山親父の日記 -566ページ目

タックルマン

タックルマン石塚さんが亡くなりました、ニュースを聞いてびっくりしました。


昨年12月の武蔵野グラウンドでのタグラグビー教室でお見掛けしたのが最後かな


高校時代憧れの選手でした


一年生の時、菅平の宿舎がリコーと何日かかぶっていて、身近で見る有名選手だったので感動しました。


全体練習が終わった後、1人黙々とあの重い木製のスクラムマシンのパッドを外し、全速力で何度も突っ込む練習をされていました。


固い木の部分に生身でぶち当たっていくんです。
バキーンバキーンと凄い音してましたよ。

こっちは本格的にラグビーを始めたばかりで、そんな練習見せられた日にゃビビりましたよ。こんな人にタックルされたくないって真剣に思いました。



下駄箱の石塚さんのスパイク。ブルーソールのハイカットでくるぶしの両側と後ろに靴紐を通すループがあって、足首を締める仕様でした。



私はローカットだったんですが、次のスパイクは石塚さん仕様に特注しました。

又花園でのジャパンの試合観戦後、出待ちをして一緒に写真を撮って貰いました。気さくに肩を組んでくださり、試合の後だからか、レセプションのアルコールでか真っ赤な顔をされてました。でも大きな勝負をやりおえた満足感漂う良い表情をされていて、カッコいいなぁと思いました。



最近も年に2 3度お見掛けし、石塚さんにも「コイツどこかのOBだなよく見掛ける顔だ」程度認識頂き。会釈を交わしておりましたが。



私が見た菅平の光景やあのときスパイク手に取った、ラグビーオタク少年をカミングアウトしておけば良かったですね。


心よりご冥福をお祈りいたします。

合掌

うちの親父2

とにかくいろんな所に連れていってくれて、いろんな事を体験させてくれました。


小学一年生の秋、学校から帰ると、「スケートいくぞ」スケート場にいくと私だけスケート靴を履かせて自分はベンチに座ってます。私は当然どうやればいいのか解りません。
親父はやらないのかと聞くと、「俺は冬はラグビーばっかりやっていたから、冬にやる他のスポーツは駄目だ」との事


スイスイ滑っているお兄さんに手招きし、相手の都合お構い無しに、「コイツに教えてくれ。」となかば強制的にコーチを依頼します。私も素直にお兄さんに初歩からレッスンを受けます。


しばらくしてそのお兄さんも友達と遊びたくなり、親父に私を返しにいくと、お礼を言い。又別のうまそうなお兄さんに手招きです。

その日三人の臨時コーチに指導頂き、一度も転ばずに周回できるようになりました。

その年の冬、今度はスキーです。比叡山スキー場に向かうケーブルカーの中で早くもお兄さんに話を付けて自分はロッジでビールを飲んでます。


一度も転ばずに上から滑り降りたら100円くれると言うので、実際その日のうちに直滑降で降り、小遣いを貰いました。私の運動神経もすごいけど。


その他、小学生の間に
乗馬。
アーチェリー。
これは少し凝って各1年位

ボーリング。これも凄いブームでした。私にマイボールマイシューズをもたせました。親父は180~200位、私はベスト160程でした。

ボーリングの待ち時間にビリヤード。これもみっちり仕込まれました。親父の腕前も凄く、アンちゃんに賭けを挑まれ。お互い五千円札をテーブルに並べて勝負して親父が鮮やかに勝ったのを覚えてます。


あと、訳が分からないのは、琵琶湖で2人乗りのヨット船、上手に操作して1日走り回ったり。
大きなモーターボート?船外機のじゃなく、ちゃんと前の方でハンドル握るやつ。
沖に出て安全を確認すると私に自由に操縦させてくれました。


