広布の大道を歩まん

 

 時にめぐりあい、その時に生きるということは、人生の重大な問題である。日蓮大聖人様御在世の時に生まれることもできず、また、中興の祖、日寛上人様おでましの時にもお供できなかったことは、まことに運勢のない者と一応は悲しく思います。

 

 しかし、またふりかえってみますれば、七百年以前の大聖人様の御命令が未来において広宣流布せよとある。

御開山日興上人様も『未来において広宣流布せよ』とある。その広宣流布の時に生まれあわせた身のしあわせは、まことにありがたいものと私は思っております。

 

 初代の会長は、じつにりっぱな方でありまして、われわれがその下について指導を受けました。創価学会の会員として、初代の会長にめぐりあわなかった人は、どれほど情けなさを感ずるかわからないと思います。

 

 しかし、このたびの広宣流布にめぐりあわせ、そして、われわれの手で広宣流布のできたその暁、また私ども初代と会えなかった人たちを思い、また大聖人様とお会いできなかったことを悲しむと同じような悲しみを、この広宣流布に参加できずに戦わなかった人々が、皆いだくのではないでしょうか。

 

『あれみよ。私のおじいさんは、わが親は、広宣流布のために働いたのだ。二十余年前の闘士として、皆、働いたのだ』という名誉を子に残すことは、まことに、うれしいことではないだろうか。

 

 広宣流布というと、人のためのように聞こえるが、それはことごとく、わが身のためなのです。ふりかえってみますれば、昭和十八年の七月の六日に、私は初代の会長とともに『神札を拝んではあいならん。神さまなんか拝んでも、日本の国は勝てないぞ!』という学会の持論が問題となって、牢へはいりました。

その時、投獄されたのは、幹部一同、幹部のみが十九人、その他を入れて二十数人であります。私はその法難に連座できなかった人は、いかにお気の毒かと思うのであります。

 

 しかるに、その、もっともしあわせであるベき法難に連座しながら、その難を恐れて退転したものは、指を折って数えても、数えきれないほどあるのであります。その難を耐えしのんで出てまいりましたのは、私ひとりでありました。

 

 じつに出てきてみますれば、当時、六百万円からあった財産は、木の葉のごとく散り果てて、残っているのは二百何十万円という借金でありました。それは、人が見ますれば、法難に連座して、なにが戸田にしあわせがあったのだと言うでありましょう。

 

 しかるに、どうでありましょうか。帰ってきて商売はない、資本はなし、昭和二十年の七月三日に二年間、独房におって、帰ってきたのであります。帰ってきた時、独房におりました時に『よーし、今度出たらやってやる!』と、歯がみをして帰ってきたのであります。だが、食わないわけにもいかないし、商売をしないわけにもいかない。きょうは、牢獄から出て四十九日である。四十九日という日にちは、仏法上からみて良い日である。

なにかあるぞ! と。

 

 案にたがわず一つの事業が誕生したのです。ただちに、もうあすをも待たずにかかりました。昭和二十年の暮れであります。毎日毎日、現金が、千円、二千円、三千円とはいってくる。それから、一日に一万円はいってくるようになったら、肉の一貫目も買ってお祝いをしようと。ところが、驚くことなかれ、二日目には、一日に二万円ほどもはいってくる。この時に同じく信仰している同志が毎日、手伝いにくる。なんのためにくるかという

と、金の勘定を手伝いにくる。おもしろくてしようがない。人の金だけれども、計算するのがおもしろい。それで『これは、いったい、どうしたわけだ』その時に私はこう言ってやった。『これは、いくら君がうらやましがってもだめだよ。二年間はいってこなければ、だめなのだよ』と。その時に『そうだろうなあ』と。今日の事業の基礎はその時に定まりました。二年ぐらいはいってきたって、今から考えれば、うんと得してます。

 

 商売のうえで、また仏教上の思索のうえで、御本尊様にたいする信心の強さといい、私が人生のうち、もっとも得したのは、この二年の牢獄の生活であります。

 

 そのころは、爆弾が落ちまして、こういう流言が独房にまで聞こえてくる。アメリカの兵隊が日本の国に上陸すれば、日本の子供は殺し、あるいは、どこかへ移すと、バカみたいな流言でありましたが、この時に、私は妻や子供に、どうしてやることもできない。

 そこで、大御本尊様に御祈念申し上げた。題目を唱えて、断じて家内と子供に言いました。心のなかで叫んだのです。創価学会の理事長戸田城聖の妻であり、子であると言って、大聖人様の御前で、どういう死にかたをしようと、戸田城聖の妻であり、子供であると言うならば、大聖人様は、絶対にお捨てにならんぞ。

 

 その確信によってか、ありがたくも、家内も、子供も、なにも異常はなかった。皆これというのも法難にお供した私の功徳であります。今、広宣流布の大使命に遅れて、なんのしあわせをつかむことができましょうか。

 

 私の法難の時に退転したものは、みんな食えない。やっと生きています。名前をあげて申し上げてみても、いっこうに、さしつかえない。現証歴然です。あなた方が、この信心から退転して、もししあわせが得られるならば、得てごらんなさい。断じて得られない。

 広宣流布の大道へ手をつないで挺身したものは、五年、十年とおやりなさい。必ず幸福な生活がつかめますから。本日の私のことばを忘れることなく、日々の信心をつとめられんことをお願いして、私の講演とします。

 

昭和30年4月10日

向島支部第二回総会

中央大学講堂