「世界」 七月号  | くにたち蟄居日記

「世界」 七月号 

 引き続き原発主体の記事が並んでいる。「安全な原発などありえない」という対談を興味深く読んだ。

 対談の中で以下のように発言がある。

 「事故が起きる確率と事故が起きたときの被害の大きさを掛け合わせて算出するのがリスクだということです」

 「国や御用学者は破局的な事故を起こす確率の『低さ』ばかりを強調して論じ、いったん事故が起きたときの
  社会的、人的被害の評価をしないできました。この確率論の危うさが今回、明らかになりました。」


 言われて見るとその通りである。改めて今回「確率」の怖ろしさというものが分かった。例えば後者の発言の例は宝くじの裏返しである。書き変えてみるとこうなる。

 「国や銀行は、いったん当たった場合の社会的、人的幸福ばかりを強調して論じ、当たる確率の『低さ』を評価しないできました。」

 原発事故と宝くじを同列に論じることは許されないかもしれないが、コインの裏返しであることは分かるし、要はどこを強調するかによって話は全く違ってくるということが分かると思った次第だ。

 以前東電に対して不測の事態を問いただした人に対して東電は「それでは隕石が落ちてきた場合まで考えろということですか」という趣旨の返事をしたことがあったと聞いた。
 これはまさに、確率X被害をどう考えるのかということだが、今回の事態を踏まえると「はい、隕石も考えろということです」と言い返すしかないだろう。いくら確率が低くても、万が一の被害がこれほど大きい場合には、Riskの低さにならないということが今回ははっきりしたということだと思う。


 イタリアの国民投票で原発が否定された。政治家の中はそれをヒステリーだと表現された方もいるらしい。それでは例えば半年前に「福島に10mを超える津波が来たらどうするんだ」という声が上がったとしたら、それもヒステリーと判断されたに違いない。

 本日段階では汚染水の処理のゆくえすら見えていない。その中で、いまなお確率を弄んだり、「新しい想定内」を作ろうとしたりする動きが日本にはあるようだ。僕らに今必要なのは「もしかしたらイタリア国民は余程日本人より福島原発を現実的に感じているかもしれない」というような感受性なのかもしれない。そういう足元から見直さない限り、日本人の「考える体力」は更に落ちつづけることになるのではなかろうか。