(5) 本文解釈の2
一切世間。天人及。阿修羅。皆謂今釈迦牟尼佛。出釈氏宮。去伽耶城。不遠。座於道場得。阿耨多羅三藐三菩提。然善男子。我實成佛已來。無量無辺。百千萬億。那由侘劫。
【一切世間の天人及び阿修羅は、皆今の釈迦牟尼仏釈氏の宮を出でて伽耶城を去ること遠からず、道場に坐して阿耨多羅三藐三菩提を得たりと謂えり。然るに菩男子、我実に成仏してより已来無量無辺百千万億那由佗劫なり】
(文上の読み方)
ここで、釈迦は、永遠の生命をはっきり、いいきっております。
一切の世間の天界の人や大衆や、阿修羅や、菩薩方は、今の釈迦如来、自分を、釈氏の宮殿を出て、伽耶城を去ること遠からざる道場に座して、阿耨多羅三藐三菩提、すなわち仏の智慧を得たと思っている。
しかしながら、善男子よ。そうではないのだ。自分が仏になってから、すでに無量無辺百千万億那由佗劫、すなわち、八百万年(一劫)に無量無辺を掛け、百を掛け、千を掛け、万を掛け、億(十万)を掛け、次に那由佗(千億)を掛けただけの年数もへているのだというのです。
「おれはインドで仏になったのではない。無量無辺百千万億那由佗劫という、もう計算も何もなりたたないほどの大昔、そのときに、われは仏になっておったのだ」というのです。今まで説いてきた釈迦の学説を、一ぺんでひっくり返し、切(初)めて釈迦の本地を明かすのです。これが如来の秘密なのです。
(文底の読み方)
ところが、大聖人様の仏法からこれを見ますれば、大聖人様は、御年三十二でもって、われわれ末法の衆生に向って、南無妙法蓮華経をお説きになったと思うであろうが、実は無量無辺百千万億那由佗劫よりも前に、すでに南無妙法蓮華経の仏であったのだと、おっしやるのです。
これは観心の読み方です。教相の釈迦如来は、無量無辺百千万億那由佗劫に仏になったと、これを久遠実成の釈迦如来といっております。ところで、大聖人様は、別の名を久遠元初の釈迦如来と申しあげるのであります。
印度の釈迦如来の本地というものは、この次にやりますが、五百塵点劫に仏になったというのですが、大聖人様のは、その以前に、久遠元初という時に、我が身は地水火風空なりと知ろしめして即座に悟りを開かれたとおっしゃっております。
釈迦如来のように修行をしたのではない、我が身が地水火風空、すなわち大宇宙それ自体の生命であるとお悟りになった、その時に定まってしまったのです。
ですから、大聖人様の生命というもの、われわれの生命というものは、無始無終ということなのです。これを久遠元初といいます。始めもなければ終りもないのです。大宇宙それ自体が、大生命体なのです。われらの本地は大宇宙それ自体なのです。大宇宙ですから始めもなければ終りもないのです。このままの地球だけなら、始めも終りもあるのです。
教相の上の釈迦如来は、五百塵点劫という区切りがまだあるのです。それでは、まだ生命に区切りがあって、ほんとうのものではないのであります。
(別釈)
釈迦牟尼仏について申しあげますと、釈迦というのは人の名前ではありません。インドの北方にあった釈迦族という種族の名前です。釈迦のほんとうの名前は瞿曇というのです。この釈迦の国の一番偉い仏、聖人という意味で、牟尼といい、釈迦牟尼仏と呼ぶのです。釈迦というのは日本語に訳せば、能忍ということです。ですから、よくたえしのぶ人という意味になります。
次に無量無辺百千万億那由佗劫とありますが、お経をあげるときには気をつけて下さい。他のところは、みな那由佗阿僧祗劫となっておりますから、ここでもそのようにいってしまいそうになります。ここは那由佗だけです。
劫というのは、仏法では、次のようなことになっております。お釈迦さんの時が、人寿百歳のときです。この平均年令は仏法では、今の国民保健率のとり方とは違うのです。たとえていえば、今の日本国民の命の平均ですが、今はずいぶん命は延びているそうです。そのため死人が少ないそうです。一番困っているのは葬儀屋と邪宗の坊主だそうです。ある邪宗の坊主の娘が、こういったそうです。「昔は調子よく死んでくれた。金のなくなったころ死んでくれた。このごろはいい薬ができたから、死なないで困ったとお父さんがコボシている」と。そのように延びたのだそうだけれども、仏法では、そういう取り方をしない。ケガをして死んだとかハヤリ病で死んだとか、そういうのは平均率の中に入れない。今、日本では、赤ん坊が生まれると役所に届けるでしょう。届けて十日間で死んでも、それは一人分に入るのです。九十になった人も一人分に入る。ケガして死んだ人も、みんな足して、割るのです。仏法では、そういうのは入れないで、自然に生きていた者だけ、いわゆる天寿をまっとうして死んだ人だけの平均をとるのです。
お釈迦さんの時は、百歳が平均、それから千年たちますと、平均率が九十歳になる。それから、もう千年たちますと、八十歳になる。もう千年たちますと七十歳になる。今は、釈迦滅後約三千年ですから七十歳が仏法上の平均率になる。七十歳まで生きないと損することになる。七十歳を越したら、もうよいと思わなければならない。それが、だんだんと少なくなってきて今から六千年もたちますと、十歳が平均年令になる。
