『遊びの解放』で誤解しやすいところ。
「子どもにYoutubeを"見せる"」
わけじゃないです。
「(親が)子どもに、Youtubeを、"見せる"」
「親が、・・・見せる」
っていうのじゃないです。
『遊びの解放』
っていうのは、子どもの遊びに関して無法地帯にして、子どもの遊びたいように遊ばせる、ってわけじゃないよ。
『解放』
だから。
何から解放するのか?
「親の束縛」
から、子どもを解放するんですよ。
「子どもを自由に遊ばせる」
っていうのが『遊びの解放』じゃないです。
「親の束縛」
から子どもを解放するのが『遊びの解放』です。
だから、何か具体的な行為のことを言っているわけじゃない。
「子どもにYoutubeを見せてもいいのかしら・・・」
って心配している間は、『遊びの解放』じゃないのね。
まだ、子どもを束縛しようとしている。
言い換えれば、まだ、
「子どもを親の自由にしてもいい」
「子どもは親が何とかできる」
って思ってる。
だから、親の中ではまだ、『遊びの解放』はしていないんですね。
まだ『遊びの制限』な状態なんです。
この時、子どもが自由に遊んでいるように見えて、親の『遊びの制限』っていう姿勢を感じ取って、様子を伺いながら遊んでいたりします。
『遊びの解放』って、
「子どもを自由にさせる」
のではなくて、
「子どもを解放する」
んです。
「子どもを自由にさせる」
っていうのは、親が子どもの自由を制限するのか、自由を認めるのかを親がコントロールしてますよね。
だから、子どもを自由に"させている"っていう時点で、まだ子どもの遊びに制限をかけていて、「遊びの解放」にはなっていません。
「子どもを解放する」
っていうのは、親が子どもを自由にするのかどうかという裁量権も含めて、子どもに返還することを言います。
子どものことは子どもに任せるんです。
これが「遊びの解放」です。
「何が違うの?」
って思うかもしれません。
例えば、こんなことを想像してみてください。
今まで、子どもがYoutubeは1時間だと制限されてきました、と。
それで、その親が僕のメルマガを読んで、Youtubeの視聴を解放します。
でも、子どもは、今までYoutubeを制限されてきたから、解放されてもいきなりは自由に視聴しなかったりします。
「やっぱり怒られるんじゃないか」
「怒らないから言ってみなさい、って言って怒られるパターンじゃないか」
とか、色々考えたりする子がいます。
これ、
親 ⇒ 解放してる
子ども ⇒ 解放されていない
ですよね。
ここで、親が、
「『遊びの解放』とは、子どもを解放することだ!」
って強く思うと、子どもが解放されていないことを気にし始めます。
「うちの子、自由に遊ばないんですけど・・・」
みたいな心配をし始めます。
でも、子どもが自由に遊ばないのも、今まで制限してきたから、そりゃそうだよね、って話です(笑)
その制限してきた気質が親の方からもすぐに抜けるのか、っていうと、そうでもありません。
親が「遊びの解放」をしたのなら、子どもが遊ぼうが、親を気にして遊ばない選択をしようが、
「子どもが決めること」
なんだよね。
気にする気持ちは分かるけど、「遊びの解放」をしたなら、あとはもう子どもに任せるしかありません。
でも、それが気になるのは、まだ、
「親が、子どもをコントロールできる」
って考えているんです。
だから、
「『遊びの解放』をしたのに、子どもが思ったように遊ばない」
というのは、まだ子どもを想ったようにコントロールしたい気持ちがある、ってことです。
文法で言えば、『使役』の発想をしているんです。
使役って、「~させる」っていうやつね。
『遊びの解放』の定義で言えば、子どもを遊ばせることは、『遊びの解放』ではないんです。
「子どもを解放する」
っていうのができていれば、そこから先は、子どもが自分で制限をかけていても、それはそれで『遊びの解放』はOKなんです。
あとは、普段通りにコミュニケーションを取っていればいい。
「じゃあ、子どもが自分でかけてる制限はどうすんの?」
って思うじゃないですか。
これは、
「子どもが"自分の感覚で"不自由を感じて、訴えてきたら、協力する」
です。
BASEのスタンスは、
「子どもが何か助けを求めてきたら、要望を聞いて助ける」
っていうものです。
子どもがヘルプを出してくるまで、親の自己判断だけで子どもを助けようとはしません。
だから、子どもが解放されていなくても、「不自由さを何とかしたい!手伝って!」って子どもが訴えてくるまでは、何も手伝いません。
親は、解放して終わりです。
それ以上は、いつも通りのコミュニケーションです。
