くにたち蟄居日記 -109ページ目

「千と千尋の神隠し」の「いつも何度でも」の歌詞と東日本震災

 ユーチューブで偶然以下を見た。
 
 
 
 ネットで何人もの方が言われる通り 歌詞が余りに東日本震災に重なって驚いた。正直なところ ちょっと泣いてしまった。
 
 いつも何度でも
  
呼んでいる 胸のどこか奧で
いつも心踊る 夢を見たい
 
かなしみは 數えきれないけれど
その向こうできっと あなたに會える
繰り返すあやまちの そのたび ひとは
ただ青い空の 青さを知る
果てしなく 道は續いて見えるけれど
この兩手は 光を抱ける
 
さよならのときの 靜かな胸
ゼロになるからだが 耳をすませる
 
生きている不思議 死んでいく不思議
花も風も街も みんなおなじ
  
呼んでいる 胸のどこか奧で
いつも何度でも 夢を描こう
 
かなしみの數を 言い盡くすより
同じくちびるで そっとうたおう
 
閉じていく思い出の そのなかにいつも
忘れたくない ささやきを聞く
こなごなに碎かれた 鏡の上にも
新しい景色が 映される
 
はじまりのあさの 靜かな窓
ゼロになるからだ 充たされてゆけ
 
海の彼方には もう探さない
輝くものは いつもここに
わたしのなかに 見つけられたから
 
 

「括弧の意味論」 木村大治

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 僕自身が何かを書くときに括弧を良く使うことから本書を手に取ることになった。

 「読者は『ん?何で括弧がついているんだ?』という疑問に思い、その理由の探索を開始することになる」
 (194頁)

ということが本書の「始点」だ。

括弧とは「使う人」が相手(含む不特定多数)に対して投げかける一種の問いかけだ。括弧を付けることは、その言葉に特殊な意味を込めることになる。一種のウィンクみたいなものかもしれない。読む側は、直ちにその意味を読み解く作業を強いられることになる。

括弧の意味はいくつもあると著者は言う。時に「皮肉」であり、時に「他人の言葉」であり、時に「特殊な自分なりの意味」である。読み手は一瞬にして、括弧の意味を理解しなければならない。

面白いことに、その括弧がどういう文脈で使われているということは比較的容易に理解出来る気がする。そもそも括弧の意味合いが容易に理解されなければ括弧を付ける方も付ける意味がなくなる。

その辺は例えば「空気」という言葉を思わせるものがある。空気を読むという作業は日本では比較的重要である。その「空気とは何か」を言葉で表すことは難しいが、僕らにはそれが何かは分かっている。括弧の意味を一瞬にして共有できるということも、その感覚に近いものがある。

結局、「共有出来ている」という状況が実は一番興味深いのだと思う。「言葉で表すことが出来ない空気の共有」ということがなぜ可能になっているのかという課題は実は重いのだと僕は思う。KYという言葉が実はかなり深刻な非難であることもそこに起因しているはずだ。特に日本は物事の決定を「場の空気」で行っているという話も多い。太平洋戦争に反対する閣僚が反対出来なかったのは「反対する雰囲気ではなかった」という話も聞く。括弧の意味をすぐに共有出来てしまう状況は、そういう問題にたどりつく可能性もあるのだ。

推理小説の約束

 
 「 ここでもうひとつ、引用符(鉤括弧)に関するよく知られた話題を紹介しておこう。
 
   それは推理小説における約束事である。推理小説では鉤括弧に入った文(つまり、登場人物のセリフ
 
   や思ったこと)では事実でない事柄を書いてもいいが、鉤括弧に入っていない文(地の文)では
 
   必ず事実を書かないといけない。 」
 
 
                    --- 「括弧の意味論」 木村大治   116頁 ---
 

江口愛実とフランケンシュタイン

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 AKB48という集団があるらしい。
 
 らしいと書いたのは、僕自身が全く見たことがないからだ。インドネシアの片田舎にいて、日本のTVもNHKしか入らないわけだから、見たことがないのも当然だ。まあ、もっというなら日本にいても知らないだろうが。
 
 最近グリコのCMにAKBの新メンバー「江口愛実」という人が出てきたが、実はCGだったということで騒ぎになっているらしい。賛否両論があり、グリコの不買運動やら株価が下がったという。販売を伸ばそうとしたグリコにとってはいささか心外な展開なのかもしれないが、これだけ話題になったら十分宣伝にはなったのではないか。
 
 CGとは要はAKBの主なメンバーから目や鼻や口を集めて合成してつくった人工美少女ということらしい。そういえば、フランケンシュタインというお話では死体を集めて怪物を作ったわけだが、基本的にやっていることは同じなわけだ。江口というCGも一種の化物であるわけだ。
 
