「括弧の意味論」 木村大治

僕自身が何かを書くときに括弧を良く使うことから本書を手に取ることになった。
「読者は『ん?何で括弧がついているんだ?』という疑問に思い、その理由の探索を開始することになる」
「読者は『ん?何で括弧がついているんだ?』という疑問に思い、その理由の探索を開始することになる」
(194頁)
ということが本書の「始点」だ。
括弧とは「使う人」が相手(含む不特定多数)に対して投げかける一種の問いかけだ。括弧を付けることは、その言葉に特殊な意味を込めることになる。一種のウィンクみたいなものかもしれない。読む側は、直ちにその意味を読み解く作業を強いられることになる。
括弧の意味はいくつもあると著者は言う。時に「皮肉」であり、時に「他人の言葉」であり、時に「特殊な自分なりの意味」である。読み手は一瞬にして、括弧の意味を理解しなければならない。
面白いことに、その括弧がどういう文脈で使われているということは比較的容易に理解出来る気がする。そもそも括弧の意味合いが容易に理解されなければ括弧を付ける方も付ける意味がなくなる。
その辺は例えば「空気」という言葉を思わせるものがある。空気を読むという作業は日本では比較的重要である。その「空気とは何か」を言葉で表すことは難しいが、僕らにはそれが何かは分かっている。括弧の意味を一瞬にして共有できるということも、その感覚に近いものがある。
結局、「共有出来ている」という状況が実は一番興味深いのだと思う。「言葉で表すことが出来ない空気の共有」ということがなぜ可能になっているのかという課題は実は重いのだと僕は思う。KYという言葉が実はかなり深刻な非難であることもそこに起因しているはずだ。特に日本は物事の決定を「場の空気」で行っているという話も多い。太平洋戦争に反対する閣僚が反対出来なかったのは「反対する雰囲気ではなかった」という話も聞く。括弧の意味をすぐに共有出来てしまう状況は、そういう問題にたどりつく可能性もあるのだ。
ということが本書の「始点」だ。
括弧とは「使う人」が相手(含む不特定多数)に対して投げかける一種の問いかけだ。括弧を付けることは、その言葉に特殊な意味を込めることになる。一種のウィンクみたいなものかもしれない。読む側は、直ちにその意味を読み解く作業を強いられることになる。
括弧の意味はいくつもあると著者は言う。時に「皮肉」であり、時に「他人の言葉」であり、時に「特殊な自分なりの意味」である。読み手は一瞬にして、括弧の意味を理解しなければならない。
面白いことに、その括弧がどういう文脈で使われているということは比較的容易に理解出来る気がする。そもそも括弧の意味合いが容易に理解されなければ括弧を付ける方も付ける意味がなくなる。
その辺は例えば「空気」という言葉を思わせるものがある。空気を読むという作業は日本では比較的重要である。その「空気とは何か」を言葉で表すことは難しいが、僕らにはそれが何かは分かっている。括弧の意味を一瞬にして共有できるということも、その感覚に近いものがある。
結局、「共有出来ている」という状況が実は一番興味深いのだと思う。「言葉で表すことが出来ない空気の共有」ということがなぜ可能になっているのかという課題は実は重いのだと僕は思う。KYという言葉が実はかなり深刻な非難であることもそこに起因しているはずだ。特に日本は物事の決定を「場の空気」で行っているという話も多い。太平洋戦争に反対する閣僚が反対出来なかったのは「反対する雰囲気ではなかった」という話も聞く。括弧の意味をすぐに共有出来てしまう状況は、そういう問題にたどりつく可能性もあるのだ。