あだ名って他人が勝手につけるもの
ブログネタ:まわりの面白あだ名の人
参加中ちょっと忙しくしているので、
「面白あだ名の人」というお題で、
ちょっと書いてしまいます。
ぼくの弟の高校時代の友達のことです。
ある友人が、別の子のことを、
子供っぽいといって馬鹿にしてました。
「おまえはガキやな。
おまえまだケツ青いやろ。
お前なんかケツ青や。
ケツ青、ケツ青!」
その子のことを見るたびに、
「ケツ青、ケツ青」
と呼んでは馬鹿にしていました。
それで…、
その馬鹿にしていた本人に
ついたあだ名が「ケツアオ」。
自分にはね返ってくるという
教訓みたいなお話です。
ぼくの弟の高校時代のクラスメイトに、
ヒツジ顔の女の子がいました。
それで…、
ついたあだ名が「メリーさん」。
でも、よく考えたら、
メリーさんはひつじじゃないんですよね。
ひつじを飼ってる女の子なだけです。
ぼくの弟の高校時代のクラスメイトに、
ニコちゃん大王に似た女の子がいました。
それで…、
ついたあだ名が「おしり」。
これはさすがにひどすぎるので、
男子同士がクラスの女の子の話をする時に
こっそり使ってただけなようでした。
結局、陰口や悪口から始まるものが多いのかな。
以前ぼくの所属していたサンバチームに、
「ハクサイさん」というスルド奏者がいました。
彼も若いときに、
「キャベツ買ってこい」といわれて、
間違えて白菜を買ってきたのが、
その名の始まり。
失敗談からのあだ名でした。
高野山金剛峰寺蓮花院
大学時代の友人が、
熊野古道を歩いたあと、
高野山に歩いて登りたい
ということなので、
(高野山の部分だけ)
同行することにした。
現在は、南海高野線の
九度山(くどやま)駅を起点とする
コースが一般的であるが、
ぼくたちはこのひとつ手前の駅、
学文路(かむろ)から
歩くことにした。
幼い石童丸(いしどうまる)が母親と離れて
ひとりで高野山をめざしたのが、
この学文路からである。
(石童丸の話は有名だし長くなるのでここでは割愛します)
ここには人魚のミイラがあるという。
ところが、残念なことに
このとき人魚は外出中。
拝見することはできなかった。
九度山までの道で、
道行く車のおばさんが、
「私たちも高野山にお参りに行きます」
と言って、
ぼくたちにペットボトルのお茶を
手渡してくれた。
九度山の慈尊院からは
町石道(ちょういしみち)と呼ばれる
コースを辿る。
世界文化遺産にも指定され、
わりにたくさんの人が登るので、
整備された歩きやすい道だろうと
ハイキング気分で、
完全になめていた。
前夜2時までワインを飲んでた身には
とてもつらい。
「ごめんなさい高野山」
と思いながら歩いた。
いきなり、急な坂道が続き、
ベンチも水が補給できる場所もない。
持ってきた柿の葉ずしを二ツ鳥居で食べて、
やっと身体も、復調のもよう。
そこから始まる下りでスピードアップして、
けっこういいペースで歩いていったのだが、
二ツ鳥居で一緒になったカナダ人には
途中で追い越されてしまった。
この夜お世話になったのは蓮花院。
徳川家の菩提寺として、
江戸時代には高野山でも最大の勢力を
ほこった由緒ただしい塔頭である。
実はこちらのご住職は、
大学の先輩で、元NHK職員でもある。
ぼくは以前から少々お付き合いがあった。
テレビ界からの転身もめずらしいが、
今は大僧正という最高位階になられている。
泊めていただいたのは、
いちばん奥にある「将軍の間」。
徳川将軍の高野山参詣の際に、
宿泊していた部屋である。
そんな文化財の部屋を使っていいのかと
いうような気もしながら、
お風呂のあとの楽しみが精進料理。
その精進料理をいただいたのは、
「将軍謁見の間」。
正確には謁見の間は三部屋あり、
こちらはその一番奥にあたる
将軍の座のある部屋である。
「一滴の水にも天地の恵みが
こもっています。
一粒の米にも多くの人の力が
加わっています。
ありがたくいただきます」
と唱えて、合掌。
最初にお吸い物をふくんだ瞬間、
ぼくと友人は、思わずうなった。
「めちゃくちゃうまい!」
魚肉も使えないので、かつおだしではない。
甘みのある塩を使っているのだろうが、
しょっぱいだけでなく、
とにかくうまいのだ。
登山で汗をかいて、
体がミネラルを要求していたのだろうか。
膾も高野豆腐も
ごまどうふも
てんぷらも
豆乳の豆腐なべも
みんな、本当においしい!
