「 考える日々 Ⅱ 」 池田晶子

「 考える日々 I 」に続けて本書を読んだところだ。
相変わらずの快刀乱麻。もっと言うと、まことに放言集と言って良い。但し著者に「放言ではないですか」と言ってみよう。きっと「放言以外に人間は何を語れるというのですか」と切り返されるだけだ。それでおしまいなのだと思う。「ああ言えば、こう言う」という表現は悪口だ。しかし著者の場合には、それが確信犯であるから、爽快感がある。
著者が考えた事のかなりの部分が「死」である。本書においても、「死」に対する発言は多い。これは前作でも同じだったところを見ると、著者は本当に、毎日死を想っていたということなのだろう。
想い過ぎたせいか、著者は四十七歳という若さで亡くなってしまった。但し、それまで死を想うことに掛けた時間は、天寿を全うする方とも比較にならないくらい有ったのかもしれない。
勿論、若い内に考える「死」というものが、どんな現実感があったのかは分からない。しかし そもそもどんな年齢のどんな方なら死というものを、現実感をもって想うことが出来るのか。それも分からないではないか。
であるなら、著者は既に十分すぎるほどの永きに渡り、死を想い、そうしてこの世を去ったのかもしれない。そんな著者の死を「老衰」と言ったならば、池田晶子という方は破顔一笑してくれるかもしれない。
相変わらずの快刀乱麻。もっと言うと、まことに放言集と言って良い。但し著者に「放言ではないですか」と言ってみよう。きっと「放言以外に人間は何を語れるというのですか」と切り返されるだけだ。それでおしまいなのだと思う。「ああ言えば、こう言う」という表現は悪口だ。しかし著者の場合には、それが確信犯であるから、爽快感がある。
著者が考えた事のかなりの部分が「死」である。本書においても、「死」に対する発言は多い。これは前作でも同じだったところを見ると、著者は本当に、毎日死を想っていたということなのだろう。
想い過ぎたせいか、著者は四十七歳という若さで亡くなってしまった。但し、それまで死を想うことに掛けた時間は、天寿を全うする方とも比較にならないくらい有ったのかもしれない。
勿論、若い内に考える「死」というものが、どんな現実感があったのかは分からない。しかし そもそもどんな年齢のどんな方なら死というものを、現実感をもって想うことが出来るのか。それも分からないではないか。
であるなら、著者は既に十分すぎるほどの永きに渡り、死を想い、そうしてこの世を去ったのかもしれない。そんな著者の死を「老衰」と言ったならば、池田晶子という方は破顔一笑してくれるかもしれない。