山親父の日記 -565ページ目

体重の変遷

高校入学時
177センチ 75キロ

この年の夏合宿68キロまで一気に絞られます。


高校2年シーズン
180センチ 83キロ

ここから身長は変わらないです。

大学入学時86キロありましたが夏のオフ迄に73キロまで絞られます。久しぶりに帰省したらあまりの変貌にお袋が涙ぐみます。

ここから筋肉つけてシーズン83キロありました、しかし入学時とは身体の質がガラッと変わりました。でもこの時のトイメン河瀬さん100キロでしたからきついですね。


大学2年 90キロ
3年 95キロ
4年 100キロ
5年? 105キロ

見事に5キロづつ増やします。でも走れる105キロでした。


ここでトレーニングを止めてしまいます。
社会人1年目の秋に生涯最重量の120キロをマークします。

当時の名横綱千代の富士と6キロしか違わない。と、驚いた記憶があります。


ここで生命の危機を感じ学生時代と同じように食べていた食事を制限して半年で100ちょっとまで落とします。


100を切るのは苦労しました。

30才を越え徐々に筋肉が落ちていき。95キロに安定します。


この安定期が10年ほど続きました。


そして6年前の9月に行われたOB戦でちょっと良いプレーをしたことが、きっかけで(もう少し痩せたらもっと楽しいんじゃないかと)トレーニングを始めます。

その次の日からウォーキングしました。
その後半年間日曜日を除いて毎日走りました。最後の頃は気分が乗ると8キロ位走ってました。


もうそのときは現在の自営業だったんで食事も徹底的に管理して、半年で10キロ落とし、85キロになります。


しかし夜道を走ってオヤジ狩りに会うのも怖いし、
「あんたの風貌でそれはない。向こうが逃げてく」と、かみさんは言いますがジムに通うことにします。


ランニングマシンで走るんですが当初3000mを12分半とか、高校時代と同じタイムが出ました。


平行して筋トレもはじめたおかげで、
40才 78キロ
体脂肪率 14%になりました。


しかしこの時はふらふらになり、又寒いんです。


それでちゃんと食事を摂り体調管理して、


現在 82キロ
体脂肪率 20%を維持しています。


肝心のOB戦ですが、あまり良い方にいかなくて、走るのは辛くないですが。
早稲田の元軽量FWに(今は中年太り気味)吹っ飛ばされてます。


現役時代あまり飛ばされたことが無いんで、軽量FWの苦悩みたいなのを実感しています。


やっぱりラグビーはウエイトがあった方が有利です。

ラグビー人生4

私は完全にお客さんとして参加した菅平合宿でしたが、本当に貴重な体験でした。この頃のエピソードが後に出版されドラマ化やDVDになり、多くの反響を受けるだけの、濃密で濃厚な時間とエネルギーが動き始める瞬間です。


先生と高校生は壮絶なバトルを繰り広げました。



大抵午後は試合を組んであるのですが、負けます。それから永遠と練習が続きます。グランドでのそれが終わると、ダホスに登り、又走ります。本当にヘトヘトになるまで走ってボロボロになって夕食を食べて寝るという生活が続きました。

