僕は、
「子どもがゲームしたいなら、好きなだけしたらいいやん」
って思っています。
それは、
「子どもを自由にさせている親の方が良い」
という意味でなくて、良い悪いではなく、
「どうして、親は『私は、子どものやることを制限したり、禁止する権限を持っている』と思っているんだろう?」
っていう素朴な疑問から来ています。
たぶん、それって、
「私が、子どもを育ててる」
もっと言うなら、
「私が、子どもを育ててやってる」
っていう傲慢さみたいなものを持っているから、それが、
『私は、子どものやることを制限したり、禁止する権限を持っている』
っていう考えに繋がっているんじゃないのかなぁ、って思うのね。
「私が、子どもを育てている」
って思っている場合、それは同時に、
「子どもは、親に育てられなければ生きていけない」
っていう考えも持っているはずなのね。
つまり、親が、
「子どもには、考える力が無い」
「子どもには、生きていく力が無い」
「子どもには、社会で上手く生きていけない」
みたいな考えを持っていて、だから、
「わ た し が、何とかしてあげなければいけない」
っていうのに繋がる。
逆に、
「子どもには、考える力がある」
「子どもには、生きていく力がある」
「子どもには、社会で何とかしていく力もある」
みたいに思っていたら、子どもが困難にぶち当たっても、時間がかかっても、自分で何とかしていけると思っているんだから、
「わ た し が、何とかしてあげなければいけない」
は出てこないよね。
自分で何とかできるんだから、自分で何とかしたらいいやん、ってなるでしょ。
親が育てるとか、何とかしてあげるとか、そういうのは、
「子どもは自分で何とかできない」
と思っているから、代わりにやってあげよう、っていう精神よね。
つまり、
「子どもは弱い」
「子どもはできない」
って根底で思っているからこそ、出てくるはずの発想なのね。
自分がどっちの前提を持っているのかは、子どもが何かに取り組み始めた時に、ザワザワするかどうか、手助けしてあげたくなるのかで測ることはできる。
子どもが自分で始めたことは、ほっといたらいいねん。
できるから。
ほっといたらいいんですけど、
「子どもはできない(私の力無しでは)」
って思っていたら、子どもが何か取り組み始めたら、ずっと見ちゃう。
そして、
「助けがきたら、いつでもヘルプに入れるようにスタンバイしとく!」
って何か気合い入った感じになるのね。
子どものことをほっといているつもりで、でも、頭の中は、子どものことでいっぱいで。
子どもに手出し口出ししないとしても、親の中に、
「私は、子どもを自由にさせてあげてる」
っていう意識があったりして。
その意識があるから、子どものことがめっちゃ気になる。
子ども目線で言えば、親がめちゃくちゃ気にして、意識して見ているんだから、あんまり自由にさせてもらっている感が無かったりしてね。
自由って、させるとか、させないとかって話ではないはずやんか。
させてるのに、自由って、おかしいやろ??
「させる」は使役なのに、それが「自由」っていうのは矛盾してる。
だから、
「子どもが自由である」
っていうことは
「親が、子どものやることなすことをほっといていること」
とは違うんです。
関心を持っちゃいけない、っていう話じゃないよ。
何とか助けてあげたい、何か心配、何か不安、でも、堪える!っていうのじゃないよ、って話ね。
さしずめ、子どもがYoutuberで、親が視聴者で、
「次は、どんなおもろいことを始めるんやろ!?」
ってワクワクしながら見ている感じ。
関心はそりゃあると思う。
同じ関心を持っているのでも、
「自由にさせてる」(=ほっといてる)
っていう意識と、
「おもしろがって見てる」
っていう意識では、親の気持ちも、子どもへ無意識に送っているメッセージも全然違う。
その2つの意識の決定的な違いは、
「自己責任」
だと思う。
「自由にさせてる」
って、親がやらせていることなんだから、なんかまずいことが起こった時、なんか困ったことが起こった時に、すぐに親が助けに入れる。
親が何とかする。
っていうか、我慢しきれずにしちゃうことも多々あると思う。
アドバイスしたりとかね。
親が、子どもを自由にさせてるんだから、子どもの行動の責任は親にあるはず。
だから、行動の開始は子どもの意志で始めるんだけど、その責任の所在は親にある。
そして、このことを
『自由』
とは言わない。
自由と責任はセットであるはずなのね。
自由があるなら、そこに責任が生じる。
責任があるから、その範囲で自由にできる。
責任っていうのは、その結果を自分でちゃんと引き受けられるよ、っていうこと。
嬉しいことも、悲しいことも、辛いことも、しんどいことも、自分が引き起こしたこととして、自分の心で引き受ける。
そして、自分で考えて、自分で行動を選択する。
これは、
「責任が取れないことは、子どもにやらせてはいけない」
っていう意味よりも、
「子どもが自分で考えてやった以上は、その結果がいかなるものであれ、子どもが引き受けなければいけない」
っていうことなんだと思う。
「親が、子どもを自由にさせてる」
は自由じゃないんだから、
「子どもが自由にした結果を親が責める」
っていう変な話になります。
子どもが自由なら、子どもが自由にした結果を親が責めるのはおかしい。
子どもが自由にした結果は、子どもが自分で引き受けるもの。
これは僕が「子どもが自分で責任を取る」って言ってるものです。
子どものやったことで、子どもに苦言を呈したり、怒ったり、イライラが湧いてきているなら、それは最初から自由じゃなかった、っていうこと。
子どもがやったことは、子どもが何とかする。
できなかったら、親に助けを求めてくるだろうから、その時点で、助けてあげる。
これはイケるな、と思ったら助けずに見守ってたらいいし、これはアカンな、と思ったらすぐに助けてあげたらいい。
「子どもが自分で考えてやった以上は、その結果がいかなるものであれ、子どもが引き受けなければいけない」
なんだけど、誰でも失敗や、結末の予測を間違えることがあるし、それを責めるなら、最初から自由じゃなかった、っていうことなので、ここでは責めない。
責める気持ちが出てきたら、自問だね。
「どうして、怒りが湧いてくるんだろう?」
「どうして、責めたくなったんだろう?」
って。
「子どもが自由である」
っていうことは、
「親が、子どもを自由にさせてる」
っていうのとは決定的に違う。
その違いは、責任の所在がどこにあるのかの違い。
すなわち、結果を引き受ける人が子どもなのか、親なのかの違い。
さらに言えば、その結果で感情的になるのが、子どもなのか、親なのかの違い。
つまり、その体験が子どものものなのか、親のものなのかの違い。
親は、子どもを助けてあげたらいいんだけど、それは子どもが助けを求めてからでも遅くはない。
それまでは、子どものやることなすことをYoutubeでも見ているかのように、おもしろがって見てたらいいんじゃないかな、って思います。
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