韓国・朝鮮人のルーツ | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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悪魔の門はロシアウラジオストクの上方にあるアムール川流域の沿海地方で確認されている洞窟である。この洞窟は新石器時代の遺跡であり、7体の人骨が洞窟の中で発見され、その内の2体が紀元前5726年-紀元前5622年という結果が得られた。

1体の成人男性のY染色体ハプログループについては、北東アジアが起源と思われるハプログループC2-M217に属し、更に、現在のカザフ、モンゴル、シベリア先住民、北アメリカ先住民に多いC2b-F6273/Y6704/Y6708という一派に属しているという結果が得られた。すなわち、Y染色体ハプログループC2系統で見ると、悪魔の門の発見された約7000年前の人骨のDNAは、周辺の北部アジア及びシベリア地域の住民に多く見られ、現代の少数民族であるオロチョン、エヴェンキ、ブリヤート諸族で80%以上を占め、モンゴルや満州地域では30-50%の割合を占める。アイヌでは13%、朝鮮半島には10%程度検出されることになる。

また、核DNAの解析を行ったところ、2体の人骨はアムール川下流域に居住するツングース系民族のウリチのDNAに最も似ていた。同じくツングース系民族でアムール川中流域に居住するナナイ、アムール川上流域に居住するオロチェンとも似ているが、遠く離れたタイミル半島のガナサン人、朝鮮半島の朝鮮・韓国人、そして日本列島の日本人とも同程度遺伝的近似性が見られた。

また、ミトコンドリアDNAの種類が同じであるということは母系が同じであり、悪魔の洞窟人は韓国・朝鮮人の祖先だと言える。

ところで、高句麗や扶余が存在した時期を含め、悪魔の門の周辺は粛慎・挹婁・勿吉・靺鞨・女真と呼ばれた民族が生活しており、約7000年前から現在まで同地域に生活したY染色体ハプログループC2系統と同一民族であろう。

よって、現在、韓国人科学者により、この悪魔の門で出土した7体の人骨は韓国・朝鮮人のルーツと考えられ、またエベンキ族とも同祖であった。例えば、内臓肉食文化はエベンキ族と共通である。

さらに、日韓併合前夜に朝鮮半島を視察した当時の衆議院議員荒川五郎の著書「最近朝鮮事情」によると、古代の挹婁と同じ習俗が報告されている。


注意

ここでのY染色体ハプログループC2は旧表記ではC3であった。最近、ハプログループの表記が頻繁に変更されているが、ここでは、なるべく旧表記を採用している。しかし、最新論文を引用した場合、新表記をそのまま使用することもあり、旧表記と新表記が混在することもありうる。


疑問

現在の朝鮮半島の韓国・朝鮮人のY染色体ハプログループはO2とO3(これらは旧表記)が多くを占め、漢民族的な言語・文化が主流派となるはずである。

しかしながら、かつての百済と高句麗があった地域に特に見出せるハプログループC2b(旧表記C3)の言語・文化が主流となることへの疑問がある。

これについて母系による言語・文化の伝播が考えられ、朝鮮半島内に存在する民族差別的な差別構造の分析から考察している(参考)。

例えば、韓国・朝鮮で実際にあったことであるが(参考)、支配階級の男が被支配階級の女を強姦するなどをすると、出来た男子は支配階級である父親と同じY染色体ハプログループO3やO2(これらは旧表記)を持つことになるが、母親による養育により被支配階級の言語・文化を受け継ぐことになる。高麗は遼に滅ぼされた渤海の遺民(靺鞨人、C2b、旧表記C3)を受け入れ、国内の復興と発展に努めた(wikiより)が、この渤海の遺民こそ被支配階級の実態であった。

また、高麗時代末期頃から高麗の女性は貢女として元帝国などに送られた為、高麗の支配階級の男性は被支配階級の女性を娶らざるを得ないことは十分に考えられる(参考)。


参考

① 悪魔の門(wikiより)


悪魔の門(
あくまのもん、英: Devil’s Gate Cave、露: Пещера Чертовы Ворота ペシチェラチェルトーヴヴォロータ)は、ロシアウラジオストクの上方にあるアムール川流域の沿海地方(プリモルスキー地方)で確認されている洞窟である[1]。別称、チェルトーヴヴォロータ洞窟(Chertovy Vorota Cave、血まみれの門の洞窟)。チェルトーヴヴォロータはロシアの沿海州ダリネゴルスクから約12キロメートル離れた、シホテアリニ山脈に位置するカルスト地形に出来た洞窟で、ルドナヤ川の支流であるクリヴァヤ川から約35メートル石灰岩の崖を登った辺りにある。この洞窟は新石器時代の遺跡でもあり、織物の存在を証明する考古学的証拠のうち最も古い物の幾つかがここで発見されている。

人骨の発見

7体の人骨が洞窟の中で発見され、その内の2体、DevilsGate1DevilsGate2の頭蓋骨を用いて直接年代測定が行われ、紀元前5726年-紀元前5622年という結果が得られた。

