くにたち蟄居日記 -119ページ目

満ちてくる忘却の潮の中で

 
   だが一体、歳月が流れたと言う以外、何が起こったと言うのか
 
  満ちてくる忘却の潮の中で
 
  私が思い出を転がしているあいだ、
 
  忘却は思い出をすり減らし
 
  埋め隠す以上のことをしたようだ。
 
  思い出の断片から
 
  忘却が築き上げた深い構築は
 
  より堅固な平衡を私の歩みに与え
 
  より明晰な下絵を私の視覚に示してくれる。
 
 
 
                 -- 「悲しき熱帯」  レヴィ・ストロース 59頁から --
 
 
 「悲しき熱帯」は民族学の本であるだけではなく、時として 詩集のように読めるから不思議だ。

M君へのメール  変化ということ

M君
 
「変わらなくてはいけない」
 
という言葉を一度冷静に考えて見る必要はあると思う。ある意味で、「変わらなくてはいけない」という言葉は一種の呪文になっていないだろうか?絶対に正しいという雰囲気で。
 
 変化にはそれなりのコストが掛かる。
 
 昆虫の完全変態(卵=>幼虫=>さなぎ=>成虫)を見ていると 変態の段階でかなりが死んでいる。
 
 つまり「変化」はコストが高いということかなと思う。だからこそ哺乳類はカモノハシ以外は)基本的には最終形で産まれ、そして、それで栄えているのではないだろうかと本日思った。
(但し、昆虫もそれなりに栄えているので完全変態にも相応のメリットがあるのでしょう。越冬とか。)
 
 そう考えると、変化のコストをどう見るかです。
 
 賭けても良いが コンサル会社等は「御社には変化が必要ですよ」という営業をしていると思う。システム変更などの「変化」では、システム会社が儲けている。
 いわゆる「買い替え需要」とは、店が消費者に「変化」を提案して成り立っている。
 
 
 「変化」を考えるにあたっては、まずは「常」なるものを見なくてはならないと思う。
 現代人は「常なるもの」を見失っているのではないかということが 小林秀雄が「無常ということ」という本で指摘していることです。
 
 
 
くにたち蟄居日記 
 

「カラマーゾフの兄弟 2」 

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 初めて読んでいるカラマーゾフの二巻目を読了した。まだ続きは長いわけだが、とりあえず強烈に堪能した巻であったことも確かだ。


 本巻では、やはり「大審問官」の部分に圧倒された。16世紀に蘇ったイエスキリストに対して、枢機卿である九十歳の大審問官が語り続ける場面は続けて二回読んだ程である。


 大審問官が描き出す人間とは自らの自由に耐えかねた弱い羊の群れであると僕は読んだ。「耐えられない自由」を賦課しようとするイエスに対して、大審問官は自らは既に悪魔と契約の上、そういう人間から自由を奪ってやることが人間の幸せなのだと主張している。


 こう書いた段階で、これが本当に正しい読み方なのかいまだに自信がない。それは僕自身がキリスト教の知識が不足しているので読解力に自信がないということもあるが、それ以上に、書いていて空恐ろしくなるからでもある。「天上のパン」か「地上のパン」かと問われたら、間違いなく後者を選ぶに違いない。そんな僕にとって、地上のパンを退けるイエスキリストという方は理解を超えている。その意味では再来したキリストを邪魔者扱いする大審問官への親近感の方が僕にあるような気がしてならない。

 
 しかし噂通りの凄い本である。まだ続きがあること自体がうれしい。これは久しぶりの感覚だ。

「カラマーゾフの兄弟 1」 亀山郁夫訳 

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 ある時期から小説を読む機会が減った。それへの反省もあって、久しぶりに読む小説に本書を選んだ。今までドストエフスキーの本は5-6冊読んだが、彼の代表作である本書を読むことは初めてである。

 第一巻を読み終えたばかりなので、全体の感想を述べることは出来ない。但し、第一巻だけでもいくつか考えさせられる言葉があった。特にゾシマ長老の以下セリフが心に残った。

  「人類一般を好きになればなるほど、個々の人間を、ということはつまり一人一人を個々の人間として愛せなくなるからだ」

 僕自身が信仰を持っていないせいか、そもそも「人類一般を好きになる」ことが比較的難しい気がしている。イエスキリストが全ての人間の原罪を背負って十字架に磔になったというキリスト教の発想がどうしても皮膚感覚で理解出来ない。
 そんな僕が、長老のこのセリフに引っかかってしまうのは、「そこに真実がある」いう一種の直感が働いたからだと思っている。直感であるので、現段階では、それ以上の事が僕には分からない。今後二巻以降を読み続ける中で、それが見つかるかどうか。楽しみにしている次第だ。