もちろん、今夜はアルコールも抜き。
自然に感謝の気持ちがこみあげてくる。
おん あぼきや
べいろしゃのう まかぼだら
まに はんどま じんばら
はらばりたや うん
南無大師遍照金剛。
南無大師遍照金剛。
食後にご住職のお話を伺った。
仏教はもちろん、政治経済、
そしてゴルフや芸能界、
多岐にわたった興味のつきないお話で、
ぼくたちの質問にも
気さくに答えてくださった。
実はこの写真、
ここで公開するのは、
見る人が見るとスクープにも
なりかねない画像流出なのだが、
解説がないなら、
あまり意味もわからないだろうから、
載せちゃおう。
元禄年間の絵地図なのだが、
保存状態のよさに驚かされる。
翌朝は、朝のお勤めに参列。
40分ほど正座をして、
すっかり脚がシビれてしまった。
その後、本堂内陣の見学。
そしてまた楽しみの朝食をいただく。
夢中だったので、
食べだしてから慌ててパチリ。
味噌汁がまた、昨日のお吸い物と
まったく違って、
あわせ味噌だが甘めのお味噌が
やたらにうまい。
食後には、広間で写経。
またご住職と面談があって、お礼を述べて、
その後、奥の院まで、お参りに。
小雨にけむる杉木立も高野山らしい。
高野山のもみぢもみごろだった。
女人堂(にょにんどう)のところから、
不動坂を、極楽橋まで降りる。
途中、石童丸が軒下で寝たという
清不動堂があるが、
現在の場所は移築された場所らしい。
周りの眺めも楽しみながら、
高野山を下っていった。
いにしえからの祈りの空間、
高野山は、日常を離れ、
清々しい気持ちにしてくれる
場所であった。
ありがとう、高野山。
また歩いて登ろう。
葛城山(かつらぎさん)
ちょっと前のことになるが、
友人が熊野古道を歩くという。
伊勢のほうからスタートするので、
その最後に高野山にもお参り登山を
したいというのだ。
「同行二人」ではないが、
実際に二人のほうがいいかと思って、
一部の同行を申し出た。
軽いハイキング気分で
申し出たものの、
ちょっと予行演習を
しておこうと思って、
自宅から自転車で、葛城山にむかった。
水越峠の手前まで、
上り坂が続き、足はすでにつった状態。
青崩(あおげ)というところにある
天狗谷コースの登山口に到着したのは
すでに午後3時。
ここで引き返そうと思ったが、
農家のおばあさんが歩いているので
ちょっと尋ねてみた。
すると山頂までは40分もあれば
着くだろうということ。
それならば、
疲れた足で1時間かけても、
明るいうちに戻って来れる。
自転車を道端にくくって出発。
ところが、なんと、
このコースのキツいこと。
写真を撮る余裕もない。
早瀬を渡ったり、
鎖のついた一枚岩を登ったり、
結構、本格的な登山コースだ。
葛城山には奈良県側からしか
登ったことなかったので、
ぜんぜん知らなかったが、
このコースのほうがだんぜんキツい。
40分どころか1時間登っても
まだ着かない。
引き返すのが正しいのだろうと
考えたが、そこは、
「いい加減」にできない性格。
どんどん登って、
やっと山頂に着いたときには
すでに午後の5時。
秋の山頂はススキの名所。
空には月も出て、
すでに日も沈むところ。
山々の遠景も美しい。
もみぢに目をうばわれている暇もない。
下山しだしたときすでに山頂付近も
薄暗闇につつまれている。
先を急いで下山するが、
谷にかかる道は真っ暗になった。
自転車用のライトの薄明かりの中、
こけないように気をつけながら、
一気に下山していく。
真っ暗の中、自転車を組み立てて、
真っ暗な谷の街道を、走る。
寒さを気にしながら、
途中で、何度も休みながら、
家にたどりついたときは、
芥川龍之介の「トロッコ」か、
映画「スタンド・バイ・ミー」
みたいな気分だった。
あ~、遭難するかと思った!