当初、出土人骨の形態学的調査に基づいて、7体のうち3体は成人男性のもの、2体は成人女性のもの、1体は約12歳~13歳の未成年のもの、1体は約6歳~7歳の小児のものと推定された。しかし、未成年のものと推定された人骨以外の6体について、DNAの解析が行われ、形態学的知見により成人男性のものと推定されていた3体の人骨のうち、2体が実は女性のもので、更に、1体の小児も女児だったという事が判明した。即ち今のところ、発見された7体の人骨のうち、5体が女性、1体が男性、1体が未だにDNA解析が行われていないか或いはその結果が発表されていない。

MtDNAハプログループについては、成人男性1体、男性と誤認された成人女性1体、そして元より成人女性と推定されていた成人女性1体がハプログループD4mに属している。ハプログループD4mは現在、樺太(サハリン)島のニヴフで多く見られ、日本、ウリチ、ユカギール、エヴェン、エヴェンキ、ヤクート、ドルガン、モンゴル、ブリヤート、アルタイ、トゥヴァ、ウイグル、キルギスの人でもある程度見られる。残る女児1体、男性と誤認された成人女性1体、そして元より成人女性と推定されていた成人女性1体については、mtDNAハプログループが先述のハプログループD4mも含むハプログループD4まで断定できている。 ハプログループD4は現在、中央アジア、(チベット及び華北を含む)北東アジア、アメリカ州の先住民族に広く見られ、特に日本人(大和民族と琉球民族)に多くて多様性に富んだ古い型である。

1体の成人男性のY染色体ハプログループについては、北東アジアが起源と思われるハプログループC2-M217に属し、更に、現在のカザフ、モンゴル、シベリア先住民、北アメリカ先住民に多いC2b-F6273/Y6704/Y6708という一派に属しているという結果が得られた。

核DNAの解析を行ったところ、チェルトーヴヴォロータ出土の2体の人骨は比較可能なデータのある全てのヒトゲノム(古代人のものも現代人のものも含む)のうち、アムール川下流域に居住するツングース系民族のウリチのDNAに最も似ていた。同じくツングース系民族でアムール川中流域に居住するナナイ、アムール川上流域に居住するオロチェンとも似ているが、遠く離れたタイミル半島のガナサン人、朝鮮半島の朝鮮・韓国人、そして日本列島の日本人とも同程度遺伝的近似性が見られた。

韓国人発祥地

パク・ジョンファ蔚山科学技術院(UNIST)ゲノム研究所長(生命科学部教授)が率いるイギリス・ロシア・ドイツの国際共同研究チームは1日、「中朝国境・豆満江の北にあるロシア・アムール川流域の悪魔の門で発見された7700年前の現代人の祖先とは別のホモサピエンスではないゲノムを解読した」と明らかにした[1]。

2017年2月2日の韓国中央日報によると、蔚山科学技術院(UNIST)ゲノム研究所の国際学術誌「Science Advances」で、韓民族(朝鮮民族)は、3〜4万年前に東南アジアから中国東部の海岸を経て極東地方に流れ込み、「北方人となった南方系の狩猟採集民」と、新石器時代が始まった1万年前に同じ経路で入ってきた「南方系の農耕民族」の血が混ざって形成されたと発表した[1]

今まで人類・考古学界の一部では、民族的な風貌などの共通点から、韓国人はアルタイ山脈に始まり、モンゴルと満州の原野を超えて朝鮮半島に移住した北方民族であると推定されてきたが、現在の進歩した科学界の判断は違っており、2009年、UNISTは国際学術誌「Science」に「朝鮮民族が東南アジアから北東へ移動した南方系の巨大な流れに属している」と発表、今回の発表はこれをさらに具体化したことになる[1]。

悪魔の門の洞窟人

韓国人のルーツといえるDNAが、ロシア・ウラジオストクのアムール川流域にある「悪魔の門の洞窟」で7700年前の20代と40代の女性の頭蓋骨から発見された[2]ここは韓国の歴史上、かつての高句麗・東扶余(ふよ)・沃沮(よくそ)の地と言われている[2]

ゲノム研究所がスーパーコンピュータで、この頭蓋骨の遺伝子を解読・分析したところ、悪魔の門の洞窟人は3〜4万年前に現地に定着した南方系人で、韓国人に特徴な茶色い目とシャベル型切歯(shovel-shaped incisor)の遺伝子を持っていることが証明された[注1][2]悪魔の門の洞窟人(黒い山葡萄原人)は近くに住む、濊(わい)族の末裔と混ざりエベンキ人となる。(北朝鮮では教科書にも掲載)近くの原住民を除く現代人の中では韓国人がこれと近いことが判明した[2]。

UNISTゲノム研究所のパク・ジョンファ所長は「ミトコンドリアDNAの種類が同じであるということは、母系が同じであるということを意味する[2]。長い時間差を考慮しても2つの人類の遺伝子は非常に近く、悪魔の洞窟人(黒い山葡萄原人)は韓国人の祖先だと言える」と話している[2]。