カラマーゾフの兄弟  から

 
 「 自由というものを、欲求の増大とその速やかな充足と理解することで、彼らは自らの本質を
 
  歪めているのだ 」
 
                     --ー「カラマーゾフの兄弟」第二巻(亀山訳) 436頁から ---
 
 自由という言葉に関して考えさせられる一文だ。
 
 新自由主義という言葉がある。 色々な言い分はあるにせよ 最終的には Winner takes all というような考え方である。まさに そこには欲求の増大と充足がある。
 
 欲求を内需と書き変えてみる。「内需の増大と、その速やかな充足」というような文章は毎日の新聞に躍っているではないか。
 
 では、かような新聞の文章にあるような考え方は、僕らの本質を歪めているのだろうか。もっと言うと、「僕らの本質」とは何なのだろうか。
 
 そう自分に問いかけても、全く返事が出来ない自分を見つけるだけだ。
 
 十九世紀のドストエフスキーの問いは今なお、僕らの課題なのだと思う。経済学とは最終的に人間とはどういうものかを解明する為の学問なのだと僕は考えているが、そもそもその前にドストエフスキーは「人間とはどういうものかという問いかけではなく、人間とはどうあるべきかという問いかけの方が正しいのではないか」と問題提起をして来ているようにも思えてきた。
 
 
 
 

犠牲祭

 
 本日11月17日は、イスラムの犠牲祭が行われる。数少ない国民の休日だ。いまこれを書いている午前2時でも、家の外では朗々とコーランが詠唱されている。「アッラー アクバル」という言葉が連呼されている。こんな時間に書いている一つの理由は、そんなコーランで起きてしまったことも一因だ。
 
 イスラムには二つの大きな祭りがある。一つはイード・アル・フィドルという名前で、これは断食明けのお祭りだ。もう一つはイード・アル・アドハーで、これはメッカ巡礼(ハジと言う)のクライマックスの日を祭るものだ。本日は後者の祭りである。
 
 ウィキペディアでは以下のように紹介されている。
 
 
「 老若男女を問わず、イードに参加する全てのムスリムは正装してモスクに集うよう求められる。また、所有す るヒツジラクダウシヤギなどの家畜から生贄を供出することもできる。供出された動物はウドヒヤ
 (udhiy a、アラビア語でأضحية)またはカルバニと呼ばれ、年齢や品質の基準を満たしたものだけが
 適格とされる。
 
  一般的には、4歳以上で26ストーン(163.8kg)より重いものがふさわしい。生贄に捧げる際には
 アッラーフの名を復唱し、ムハンマドと同じように嘆願を述べる。
 
  コーランによれば、肉の大部分は 飢えた貧しい人々に与えられるべきであり、これらの人々は
 イード・アル=アドハーの宴会に参加できる。残りは家族にお祝いの食事として分けられ、親族や友人
 を招いてこれを食べる。貧しくないムスリムは捧げられた食物に手をつけない事で協力し、
 イード・アル=アドハー期間中のイスラム社会における慈善が実践される。イスラム社会においては、
 イード・アル=アドハーを通じて倫理的な実践が強く確認される。また、人々は、期間中に両親、家族・
 友人の順番に親族などを訪問する。
 
  初日と最終日にタクビールを唱える(「アッラーフ・アクバル」と唱える)事と同様に、肉をふるまう事はイード・  アル=アドハーにおける不可欠な要素とみなされる」
 
 イスラムは本当に生きている宗教だ。
 

「新約聖書 Ⅰ」  佐藤優

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 佐藤優の大きな貢献の一つとして神学が持つ現代的な意味・意義をテーブルの上に乗せたという点であると僕は考えている。佐藤以前の「神学」とは「神学論争」という言葉に代表されるように浮世離れした学問だとばかり思っていた。佐藤の著書を読むにつれて、まさにその「浮世」に強烈に係る社会科学であることが見えてきた思いがする。

 本書で佐藤は新約聖書を非キリスト教徒の一般的な日本人が読むことの意義を説いている。新書という形式で聖書を世に問いなおすという戦略は新鮮だ。かつ、その解説においては、各福音書の性格を述べる一方、総括部分では、じっくりとキリスト教の論理が現在の社会を分析するのに役に立つことを書いている。「役に立つ」という言葉は、いかにもノウハウ本のようだが、佐藤自身が自分を「功利主義者」と断定している以上、確信犯であると僕は読む。

