「子どもを自由にさせてる」は、自由じゃない件 | 家庭を子どものBASEに 佐伯和也公式ブログ

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子どもが思う存分遊ぶ(ゲーム含む)ことで、知的好奇心が育ち、それが勉強にも繋がっていく

僕は、

 

「子どもがゲームしたいなら、好きなだけしたらいいやん」

 

って思っています。

 

 

 

それは、

 

「子どもを自由にさせている親の方が良い」

 

という意味でなくて、良い悪いではなく、

 

「どうして、親は『私は、子どものやることを制限したり、禁止する権限を持っている』と思っているんだろう?」

 

っていう素朴な疑問から来ています。

 

 

 

たぶん、それって、

 

「私が、子どもを育ててる」

 

もっと言うなら、

 

「私が、子どもを育ててやってる」

 

っていう傲慢さみたいなものを持っているから、それが、

 

『私は、子どものやることを制限したり、禁止する権限を持っている』

 

っていう考えに繋がっているんじゃないのかなぁ、って思うのね。

 

 

 

「私が、子どもを育てている」

 

って思っている場合、それは同時に、

 

「子どもは、親に育てられなければ生きていけない」

 

っていう考えも持っているはずなのね。

 

 

 

つまり、親が、

 

「子どもには、考える力が無い」

 

「子どもには、生きていく力が無い」

 

「子どもには、社会で上手く生きていけない」

 

みたいな考えを持っていて、だから、

 

「わ た し が、何とかしてあげなければいけない」

 

っていうのに繋がる。

 

 

 

逆に、

 

「子どもには、考える力がある」

 

「子どもには、生きていく力がある」

 

「子どもには、社会で何とかしていく力もある」

 

みたいに思っていたら、子どもが困難にぶち当たっても、時間がかかっても、自分で何とかしていけると思っているんだから、

 

「わ た し が、何とかしてあげなければいけない」

 

は出てこないよね。

 

 

 

自分で何とかできるんだから、自分で何とかしたらいいやん、ってなるでしょ。

 

親が育てるとか、何とかしてあげるとか、そういうのは、

 

「子どもは自分で何とかできない」

 

と思っているから、代わりにやってあげよう、っていう精神よね。

 

 

 

つまり、

 

「子どもは弱い」

 

「子どもはできない」

 

って根底で思っているからこそ、出てくるはずの発想なのね。

 

 

 

自分がどっちの前提を持っているのかは、子どもが何かに取り組み始めた時に、ザワザワするかどうか、手助けしてあげたくなるのかで測ることはできる。

 

子どもが自分で始めたことは、ほっといたらいいねん。

 

できるから。

 

 

 

ほっといたらいいんですけど、

 

「子どもはできない(私の力無しでは)」

 

って思っていたら、子どもが何か取り組み始めたら、ずっと見ちゃう。

 

 

 

そして、

 

「助けがきたら、いつでもヘルプに入れるようにスタンバイしとく!」

 

って何か気合い入った感じになるのね。

 

 

 

子どものことをほっといているつもりで、でも、頭の中は、子どものことでいっぱいで。

 

子どもに手出し口出ししないとしても、親の中に、

 

「私は、子どもを自由にさせてあげてる」

 

っていう意識があったりして。

 

 

 

その意識があるから、子どものことがめっちゃ気になる。

 

子ども目線で言えば、親がめちゃくちゃ気にして、意識して見ているんだから、あんまり自由にさせてもらっている感が無かったりしてね。

 

 

 

自由って、させるとか、させないとかって話ではないはずやんか。

 

させてるのに、自由って、おかしいやろ??

