日本書紀はネーティブの日本語を喋る人々が書いた! | 日本の歴史と日本人のルーツ

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京都産業大学名誉教授森博達先生によると、日本書紀の著者が少なくとも四人と全体の加筆者が一人いるそうだ。

唐代の中国大陸出身で漢音の正格漢文を扱える中国人が二人、和音(呉音)で和習(日本的癖や誤用)がある変格漢文を書く朝鮮半島からの移民が一人、そして和習の少ないまあまあの漢文を扱う一人と加筆に和習をもった一人が地元の日本人であるらしい。

実は、皆んな日本語を読み書き話すという意味でのネーティブの日本人であり、現在の漢民族や朝鮮民族の祖先では無かった。

ここで言う中国人とは唐の支配者層の鮮卑族で、漢字と漢文を発明した殷人の末裔であり、正格漢文の達人であるが、日本人と同族で日本語を喋っていたのであった。唐の長安での漢字の音読みは呉音を採用していたが、しかし、支配下の漢民族の増大で漢音を採用することになった。

朝鮮半島経由の移民の日本人とは扶余・高句麗・百済の系統の日本語を喋る人で、新羅の言葉にも精通した人ではあるが、現代朝鮮人の先祖では断じて無い(参考)。変格漢文とは日本語語順の漢字文のことである。

最後の日本人二人は縄文系・渡来系かは分からないが、前者はほぼ最新の正格な漢文を読み書きが出来たが、後者は和習が多くあったようだ。

日本書紀(wikiより)


注意1

漢字・漢文は元々、真名・真名文と呼ばれており、鎌倉時代から漢字・漢文と呼ばれるようになった。漢が付くから漢民族の中国人由来と誤解したのであった。

また、訓読みに対し、音読みの呉音は元々、和音(やまとこえ)とも呼ばれており、音読みは中国人の発音とは言い切れない。古代日本人は訓読みと呉音の音読みを平気で使いこなしていたのである。

漢文は古代中国人達の為の人工言語ではあるが、漢民族が作った訳ではない。殷人が呉人との会話の為に発明したもので、殷人が漢文訓読法で作文すると、呉人が呉音で読めたのであった。すなわち、エスペラント語と同じ役割があった。そして、漢民族が増えてくると、漢字の音読みに漢音を割り当てることで、漢民族でも読めるようになったのであった。


注意2

変格漢文は古代から現在まで存在し、法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘や上野三碑の一つの山上碑が有名である。


注意3

漢民族が日本に全然来なかったとは言えないが、大和民族と共同して日本書紀を書けるとは思えない。ただし、渡来人の漢氏(あやうじ)は漢民族かも知れない。


注意4

広い中国大陸の諸民族を区別することなく一括して中国人と言ってしまうことの危険性を知るべきである。時代によって民族の興亡や移動があったこと肝に命ずるべきである。

例えば隋・唐の皇帝は遊牧民の鮮卑族であったが、縄文人と同族の殷人の末裔であり、日本語を喋った。

これは朝鮮半島についても同様で、一律に朝鮮人と呼ぶべきでは無い。現在の韓国・朝鮮人の先祖は古代には沿海州あたりにいた。

つい最近まで満州や朝鮮半島には日本人が居たが敗戦で引き揚げてしまって跡形も無い。だからと言って、大陸には一切の日本人は居なかったとは言えない。


注意5

古事記は口述筆記したとされ、日本書紀は今は無い古文書を参考にしたとされている。

この古い文書は何語・何字で書かれていたのであろうか?これらを中国人(朝鮮人)が中国語(朝鮮語)で解読して書き直したのであろうか?

神代文字または仮名文字、漢字などで書かれた日本語文書を解読する能力を最小限持つべきで、例え中国大陸や朝鮮半島の出身でも、これらの文字で書かれた日本語を解読出来る能力は必須と考えられる。


参考


① 研究の面白さってなんですか? 『日本書紀』研究に革新的な進展をもたらした博士に聞いてみた

マイナビ学生の窓口より(参考)

前半省略

~森先生の研究についてもっと知りたい方へ~

【コラム(1)『日本書紀』とは】

『日本書紀』は、30巻に歴代天皇の系図1巻が付き、全部で31巻あったはずなのですが、系図の巻は失われており、全30巻の内容だけが現在に伝わっています。

また全文が漢文で書かれ、128首が掲載された歌謡などは、万葉仮名(音訳漢字)で表記されています。日本書紀は、8世紀以前の日本社会を知るための卓絶した資料であるのみならず、古代の表記や音韻を知るための宝庫でもあります。

京都産業大学 森博達名誉教授は、中国語の音韻論を応用して、その万葉仮名を研究し、さらに文章も検討して「書紀区分論」を確立しました。

【コラム(2)『日本書紀』を書いたのは誰か?】

森先生の研究によれば、述作者(実際に書いた人)と書かれた時期によって日本書紀30巻は3つに分けられます。

・α群:巻14-21、巻24-27

持統天皇の時代に、来日した中国人によって書かれたもので、その根拠は倭音(日本独自の漢字音)、倭習(日本語の発想による漢語・漢文の誤用や奇用)が見られないこと、正格漢文(正しい語彙、文法による漢文)で書かれている点です。森先生は、述作者を続守言(巻14からを担当)、薩弘恪(巻24からを担当)と比定していらっしゃいます。

