ゴジラ と オキシジェンデストロイヤー | くにたち蟄居日記

ゴジラ と オキシジェンデストロイヤー

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 5月31日の日経新聞の「経済教室」にて、松本絃京大総長が以下と書いている。
 
「科学とは、何ができるか、なぜ起こるのか、どうなっているのかを明らかにするためにある。一方、政治は、何をするかという意思を実現するのが役割であろう。what we can doをつかさどる科学と、what we will doを担う政治を混同してはいけない。」
 
 これは今回の原発事故に関する記事である。
 
 読んで思ったのは、「ではwhat we must/must not do」という点は誰が担うのかということだ。
 
 普通に考えるとwhat we will doを考えるに当たって、what we must/must not doを前提とすべきであろうから、従い、what we must/must not doも政治が担うべきということだろう。厳密に言うとwhat we will doを政治が決めて、what we doを政府が担うということなのかもしれない。
 但し、いずれにせよ、what we must /must not doとは本来倫理、哲学の問題であり、その部分まで政治に担わせるべきかという議論はあるべきだと思う。
 
 一方科学がwhat we must/must not doという問題にどこまでcommitすべきなのかということも考えた。
 
 ここで思い出したのは映画「ゴジラ」である。
 
 今回の福島第一原発をゴジラに見立てる向きも多い。確かにコントロール不能になっている原子力という姿は正しくゴジラである。
 
 映画「ゴジラ」では、僕の記憶が正しければ、ある科学者が作り上げたオキシジェンデストロイヤーという薬品でゴジラは死ぬ結末となっている。かつ、その科学者も同時に死を選んでいる。死を選ぶ理由としては、自分が生きているとかならずこの悪魔の薬品を軍事産業が狙ってくるからだということだったと思う。つまり、その薬品を新しい核兵器になぞらえて、それを科学者が自分の生命と引き替えに、葬り去るという話だろう。
 
 この科学者はwhat we must not doという部分に踏み込んだことになる。その姿は感動的であるわけだが、それが正しかったかどうかという点では賛否両論を呼ぶだろう。科学はwhat we can doの地点に留まっているべきだという意見から考えると、その科学者は正しくないことをしたということになるに違いない。
 
 新しい科学や技術には毒がある。その毒を解毒するすべをもたないまま僕らは見切り発車で物事を進めている面があると思う。それどころか毒を毒だと認識することすら時として難しい。そうした中でwhat we must/must not doを考えることは本当に難しくなってきている。
 
 イリイチは「高度産業社会は専門家ばかりだ」と言ったらしい。新聞で原発の記事を読んでも正確に理解することは既に難しいではないか。そういう不可知が広がる中で誰が・いつ・どのようにwhat we must/must not doを考えるのかという事は喫緊の課題ではないだろうか。