流離の翻訳者 日日是好日 -36ページ目

流離の翻訳者 日日是好日

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

旧友たちと話していてよく指摘されるのが「○○!よくそんなこと覚えているなぁ~」である。

 

高校時代、大学時代、社会人になってからの友人たち皆が言うので、たぶん私は記憶力が良いのであろう。とは言っても、昨日食べたものすら思い出せないこともあるので、あくまで過去の印象的な事柄についてのみのことだと思われる。

 

何となく、そのときの映像(静止画と動画の中間的なもの=夢のようなもの)が脳裏に浮かぶのである。そんな映像をここ12年ほどブログに書きとめてきたため、記憶がより鮮明になったようである。

 

 

ただ、そんな回想の手助けをしてくれているのがネットによる検索である。ネットは思い出を蘇らせてくれる。

 

以下は、以前に読んだ五木 寛之「回想のすすめ 豊潤な記憶の海へ」(中公新書ラクレ)からの一節である。やはり回想は楽しいものだ。

 

 

 

(問題)

回想の引き出しは、ほおっておくとさび付いて開かなくなる。繰り返し、繰り返し、あの引き出し、この引き出しと出し入れしておくことで、時に応じて自然にそのときに必要な思い出が出てくるようになるのだ。

昔のことを考えるのは後ろ向きな行為だからやめよう、などと決めて引き出しにカギを掛けてしまうと、引き出しはさび付いてまったく開かなくなる。そんなことになると、その人はせっかくの貴重な財産を手にすることができなくなり、精神的に貧しい状態に置かれてしまうのではないか。

年を取ればどうしても筋力は衰えるし、反射神経も鈍くなる。回想力も同じで、トレーニングをして鍛えていないと、年々、失われていくことになりかねない。絶えず回想し、それを磨いていくことが大事なのだ。

(五木 寛之「回想のすすめ」より引用)

 

(拙・和文英訳)

The drawers of reminiscence will be rusted and won’t open if you leave them for a long time. If you use the drawers this and that repeatedly, the memories will naturally be drawn out as needed basis.

If you decide to stop thinking about the past because it's a negative act, and you keep the drawers locked, the drawers will be rusted and won't open at all. In such a case, I think, you would not be able to access your precious properties and would be left in a state of being spiritually poor.

As you get older, your muscular power will inevitably be weakened and your reflexes will become slow. The same is applied to reminiscence, therefore unless you train reminiscence power, you may lose it year by year. It is important for you to practice reminiscence constantly and improve your reminiscence power.

 

東京で働いていた頃、つまらないことで議論になった。「因幡の白うさぎが皮を剥がれたのはワニかサメか?」という議論である。

 

私は「絶対ワニだ!小さい頃読んだ絵本にワニの絵があった!」と主張した。同期のSは「出雲地方ではサメをワニと呼ぶんだ!そもそも日本にワニはおらん!」と主張した。

 

この議論は周りの女子社員を巻き込んでかなり白熱してきた。そこへ同期のAがフラーっとやってきた。私はAに尋ねた。「なあA、因幡の白うさぎが渡ったのってワニだよなぁ~?」。Sは「絶対サメだよなぁ~?」と主張した。

 

Aは「えっ!あれってタコじゃないの?」と答えた。その瞬間、私の周り一帯は爆笑の渦に包まれた。

 

ただ一つの問題は、その後もAが笑み一つ浮かべず真顔で「タコ」を主張し続けたことだった。彼はどんな幼少期を送ったのだろうか?

 

 

 

 

 

以下は「ユーモアの効用」に関する京大の英作文の問題である。Aがユーモアのつもりで言ったのなら相当な天然ボケである。

 

 

(問題)

冗談を言う人間は低俗な奴と顰蹙を買うことがある。しかし、人間関係における一種の潤滑油としてのユーモアの効用については、もっと認識されて良いのではないだろうか。ユーモアのわかる人間となるためには、幅広い知識と柔軟な思考法、それに豊かな感受性が必要だ。ユーモアのセンスがあると言われることは、最高の褒め言葉である。

(2009年 京都大学)

 

(拙・和文英訳)

Those who make jokes are regarded to be vulgar and are sometimes frowned at by other people. However, I think, the utility of humors should be more highly evaluated as a kind of lubricant for human relationships. You need to have a wide range of knowledge, a flexible way of thinking, as well as a rich sensitivity to become a person who can really understand a humor. If you are told that you have a good sense of humor, it must be the best compliment for you.