「糸まきまき」の原曲:本邦初公開
この夏デンマークで調べてきたことの一つ、
ようやくアップすることができます。
日本で一番知られているデンマークの歌は、
実は「糸まきまき」の歌なんです。
デンマークがオリジナルなのは、
けっこう知られているのですが、
では、何というどんな曲かというのは
ずっと日本でも報告されたことのない事実です。
「本邦初公開の情報」です!
このためにユーチューブ動画を作って、
(sengoku38という名で)投稿しましたので、
ここにご紹介します。
動画を見るのが
面倒くさい人のために、
歌詞と訳を載せておきます。
"Først den ene vej" (最初はこっちむき)
またの名を
"Skomagerstykket" (靴屋のうた)
作者は不明です。
Først den ene vej 最初はこっち
og så den anden vej それから反対
og tju og tju シュッシュッシューと
og skomagersdreng 靴屋の小僧
(gentage) (くりかえし)
Skomagerdrengen er et svin 靴屋の小僧はブタだもん
for han drikker brændevin キツいお酒を飲むからさ
(gentage) (くりかえし)
(日本語訳:skip)
動画にも解説を載せておきましたが、
デンマークでいうsvin(ブタ)には、
貪欲だとか卑劣なヤツという意味もありますが、
それよりもっと普通に使います。
たとえば、子供がいたずら書きをして
部屋の壁にクレヨンで絵を描いてしまったり、
食事をするときに、やたらと周りにこぼしたり、
そういう散らかした状態なんかも
「ブタだね」などと表現します。
「で、チュ、で、チュ」という擬態語は
「シュッシュッシュー」と訳しましたが、
ひょっとしたら、「チマチマチマと」
ぐらいのほうがいいのかもしれません。
アメリカではこの歌は
"Wind the bobbin up"
という名で、なんだか長くなって
いるようですが、
幼児英語教育の定番
"Head, shoulders, knees and toes"
と変わらないような感じになってしまってますね。
では、最後におまけ、
初音ミクさんの
「糸まきのうた」で、
みなさんも手遊びをどうぞ。
お笑い芸人でなくてよかった。
(注)ネタではありませんので、おもしろくありません。
「精神分析」の試料にはなるかもしれません。
変な夢を見た。
というより、夢とはいつも変なものだが…。
30歳ぐらいのぼくが、
なぜか新人としてお笑い業界に
入っていくというものだ。
まだ少しは若いつもりなのに、
若手芸人からはすっかりジジイで、
何を言ってもおもしろくない。
なぜか中国の大型ホテルで
新人芸人の合宿みたいのがあって、
それに参加したぼくであった。
先輩芸人たちの前で新人芸人が、
大喜利やトークショウみたいなものをして、
批評や指導をうけるという合宿のようだ。
ところが新人芸人同士は、
自分がウケようと必死で、
お互いに足のひっぱりあい。
他の新人が言うことには
決して笑わないどころか、
指をさして、あしざまにののしる。
若い芸人にまざって、
参加しているぼくは余計にうけない。
それでも、一応、年齢的には先輩格。
それなりにまとめたことを
言わなきゃならないのだが、
若手がだれもついてこないので、
少しも話がまとまらない。
あるお題で、進行役にあたったぼくが、
みんなの前で何を言っても
うまくいかない。
ある若手芸人には、
「先輩ヅラするんやったら、
こんどメシをくわしてくれないと」
といわれる始末。
年はくってても新人芸人なので
こちらもお金があるわけはない。
若手芸人はいかにもたくさん食いそうだし、
誰かにおごって
誰かにおごらないということも困難だ。
先輩芸人からは、
「お前のほうが年くってるかしらんけど、
あいつらのほうが経験はもってるからな」
と、いかにもぼくの無能を非難する口調。
翌朝、ひとり寂しく朝食会場に、
向かうぼくだったが、
若手芸人たちはみんな仲間をつれて
ワイワイガヤガヤと楽しそう。
すれちがうぼくに、
「めっちゃ、うまかったスよ」
なんて教えてくれるけど、
ぼくは中国人の列に混ざって
なかなか前にすすめない。
やっとお粥を手にしたぼくが、
こんどはテーブルを探すのだが、
「坐这儿、可以吗?(ここ座っていいですか?)