 佐藤の凄みは、解説で管直人政権を論じている点だ。本書が一定の評価を得て、例えば20年後まで生き残った時に、20年後の読者が管直人政権を論じる部分を読んでも、どこまで現実感があるかどうかは分からない。ある意味で、ご時世を論じてしまうことで、本書の寿命を短くしている面もあるはずだ。
 佐藤はフローマトカの「フィールドはこの世界である」という言葉を本書だけではなく しきりと引用している。佐藤の考える「この世界」の今日として管直人政権を取り上げることは論理的には正しいに違いない。本書の寿命を縮めることも覚悟しながら、「現在」と取り上げなくてはならないと佐藤が考えたとしたら、そこにフローマトカの言葉があるのかもしれない。

 繰り返すが神学の持つ力が見えてきている。それは神学という学問が、「人間とは何か」という人類最大の謎に迫る、一つのアプローチだからである。因みに、生物学、医学、心理学、文学、経済学、法学は全て「人間とは何か」というテーマを追っていると僕は理解している。

天下市

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 一時帰国すると、国立は天下市だった。浮かれて街を歩いた。

「世界」 11月号  から

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 「定時制という学びの場を伝える」という対談を興味深く読んだ。

 僕自身の全日制高校が定時制高校でもあった事で「定時制高校」を身近に感じることが出来る環境に有った。但し、実際に自分の高校時代を振り返ってみると、当時「定時制高校」に対してきちんと考えた事は無かった。四十歳代半ばにして、この対談を読んだことで久しぶりに「定時制」という言葉を思い出した次第だ。

 この対談では、定時制が減少している事に対する危機感が語られている。最近の定時制の生徒は、不登校の生徒の「最後の砦」であるにも関わらず、その砦の数が減っていっているという話だ。最近の貧困社会の中で言われるセーフティーネットの議論と重なるものがある。

 正直に言おう。高校生当時は「自分の努力のおかげで、自分はこの高校に行っている」という自負は有った。その自負は大学、社会人に至る最近まで続いていた。但し、最近の格差から貧困問題を知るにつけて、要は「努力出来うる環境が与えられていたこと」が一番大きかったことが分かる。その環境は自分で作り上げた部分もあるが、大部分は親を始めとした他人に用意してきて貰ったものであったことが最近見えてきている。

 その意味では定時制も「努力出来うる環境」の一つとして「最後の砦」と考えることが出来よう。その環境が減少していくことが今の日本の方向性であったとしたら、社会が弱くなる一因になりかねないのだろう。

「カティンの森」  アンジェイ・ワイダ

 数か月前から購入してあったDVDを本日漸く観ることが出来た。今住んでいるインドネシアは暑い国だが、観ていて冷えきる思いがした。
 
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 この映画は、カティンで亡くなった死者の話ではない。残された生者の話である。
 
登場人物は、戻ることの無い夫、父、息子、親戚、友人、そして「祖国」をひたすら待っている。「待っている」こと自体が生きがいとなってしまった人達とも言えるかもしれない。そうして、おそらく今この瞬間も待っているのではないだろうか。
例えば監督のワイダは父親をカティンで亡くしたが、この映画を作る中で、なお父親を「待っていた」のではないだろうか。夫の死を知らされても、扉のノックを聞くと夫が帰ってきたと言う妻は、ワイダそのものなのかもしれない。その意味ではカティンは歴史ではなく、今なお彼らにとっては現実だ。ワイダは長年本作を撮ることを願ってきたというが、その「願い」の中でカティンはワイダにとっては「現実」だったはずだ。
 
振り返って、日本人である僕が本作を観ることの意味も考えるべきだ。
 
本作を観て、旧ソ連やドイツの歴史を簡単に批難する権利が日本にあるかどうかは一度じっくりと考えなくてはならないと思う。虐殺という点では、「南京」等を抱えているのも日本の歴史だ。
本作は日本でも評判になったと聞く。こういう重い映画を少なくない人が観る日本という国は悪くないと思う。但し「日本」を踏まえて、この映画をどう観るかということは日本人としての課題だ。アマゾンでのレビューを拝読したが、「日本」という言葉が無かった点が逆に印象的だった。
日本は日本なりの「カティン」を歴史の中に抱えている。であるならば、その歴史をどうやって直視していくのか。それを僕らに迫るのが、本作「カティンの森」だ。