折伏は最高の供養
信仰のために供養するということは、大切なことであります。
昔、砂のモチを辟支仏に差し上げて、七代のあいだ長者になったと聞いている、ひじょうに貧乏な人が、仏に差し上げるものがないので、砂のモチをつくって供養した。よって、七代のあいだ長者に生まれた。
また、いつも話すことですが、おじいさんとおばあさんが、仏の教えにしたがって、全財産を捨ててしまった。ところが、仏は辟支仏に『あの家に、説法に行ってこい』と言ったので、辟支仏が、おじいさんのところに行ったら、おじいさんは働きに行って留守で、おばあさんだけである。
おばあさんが、なにか御供養をしようとしたが、なにもないので、おじいさんの晩御飯を差し上げた。おじいさんが働きに行って帰ってきたら、おばあさんが喜びに満ちあふれていた。
おばあさんが『きょう、仏さまのお使いで説法にきてくれましたよ』と言ったら、おじいさんは『家は貧乏だから、なにもやれなかっただろう』と言った。そうしたら、おばあさんが『あなたの晩御飯をあげましたよ』と言った。おじいさんは『それはよかったね』と言って喜んだ。
辟支仏が毎日説法に行くと、毎日毎日そのとおり御飯を供養するので、辟支仏は『仏さまは、なんと無慈悲なことをするのか』と思っていた。必ず説法に行けば、おじいさんの晩御飯を出す。そうすれば、もらわずには帰れない。そうかといって、おじいさんのことを思えば、胸が痛くなる。仏さまは無慈悲な人かと思って二十一日間通った。
その三七(掛算)、二十一日の朝、都から木を買いにきた。そこで、おじいさんは『昔は近辺の山々は私の地所であったけれども、今は、皆くれて、なにもない』と言ったら、商人は『なにか、あるでしょう』と言って、庭の枯れた木を見て『庭に枯れた木があるではないか』と言った。おじいさんは『あんな木は、しようがない』と言ったが『そう言うな、まあ、ちょっと見せろ』と言って、その木を見た商人は『これは、たいしたものだ。キャラの香木だ。どうだ、おれの全財産と取り替えっこしよう』と言い、おじいさんは取り替えたので、いちどに大金持ちとなった。
末法今日では、そういう釈迦の布施は行なわない。今、末法においては、法の布施と申して、布施をすれどもすれども、尽きない布施がある。それはすなわち折伏行である。折伏行といって時間の供養である。
ここに一言、言っておかなくてはならないことがある。それは商売を完全に成し遂げて、自分が寝ている時間、休む時間、あるいは歓楽に費やす時間を折伏に使いなさい。
商売の時間をほうって布施をしてはいけない。自分の商売や、なすベきことをしないで、やあ折伏だ、やあ文化活動だなどといって飛び歩く者を、中国人は馬と鹿と書きました。私は日本語を使って、ハに点々を打って、下にカと書く、もし親切な人ならば、その下にヤロウをつける。
広宣流布というのは、みんな人のためにやるのではない。みんなあなた方自身のために広宣流布をやるのです。広宣流布の闘士として、二十余年後の広宣流布ができた時に、なぜ自分はもっと早く生まれなかったのだろう、なぜもう少し早く信心しなかったのだろうと、悩む人を見る時に、きょう、今から、広宣流布に活躍した皆さんの活躍が、仏土に輝くのです。
死んでは生まれ、死んでは生まれてくる生活が、ぜんぶ自分の思うままの生活で、悠々と人生の快楽を味わえられる。自分の商売をがっちりと守って、広宣流布のために使ってほしい。人のためではありません。がっちりと足を地に踏みしめて、絶対に幸福をつかんでほしい。どうです、やってくれますか。
文化活動というものは、広宣流布の大構想からみれば、それは子供のオモチャのようなものである。私が今、試験管の中でやっているようなものです。それが広宣流布のための本格的な闘争であると思ったら大間違いです。そう思われたら困る。
ほんとうの広宣流布の時は、国会議員にも、地方議会議員にも、仏法を信ずる学会員がたくさん出るのです。
ただし、政治のための政治ではなくして、広宣流布のために、私はそういうことがあるということを確信している。
政治のみでなくして、あるいは教育界に、あるいは小説、雑誌、新聞、音楽にも、また生け花、茶道にも通ずることであります。
最近、学会にこういうことを言ってくる者がいる。『創価学会として応援してくれるだろうか』と。
私は断じてしない。政治のための政治ではない。
だから自由党で立ちたかったら自由党、社会党ならば社会党、共産党で立ちたかったら共産党で立てばいい。
その人の主義、政党には、私は干渉しない。胸の奥底に広宣流布をしまっておけば、何党でもさしつかえない。もし私が政治のための政治をやるならば、私は自分で立ちます。政治には各政党がある。みんな民衆に幸福を与えるために政党がある。
私は、どこまでも、一創価学会の会長としてやっていくだけである。
(私見:池田大作(先生)、秋谷栄之助さん、原田稔会長、戸田城聖先生の想い分かりますよね。)
昭和30年4月6日
指尊会
大田区民会館