と聴いても、他のお客は
「不可以」(ダメ)と応える。
ウエイトレスが、たった今
片づけているテーブルをみつけて
「我会坐这儿?」(座れる?)
と言うと、はじめて
笑顔で「当然会」(もちろんです)
と受け入れてくれた。
やっと少し安心して、
ウエイトレスにすがるような
思いをもったところで、
目覚ましが鳴った。
社会の厳しさと疎外感のよくでた夢だが、
つくづく芸人でなくてよかったと
思った朝であった。
悪夢は睡眠中の質が悪い証拠です。
こういうのが続くと、「不眠」という症状に陥るのです。
注意が必要です。
雪よ氷よ冷たい風は北の露西亜で吹けば良い。
今回も「クーニャン」のイラストです。
「姑娘 第32号」(1985年10月刊)の表紙に
描いたものに、彩色してみました。
姑娘なんだから、可愛い女の子の絵を描け
という先輩のリンさんからのご命令により、
女の子の絵を描き続けたわけですが、
この絵を描いたときに、
イメージしたのは、
「満州娘」です。

そういえば昔、少年チャンピオン連載の
「マカロニほうれん荘」で、きんどーちゃんが、
(「マカロニほうれん荘」第5巻より)
と、わけのわからないことを言っていました。
ついでですから、
昭和13年テイチクレコードの
「満州娘」も貼っておきます。
この歌詞がけっこうスゴいです。
さきほどのきんどーちゃんのせりふも、
今回の記事のタイトルもその一節です。
新生上海
今回も小ネタというより、イラストです。
ぼくが初めて中国旅行をしたのは、
80年代の最初でした。
そのころはさすがに文革は批判されていたものの、
街のあちこちの壁には、まだ
文革当時のスローガンが残ってたりしました。
街ゆく人々もみんな中山服(ちゅうざんふく:人民服)で、
デザインが同じなだけに、その生地の良し悪しで、
貧富の差は一見してわかりました。
そのときの写真は散逸してしまいましたので、
http://tomiyavitnl.exblog.jp さんからの借り物です。
でも、街角のポスター屋で、
「雷峰に学べ」とか、社会主義スローガンみたいなものも
いくつか買いました。
これはそのうちの一つです。
小学生が、先生に敬礼して挨拶しているところです。
町じゅうに「学習学習再学習」とか、
「好好学習、天天向上」とか書かれていましたね。
そんな赤色中国の残る中、
まだまだ改革開放や経済発展なんて
ほど遠いと思われていたころ、
人々が少しは自由になって、
百貨店の上階レストランで、
クリームソーダでも楽しめるような若者の
世代が、いつかやってくることを夢見て、
「新生上海」という画を描きました。
これも学生時代の雑誌
「姑娘」第31号(1984年6月刊)の表紙絵です。
モノクロ線画を少しセピア調にしました。
ポスターには、
「未来に向かって、ダンスダンス。
健康のために、桜花ビールを飲みましょう」
とかいてあります。
もちろん、桜花ビールなんて、勝手な創作です。
テーブルの上のメニューには、
「菜単」と中国語で書かれています。
それに、窓の外の景色、
よくみるとビルの屋上にヘリポートがあって、
ヘリコプターも止まっているのですよ。
実際はどうだかわかりませんが、
80年代に、上海の未来を想像するのも
楽しかったものです。
まあ、中国の政治・文化のむずかしいことは、