 僕としては、面白い話だと思うのだが、賛否の「否」の部分が分からない。なんで否定的な意見が出てくるのだろうか。
 
 まあ 騙されて怒っているということもあるのかもしれない。なるほど江口のいうCGはそれなりの美少女である。一瞬ファンになってしまった方もいるのかもしれない。その方が怒るのも無理はないだろうか。
 
 但し、それだけではない気がする。幾人かの女性の顔からパーツだけを取り出してきて合成するという点に既に何か違和感も感じられる。でも なんで違和感を感じるのか。
 
 例えば顔とは何なのか。
 
 顔の構成とは目、鼻、口、耳といった特徴あるパーツの「構成」にあるのではないか?個々のパーツの形の良さもあろうが、そのパーツ同士がどのような距離感で置かれているのかが「構成」ではなかろうか。その「距離感」を人工的に加工したものが江口愛実だとしたら、その「人工的」という点になにやら嫌味があるような気がする。作った人の好みが深く反映されるであろう人工性に。
 そこでは作っている人の好みを押し付けられる場面もあるはずだ。その点が違和感になっているのではないか。
 
 ということで、僕はまだ良く答えが出せていない。でも、案外、そこには何か深いものがあるような気がしている。
 
 
 
 
 

「愛妻日記」 重松清

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 本書の6編の男女の性愛が、例えば不倫であったり、恋愛であったりしたらどうだろうか?これが本書を読むに当たって一番考えさせられたことである。結論的にいうと、夫婦以外の場合には面白さは半減であろうし、ましてや恋愛感情を伴わない男女の行為だとしたら全く詰らないに違いない。本書の面白さは、これが夫婦である男女の行為である点に尽きる。

 ここからは男性の視点といういささか一方的な見方になる。男性は通常自分の妻は貞操観念が強いと期待する傾向が強いと思う。だからこそ、同じ浮気でも、妻の浮気の方が与える衝撃は大きくなる。ついこの間までは「妻とは家に居るものだ」という考え方が普通だった。奥さん達が飲み会やカラオケにどんどん行けるようになったのは案外最近の事なのだと思う。

 本書に対する ネット上のいくつかのレビューを読むと、本書によって新しい夫婦愛の形が見えるという意見があった。本書に出てくる夫婦の情愛は確かに濃いものがあるかもしれないが、本書がひっくり返しているものは「妻は貞淑であるべきだ」という「いささか古いが伝統的な家庭観」だと思う。ひっくり返されているものは「女は貞淑であるべきだ」という「女性観」ではない。あくまで妻=「家庭観」という部分だ。
 
 僕としては男性が、「夫という立場で本書を妻に推薦するかどうか」という点にも興味がある。是非推薦してみたいと思われる方は、半分重松清の描き出す世界に入り始めているのかもしれない。推薦したくないと思われた方は、なぜそう思ったのかを自分なりに掘り下げてみると面白いような気がする。

 それにしても男性とは身勝手なものだとつくづく感じた。男性である重松清が本書を書き、本書のかなりの読者も男性ということなのだろう。面白がってレビューを書いている僕も男性だ。女性のご意見として「男はかわいいものだ」というものがあったが、案外そういうことかもしれない。

「世界」 七月号 

 引き続き原発主体の記事が並んでいる。「安全な原発などありえない」という対談を興味深く読んだ。

 対談の中で以下のように発言がある。

 「事故が起きる確率と事故が起きたときの被害の大きさを掛け合わせて算出するのがリスクだということです」

 「国や御用学者は破局的な事故を起こす確率の『低さ』ばかりを強調して論じ、いったん事故が起きたときの
  社会的、人的被害の評価をしないできました。この確率論の危うさが今回、明らかになりました。」


 言われて見るとその通りである。改めて今回「確率」の怖ろしさというものが分かった。例えば後者の発言の例は宝くじの裏返しである。書き変えてみるとこうなる。

 「国や銀行は、いったん当たった場合の社会的、人的幸福ばかりを強調して論じ、当たる確率の『低さ』を評価しないできました。」

 原発事故と宝くじを同列に論じることは許されないかもしれないが、コインの裏返しであることは分かるし、要はどこを強調するかによって話は全く違ってくるということが分かると思った次第だ。

 以前東電に対して不測の事態を問いただした人に対して東電は「それでは隕石が落ちてきた場合まで考えろということですか」という趣旨の返事をしたことがあったと聞いた。
 これはまさに、確率X被害をどう考えるのかということだが、今回の事態を踏まえると「はい、隕石も考えろということです」と言い返すしかないだろう。いくら確率が低くても、万が一の被害がこれほど大きい場合には、Riskの低さにならないということが今回ははっきりしたということだと思う。


