日本語の仮名抜きの漢字文を偽中国語と言う中国人は痴がましい! | 日本の歴史と日本人のルーツ

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送り仮名や助詞の仮名文字を除いた漢字だけの日本語文が中国人に「偽中国語」として注目されている。確かに仮名文字が無くても十分に理解できる。

実は、奈良県斑鳩町の法隆寺金堂に安置される釈迦三尊像の光背裏面に刻された銘文は、7世紀頃のもので文体は漢文調ではあるが、和風を交えたものになっている。また、群馬県の上野三碑の内の山上碑も7世紀末のもので、日本語文の語順の漢字列となっている。8世紀初頭の古事記も変体漢文となっている。また、徐福が書いた宮下文書の支那震旦皇代暦記も和風漢文であり、偽書扱いされている。

すなわち、現代の偽中国語は既に7世紀の日本には存在したことになる。さらに、徐福の文書が偽書で無いなら紀元前3世紀以前となる。

漢字の起源とされる甲骨文字を発明した3600年前の殷人は実は縄文人と同族で原日本語を喋っていた。彼らが、漢民族などの異民族と文通する為に表意文字の漢字(当時は真名)を発明したのであった。この漢字に、殷人が理解する訓読みと、異民族(当時は呉人、後に漢人)の理解する音読み(当時は呉音、後に漢音)が同時に付属した。そして、漢文訓読法と言う文法で漢文(当時は真名文)を記述したのであった。

しかし、実際に出土する甲骨や木簡の漢文にはSVOだけでは無く日本語と同じSOVの形式も見受けられるし、意味のないリズムをとる為とされる助字なんかは日本語の助詞であった。だから、中国風漢文と和風漢文は漢字が作られた最初期の殷王朝の時から存在し、相手に応じて書き分けられたと考えられる。亀卜に書かれた甲骨文字の占い結果の文にも日本語的な文が見られる。

現代中国人が偽中国語と言う漢字だけの日本語文は、偽中国語と言うより、殷人の文として3600年前の超古代から存在したと考えて可笑しく無い。現代の標準中国語とされる北京語は北方民族の影響を受けて、短文ならSVOの形式であるが、長文になると日本語と同じSOVの形式になるなど変化しており(参考)、漢字だけの日本語文を偽中国語と言うのは痴がましい。


雑談

お経が漢文的なのは、元となったサンスクリッド語がインドヨーロッパ語族でSVOの形式であった為である。


参考

① 漢字だけの日本語「偽中国語」がweiboでなぜかブレイク中。きっかけはLINEスタンプ

INTERNET WATCH(参考)

tks24(2019年6月28日 06:00)

SNSなどで一部のユーザーが使用する中国語風の文章「偽中国語」を用いたLINEスタンプが、中国のSNS「weibo(微博)」で紹介され、多数ダウンロードされるなど、現地でちょっとしたブームとなっている。 

「偽中国語」とは、日本語の文章から平仮名を抜いて漢字だけをつなぎ合わせた、一見すると中国語のように見える文章のこと。本来の中国語とは文法も異なる上、使われている漢字も異なるのだが、日本人から見るとそれっぽく見えること、また、SNS上では短い文字数でニュアンスを伝えられることから、数年前から一部のユーザーが好んで使用している。過去には日本のテレビ番組で取り上げられて局地的に話題になったことはあったが、今回この「偽中国語」のLINEスタンプ「Fake Chinese Sticker」がweiboで紹介されたことで、中国はもちろん香港、台湾からダウンロードが相次ぐという、予期せぬブームを巻き起こしているようだ。文法上は日本語なのだが中国語圏の人から見てもある程度ニュアンスが通じる面白さが受けた格好で、weiboの投稿のコメント欄ではさっそく「君中国语本当上手」「顔面良好女子急募」など、投稿者の国籍すらもはや不明な謎の会話が繰り広げられている。 

・中国で日本語による“偽中国語”が流行中!? 日本人の作った「偽中国語スタンプ」も中国ネット界で人気に(Togetter)
・該当の投稿(weibo)
・weiboにおける「伪中国语(偽中国語)」の検索結果(微博搜索)


② オタク特有のふざけ方をしたLINEをしてたら、同僚にチラッと見られて「もしかして中国語できるんですか!?!」と言われて咄嗟に「えッ、いや、その、すっごい簡単なやつなら…」と言ってしまい後悔がすごい pic.twitter.com/SSChOgV3g6



③ 法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘(ほうりゅうじ こんどう しゃかさんぞんぞう こうはいめい、wikiより)

奈良県斑鳩町の法隆寺金堂に安置される釈迦三尊像の光背裏面に刻された銘文である。

題号の「釈迦三尊像」を釈迦三尊・釈迦如来釈迦仏釈迦像・釈迦などとも称し、銘文の内容が造像の由来であることから「光背銘」を造像銘造像記とも称す。ゆえに法隆寺金堂釈迦造像銘などと称す文献も少なくない。

概要

法隆寺金堂本尊釈迦三尊像の舟形光背の裏面中央に刻された196文字の銘文である。銘文には造像の年紀(623年)や聖徳太子の没年月日などが見え、法隆寺や太子に関する研究の基礎資料となり、法隆寺金堂薬師如来像光背銘とともに日本の金石文の白眉と言われる。また、造像の施主・動機・祈願・仏師のすべてを記しており、このような銘文を有する仏像としては日本最古で、史料の限られた日本の古代美術史において貴重な文字史料となっている。