「子どもには、積極的に関わらなければいけないんじゃないだろうか」
「子どもに関与しなかったら、ネグレクトって思われるんじゃないだろうか」
って思うかもしれないけれど、大事なことは、
「親が、やりたいその関わり、子どもは求めているの??」
ってことです。
ここもめちゃくちゃ大事なところです。
テストに出ます。
大問3くらいで出します。
配点は25点くらい。
(何のテストに出るねん)
「親がしてあげてる」(上から目線)
「親がさせてる」(使役)
「親がしなきゃって思ってる」(義務)
みたいなことを考えているうちは、これは『遊びの解放』ではないんですね。
『遊びの解放』は、具体的な行為のことを指すんじゃなくて、親の子どもに対する姿勢のことを言っています。
『遊びの解放』の定義は、
「親がかけている子どもの遊びに対する制限の一切を取り払う」
です。
「遊びの解放」は、
「新たに何か特別な行動を追加すること」
ではなく、
「今までやっていた上から目線や、使役、義務、強制をやめよう」
っていうものです。
つまり、一般的に子育てで言われている関わりの多くは、
「やりすぎ」
なんです。
そんなに親ががんばらなくても、子どもはちゃんと育っていく。
むしろ、親ががんばればがんばるほど、子どもはできなくなっていく。
『遊びの制限』をやめた後に、何かを新たに始めるわけじゃないんです。
あくまでも、親の子どもに対する態度というか、姿勢に言及しているのが『遊びの解放』なんです。
だから、親が、
「何か子どもにしてあげたいな」
って思ったら、やる前に、ぜひ、子どもに確認してみてください。
「こういうのをしてあげたいと思うんだけど、あなたは、それをされると嬉しい??」
ってな感じで。
それで、嬉しいんだったらやればいいし、嬉しくないんだったらやらない方がいい。
子どもが「もっと自由になりたい。どうすればいい?」って助けを求めてきてから、助ける。
もっと丁寧にコミュニケーションを取るなら、
「おっけー、いいよ」
「それで、何をしてほしいの?」
「それで、何を協力すればいいの?」
って子どもに聴いてみて、できそうな協力ならする。
こうやって、子どもの考えていること、感じていることを細かく確認していってから、子どもが喜びそうなことをしてあげるんです。
そしたら、
親 ⇒ 子どもを喜ばせられた
子ども ⇒ 親が話を聴いてくれた、親が嬉しいことしてくれた
っていうコミュニケーションが成立します。
だから、親が『遊びの解放』をしても、子どもが何だか不自由を感じている場合。
その不自由さは、今まで親が縛ってきたから身に付いたものではあるんですけど、『遊びの解放』をした以上、親ができることはここまで。
ここからは『子どもの課題』です。
子どもの感じている不自由さを、親が取り除こうとしちゃうと、それはまた『遊びの制限』と同じ発想に逆戻りします。
親からの制限を取っ払うと、子どもは何を考えて、どう動くのか。
そこをじっくりと観察してたい。
子どもの自然状態(束縛されていない状態)では、子どもは何を考えて、何を始めるのか。
そのことに関心を持ちたい。
子どもを束縛する、ってことは、その心理的背景には、
「私は、子どもを自由に操作できる」
「私は、子どものことなら何でも知っている」
っていう考えがあります。
子どもを解放する、ってことは、その心理的背景には、
「私は、子どもを尊重している」
「私は、子どものことを信頼している」
っていう考えがあります。
分からないから、教えてほしいんです。
子どもが今、何を考えているのか。
子どもが今、どんな気持ちなのか。
「子どものことは何でも知ってて、自由に操作できる」
「子どものことを何とかするのが親の責任」
みたいな『遊びの制限』の発想から、
「子どものことは、子ども自身が一番よく知っている」
「子どものことは、子ども自身が何とかする」
「親は、あくまで子どもの人生の補助要員」
みたいな発想に移りたい。
これが『遊びの解放』の基本的な思想です。
だから、Youtubeを見るのかどうか、ゲームをするのかどうか、勉強をするのかどうか、っていうのも全て
『子ども自身が決める』
っていう状態においておきたい。
この時、『遊びの解放』によって、子どもの『主体性』が返還され始めるんです。
子どもの権利を親が掌握していたところから、子どもに返還する。
これが『遊びの解放』ね。
ちなみに、子どもの年齢は一切関係ありません。
コミュニケーションの取り方が変わるだけで、『遊びの解放』の考え方自体は、基本的には、生まれたばかりの頃から、大人になるまで同じです。