 

東京の摩天楼の夜景は美しい。今回の上京ではあまり堪能できなかったのが残念だ。まあまた機会もあるだろう。

 

西新宿の高層ビル群を最初に訪れたのは大学2年の秋のことだった。一橋に進学した友人から学園祭に招待されたときだった。

 

新幹線から見えた夕映えの高層ビル群は赤黒い巨大な林のように見えた。

 

「お前の背中ごしの街が今 夕陽の中で燃え始めた……♪」

 

 

 

以下は「英文解釈難問集」から京都大学の過去問である。大都会の夜景を宝石箱にたとえている。

 

 

(問題)

The night view now had a certain magnificence. Against the dark blue velvet, like an immense jewel case, were roads that were rippling rivers of light, and all the colored fires of commerce, restaurant, and bar signs like scattered rubies and emeralds. If men of other ages could have looked through my eyes for a moment, I thought, how they would have cried out in amazement, wonder and joy, to see a city, after the sun had gone down, blazing like a garden at noon.

(京都大学・1978年以前)

 

 

(拙・英文和訳)

その時の夜景には確かな素晴らしさがあった。波打つ光の川のような道路と、散りばめられたルビーやエメラルドのような商店やレストラン、またバーの看板の様々な色の光が、濃紺のビロードを敷いた巨大な宝石箱のように見えた。もし私とは異なる年齢の人たちが私の目を通してこの夜景を一瞬でも見ることができたならば、太陽が沈んだ後に、真昼の庭のように燃え上がる大都市を見て、きっと驚嘆と不思議さ、また喜びにどれくらい叫んだことだろうか、と思った。

 

誰しも思い出に残っている女性がいるものである。今にして思えば性格のきつい女性だった。何もなかったからこそ綺麗な思い出となって残っているのかも知れない。

 

ほろ苦い青春の思い出である。今頃どうしていることやら。幸せであって欲しいと願うばかりである。

 

 

漢・武帝の漢詩「秋風辞」にこんな一節がある。

 

蘭有秀兮菊有芳               蘭に秀(しゅう)有り 菊に芳(ほう)有り

懷佳人兮不能忘               佳人(かじん)を懐(おも)いて 忘るる能(あた)はず

 

(現代語訳)

蘭の花が咲き菊が芳しい香りを放つこの季節、あの美しい女(ひと)のことが思い起こされ忘れることができない。

 

 

 

以下は「英文表現法」から遠藤 周作の文章である。

 

(問題)

深夜、ぼんやり考えていると、自分の過去にこういうことが幾度もあったことに気がつくのである。それは自分がある人と知り合ったため、その人の人生の方向が変わったというような思い出である。自分がある女と知りあい、その女と交際したため、女のその後の人生は(もし自分を知らなければ渡ったであろう人生とは)別の方向に向ったというようなことである。

(遠藤 周作)

 

(拙・和文英訳)

Being lost in thought at midnight, I find that such a thing has occurred many times in my past. It is a memory that I have met a certain person and the course of his or her life has changed. For example, because I met a woman and had a relationship with her, the rest of her life took a different course than that she would have walked if she had not known me.

