ラグビー人生2
ラグビースクールの練習は今のようにグリッド使ったりせずに、普通にランパス等で走ったあと、一列に並んでダウンボール、ピックアップなどの基礎練習。まだスクラムやラインアウトはやらなかったです。
当時の先生方は京都市役所のOBや教員の方々で、その頃には既に使われてない戦術(ドリブルラッシュ)
とでもいいますか、味方で固まって足元でボールをゴロゴロと転がして進むという練習もありました。
今の割って出る。っていうプレーとは全く異なり。ボールを持って無ければタックルされないルールを利用して、ラックの最後尾からゾロゾロいく感じです。
これを防ぐには、相手チームは足元にセービングに飛び込むしかありません。
また、飛び込まれた方は、チョッと横に蹴りだし、フォロワーがまたゴロゴロ運んでいく。
今まで一度もお目にかかったことは無いですね。
休憩を挟んで後半は2チームに別れて試合です。ポジションも最初は決まっているんですけど、そのうちぐしゃぐしゃです。
私は体をいかしてまあまあ活躍していました。とにかく周りのチームメイトとは体つきが違ってました。
しかし、体は小さいけどとてつもなく足の早いやつが1人いました。本当に桁が外れていました。
高校最後の年、彼がキャプテン。私がバイスキャプテンとして花園で戦い、その後同志社3連覇のときWTBで活躍した。清水剛志です。
そしてもうひとつ大きな出会いがあります。
テレビドラマ
スクール★ウォーズにもそのシーンがでてきますが、後の泣き虫先生山口良治氏がこの年の一年間スクールのコーチとして私達の学年担当となり毎週指導して頂きました。
後でわかった事ですが、あのエピソード通り、先生は高校に赴任しますが学生に拒否され。学生を指導する事ができなかった年でした。
全く偶然でした。
先生は私達子供に優しく楽しく指導して下さり。ラグビーが大好きになり毎週欠かさず通いました。
6年後あんなにシゴかれるとは想像できます??。
さて次回予告。
スクールの出来事と
実録スクール★ウォーズと私とラグビー空白の二年間を、予定しています。
なんか書いているうちに乗ってきたような気がします。お楽しみに。
当時の先生方は京都市役所のOBや教員の方々で、その頃には既に使われてない戦術(ドリブルラッシュ)
とでもいいますか、味方で固まって足元でボールをゴロゴロと転がして進むという練習もありました。
今の割って出る。っていうプレーとは全く異なり。ボールを持って無ければタックルされないルールを利用して、ラックの最後尾からゾロゾロいく感じです。
これを防ぐには、相手チームは足元にセービングに飛び込むしかありません。
また、飛び込まれた方は、チョッと横に蹴りだし、フォロワーがまたゴロゴロ運んでいく。
今まで一度もお目にかかったことは無いですね。
休憩を挟んで後半は2チームに別れて試合です。ポジションも最初は決まっているんですけど、そのうちぐしゃぐしゃです。
私は体をいかしてまあまあ活躍していました。とにかく周りのチームメイトとは体つきが違ってました。
しかし、体は小さいけどとてつもなく足の早いやつが1人いました。本当に桁が外れていました。
高校最後の年、彼がキャプテン。私がバイスキャプテンとして花園で戦い、その後同志社3連覇のときWTBで活躍した。清水剛志です。
そしてもうひとつ大きな出会いがあります。
テレビドラマ
スクール★ウォーズにもそのシーンがでてきますが、後の泣き虫先生山口良治氏がこの年の一年間スクールのコーチとして私達の学年担当となり毎週指導して頂きました。
後でわかった事ですが、あのエピソード通り、先生は高校に赴任しますが学生に拒否され。学生を指導する事ができなかった年でした。
全く偶然でした。
先生は私達子供に優しく楽しく指導して下さり。ラグビーが大好きになり毎週欠かさず通いました。
6年後あんなにシゴかれるとは想像できます??。
さて次回予告。
スクールの出来事と
実録スクール★ウォーズと私とラグビー空白の二年間を、予定しています。
なんか書いているうちに乗ってきたような気がします。お楽しみに。
ラグビー人生
私の人生に大きく関わったラグビーについて、保険屋高田さんを真似て何回かに分けて書いてみます。
ラグビーを初めたのは、小学五年生。十歳の時です。
ある日仕事から帰った父が青いフェルトで耳のところに丸い耳当ての付いたへッドキャップを買ってきて。今度の日曜日から毎週ラグビースクールに行くことになったから。
この一言から。
ラグビー人生が始まりました。
私が通ったのは、京都ラグビースクールというところで、グラウンドは芝生の西京極と土の吉祥院がメインです。
初回は西京極でした。受付を済まして白地に胸に赤とオレンジのラインだったと記憶するジャージ。野球と同じで下に靴下を履くタイプのストッキング。
初めてスパイクを履いたのもこの時です。買って貰ったのは黒のキャンバス地のオニツカタイガー。固定式のものでした。
何時もの様に紐を結んでいくと、とてつもなく紐が余ります。その時初めて靴の底に巻いて結ぶ方法を知りました。
当時すでに160㎝程上背があった私は56年のクラスの中でも特に大きかったです。
さて、ここまでお読みいただいて、お気付きかと思いますが、プロフィールの
(大昔の出来事を良く覚えている)です。35年も前の事を事細かく思い出します。
この調子でラグビー人生を語っていくと、とてつもなく時間が掛かると思いますが、頑張って見ようかなと考えてます。
さて、次回予告です。
当時のスクールの練習と私の人生に大きな影響を与えた人物との出会いです。
頑張ってポチポチ打ち込んでいきます。
ラグビーを初めたのは、小学五年生。十歳の時です。
ある日仕事から帰った父が青いフェルトで耳のところに丸い耳当ての付いたへッドキャップを買ってきて。今度の日曜日から毎週ラグビースクールに行くことになったから。
この一言から。
ラグビー人生が始まりました。
私が通ったのは、京都ラグビースクールというところで、グラウンドは芝生の西京極と土の吉祥院がメインです。
初回は西京極でした。受付を済まして白地に胸に赤とオレンジのラインだったと記憶するジャージ。野球と同じで下に靴下を履くタイプのストッキング。
初めてスパイクを履いたのもこの時です。買って貰ったのは黒のキャンバス地のオニツカタイガー。固定式のものでした。
何時もの様に紐を結んでいくと、とてつもなく紐が余ります。その時初めて靴の底に巻いて結ぶ方法を知りました。
当時すでに160㎝程上背があった私は56年のクラスの中でも特に大きかったです。
さて、ここまでお読みいただいて、お気付きかと思いますが、プロフィールの
(大昔の出来事を良く覚えている)です。35年も前の事を事細かく思い出します。
この調子でラグビー人生を語っていくと、とてつもなく時間が掛かると思いますが、頑張って見ようかなと考えてます。
さて、次回予告です。
当時のスクールの練習と私の人生に大きな影響を与えた人物との出会いです。
頑張ってポチポチ打ち込んでいきます。