文体和風を交えながらも漢文に近く、文中に四六駢儷文を交えて文章を荘重なものとし、構成も洗練されている。ただし、本銘文の真偽についてはさまざまに議論されており、現在でもこの銘文を後世の追刻とする見方もある。なお、その議論の対象は銘文のみで、仏像そのものの成立時期ではない。仏像の成立時期について市大樹は、「仏像の様式や技法などの点からも、623年頃に完成されたとみてよい。」と述べている。

釈文

法興元丗一年歳次辛巳十二月、鬼前太后崩。明年正月廿二日、上宮法皇枕病弗悆。
干食王后仍以労疾、並著於床。
時王后王子等、及與諸臣、深懐愁毒、共相發願。
仰依三寳、當造釋像、尺寸王身。
蒙此願力、轉病延壽、安住世間。
若是定業、以背世者、往登浄土、早昇妙果。
二月廿一日癸酉、王后即世。
翌日法皇登遐。癸未年三月中、如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘嚴具竟。
乗斯微福、信道知識、現在安隠、出生入死、随奉三主、紹隆三寳、遂共彼岸、普遍六道、法界含識、得脱苦縁、同趣菩提。使司馬鞍首止利佛師造。

— 『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』

大意

文面は、「推古天皇29年(621年)12月、聖徳太子の生母・穴穂部間人皇女が亡くなった。翌年正月、太子と太子の妃・膳部菩岐々美郎女(膳夫人)がともに病気になったため、膳夫人・王子・諸臣は、太子等身の釈迦像の造像を発願し、病気平癒を願った。しかし、同年2月21日に膳夫人が、翌22日には太子が亡くなり、推古天皇31年(623年)に釈迦三尊像を仏師の鞍作止利に造らせた。」という趣旨の内容である。

造像の施主たちは、銘文の前半では釈迦像の造像を発願しており、後半はその誓願どおりに造り終えたと記している。聖徳太子のために仏像を造ることが誓願であり、それは太子の生前に発せられた。その動機は太子の母の死と、太子と太子の妃が病に伏したことによる。まずは、この誓願の力によって、病気平癒を祈り、もし死に至ったときには浄土・悟りに至ることを祈念している。実際の造像は太子と太子の妃の死に際してであり、仏像を造り終えることで誓願が成就するとされている。と同時に造像の施主たちはその造像の利益によって、自分たちも現世での安穏と、死後には亡くなった3人(三主)に従って仏教に帰依し、ともに浄土・悟りに至ることを祈念している。そして末尾に造像の仏師を鞍作止利と記しているが、この時代の銘文に仏師の名前が記される例はほとんどない。施主たちが仏師の名をわざわざ記した理由は、鞍作止利が知恵者であるとともに、正しい行ないをなす者とされているがゆえに、施主の祈願に応じた仏像を造る者として、記名に値する存在であったと考えられる。


④ 上野三碑の中の山上碑(参考)

日本列島東部の古代上野国[こうずけのくに](現在の群馬県[ぐんまけん])に存在する三つの石碑「上野三碑[こうずけさんぴ]」は、日本に18例しか現存しない古代(7~11世紀)の石碑のなかで最古の石碑群であり、大切に守られてきました。

それらは、山上碑[やまのうえひ](681年)、多胡碑[たごひ](711年頃)、金井沢碑[かないざわひ](726年)と呼ばれています。三碑の記録形態は、上野国に住み着いた朝鮮半島からの渡来人がもたらしたもので、かれらとの密接な交流の中で、当時の都(飛鳥、奈良)から遠く離れた地元の人々によって文字で刻まれたものです。山上碑は日本語の語順で漢字を並べた最古級の歴史資料です。

多胡碑は、18世紀以来、中国の「書」の手本となってきました。金井沢碑は、この地での仏教の広がりを刻んでいます。これらの三碑は、東アジアにおける文化交流の実像を示す極めて重要な歴史資料です。

三碑に刻まれた内容は、中国を起源とする政治制度、漢字文化、インドを起源とする仏教が、ユーラシア東端の地である日本に到達しただけでなく、さらに遠く離れた東部の上野国に多数の渡来人の移動とともに伝来し、地元の人々に受容され、広まっていったことを証明しています。

このように三碑は、歴史的、文化的、社会的、政治的に、「世界の記憶」にふさわしい希有な価値を有するものです。

山上碑

山上碑の碑文はすべて漢字で書かれているが、日本語の語順であり、送り仮名を追加すれば読むことができる。


④ 『古事記』は古典中国語を基本に日本独特の表記を交えた、いわゆる「変体漢文」であり、『日本書紀』は純然たる古典中国語の文体で書かれている(参考)。


⑤ 宮下文書の支那震旦皇代暦記(参考)も和風漢文で、送り仮名を漢字で書いている。


⑥ 漢字、漢文は元々、それぞれ真名、真名文と呼ばれていた(参考)


⑦-1 漢字の起源(参考)、、、殷人が甲骨文字を作った。


⑦-2 彼ら殷人は縄文人と同族であり(参考)、日本語を喋っていた。


⑦-3 『甲骨文合集』8884では、甲骨文字の文章は左が書き出しで、日本語と語順が異なる部分はないので上から順に読んでいけばよい(参考)。


⑧ 日本語の起源(参考)、、、殷人の末裔の秦や斉など、東アジアで広く喋られていた。


⑨ 漢字のルーツの甲骨文字を発明した殷人がやはり漢文訓読法を作った(参考)


10 殷王朝の甲骨文字に音読みと訓読みがあった(参考)


11 漢文は秦の始皇帝の先祖の殷人が作った東アジアのエスペラント語であった