 

TV番組「プレバト」をよく観る。俳句のみならず絵画のジャンルも面白い。水彩画、色鉛筆画、黒板画などを精密に描ける能力はやはり天賦のもののように思える。

 

私に絵画、音楽、料理、スポーツのいずれが一つでも才能があったならば、今は全く別の人生を歩んでいたかもしれない。そんな才能がある人が羨ましい。

 

 

3月に東京で旧交を温めたばかりだが、4月にも3回ほど旧友との再会が予定されている。今年は「再会の年」となりそうである。せいぜい体調にだけは注意するようにしよう。

 

 

 

以下は「英文表現法」から絵の描き方に関する山内 恭彦の文章である。自然の中から何を取捨選択するか、そんな自然の抽象化の能力はさほど簡単に修得できる技術ではない。

 

 

(問題)

絵を描くには、目に見える自然の細部までももれなく忠実に描くのが得策ではない。むしろ大胆な省略を行って、主題になっているものの迫力を増すことが有効である。だから眼前の自然からの取捨選択が絵の巧拙に大きな影響をもつ。物理学で自然現象を研究するときにも似たことがいえる。目前の自然はたいへん複雑である。この雑多な自然を、なにもかも取り入れて、省略なしに取扱おうとすれば、手に負えないものになるのは当たり前である。そこである観点にしぼって、興味の対象となる問題を限定して、それに必要欠くべからざるもののほかは思い切って捨ててしまう。このことは、自然の簡単化、モデル化、抽象化などということばで呼ばれている。

(山内 恭彦)

 

(拙・和文英訳)

It is not advisable for drawing a picture to be faithful to all visual details of nature completely. Rather than doing so, it is effective to emphasize the punch of the subject matter by making bold omissions to the nature. Therefore, the choice from the nature lying before our eyes has a great influence on the skillfulness of the picture. Similar things can be applied to studying natural phenomena in physics. The nature lying in front of our eyes is very complicated. If we try to take in all of this this miscellaneous nature and handle it without omission, it will naturally become beyond our control. Accordingly, we will limit the issues that may interest us by narrowing ourselves down to a certain viewpoint, and discard everything that is not dispensable to the issues. This is called the simplification, modeling, or abstraction of nature.

 

 

安田火災のシステム部で最初の年度末、同期のSの誘いで精算課の女性2人と横浜方面にドライブに行った。1984年3月末のことである。季節外れの暖かい日だった。

 

精算課にとても色の白いIさんという可愛い娘がいた。何となく気になり同じ課のSに相談した。Sは彼女と話ができる機会をさっさと作ってくれた。

 

 

横浜に行ったのはそのときが初めてだった。第三京浜を通って葉山のヨットハーバーへ。ユーミンの歌「海を見ていた午後」に出てくる山手のレストラン「ドルフィン」で食事をとった。夕刻、中華街を散策してから東京に戻った。

 

 

今振り返れば、このドライブではIさんと大した話もできず、以後親しくなることはなかった。以来、横浜に行くことはなく、今でもこのときの横浜が思い出の1ページとして記憶の片隅に残っている。

 

 

 

 

以下は、「現代国語の解法ルール48」(小島英男著・洛陽社)にあった開高 健の文章である。淡々と頭に入ってくる読みやすい文体だ。今回これを英訳してみる。

 

 

(問題)

北京は静かな街である。ホテルは内城の近くにある。朝早く眼をさましてうつらうつらしていると、市場にいくのか、驢馬が荷車をひいていくのが聞こえる。乾いた蹄の音が歩道と城壁にこだまして、乾いて澄んだ空気のなかにひびく。ほかにはなんの物音もない。驢馬の蹄は遠くいつまでも聞こえる。昨夜、誰かが夜おそくホテルの窓の下を口笛で「ハバネラ」を吹きつつ歩いていた。その口笛もいつまでも聞こえた。

(開高 健「過去と未来の国々」)

 

 

(拙・和文英訳)

Beijing is a quiet city. The hotel is located near the inner castle. When I wake up and is half asleep early in the morning, I hear a donkey pulling a cart to the market. The sound of dry hooves echoes on the sidewalks and castle walls, and resounds in the dry crisp air. There is no other sound. The hooves of the donkey can be heard far away and endlessly. Last night, I heard someone walking under the hotel window, whistling "habanera." I could also hear the whistling for a long time.

