」は生身の剃刀のようだ。ちょっと触るだけで手が怪我をしかねない切れ味がある。剃刀だけに、時として歯こぼれしそうな展開も出てくるが、不思議と綺麗に文章を纏めてしまっている。振り回した剃刀をさっさと仕舞って、作者は僕の目の前から立ち去ってしまうのだ。そんな爽快さが本書の魅力といって良い。

 池田晶子という方は死を見つめ続けてきたことは本書を読んで良く分かる。その方が47歳という若さでこの世を去ったという事実は重い。但し、そんな「重い事実」を吹き飛ばすような爽快さが本書にあるとしたら、それこそが池田という方の生き方のなせる魔術なのだろう。誠に魔女ではないか。

「環境思想とは何か」 松野 弘

 環境問題という書庫を作りながらも、環境に関しての読書は殆どしていないことを反省して、今回、まず「環境思想とは何か」という本を読んでいるところだ。
 
 陳腐な話だが、まずは、人間と自然との関係を、どのように捉えるのかという点が第一命題として大きい点を強く感じた。
 
 非常にラフに分けて、人間を自然の主やオーナーと見る考え方と、人間は自然の一部に含有されるものと見る考え方と2つあるということだ。例えば前者は聖書に端を発しており、特に欧州においては考え方の前提になってきているそうだ。
 
 旧約聖書の創世記にも「海の魚、空の鳥、地を這う生き物をすべて支配せよ」(1-28)と明記してある。これを出発点にしているわけだ。
 
 ここで聖書を援護するわけではないが、キリスト教国家ではないと解している現代の日本においても、大多数の人は、創世記の言葉を前提として物事を考えていることは確かだろう。その意味では、旧約聖書が、この思想を創りだしたというよりは、人間の考えを、表に出して明示しただけのかもしれない。
 
 
 

「金枝編(下)」

 
 上巻に続き、下巻も読み終わったところだ。
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 本書で繰り広げられる世界の民族の民俗には圧倒された。無数の事例をフレーザーがどんどんと出してくる。正直、幾分食傷しながらも、フレーザーの語る「世界」に耳を傾けたということが実感だ。

 本書の上下巻を通じて痛感したことは、昔から人類は、世界を理解し、把握したいという強い想いがあったという点だ。その理解の仕方に関しては、現在の科学からしてみると、極めて稚拙であり、根拠は無いわけだが、その当時は、そのような民俗は当時の科学の先端であったろうということも読みとれる。
 「理解の仕方」においては、現代の我々には劣るかもしれないが「理解への渇望」という点では、現代の我々以上であると言っても良いと思う。また 現代の我々の「理解の仕方」も、1000年後の人から見れば、誠に稚拙であるに違いないのだ。
 大事な点は、与えられた時代に、与えられた知見で、ベストを尽くすということなのだろう。後は、後世の評価を待つしかない。