山親父の日記 -564ページ目

トレーニング

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今MAX112、5キロです。体重が約80キロなんで、その1、5倍の120キロを挙げられるように頑張っています。


平日の5日間毎晩一時間半ジムに通ってます。
基本的に月曜と木曜をベンチプレスの日としております。


メニューを紹介すると、

アップとして、
60キロを細かく10回
これは胸の筋肉を拡げる感じで。

80キロを上まで3回
上腕を伸ばす感じで。

100キロを1回
重さを体で感じるように。
ここまで2分のインターバルです。

ここでMAXを挙げます。
この時の注意は、その日必ず挙げられるウエイトにする事です。調子が悪いと思ったら、MAXから少し落とします。


なぜならMAXに失敗して潰れてしまったら、その日のMAXを挙げたことにならないからです。


このあと、4分程たっぷりと間隔を開けて、ギリッギリ8回できるウエイトで、(私の場合92、5)3セット行います。

これは、少々ズルしょうが、潰れて補助されようが構いません。

この8回のセットの数値が伸びたときや、近くに若い女の子が居てテンションが上がるときに、MAXのウエイトをあげるとうまく行きます。


以上が同じジムにいてMAX180を挙げる、私の心の師匠に伝授されたセットです。

でも筋トレを始めたおかげで、基礎代謝が2000キロカロリー近くになり、体重を落としたい時など、少し食事を注意するだけですみます。



今トレーニングにはまっていることを、大学時代のチームメイトに話したら、口を揃えて、何故学生時代にやらなかったのかと、言います。


私もそう思います。

ラグビー人生6

私が中学の頃、親父は自身の母校、朱雀高校のラグビー部の後援会長をしていて、よく練習を一緒に見にいってました。


部員かつかつのチームで春の新入生の入部勧誘の公開練習に、部員が少なくってみっともないから手伝ってくれと言われ、中3になったばかりの私が助っ人にいきました。


考えてみたら、私の中学からも進学しているわけで、見学者に顔見知りが何人かいました。
むこうにしてみれば、スクラムやラインアウト、A&Dをやってる上級生に混じって、どう見ても自分の中学の後輩がいるんでビックリしていました。


決して強豪高ではなく、一回戦敗けを繰り返すチームでしたが、こんなラグビーもありだな、と思うようになりました。


あと、当時付き合いはじめた彼女がいて、2人でここに進学してテレビドラマのような青春を謳歌したいと考えてました。


親父も母校に進むと言えば嫌な顔しないと思います。


問題は山口先生は私が伏見に来るもんだと思っている事なんです。

夏には友達、彼女、家族に朱雀にいってラグビーをやる!!と、宣言してました。成績の事はべつにして。



ここで又運命が動きます。

秋になって、西京極に、先輩のサッカーの応援に行ったとき、メインの一番上で見ていたんですが、



偶然


山口先生にバッタリ。


先生はいつものように私の肩をグイグイ揉みながら、「勉強頑張ってるか?伏見は公立だから、いくらラグビーをやるからって、試験の点数が足らなかったら入れないんだよ。」
なんて言ってます。


私は腹をくくって、先生に自分の進路について正直に話しました。


先生の顔つきがみるみる変わっていきました。
そして来週吉祥院で試合があるんで、親父と二人で見に来るように言われました。もしかしたら先生と親父は裏で繋がっていたんだと思います。


吉祥院での試合は圧勝していました。


キックオフのボールを捕った大八木さんの背中をしんごさんが掴んで突進してます。大八木をコンタクトバッグの様に扱い、相手にぶつけては引き戻しぶつけては引き戻し、えげつないアタックしていました。


トライ後のゴールキックは12番を付けた平尾さんが鮮やかに決めてます。


しんごさんが三年
大八木さんが二年
平尾さん一年の時です。


私と親父は先生の隣で見ていました。先生平尾さん大絶賛。彼がいるうちに花園に出て、優勝するから一緒に頑張ろう。伏見にこい。熱く語り続けました。


試合が終わってもまだ話があるから、明日の放課後学校に来るように言われます。


その夜家族会議です、唯一反対していたのは当時高3の下の姉で、凄い勇気ですが、話し合い途中に自分で直接先生の自宅に電話をかけて、
「怪我をしたり、ついていけなくなってラグビーをやめたら、工業高校から進学や他の道に進むとき不利にならないか?」
なんて直談判しました。



余談ですが、この姉は後に山口先生御夫婦の仲人で結婚します。


次の日、中学の制服のままノコノコと体育教官室にいきました。






そして私は伏見工業高校に進学することに決めます。


次回はやっと高校編です。熱い青春を送るんです。

ラグビー人生5

中学生にあがる春休みに愛知県での関商工高との合同合宿と。その後の夏休みに二回目の菅平合宿と参加しました。この時も前回の合宿同様に中味の濃い経験をしたんてすが、初回がインパクト有りすぎたんであまり印象に残っていません。



夏合宿では、一緒に行った清水は、ウイングで1年マッチに出ていました。中学生1年でですよ。


私は全然体ができてないし、怖かったのでみおくりました。


この時の高校1年にあの、ヤ○カのしんごさんがいて、休憩時間に自分の部屋に居ると先輩に用事を言い付けられるのが嫌なのか、何時も私達の部屋に避難してました。


全然優しくて、とても可愛がってくれましたよ。
見た目や声はめちゃくちゃ怖かったですが。


でもこの合宿以降私のラグビーに対するモチベーションが下がっていきます。
スクールも中2の後期から辞めてしまいます。


中学校の部活は最初野球部にはいります。あまり強くないチームでしたが、入部そうそう玉拾いを免除されノックを受けてました。ポジションはサードです。


しかし理不尽な上下関係や少し離れたグランドまでボールやベースなどを1年が運ぶんですが、誰かが歩いていたとかいって連帯責任でケツバットされたりで、アッサリ辞めます。


その後プラプラして、中2になって卓球部の幽霊部員になります。


親父はそんな覇気の無い私に小言を言いますが、強烈な反抗期に突入した私は一切聞く耳を持たず、口も利きませんでした。


一度親父に竹刀を投げつけ自分は木刀を掴んで、
「おもてにでてくださいドキドキ



実際はえげつない言葉をかけ、ケンカを吹っ掛けてました。


今思い出しても中2の頃はすさんでましたね。恥ずかしい。


学校も休みがちになり成績も散々でした。


反抗期は中3になった途端に、いきなり終わります。気の合う友達が良い方向に引っ張ってくれたり。彼女ができたりして、終息しました。


そして卓球部のキャプテン、生徒会の会長なんてやっちゃいます。


そしていよいよ進路問題が持ち上がるんです。


この経緯は次回に。