 

東京の井之頭公園で満開の桜を愛で、昨日は地元の川沿いの満開の桜を見ることができた。花粉さえなければ今が一年で最も良い季節である。

 

 

来週から実質上の新年度、新学期が始まる。進級や進学の夢に溢れた今の時期には思い出が多い。

 

大学3年に進級する春、ゼミの合宿で、愛知県の伊良湖岬(恋路が浜)を訪れた。また、合宿を終えた帰り道、奈良の吉野山に立ち寄った。同期ゼミ生の2人が一緒だった。ちょうど桜の時期ではなかっただろうか。

 

吉野の桜は殆ど記憶に無いが、恋路が浜で食べた大蛤(はまぐり)の塩焼きや、吉野山へ向かうバスの中で全員が間違って葉っぱごと食べてしまった柿の葉寿司の味は何となく思い出す。

 

 

 

 

以下は少し旧い時代の小学校の情景である。

 

 

(問題)

私の通っていた小学校に、長いベランダがひとつあった。確か、三階の北側で、広いところ、陽の当たるところの好きな子どもたちが、そこで遊ぶことは少なかった。それでも暑い季節には、ベランダの長さを利用して、よく男の子たちが水泳で濡れた赤いフンドシを手摺に長々と干したりで、幾らかは賑わっていたが、秋になり北風が頬に痛く感じられるようになるにつれて、ベランダは子どもたちから忘れられていった。北風が口笛のような音をたてて吹き抜けていくベランダだった。真冬などは、雪が氷になり、いつまでも影のなかに白く光っていた。(津島 佑子)

 

 

(拙・和文英訳)

There was a long veranda in the elementary school I used to go. Probably, the veranda was on the north side of the third floor. Children rarely played there because they liked wide and sunny places. Nevertheless, in the hot season boys would often hang out their wet red loincloths on the railing of the veranda, so it was somewhat crowded then. However, as the north wind was felt cold on their cheeks in autumn, the veranda was forgotten by the children. The north wind would blow through the veranda with a whistling sound. In the middle of winter, the snow would turn into ice and glow white in the shadows of the veranda for a long time.

 

3月27日から30日の4日間、上京して安田火災の同期・先輩方、また大学の友人たちとの旧交を温めた。東京は15年ぶりで右も左もわからなかったが、道に迷うこともなく何とか旅程を終えた。

 

迷いそうになったら周りの人に聞くというスタンスで旅を続けたが、誰もが親切に教えてくれた。自分にも経験があるのか東京の人はみんな優しい。

 

それにしても3日連続の宴会は楽しくもあり、ハードでもあった。

 

3/27(月):安田火災の同期たち(いいとも会)   at 西新宿

3/28(火):京都大学経済学部の友人たち            at 赤坂見附

3/29(水):安田火災電算オンライン課の先輩方   at 武蔵境駅北口

 

 

 

 

赤坂見附は随分ぶりだったが賑やかな街だった。武蔵境駅は10年以上前に高架になっており北口には昔の面影は殆どなかった。南口のイトーヨーカ堂は別棟ができていた。

 

 

3/28(火)の日中は、安田火災の独身寮があった武蔵野市関前の懐かしい喫茶店「エル」「タンパ」へ。それから思い出深い国立駅南口の「ロージナ茶房」へ。さらに1年ほど住んだ国立駅北口のアパートへ。35年の時を超えてアパートは現存していた。

 

 

 

 

 

国立を後に吉祥寺へ。サンロードを散策した後に井之頭公園へ。絶好の花見日和だった。思い出すのは川面に浮かぶ水鳥を見つめながら内務部同期のM君がポツンと呟いた一言「いいなあ~鳥は、人事異動が無くて!!」。

 

3/29(水)の夜は総合システム部時代の昔話に花が咲いた。お世話になった先輩方のお顔を拝見していると当時の記憶が次から次へと蘇った。徹夜で対応したシステムトラブルのリカバリーのことなどなど。

 

 

今回の上京で旧交を温めると同時に心身ともにリフレッシュできた。今は何か生産的なことを始めなければと考えている。

 

