戸田城聖先生の巻頭言集 57 国士なき日本の現状を憂う―これ亡国の兆か―

 

 国士とは、いかなる位置におっても、国家の前途を憂え、民衆の苦悩を、わが苦悩とするものである。一身一家のことのみを考うる徒輩を、国士とはいわないのである。

 広く政界を見るのに、この人こそ国士なりと信じ得る者、幾人おるであろうか。この政界に国士なきゆえんのものは、在野にその人なきがゆえである。もし、評論家に、また雑誌記者に、また新聞記者に、また一般の指導階級に、国士をもって任ずる、高潔の士があるならば、一国の政治を任されている政治家にも、高見(こうけん)卓越(たくえつ)の政治家が選ばれるはずである。しかるに、経済界の指導者に、一国、民衆を憂える人が、何人、いるであろうか。わが業界のため、わが会社のためのみを図って、国家を考えぬ人のみ、と言うてよいではないか。世に、学者といわれる人々の、おのれの担任する学問を生かして、一国民衆を救わんと念願するもの、また幾人あるであろうか。

 新聞記者・雑誌記者に至っては、とくに、天下の木鐸(ぼくたく)をもって任ずるものである。高潔にして具眼(ぐがん)の士がなければならぬ。一流新聞、一流雑誌記者のなかには、その人ありとは思われるが、二、三流以下になっては、まったく町の無頼漢(ぶらいかん)である。ことに三流新聞、三流雑誌に至っては、とうとき国財たる紙を使いながら、虚偽と無定見と、人気とで紙面をうずめつくしている。かかる雑誌、新聞の、存在を許している日本民衆は、民衆自体の無定見を暴露しているものである。これは、民衆を指導する国士のないゆえんではないか。

 むしろ、娯楽雑誌ならば、娯楽たる美の価値を、民衆に提供しているから、その発行は許されるとしても、左翼的、右翼的の雑誌に至っては、互いに暴露記事と称して、邪悪なる言語によって、虚偽と推測の報道をする。しかも、それはその雑誌を売らんがためである。また、その記事によって、金をもうけんとするもののようである。これらの雑誌記者は、毒虫のごとく、毛虫のごときものである。よろしく民衆は、一日も早く目ざめて、これらの毒虫、毛虫を駆除(くじょ)しなければならぬ。それに対しても、一人も多く、国士をもって任ずる青年が出でて、民衆の啓蒙(けいもう)に当たるべきだと、信ずるものである。

 国士だに多く在野にあらば、政界も、経済界も、文化活動の方面も、正しき方向に導かれていくであろう。たとえ、国士たる人の立場が、いかようの位置にあろうとも、国の前途を憂え、民衆の苦をわが苦となす心地においては同一であるから、相反目することはないのが、当然である。ゆえに、国法においては、()は是と判じ、()は非として、論ずることになり、明るい民主政治が打ち立てられる。政党政派の争いなく、また政治上の買収とか、官吏の汚職とかがなくなり、選挙においても、公明選挙が当然としておこなわれるであろう。

 この点について、わが創価学会のなかより、公明選挙をもって立つ同志がいる。まことにその人々は、国士をもって任ずるがゆえに、また選挙運動に対して啓蒙をなし、公明選挙を推進するがゆえに、世の喜びとするところである。

 また、このことは、宗教界においても同様である。現代の宗教活動するものにおいては、国家を憂え、民衆を救わんとする者のごときは、ただの一人もおらない。国士としての情熱のごときは、あわつぶほども認めるわけにはいかない。かれらは、単なる宗教(しゅうきょう)企業家(きぎょうか)である。羊頭(ようとう)をかかげて()(にく)を売る徒輩よりもまだ悪い。吾人をもって言わしむれば、羊頭をかかげて腐肉(ふにく)を売るやからである。このたびの、立正交成会が読売新聞にせめられての、あの狼狽ぶり、あれで宗教を論ずる資格ありとするか。腰抜けの女、子どもよりも、なお哀れな姿というべきである。もしかれらに、国士の魂あらば、なぜ、堂々と戦わないのであるか。

                            (昭和三十一年六月一日)