無内容
「 情報伝達機器が発達するほど、伝達される情報の無内容が露呈してくるというのは、皮肉なことだ 」
--「考える日々 Ⅲ」 池田晶子 三十九頁 --
池田晶子という方の著書をまとめて読んでいる。
池田という方の本を読みだした理由は、「美人の哲学者」という「初期設定」に惹かれたからである、と正直に申告しておこう。
動機としては不純かもしれないが、なに、全ての動機は不純なのだと居直るしかない。妻にも 池田晶子の本を読み始めた理由を訊かれたので、正直に、上記の通りに答えたところだ。
それで何が悪い?
引用した一文は、ある意味で正確ではない気がした。「伝達される情報」の大半は、僕にとっては そもそも無内容であるからだ。
サラリーマンの一員として、僕も毎日、日経新聞くらいは読んでいる。日々の日経新聞に載っている情報たるや膨大だ。読む時には、ユーロ危機、金利、為替、デフレ、環境問題などを、日々の自分の仕事に引きつけて考えようとは思っている。それらが、どんな影響を、自分の仕事に齎すかを考えるようにはしている。
但し、それは「風が吹けば、桶屋が儲かる」以上でも以下でもないことも確かだ。それって 本質的には、僕にとっては無内容ではなかろうか?
僕が桶屋であるとして、桶屋である時間帯においては、風の情報は意味があるかもしれない。但し、桶屋ではない時間帯では意味がない。また、飯屋に転職してしまったら、飯屋である時間帯においても風情報は意味がなくなるかもしれない。
僕自身は、その間には、変わっていないと証明することが出来たならば、つまり 風情報は、無内容なのではなかろうかとも言える。
ここまで考えると、じゃあ情報とは何なんだという疑問が出てくることがきっと自然なのだろうな。
そう思ったところだが、残念ながら考える体力が尽きてきたので、これはまた次回に考えるか。