 イタリアの国民投票で原発が否定された。政治家の中はそれをヒステリーだと表現された方もいるらしい。それでは例えば半年前に「福島に10mを超える津波が来たらどうするんだ」という声が上がったとしたら、それもヒステリーと判断されたに違いない。

 本日段階では汚染水の処理のゆくえすら見えていない。その中で、いまなお確率を弄んだり、「新しい想定内」を作ろうとしたりする動きが日本にはあるようだ。僕らに今必要なのは「もしかしたらイタリア国民は余程日本人より福島原発を現実的に感じているかもしれない」というような感受性なのかもしれない。そういう足元から見直さない限り、日本人の「考える体力」は更に落ちつづけることになるのではなかろうか。

「『バロンサツマ』と呼ばれた男」 村上紀史郎

 
、素材が面白いながらも掘り下げが浅いと感じた。幾分トリビアに流れてしまっている感がある。同じトリビアでも例えば山口昌男の「内田魯庵山脈」のような化物のような本と比較すると見劣りする。勿論トリビアで山口昌男と比べられても勝負出来る方も少ないと思うが。

 僕が著者に掘り下げてほしかった点は二点だ。

 一点目。

 なぜ薩摩がかような巨大な浪費を行ったのかという点だ。金持ちのボンボンだったからだというような簡単な見方は著者もしていない。薩摩だけの話ならともかく、同時代にも同様のガルガンチュアのような日本人がいたことを著者もしっかり紹介している。

 巨額の私財を「贅沢好き」だけで使いきれるものではないと思う。そこに、時代の精神が必ずあるはずである。

 著者が描き出す外務省を中心とする日本の官僚組織は薩摩を利用したと描かれている。真偽の程は僕には分からないが、いくばくかの真実味を感じる。では薩摩は自分が利用されているということに気が付かないほどお人よしだったのか。薩摩ほどの教養人(かどうかは議論の余地はあろうが)が、それを知らなかったとも思えない。それを分かっていながら、私財を突っ込ませる何かがあったと考える方が「考える訓練」になると思う。二次大戦前のパリという場所で日本人がどのような立ち位置だったのかをより分析することで何かが見えてくるのではないかと僕は思う。そこが本書にいま一つ書きこまれていないのではないだろうか。


 二点目。

 何故パリだったのか。本書はパリを主舞台としているが、例えばニューヨークやベルリン、モスクワで同時並行的に同じような事が行われていたのだろうか。
 これも僕は知見がないが、有ったとしても、おそらくパリ程ではなかったはずだ。では繰り返すが何故パリだったのだろうか。

 芸術というものが戦前の世界においてどのような存在だったのかを再検証することで見えてくるものがあるのではないかという予感が有る。21世紀の現在と1920年~1930年代の芸術とはおそらく「存在の仕方」が違っているのではないか。
 本書で描かれる芸術家たちは「孤高に耐える超人」ではない。「群れてどんちゃんさわぎしている酔人」だ。薩摩のパリでのとほうもない浪費の中には常に芸術家が傍らに立っている。では何故そこに芸術家が必要だったのかということだ。直感的に言うと、芸術が非常に政治的に重要な時代がそこにあったのではないかということだ。これも完全に僕が本書を読みながら考えた思いつきであるが、そういう思いつきを得られる読書は僕にとっては非常に刺激的だ。その部分も著者がもう少し深堀してくれていたらと思う次第である。

 それにしても、昔の人には凄い人がいたものだ。読んでいて爽快感を覚える浪費である。

盆踊りの歌

 唐突だが子供の頃の盆踊りの曲を思い出しているところだ。
 
 僕の実家のすぐ近くに神社があり、夏の盆踊りは楽しみだった。盆踊りが近づくと、神社では踊りの練習会が開かれ、小学三年生の夏は、練習会に通ったものだ。
 
 ところで当時の曲で覚えているのは「二十一世紀音頭」「炭坑節」「東京音頭」である。考えてみると当時としては比較的最近の曲だったことになる。そういえば、この間スラバヤでの盆踊りにはドラえもん音頭も流れていたことを思い出した。
 
 盆踊りというと、戦前というより、江戸時代頃からあった伝統的なお祭りだと思っていたが、そこに流れている曲が新しいということはいったいどういうことなのかと思っているところだ。
 
 まず考えられることは「盆踊り」という制度が比較的新しいものであるということだ。祭りが新しい以上、曲が新しいことは不思議ではない。そもそも神社で音楽をがんがん掛けて踊るというようなことが昔からあったのかどうかは検証すべきだろう。
 
 次に盆踊りは昔からあったとするなら、音楽だけは常に時代の世相を受けて、更新されてきたという可能性だ。ドラえもん音頭はその貴重な証左と言えよう。であるとしたら、いったいなぜ伝統芸能(だと思ってきた)盆踊りの音楽にかかる先進性が必要なのかが分からない。
 