・β群:巻1-13、巻22-23、巻28-29

文武天皇の時代に、当時の朝鮮半島の語文に精通した日本人によって書かれたもので、その根拠は倭音、倭習が見られ、変格漢文で書かれている点です。また朝鮮の変格漢文が見られるのも重要なポイント。森先生は、述作者を山田史御方(朝鮮半島からの移民の子孫で新羅への留学経験あり/後に還俗)と比定していらっしゃいます。

・巻30

元明天皇の時代に書かれたもので、倭習は少ないがα群ほど上手な漢文ではないという特徴があります。森先生は述作者を紀朝臣清人と比定していらっしゃいます。

また、森先生はα・β両群において、三宅臣藤麻呂が漢籍などを参考に潤色し、記事の加筆を行ったことも指摘しています。この藤麻呂の潤色、加筆には倭習が多く見られ、そのため漢字漢文の誤用(また奇用)が表れているとのことです。

【コラム(3)森先生の研究】

森先生の研究は、『日本書紀』の記述において倭音や倭習の偏在があり、それはなぜなのかを追究した成果といえます。α群の歌謡などに用いられた万葉仮名は、ネイティブの中国人が「音の少ない日本語を音の多い中国語によって写し取ろう」としたがために、当時の日本語の精確な発音やアクセントまで明らかになりました。また倭習の分布から各巻の成立の過程や記事の虚実まで窺(うかが)えるようになったのです。

【森博達先生 プロフィール】
1949年、兵庫県に生まれる。大阪外国語大学外国語学部中国語学科卒業。名古屋大学大学院博士課程(中国文学専攻)中退。愛知大学専任講師、同志社大学助教授、大阪外国語大学助教授を経て、京都産業大学教授。2019年に退任、現在は同大学名誉教授。

著書に『古代の音韻と日本書紀の成立』(大修館書店・「第20回金田一京助博士記念賞」受賞)、『日本書紀の謎を解く――述作者は誰か』(中央公論新社・「第54回毎日出版文化賞」受賞)、『日本書紀 成立の真実――書き換えの主導者は誰か』(中央公論新社)などがある。



② 変格漢文について(参考)、、、日本語語順で、送り仮名や助詞などを削除した漢字文



③『古事記』は古典中国語を基本に日本独特の表記を交えた、いわゆる「変体漢文」であり、『日本書紀』は純然たる古典中国語の文体で書かれている(参考)


④ 宮下文書の支那震旦国皇代暦記(参考)も和風漢文で、送り仮名を漢字で書いている。


⑤ 漢字、漢文は元々、それぞれ真名、真名文と呼ばれていた(参考)


⑥-1 漢字の起源(参考)、、、殷人が甲骨文字を作った。


⑥-2 彼ら殷人は縄文人と同族であり(参考)、日本語を喋っていた。


⑥-3 『甲骨文合集』8884では、甲骨文字の文章は左が書き出しで、日本語と語順が異なる部分はないので上から順に読んでいけばよい(参考)。


⑦ 日本語の起源(参考)、、、殷人の末裔の秦や斉など、東アジアで広く喋られていた。


⑧ 漢字のルーツの甲骨文字を発明した殷人がやはり漢文訓読法を作った(参考)


⑨ 殷王朝の甲骨文字に音読みと訓読みがあった(参考)


10 日本や朝鮮半島を含めた東夷諸国では日本語が喋られていた(参考)


11 韓国・朝鮮人のルーツ(参考)、、、朝鮮半島より北の沿海州あたりにかつてあった挹婁とか靺鞨と呼ばれた国が朝鮮語を喋る人々のルーツであった。


12 唐の長安では中古日本語が喋られていた(参考)


13 変体漢文(変格漢文、コトバンクより)

正格の漢文(純漢文)に対する概念。和化漢文ともいう。

とくに平安時代以降、公家(くげ)日記など、記録の作成に採用された文章様式のものを記録体、また東鏡体(あづまかがみたい)と称する。その文章表記には、原則として漢字がもっぱら使用され、漢文様式をもつ文章でありながら、表記、語彙(ごい)、構文のうえで、漢籍、漢訳仏典など、中国古典の文章にはみいだしがたい要素を含むものをいう。

たとえば、(1)原則として漢字専用表記であるが、ときに万葉仮名、片仮名、平仮名を混用することがある。(2)漢字の用字法が比較的単純であり、また「候」「条」字など、中国古典の文章における本来の用法から逸脱したものがある。(3)「然間(しかるあいだ)」「物騒」など、その語彙のなかに、和語をはじめ、日本で造語された漢語(和製漢語)など、純漢文では用いない用語がある。(4)「逐電(ちくてん)」など、中国古典の文章における本来の用法から派生した語義、用法のものがある、などである。

『古事記』の文章などもこの文体のものであるが、平安時代に入り、『小右記(しょうゆうき)』『御堂(みどう)関白記』などの古記録、『明衡(めいごう)往来』などの書状文範集や古文書、『江談抄(ごうだんしょう)』などの故実説話集、その他この文体で記された文献は多い。

鎌倉時代以降、『吾妻鏡(あづまかがみ)』などにみるように、これが公的な文体として採用され、江戸時代末まで公文書の文章様式として広く行われた。書簡文体としての「候文」もその一体である。[峰岸 明]