「カティンの森」  アンジェイ・ワイダ | くにたち蟄居日記

「カティンの森」  アンジェイ・ワイダ

 数か月前から購入してあったDVDを本日漸く観ることが出来た。今住んでいるインドネシアは暑い国だが、観ていて冷えきる思いがした。
 
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 この映画は、カティンで亡くなった死者の話ではない。残された生者の話である。
 
登場人物は、戻ることの無い夫、父、息子、親戚、友人、そして「祖国」をひたすら待っている。「待っている」こと自体が生きがいとなってしまった人達とも言えるかもしれない。そうして、おそらく今この瞬間も待っているのではないだろうか。
例えば監督のワイダは父親をカティンで亡くしたが、この映画を作る中で、なお父親を「待っていた」のではないだろうか。夫の死を知らされても、扉のノックを聞くと夫が帰ってきたと言う妻は、ワイダそのものなのかもしれない。その意味ではカティンは歴史ではなく、今なお彼らにとっては現実だ。ワイダは長年本作を撮ることを願ってきたというが、その「願い」の中でカティンはワイダにとっては「現実」だったはずだ。
 
振り返って、日本人である僕が本作を観ることの意味も考えるべきだ。
 
本作を観て、旧ソ連やドイツの歴史を簡単に批難する権利が日本にあるかどうかは一度じっくりと考えなくてはならないと思う。虐殺という点では、「南京」等を抱えているのも日本の歴史だ。
本作は日本でも評判になったと聞く。こういう重い映画を少なくない人が観る日本という国は悪くないと思う。但し「日本」を踏まえて、この映画をどう観るかということは日本人としての課題だ。アマゾンでのレビューを拝読したが、「日本」という言葉が無かった点が逆に印象的だった。
日本は日本なりの「カティン」を歴史の中に抱えている。であるならば、その歴史をどうやって直視していくのか。それを僕らに迫るのが、本作「カティンの森」だ。