昨日の昼からの続きです
(令和2年10月17日のことです)

月輪陵墓監区事務所から泉涌寺の参道へ戻ると、あの辺りへ行かれた人なら必ず見られたことがある天皇陵への入り口があります
僕も前に何度も通りましたが、今回初めて行ってみましたニヤリ

入り口には孝明天皇陵、英照皇太后陵、四條天皇陵などと書かれています

拜跪聖陵(はいきせいりょう)
その昔は泉涌寺は拝観謝絶だったということですびっくり
そしてこちらも立ち入ることが出来なかったため、この場所で跪(ひざまず)き拝まれていたということだったそうです
文字を調べていたら、ネットでそんな風に書いてあるのを見つけました

淑子内親王 山階宮賀陽宮 久邇宮梨本宮 御墓その後の文字は参道かと

この様な木々に囲まれた広い参道を歩いていきます

(令和2年11月1日撮影追加)
すると、泉涌寺の仏殿などの横に出ます
泉涌寺なら大門から入山(拝観)料がいりますが、こちらはそういうのはありません
ただここから泉涌寺へも入れますが、受付があるので拝観料を払うことになるのは同じです
道が二手に分かれ、左側は天皇陵へと続きます

参道

そこから泉涌寺がチラ見え(笑)


すると左手に後堀河天皇 観音寺陵の看板があります

左側に階段があるので上がって行くと

ちょっと雰囲気が違う階段に

後堀河天皇観音寺陵
住所・京都市東山区今熊野泉山町 泉涌寺内
後堀河天皇
第86代天皇
生没年 1212~1234年
在位年 1221~1232年
享年23歳
承久の乱で3上皇(後鳥羽・土御門・順徳)が一度に配流
そのため、後鳥羽上皇の兄の守貞(もりさだ)親王の子が天皇へ即位することに
後堀河天皇が10歳だったため、守貞親王が後高倉院として院政を行うことになります
皇位の経験がなく、出家していた親王(平家に養育されていたため)が治天の君になるのは異例な事態だったということです
(天皇125代の歴史参照)
泉涌寺に最初に葬られたのが、後堀河天皇だったそうです
生前には祈願所としていたからだけでなく、鎌倉幕府に反発する京都・奈良の有力寺院が葬儀を拒否し、泉涌寺だけが受け入れたとも云われているそうですびっくり
以後、泉涌寺は皇室全体を供養する寺となっていったということです
泉涌寺が御寺と呼ばれる契機となった天皇とも言えますね照れ

月輪陵墓監区事務所で頂いた御陵印です

引き続き天皇陵へ赴きます
朝は今朝の散策の続きで、明日の昼に続きとなります
では、またぁ〜(* ̄∇ ̄)ノ