うちの親父 | 山親父の日記

うちの親父

ここで一息。この後の私とラグビー人生について話を続けていく上で、欠かせないのが私の親父です。


このテーマも二回に分けて書いてみます。一回目は親父の事を、次回は少年だった私と親父のいい関係だった頃の話です。


親父は昭和6年京都で生まれ、京都御所のすぐそばで、わたしから見て曾祖母、祖母、親父とふたつ違いの弟と暮らしていました。


祖母が煙草と駄菓子の店を商う、母子家庭の長男です。祖父は戦争で亡くなったそうですが、、、ここで改めて気が付きましたが、親父は私に祖父の事をいっさい話したことがありませんね。私が大きくなって、叔父に少し聞いたことはありましたが、親父は一言も話題にした記憶がない。


話を進めます。


小学校は後に私も通ったすぐそばのところに。旧制中学は京都二商に、ここで真剣に甲子園を目指し野球に打ち込んだそうです。後に阪神に行った、牛若丸吉田さんと鉄壁の三遊間を組んでいたと自慢しています。実際親父が40代の頃西京極球場で一中と二商のOB戦があり一緒に三遊間を守ってました。鉄壁じゃあなかったけど。


しかし三年に上がるとき学制改革があり、吉田さんたちチームメイトは山城高校に、親父は学区の関係で朱雀高校と別れてしまいます。そしてその次の年山城高校は甲子園に見事初出場します。

ついて無いですね。


親父はこの頃やさぐれていたみたいです。学ランに凄く長い白いマフラーを巻きしかめ面して校門の横で煙草をくわえる写真があります。


しかしここでラグビーに出会い三年間ひたすら打ち込みました。ポジションはバックロー、この頃のスクラムは変則的で7人で組んでいたし、フロントが2人でも良かったりしたので分かりませんが、今のロックかフランカーでしょう。


親父はデカかった、180センチ70キロ。当時の食料事情を考えたら超大型FWですよ。


花園は出ていませんが、そこそこ強かった様で、その後大学に進み活躍したチームメイトも多かった様です

親父は家庭の事情で進学を諦め就職します。


同期から2人、その後の三年間程毎年1~2人明治大学に進んでいます。


ここで大学ラグビー。特に明治大学にコンプレックスを持った様です。


仕事は呉服屋、22で結婚、24で長女、26で次女、30で待望の絶対ラグビーやらせるぞと、てぐすねを引いていた男児、私が生まれました。


初めに書いたように親父には父親との思い出が無いため、自分自身どういう父親像を描いたのかわかりませんが、私に対してこれでもか!っていう程の思い出を作ろうとするんです。


これもコンプレックスの表れだったのでしょう。


さて、次回その思い出を書いてみます。これがまた沢山有るんです。