 なんで急にこんなことを思っているかというと、「私たちはいまどこにいるのか」(小熊英二)を読んでいて以下の文章を読んだからだ。
 
 「昔の村踊りというのは全員で踊ったり手をたたいたりしていますから、『観客』というのはいない。
 
  そして踊って体を動かしている側にとっては、別に起承転結がなくても楽しいわけです。
 
  ところが『伝統芸能』として舞台に載せられてしまった踊りには、踊る人のほかに『観客』がいる。
 
  そして見ているだけの人を楽しませるためには、踊りに起承転結がなければいけないという問題も出てくる
 
  わけです。こうして『村踊り』が『伝統芸能』になる過程で、どんどん内容が変化していく。」 (198頁)
 

2008年9月22日に書いたものを読んで。

 
 これはちょっと自慢なのだが、以下文章は2008年9月22日にアマゾンに投稿したレヴューである。対象とした本は中公新書の 「サブプライム問題の正しい考え方」 だ。
 
 2011年の現段階で福島原発問題を踏まえて再読してみると、なかなか予言的であったのではないかと思った次第だ。
 
 特に「このババ抜きは終わるぎりぎりまでは儲かる仕組みになっているので、かくて誰もやめなかったわけだ」という部分は まさしく原発を巡る利権そのものともいえるではないかと思ったところである。
 
「原発はメルトダウンぎりぎりまでは儲かる仕組みになっているので、かくて誰もやめなかったわけだ」
 
と書きなおすだけだ。
 
 
 
 
「チャイナシンドローム」
 
 今や猛威をふるっているサブプライム問題を丁寧に解説した本だ。

 RISKを証券化することで 本来 ありえないような住宅融資が行われ 案の定焦げ付いたのがサブプライムの本質だ。証券化という金融工学は 人類の発明だったかもしれないが そもそものRISKがなくならない以上 ババ抜きでしかありえない。しかも このババ抜きは終わるぎりぎりまでは 儲かる仕組みになっていたので かくて誰もやめなかったわけだ。
 ゲームが破たんすると 隣でやっている ババがないかもしれないババ抜きまで 破たんしてしまう。高度な金融工学の先に待っていたものは 所詮は人間の弱気だったというストーリーは コメディーとしては面白いが 実態の経済への計り知れない影響を考えると強烈なブラックユーモアになってしまった。

 本書が出版されてから 既に5か月がたち リーマンが倒産、メリルが合併、AIGが事実上の国有化という事態を迎えている。しかも それはまだ幕開けのような雰囲気だから恐ろしい。当面 世界は対処療法に追われることになろう。但し その先でもう一度見直すべきは 人間の本質なのだと思う。いかに技術が発達しても それを使う人間が その発達に追いついていない。自分で作った道具に支配されているのが現状ではないか。

 ある意味で 金融工学は 一種の核兵器のようなものかもしれない。新しいチャイナシンドロームが今発生しているとしたら 僕らはどうなってしまうのか?

「マジックアワー」  三谷幸喜

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 僕は三谷という監督は摩耗しつつあるような気がしてならない。

 「ラヂオの時間」と、監督作ではないが「十二人の優しい日本人」には笑撃と衝撃を受けた。三谷という方が書きあげる脚本には爆笑しながらも凄みを感じたものだ。こういう笑いを作り上げる才能が日本に有るのかと感嘆した。実際コメディー映画としてはその二作は世界に誇れる水準にあると今でも思う。

 但し、それからの三谷はどうなのだろうか。

 本作も豪華絢爛な出演である。おそらく俳優側も三谷映画という一種のブランドに乗って出演を楽しんでいるのではないかと思う。スターがチョイ役で出てくるのを見ている方も楽しいと言えば楽しい。但し、そういう楽しさも本筋が一本通っているからこそだ。本作にはそのような本筋が通っていない点が問題だ。

 「ラヂオの時間」と「十二人の優しい日本人」には本筋が通っている。笑いの中にもシリアスな内容がきちんと込められている。それがある種のリアリティーを齎している。僕は喜劇とはある程度以上のシリアスさがあることで成立する部分があるのではないかと思う。例えばチャップリンの映画もそういうシリアスな部分を踏まえた上での喜劇になってはいないだろうか。

 本作もいくつかの場面でシリアスさは出そうとしている。但し、それが「浮いてしまっている」点で弱い。きちんと本筋に埋め込まれていないと僕は思うのだ。

 繰り返すが僕は三谷という方は日本が世界に向かって誇りえる才能だと思う。であるだけに、間違っても摩耗するようなことが有ってはならない。