脚注

注釈

1. ^ また彼らは、牛乳を消化できない遺伝変異や、高血圧に弱い遺伝子、体臭が少ない遺伝子、耳たぶの薄い遺伝子など、現代の東アジア人の典型的な遺伝特性も持っていた。

出典

1. 韓国人のルーツは「悪魔の洞窟で暮らした新石器人」、Record China. (2017年2月5日) 2018年5月19日閲覧。

2. 韓国人のルーツは?北方系でない混血南方系、中央日報. (2017年2月2日) 2018年5月19日閲覧。


② 悪魔の門洞窟の場所




③ 粛慎・挹婁・勿吉・靺鞨の場所(wikiより)


粛慎

挹婁

勿吉

靺鞨


④ 挹婁(ゆうろう、wikiより)

後漢から五胡十六国時代(1世紀から4世紀)にかけて、外満州付近に存在したとされる民族。古の粛慎(しゅくしん)の末裔。勿吉・靺鞨・女真(満州族)と同系の民族と考えられている。

生活スタイル

挹婁の生活スタイルは、その東夷諸国のなかでは極めて特異である。まず、挹婁人は地上に家を建てず、地下に縦穴(竪穴)を掘り生活する。竪穴は深く(梯子の段数が多く)かつ大きいほど尊ばれたという。住居を地中に構えたのは、防寒の為と考えられている。さらに、部屋の中央に置いた尿を溜めた容器を囲んで暮らし、その人尿で手や顔を洗ったという。尿に含まれるアンモニアは弱アルカリ性のために皮脂汚れを落とす効果があり、古代ローマでは回収した尿で洗濯する業者がいたことが現代では知られているが、当時の中国大陸ではそのような習俗はなく、『三国志』や『後漢書』では「その人々不潔」、「その人々臭穢不潔」とあらわしている。

また、挹婁人は養豚が盛んで、豚を主食とし、豚の皮を着物にした。夏にはほぼ全裸でわずかな布だけで前後を隠したが、冬には豚の膏(あぶら)を身体に数センチもの厚さに塗って風や寒さを防いだという。食事をするときに、他の東夷諸国では俎豆と呼ばれる食器(高杯形土器)を常用していたのに対し、挹婁人は俎豆を使う習慣が無く、鼎や瓶や平皿を用いて炊事や食事をしていた。『後漢書』『三国志』では「東夷のなかで習俗が最も無規律な者たち」と記している。

人が少なく、険しい山に住み、衆は規律に服さず、操船が巧みでしばしば近隣諸国を寇掠したとも記されている。また、邑落の大人を一つの血族が継承する習俗があり、これは、近隣の扶余や沃沮が合議による選挙で大人を選んだのとは対照的である。

言語

挹婁の言語について、中国の史書は「言語は独異」と記しており、当時の東北アジアの中でも独特の言語を使用していたことがわかる。


⑤ Y染色体ハプログループC2b(新表記)系統(参考)

C2系統は、北部アジア及びシベリア地域の住民に多く見られる。現代の少数民族であるオロチョン、エヴェンキ、ブリヤート諸族で80%以上を占め、モンゴルや満州地域では30-50%の割合を占める。アイヌでは13%、朝鮮半島には10%程度検出される。北海道へのC2系統の流入は、アイヌ文化の始まる前の段階である平安後期の擦文文化の時代で、同時期に北海道の北及び東北部にはギリヤーク人のオホーツク文化圏があった。彼らは沿海州アムール河から樺太にかけて居住していた漁労民である。C2が流入してアイヌ文化が成立する原因となったのは彼らとの交流交易や戦いを原因とする混血によるものと推定されている。


⑥ 朝鮮半島のかつての百済、高句麗の跡地にY染色体ハプログループC3(旧表記)(現表記ではC2b)が分布している(参考)

百済や高句麗の民は日本に逃れ、空白となった跡地にC2bの民が入れ替わりに入って来た。


-1 最近朝鮮事情(wikiより)

日韓併合前夜に朝鮮半島を視察した当時の衆議院議員荒川五郎によって書かれたルポルタージュである。1906年(明治39年)に清水書店から刊行された。20世紀初頭の朝鮮半島の人々の様子や文化が忌憚ない筆致で描かれており、当時を伝える貴重な資料となっている。

詳細は省略 ---  挹婁の生活スタイル・習俗とよく似ている。


⑦-2 イザベラ・バードの朝鮮紀行(wikiより)

詳細は省略 ---  町の不潔さを記述している。


⑧ 日本語と朝鮮語は全く関係無い(参考)

白村江の戦いの敗戦以降、滅亡した百済や高句麗から逃れた人々と入れ替わって侵入してきた人々の言葉が現代の韓国・朝鮮語の起源である!


⑨ 日本語の起源(参考)

日本語を喋る人々は東アジアに広がっていた。


10 百済人、高句麗人、扶余人をはじめ東夷諸国は原日本語を喋っていた(参考)。

これに対し、現在のロシア沿海州にかつていた粛慎・挹婁・勿吉・靺鞨と呼ばれた民族は独特な言葉を喋っていた。