友人のブログ にお任せすることにして、
こちらのほうは、ごくごく軽いイラストにて、
失礼いたします。
外灘旅情
今回も「昭和」というよりは、イラストなんですが、
昭和初期の人々にとって、
偏見に満ちた中国人像は、こんな感じでしょうか。
日本兒童文庫25「世界童話集」のために
お描きになったものです。
昭和4年刊です。
清朝末期がいかにも世界の中では、
時代遅れのものになっていたのはたしかですが、
逆に昭和初期の上海は、すでに
非常にモダンな街となっていました。
その時代のノスタルジアもこめて、
前回にもご紹介した雑誌「姑娘」の
第28号(1983年5月刊)の表紙絵には、
「外灘旅情」と題して、上海の画を描きました。
今回、ちょこっと彩色してみました。
上海万博も終わりましたが、
今でもどんどん変わり続ける上海、
ちょっと寂しく感じながら、
ノスタルジーに浸っています。
2年前の春、友人と一緒に中国旅行して、
上海から船で帰国したのはとても
いい思い出です。
また、行きたいなぁ。
奇しくも、閩晋漁5179という「工作船」もしくは、
体当たり目的の自爆テロ船の動画流出の話題で
もちきりの日になってしまいましたが、
ぼくがこの画を描いたのは約30年も前、
日本の船で、上海に行く平和な状態を夢見てのことでした。
たしかにあの体当たり攻撃の蛮行は問題ですが、
ここは、百歩譲って、国際関係を重んずるとしても、
そういう状況を生み出した民主の状況、
さらにすべてを沖縄地検のせいにして、
責任逃れをしようとした日本の現政権こそ、
今の私たちに変えることのできるものだと思います。
ぼくの憶測ですが、このビデオはとっくに中国側に
提示されていて、中国に捕られた日本社員の命と
ひきかえに、日本政府は公開しないという約束を、
仙谷がとりつけちゃってたのではないかと思います。
なんにせよ、国民にすべてを知らせない
秘密主義の民主糖政府のやり方です。
長安城大明宮
小ネタというよりは、イラストなんですが、
学生の頃、中国語のサークルで、
「姑娘」(クーニャン)という雑誌を作っていました。
その第26号(1982年7月刊)の表紙絵のために、
長安城大明宮を想像して描きました。
その当時はまだ、青焼きの湿式コピーだったんですね。
スキャンして、ちょっと彩色してみました。
線画のほうが、ちょっと古っぽくていいかも知れません。
右側に見えている建物が「含元殿」です。
これを描いた当時はまだ、大々的な発掘調査も
行われておらず、適当に想像して描きました。
でも、この絵、実は中国人のリンさんに不評だったんです。
「姑娘」なのに、皇帝の絵なんか描いてる。
「女の子は出てこないのか」って言われました。
それから、「姑娘」の表紙をぼくが描くときは、
女の子を描くことにしました。
おまけに、第31号(1984年6月刊)の
裏表紙に載せたイラストを彩色したものをどうぞ。
もちろん、ぜんぶぼくが描いたものです。
題名は「燃えよ姑娘の圖」ですが、
今なら「萌えよ姑娘」で充分ですね。
ちなみに、李小龍(ブルース・リー)の叫び声、
「アチャ~」っていうのは、漢字表記が解らなかったので、
むりやり「啊茶」なんて当てましたが、絶対まちがいですね。
