時代がもう少し後ならパラグライダーやスカイダイビングとかやらされていたかも知れませんね。


山登りや釣り、飯ごう炊飯。旅行にもふたりでいきました、着替えを私のリュックに入れ京都駅に行き、入場券で改札を通り。その時発車するどこ行きかもわからない特急に飛び乗るミステリーツアーです。



降りるときの改札は二手に別れて私は「後ろでおじさんがまとめて渡します」なんてか細い声で言います、自動改札じゃなくて駅員さんが回収している時代です。もじもじしていたら、改札詰まるんで、子供1人ぐらい通してくれました。
無賃乗車ですね。ドキドキしました。


そんな事して、奈良の飛鳥や天橋立に行きました。


木屋町や祇園の高そうな寿司屋や料理屋で腹一杯食わしてくれましたが、いくらぐらいとられてたのか?想像するのも恐ろしい。


飯の後は綺麗なお姉さんのいるクラブや上七軒の怪しい店まで、まるで自分の息子を接待してました。



今思うと、親父は自分が子供の時、叶わなかった親子で過ごす時間を、私と2人で反対側から取り戻していたんではないかなと思います。


濃密な付き合いを続けていたんですからこのあとの私の反抗期は辛かったろうな。



さて、これで一段落して、メインテーマ
ラグビー人生の話を再開していきます。


よろしくお願いいたします。

うちの親父

ここで一息。この後の私とラグビー人生について話を続けていく上で、欠かせないのが私の親父です。


このテーマも二回に分けて書いてみます。一回目は親父の事を、次回は少年だった私と親父のいい関係だった頃の話です。


親父は昭和6年京都で生まれ、京都御所のすぐそばで、わたしから見て曾祖母、祖母、親父とふたつ違いの弟と暮らしていました。


祖母が煙草と駄菓子の店を商う、母子家庭の長男です。祖父は戦争で亡くなったそうですが、、、ここで改めて気が付きましたが、親父は私に祖父の事をいっさい話したことがありませんね。私が大きくなって、叔父に少し聞いたことはありましたが、親父は一言も話題にした記憶がない。


話を進めます。


小学校は後に私も通ったすぐそばのところに。旧制中学は京都二商に、ここで真剣に甲子園を目指し野球に打ち込んだそうです。後に阪神に行った、牛若丸吉田さんと鉄壁の三遊間を組んでいたと自慢しています。実際親父が40代の頃西京極球場で一中と二商のOB戦があり一緒に三遊間を守ってました。鉄壁じゃあなかったけど。


しかし三年に上がるとき学制改革があり、吉田さんたちチームメイトは山城高校に、親父は学区の関係で朱雀高校と別れてしまいます。そしてその次の年山城高校は甲子園に見事初出場します。

ついて無いですね。


親父はこの頃やさぐれていたみたいです。学ランに凄く長い白いマフラーを巻きしかめ面して校門の横で煙草をくわえる写真があります。


しかしここでラグビーに出会い三年間ひたすら打ち込みました。ポジションはバックロー、この頃のスクラムは変則的で7人で組んでいたし、フロントが2人でも良かったりしたので分かりませんが、今のロックかフランカーでしょう。


親父はデカかった、180センチ70キロ。当時の食料事情を考えたら超大型FWですよ。


花園は出ていませんが、そこそこ強かった様で、その後大学に進み活躍したチームメイトも多かった様です

親父は家庭の事情で進学を諦め就職します。


同期から2人、その後の三年間程毎年1~2人明治大学に進んでいます。


ここで大学ラグビー。特に明治大学にコンプレックスを持った様です。


仕事は呉服屋、22で結婚、24で長女、26で次女、30で待望の絶対ラグビーやらせるぞと、てぐすねを引いていた男児、私が生まれました。


初めに書いたように親父には父親との思い出が無いため、自分自身どういう父親像を描いたのかわかりませんが、私に対してこれでもか!っていう程の思い出を作ろうとするんです。


これもコンプレックスの表れだったのでしょう。


さて、次回その思い出を書いてみます。これがまた沢山有るんです。