合宿も大詰めを迎えた練習でした。高校生はふてくされた雰囲気でいつ終わるかわからないランパスを続けています。
こんなとき先生は練習を終わりません。


この時先生はどういう言葉を掛けたのか解りませんが。スイッチを入れるんです。


先生の教え子であった方なら皆さん覚えがあると思いますが、なんと言うか、吹っ切れると言うか、諦めがつくと言うか。


誰か1人が
「うりりりゃぁーー」とか
「ちくしょょょーー」とか
泣き叫び始めます。

さっきまで止まっていた足がその涙と共に凄い勢いで動き始めるのです。どこに余力があったのか不思議ですが、先生はその力を引き出すのがうまかったです。


あのヤンキー高校生が泣きながら走るんです。


暫く走ってランパスが終わりました。みんな倒れ込んでました。


それからまだダホスに登り走ります。昨日までと違い吹っ切れてましたね。


凄く濃い練習が終わりました。グランドに降りようとすると、あの有名な○畑さんが本当に一歩も動けなくなってみんなに抱えられてました。


満天の星空のした、先生を囲み正座です。私も一番後ろでちっちゃくなってました。


内容は詳しくは覚えてませんが、先生はそれから一時間程話されました。ラグビーの事、夢と目標の事、日々をどう過ごすか。自分に負けないこと。先生は泣いてます、みんなもしゃっくりあげて泣いてます。私も号泣していました。


1週間私は多くの事を学びました。帰ってきた時私は顔付きさえ変わっていたと思います。



集団生活では他人の事を思いやる気持ちが無いといけないこと。
真剣に物事に打ち込むこと。
大人の男の人が声をあげて泣くこと。








健全な男子は時たま下半身が変化して、それを鎮める方法があるらしい事。



学校に戻った時同年代の友達が全くつまらなく感じました。


こんな経験をしたあとではドッジボールのチーム分けや、学級会のもめ事なんてどうでもいい事でしょう。


長い話になりました。少しフィクション入ったかも知れませんが、大体こんなところです。

次回は中学生の私です。
よろしくお願いいたします。

ラグビー人生3

ラグビースクールには、毎週親父が連れていってくれてました。
ある日短パンを忘れたので練習が出来ないと駄々をこねました。親父は仕方なく先生に交渉してくれて、クラブハウスの誰かの忘れ物を手に入れて来ました。

が、


大昔の代物でネクタイベルトの超ロンパン、しかもブカブカです。更に嫌がる私をちから一杯ぶっ飛ばしました。


五メートル程飛びました。

スクールの後に試合を控えてそばにいた、高校生がざわめき立ちました。


「そんなクダラナイ理由で練習できないならラグビーなんてやめてまえ」


よく手をあげる親父でしたが、この時が一番のビッグヒットでした。


それ以来、現在のOB戦から毎日のジム通いまで大学時代のジャージ長並みにウェアをセットするようになりました。



六年生になった私はラグビーの他に小学校に新しくできたサッカー少年団の初代副キャプテン、京都新聞主催の少年野球チームの副キャプテン。これは親父が監督を引き受けてくれました。と、スポーツ三昧の日々を送っていました。



夏休みに入ってしばらくして、親父がこんな話をもちかえりました。


伏見工業高校が今年初めて菅平に夏合宿に行く。私が行くと言えば連れていってくれる。スクールの清水も行くから寂しくないけどどうする?


私はどんな返事をしたのか思い出せませんが行くことになりました。


見送りには両親がきましたが世事に疎い母は当日の事を今でもこう言います。
「バスに乗り込んで行く人は、パンチパーマで甚平の雪駄ばき、アロハシャツのアンちゃん風と高校生とは思えずに、こんな中にうちのぼくちゃん1週間大丈夫かしら」と思ったそうです。


しかし見た目とは違い皆さんとても優しく、可愛がってくれました。普段町ですれ違っても絶対目を合わせませんけどね。


午前中の練習はできるところまで一緒についていきました。その他は怪我人が腹筋をしていたら、足を押さえ。女子マネの手伝いで水を運んだり。練習試合ではボールボーイみたいな事をしていました。


皆さん白地のジャージにいろいろ書いていました。唐獅子牡丹、登り龍、桜吹雪に男一匹なんとかや、泣いてくれるなおっかさん。これは無かったかも。凄く精巧でカッコいいなぁと思いました。


今流行りの和柄シャツですね。今下北沢で買ったらいい値段しますよ。


以前のプロジェクトXで取り上げられたあの方々が現役の時です。テレビを見たときあの現場に俺もいたなと思いました。


やはりこの辺の話しは長くなりそうなので、一旦休憩します。又すぐにアップします。暫くお待ちください