下宿はトイレと洗面所が共同、洗濯機も共同だった。風呂はなく銭湯通いとなった。

 

毎朝起きると外の共同洗面所で歯を磨いて顔を洗った、洗濯物は共同の二層式洗濯機で洗い別棟の屋上の物干しに干した。物干しに屋根はなく天候に注意が必要だった。京都は雷が多く何度か怖い思いをした。

 

 

徒歩5分くらいのところに「平安湯」という銭湯があった。当時の入浴料は150円くらいだった。長い髪の女性には洗髪料金というものが課された。

 

京都の銭湯の湯温はやたら熱く何度かのぼせてしまった。銭湯の入り方も知らなかった。また買ったばかりの下駄を銭湯で盗られた。鍵がかかる下駄箱に入れればいいものを……。人間不信に陥った。

 

銭湯から少し南に下ったところに「風媒館」という食堂・喫茶があった。「チキンカツ定食」をよく食べた。コーヒーとセットで500円くらいだった。

 

 

 

 

本学を南から北に抜けると今出川通りにでた。銀閣寺方向に東に進むと喫茶店や食堂、古本屋など学生街が続いていた。

 

よく行った喫茶「アラビカ」。オムライスやベーコンエッグとコーヒーのセットが500円だった。愛想のいいママさんとダンディなマスターが居た。

 

その他、食堂「ハイライト」「餃子の王将」(農学部前店)、ラーメンの「天下一品」(銀閣寺店)、中華の「白水」あたりでよく食べた。

 

 

古本屋は今出川通り沿いに10軒くらいあった。古本屋巡りも楽しみの一つになった。文学史の本にあったような名作を買っては少しずづ読み始めた。

 

また「ドクトルまんぼう青春記」に出てきたカントの「純粋理性批判」デカルトの「方法序説」阿部次郎の「三太郎の日記」倉田百三の「愛と認識との出発」などタイトルだけ知っている哲学書も買い集めたが、読破できたものは皆無に等しい。

 

 

 

 

5月に入り、ホームシックとスチューデント・アパシー(Student Apathy)から自分の方向性を見失うなか、渡辺真知子の「迷い道」という曲が流行っていた。

 

4月初旬には教養部の受講科目が決まった。週に英語が2コマ、ドイツ語が2コマ、数学と保健・体育が必須だった。保健・体育では体育実技と保健・体育理論が課された。

 

 

それ以外に人文科学、社会科学、自然科学からそれぞれ3コマ以上を履修しなければならなかった。授業は1コマ90分、平日は1日4コマ、土曜日は2コマだったので一週間で22コマ。そのうち20コマくらいの講義に出るスケジュールを立てた。

 

今も覚えているのが、最初の講義である。科目は宮本盛太郎先生の「政治学」。テーマは「北一輝研究」だった。緊張と期待をもって教室で待っていたが10分、15分と経っても先生が来ない。

 

すると誰かが教室に走り込んできて「休講でーす!」と叫んだ。「京大の講義とはこんなものか……」と気の抜けた状況になった。予備校の講義とは随分の違いである。

 

 

以後も教養部の講義は大体そんな感じだった。「求めさえすれば何でも与えられるが、怠けようと思えばずっと怠けていられる」環境に流されていった。

 

 

 

そんな教養部の講義にも少し慣れた4月の半ば、E2の新歓コンパが出町柳の三角州(通称「鴨川デルタ」)で夕刻から行われた。花冷えのする空の下、河原に円陣を組んで座り、ビールと冷や酒に紙コップ、肴は生協で買ったするめやあられだけである。

 

二浪以上のものを除きほぼ全員が未成年だった。酒の飲み方など知るはずもない。案の定、2名が急性アルコール中毒になり救急車で搬送されるという結末となった。

 

 

私は両隣に座ったクラスメートに両肩を抱えられて、何とか下宿まで辿り着いた。夜中に目が覚めると猛烈な喉の渇きの中、下宿の天井がグルグル回っていた。

 

高校2年の冬以来、二度目の二日酔いであった。