「おじいちゃん、いくつになった」「十三だよ」「お前も、もう、四つになったから、嫁をとったらどうだい」ということになるわけです。次に、そこから今度は逆に、千年に十歳づつふえてくるのです。そうして人間の年が八万歳が平均率になったときまでを一劫というのです。八万歳というときに生まれてきたら得です。「お前ずいぶん若いじゃないか、いくつだ」「一万五千歳だ」というわけです。そういう時代があると、インドの釈迦仏法では、いっているのです。
また、こういうこともいわれております。大きな須弥山という山、日本の富士山よりまだ大きいヒマラヤのような山です。そのくらい大きな岩山がある。それを年に一回、鶴が飛んできて羽でなでるという、いくらか減るでしょう。一年に一回づつきて、いつかは、その山が終いになくなってしまうという、その間を一劫というそうです。
この『我実成仏已来無量無辺百千万億那由佗劫』これが大事なところです。仏法上、これは体内・体外という言葉を使いまして、いろいろと論ずる場所なのですが、今日本で、学者を相手にして一番困るのは、仏法といいますと、お釈迦様の仏法だけだと思いこんでいることです。これが非常に困るところです。いろいろの仏の教え方の違いによって、仏法は違うのです。
釈迦の仏法と大聖人様の仏法とは、仏が違うのですから、仏法も違うのです。ところが、日本中の人は、日蓮正宗の学問した以外の人でありますと、釈迦しか知らないのです。釈迦の仏法と、大聖人の仏法と、二色あるのだというと驚くのです。
しかし、これがわかりませんと、大聖人様の仏法を広めるわけにはいかないのです。身延あたりは、大聖人様の仏法と、釈迦の仏法をゴッチャにしているから、インドの釈迦だけが仏で、釈迦の広めたものだけが仏法だと信じているのです。ですから功徳も何もありません。
しかし、日蓮正宗におきましては、はっきりしているのです。この次のところで申しますが、仏といいましたら、身延では、この教相の五百塵点劫久遠実成の釈迦如来をもって、仏としている。教相の本尊です。
それで南無妙法蓮華経といっている。それならば、大聖人様が「如来滅後五五百歳に始む観心の本尊抄」とおっしゃった、観心の本尊と、教相の本尊との相違がわからなくなってくる。そこで身延は迷うのです。身延では、教相の本尊、五百塵点劫久遠実成の釈迦如来をば仏の宝にして、大聖人様を僧宝、法の宝は南無妙法蓮華経としている。五百塵点劫のここに現われた釈迦如来は、南無妙法蓮華経を唱えておらない。南無妙法蓮華経を唱えられたお方は、今生において、この人間界において、大聖人様が始めてなのです。
かんたんに考えても南無妙法蓮華経を法の宝にする以上には、大聖人様が仏の宝になければならない。そうなれば、これを弘めた第一回のお弟子さんである御開山日興上人が、僧の宝にならなければならない。ここに同じ南無妙法蓮華経を唱えていても違いがある。
ですから、教相と観心という立て分けをしませんと、末法の仏法はわからないのであります。
われわれも同じことです。われわれの生命というものは、誰がこしらえたものではないのです。お父さんとお母さんとで生命を作ったと思うのは誤りです。
われわれの生命というものは、無量無辺百千万億那由佗劫という、いやそれよりも先からあるものです。
だから、われわれも、どうせ死ぬでしょうが、お気の毒ですが、また生まれてこなければならないのです。
この世の中へ、また生まれてきて、また死ぬ、また生まれてこなければならない。それがために、仏法ということを、ヤカマシクいうのです。いわざるを得ないのです。死んでしまえば、おしまいだというのなら、仏法なんか必要はないのです。
この生命が永遠だと叫ぶ、永遠であるから御本尊をきちんと拝んで、仏の境涯を掴まなければいけないとヤカマシクいうのです。もしも「シチメンドゥくさい何だっていいじゃないか、おれは死んだら、それっきりだ」という人なら、そう貧乏したり苦労して生きている必要はないではないですか。さっさと死んだらいいではないですか。そのかわり、自殺なんかしてごらんなさい、この肉体というものは、法の器と申しまして、仏からの借り物になっているのです。仏の入れ物を勝手にこわすのですから、生生世世に貧乏に不幸に生まれてくる。世の人々は、そんなことはないというかも知れませんが、必ずあるというのです。知らないことは、無いというのではないのです。みんな自分の背中なんか見たことないだろう、見たことがないから無いというわけにはいかないだろう、知らないのと、無いのとは違うのです。われわれも、この次また生まれてこなければならないが、あきあきしたでしょう。四畳半あたりに、家族五人も暮らして、また生まれてきて、それをつづけるつもりだろうか。借金だらけで返せないで、フウフウしている、満足に飯も喰えない、中には、男と生まれて女房に着物の一枚も買ってやれない者がいるのです。
だから信心して、今度生まれてくるときには、この題目の数だけは未来世の時、福運になるのですから、きちんと積んでおいて、今度は、生まれてきたとたんに、自動車の五台も持ってるような福運をもって、生まれてきたい。それがために、信仰するのです。誰の生命も永遠なのです。これが如来の秘密です。われわれが、そう思うと思わないとにかかわらず、そうなのだから、仕方がない。一生懸命に信心して、今度は、大いなる福運を持って生まれてきたいものです。