 

「させる」は使役なのに、それが「自由」っていうのは矛盾してる。

 

 

 

だから、

 

「子どもが自由である」

 

っていうことは

 

「親が、子どものやることなすことをほっといていること」

 

とは違うんです。

 

 

 

関心を持っちゃいけない、っていう話じゃないよ。

 

何とか助けてあげたい、何か心配、何か不安、でも、堪える!っていうのじゃないよ、って話ね。

 

 

 

さしずめ、子どもがYoutuberで、親が視聴者で、

 

「次は、どんなおもろいことを始めるんやろ!?」

 

ってワクワクしながら見ている感じ。

 

 

 

関心はそりゃあると思う。

 

同じ関心を持っているのでも、

 

「自由にさせてる」(=ほっといてる)

 

っていう意識と、

 

「おもしろがって見てる」

 

っていう意識では、親の気持ちも、子どもへ無意識に送っているメッセージも全然違う。

 

 

 

その2つの意識の決定的な違いは、

 

「自己責任」

 

だと思う。

 

 

 

「自由にさせてる」

 

って、親がやらせていることなんだから、なんかまずいことが起こった時、なんか困ったことが起こった時に、すぐに親が助けに入れる。

 

親が何とかする。

 

っていうか、我慢しきれずにしちゃうことも多々あると思う。

 

アドバイスしたりとかね。

 

 

 

親が、子どもを自由にさせてるんだから、子どもの行動の責任は親にあるはず。

 

だから、行動の開始は子どもの意志で始めるんだけど、その責任の所在は親にある。

 

 

 

そして、このことを

 

『自由』

 

とは言わない。

 

 

 

自由と責任はセットであるはずなのね。

 

 

 

自由があるなら、そこに責任が生じる。

 

責任があるから、その範囲で自由にできる。

 

 

 

責任っていうのは、その結果を自分でちゃんと引き受けられるよ、っていうこと。

 

嬉しいことも、悲しいことも、辛いことも、しんどいことも、自分が引き起こしたこととして、自分の心で引き受ける。

 

そして、自分で考えて、自分で行動を選択する。

 

 

 

これは、

 

「責任が取れないことは、子どもにやらせてはいけない」

 

っていう意味よりも、

 

「子どもが自分で考えてやった以上は、その結果がいかなるものであれ、子どもが引き受けなければいけない」

 

っていうことなんだと思う。

 

 

 

「親が、子どもを自由にさせてる」

 

は自由じゃないんだから、

 

「子どもが自由にした結果を親が責める」

 

っていう変な話になります。

 

 

 

子どもが自由なら、子どもが自由にした結果を親が責めるのはおかしい。

 

子どもが自由にした結果は、子どもが自分で引き受けるもの。

 

これは僕が「子どもが自分で責任を取る」って言ってるものです。

 

 

 

子どものやったことで、子どもに苦言を呈したり、怒ったり、イライラが湧いてきているなら、それは最初から自由じゃなかった、っていうこと。

 

子どもがやったことは、子どもが何とかする。

 

できなかったら、親に助けを求めてくるだろうから、その時点で、助けてあげる。

 

これはイケるな、と思ったら助けずに見守ってたらいいし、これはアカンな、と思ったらすぐに助けてあげたらいい。

 

 

 

「子どもが自分で考えてやった以上は、その結果がいかなるものであれ、子どもが引き受けなければいけない」

 

なんだけど、誰でも失敗や、結末の予測を間違えることがあるし、それを責めるなら、最初から自由じゃなかった、っていうことなので、ここでは責めない。

 

 

 

責める気持ちが出てきたら、自問だね。

 

「どうして、怒りが湧いてくるんだろう?」

 

「どうして、責めたくなったんだろう?」

 

って。

 

 

 

 

 

 

 

「子どもが自由である」

 

っていうことは、

 

「親が、子どもを自由にさせてる」

 

っていうのとは決定的に違う。

 

 

 

その違いは、責任の所在がどこにあるのかの違い。

 

すなわち、結果を引き受ける人が子どもなのか、親なのかの違い。

 

さらに言えば、その結果で感情的になるのが、子どもなのか、親なのかの違い。

 

つまり、その体験が子どものものなのか、親のものなのかの違い。

 

 

 

親は、子どもを助けてあげたらいいんだけど、それは子どもが助けを求めてからでも遅くはない。

 

それまでは、子どものやることなすことをYoutubeでも見ているかのように、おもしろがって見てたらいいんじゃないかな、って思います。

 

 

 

 

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