最高の福運

 

 日本の国大惨敗の、この時に生まれ合わせたのは、いかなる身の不幸でありましょうか。さりながら、仏勅によって与えられた、広宣流布のこの日にめぐりあっているわれらの喜び、誇りは、これ以上のものはないのであります。

 

 私は、わが身に、三度のしあわせを感じております。私は昔、物理、化学、数学というようなものの研究に没頭しておった時代、初代の会長とともに、こういう体験をもっております。

それは原子爆弾をつくられた世界的大物理学者、アインシュタイン先生が、いまこそ、世界の大学者であることは、だれびとも認めるところでありますが、今から三十有余年前、慶応大学で講演せられた時に、その講演に連なった人は、わずか二、三百人に過ぎません。その時に連なって、初代の会長とともに、相対性原理の教えを受けた覚えがあります。身にとって、一生のしあわせと感じております。数学や物理に精進する身として、アインシュタイン先生の教えを親しく受けたということをもって、誇りとするものであります。

 

 次に、初代の会長牧口常三郎先生に、年二十一の時から指導を受け、四十四歳にして牢獄にはいったその日まで、そば近く仕えて、あの一世の哲学者から教えを受けたことをもって、私の誇りとしているものであります。

 

 いまひとつは、今度の大戦争に『神さまを拝んでも勝つわけがない。日蓮正宗の精神として、神ダナは、はずすべきものである』と主張したがために、共産党の一味のごとく思われ、不敬罪に問われて二年間、牢獄の中に暮らしてまいりました。これをもって私は、身の名誉とするものであります。

 

『しからば、おまえが、二年間の牢獄生活にて、得たるものは、なにものぞや』、六百万円以上あった財産は、帰ってきました時には、二百数十万円の借金が残っておりました。

 毎日たずねてくるものは借金取りだけであります。その時に私は申しました。『私は洋行して帰ったのでもなければ、山掘りに行って帰ったのでもない。牢の中から帰ったものが、金を持ってくるわけがないではないか。考え違いをしてはいけない。待っておれ』と言った。

 

 その時の同志、幹部十九名、ことごとく退転して、退転しなかったのは、この私ひとりであります。そのうちのふたりはさておき、あとの十六名は、今は、見るかげもない生活です。次の日の生活にすら困り、借金は山とできて、じつに、私の前へは、ひとりとして出てくる勇気もないのであります。

 

 しかるに、かくいう私は、さきほど申し上げましたように、二百何十万の借金の残ったなかに、会社は焼けてしまい、使っていた者は、ぜんぶチリジリバラバラになり、わずかに、はせ集まったもの二、三人を相手にしてわずか四坪ほどの土間を借り受けて、そこを再出発点の根城として立ち上がりました。金はなし、応援者はなし、どうして立つかわかりません。

 

 皆さんは『それだけ御法に尽くしたならば、なにかのしあわせがあるであろうか』と思うでありましょう。ありました。

 

 どうすることもできません。昭和十八年の七月六日にはいって、昭和二十年の七月三日に出てまいりました。

ちょうど、四十九日目、仏法においては四十九日という日は良い日にあたっております。『きょうは、なにかあるぞ』と、ひそかに心に期したとおり、その時に、ある仕事の啓示を受けたのです。

 

 私は、ものの十分も待っていませんでした。ただちに着手しました。その次の日から、千円、二千円、三千円と現金がはいってくるのです。しまいには、四千円となり、五千円となり、六千円となってきた。それが毎日です。

 昭和二十年の時の現金です。それで、ある友人が、私のところに手伝いにきていた。この人は、じつに実直な人でありまして、私の、ひじょうな後援者なのです。私を好きなのです。帰ってきた時に『君が帰らないのと、B29にだけは疲れはててしまった』と、こう言った男です。この人が、はいってくる金を計算してくれるのです。

 計算してくれて、私の財産がふえていくのを喜んでくれたのです。それで『まあ一万円はいったら、肉でも買って、みんな仲間で食おうよ』と、

 それがまたたくまに、一万円の時がきました。ついで、一月目には、そのころは振替貯金というものが、今のように迅速にくるものではないのですから一月遅れてきた。それは計算にはいらなかった。それから毎日、二万円以上の現金がはいってくるようになった。

 

 その年のうちに、再起の事業の根幹ができ上がった。その後にひとつの勝敗はありましたけれども、今日の経済の大盤石の基礎は、その時にできたのであります。これ功徳でなくて、なんといたしましょう。

 

 その時に、その人が言いました。『これは、どうもおかしい。どうして、こうなってくるのだろう』と。その時に、私は『二年間、御法のために(牢獄に?法難に際会する機会にめぐりあう)はいってこい。こういうふうになるのだから』と言ったのです。

 

 いかに、あなた方にしあわせを願うても、この法難に際会する機会にめぐりあえないあなた方を、私はふびんに思う。そして、今日の皆さまからいえば、何十万倍の功徳を受けている私は、いかなるしあわせ者でありましょうか。

 

 さて、今ここに、広宣流布という大業に、われわれは、ぶつかったのであります。今、この広宣流布の大行進に脱落するならば、私とともに時を得て、同じく法難を受けながら、その時に生きることができなかった過去の同志と同じ皆さまには、生涯の幸福というものをみることができないでありましょう。

 

 もしも、この広宣流布の大行進に、志を同じうして立つならば、幸福をつかみうること、火を見るよりも明らかであります。もし、広宣流布の大願成就の暁に、その大行進に連なりえなかった後の信者は、どれほど、わが身の不幸を嘆くでありましょうか。断じて、断じて、広宣流布の大行進には、遅れてはなりません。

 

 今ここに、広宣流布のごく初歩の仕事として、学会は文化活動をおこしている。諸君の真心をもって戦われんことを、深く切望してやまないものであります。

 

昭和30年4月11日

堺支部幹部会

タ陽ケ丘会館