流離の翻訳者 日日是好日 -35ページ目

流離の翻訳者 日日是好日

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

昨日からまた気温が下がった。朝方は暖房が必要なほどだ。春の天候は寒暖の差が激しい。

 

 

母が亡くなってもうすぐ丸4年になる。日本中が「令和改元」のお祭り騒ぎに浮かれていた頃。紫陽花が咲き始めた時節だった。

 

令和改元を知ってコロナ禍を知らずに逝ったのは、ある意味幸せだったのかも知れない。今はそんなことを感じる。

 

 

 

数年前に読んだ、姜尚中著「母の教え」をパラパラめくっていたら、ある文章に傍線を引いていた。心に留まった一節と思ったのだろう。少しだけ母の人生に似てる気がする。

 

 

 

(日本文)

いつも何かに追われるように、次から次へと心配りに忙殺され、人生のペダルを慌ただしく漕ぎ続けた母。おっとりした少女は、次第に、神経症的なこだわりに囚われ、壮年期には、躁鬱の激しい性格へと変貌していた。気の休まる時間など、ほとんどなかったのだろう。だが、人生の終わりの時が近づくにつれ、母は本来の穏やかな性質を取り戻していった。もちろん、純朴な幼子に戻れるわけがない。あまりにも多くの人生の垢が、心身にこびりついていたからだ。しかし、連れ合いにも先立たれ、同じ時代の経験を共有する人びとがいなくなったころの彼女は、人生の酸いも甘いも味わい尽くした、大人ならではの清らかさに包まれていた。息子の目には、人生のもやい綱を断ち、何事にも動じない、自分だけの世界に戻っていくようにさえ映った。

(姜尚中「母の教え 10年後の『悩む力』より引用)

 

 

(拙・和文英訳)

My mother, as if always being chased by something, had been occupied with various considerations one after another, and had continued to pedal her life hurriedly. A calm girl gradually became affected with a neurotic obsession, and had changed to a seriously manic-depressive personality in her middle age. There would have been little time for her to relax herself. However, as the end of her life approached, she restored her natural calm character. Of course, she couldn’t go back to an innocent child because her mind and body were soiled with much dirt of her life. However, when she survived her husband and there were no people who could share her experiences of the same era, she was filled with the purity as an adult who had known sour and sweet of life. In my eyes as a son, her feature was as if she had cast off the mooring of life and returned to her own world where she could always keep herself calm toward anything.

音の異なる仮名四十七文字を歌にした「いろは歌」だが、その作者については空海柿本人麻呂源高明など様々な説がある。このうち柿本人麻呂説では「いろは歌」の中に作者、柿本人麻呂の暗号が埋め込まれているという俗説が古くから流布されている。

 

 

 

 

いろは歌は「いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ うゐのおくやま けふこえて あさきゆめみし ゑひもせす」(色はにほへど 散りぬるを 我が世たれぞ 常ならむ 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔ひもせず)という七五調だが「金光明最勝王経音義」という音義(経典に記される漢字の字義や発音を解説するもの)ではこれを七五調区切りではなく、以下のように七文字毎に区切って表記している。

 

 

(七文字目)                             (五文字目)

いろはにほへ                        いろはにへと

ちりぬるをわ                        ちりぬるわか

よたれそつね                        よたれそねな

らむうゐのお                        らむうゐおく

やまけふこえ                        やまけふえて

あさきゆめみ                        あさきゆみし

ゑひもせ                              ゑひもせす

 

 

この七文字表記の七文字目(左・下線部)を縦に読むと「とかなくてしす(咎無くて死す)」、また五文字目(右・下線部)を縦に読むと「ほをつのこめ(本を津の小女)」となり、これがいわゆる「人麻呂の暗号」と呼ばれるものである。

 

その意味は「私は冤罪(えんざい)により殺される。本書を津(地名)の妻の許へ届けよ。」というものになる。

 

 

万葉歌人、柿本人麻呂の生涯には謎が多く、高官であったが政争に巻き込まれて刑死したという説も伝えられている。人麻呂の暗号は、いろは歌に限らず百人一首やその他の和歌の中にも残されているという説もあり、その信憑性はともあれ、こんな古代史ミステリーに興味がある御仁は、以下の書を読まれてみることをお勧めする。

 

①「水底の歌-柿本人麻呂論」(梅原猛著1972年-大佛次郎賞受賞作)

②「猿丸幻視行」(井沢元彦著1980年-江戸川乱歩賞受賞作)

③「人麻呂の暗号」(藤村由加著1989年)

 

 

 

長時間翻訳を続けていると、しばしば頭脳が飽和したような状態になり、英文が浮かばなくなる。そんなときは眠るのが一番だ。目が覚めたら頭がすっきりしている。

 

コンピュータ再起動のようなものである。メモリーの中のゴミが整理され記憶領域が拡張される。汎用コンピュータの世界では、これをコンデンス(condense)とかコンプレス(compress)と呼んだ。

 

 

 

以下は「英文解釈難問集」から、忘れることの大切さに関する英文である。次の行動を起こすためには、忘れることも確かに必要である。

 

 

(問題)

It is indeed fortunate that we can forget; it is as necessary to forget as it is to remember. I am not speaking now of forgetting unhappy memories, but rather of forgetting what is unrelated to the purpose of the moment. We could not concentrate on anything al all if we were not able to forget everything else for the time being. The innumerable little insignificant events of daily life and the many facts that come to our attention (as when we look through a newspaper) have to be forgotten, so that our minds can be cleared for action.

(岩手大学・1978年以前)

 

 

(拙・英文和訳)

我々がものを忘れることができることは実に幸せなことである。記憶するのと同じくらい忘れることは必要だ。私は今、不幸な記憶を忘れることについて話しているのではなく、むしろ、その一瞬の目的とは関係ないことを忘れることについて話しているのである。もし、しばらくの間他のことを忘れることができなければ、何事にも集中することはできないだろう。日常生活の無数の小さな取るに足らない出来事や(新聞に目を通すときのように)私たちの注意を引く多くの事実は、私たちの頭脳が整理されて次の行動に取り掛かれるように、忘れ去られなければならない。

令和が始まってもうすぐ4年になる。一昨日くらいからフェーン現象が発生しているようでかなり気温が上がった。四月とは思えない暑さである。

 

 

万葉集に以下の歌がある。

 

「春過ぎて夏来きたるらし白栲(たへ)の衣乾したり天の香具山」  持統天皇

 

教科書にもある有名な歌で、ちょうど今の時節を詠んだものと思われる。通常は「いつの間にか春が過ぎて夏が来たようですね。あの天の香具山に白い衣が干されているのが見えていますよ。」のように口語訳されている。

 

 

 

新元号『令和』を考案した万葉学者、中西進氏の自叙伝が以前ある新聞に連載されており、その中でこの歌の解釈に言及している件(くだり)があった。

 

 

「……(前文略)……そもそも聖なる山の香具山に洗濯物など干すでしょうか。おまけに藤原宮跡から香具山を見ても洗濯物まで見えるはずはない。そこである時から、まだら雪に覆われた冬の香具山を見て詠まれたものと解釈しています。雪化粧を『白栲の衣』と虚構し、春どころか夏が来たように感じる。そう思うとユーモアも感じますね。……」

 

 

和歌の口語訳も翻訳の一種と思われるが、我々のような産業翻訳者の場合、和訳であろうが英訳であろうが、原文からかけ離れて思い切った意訳をすることを躊躇(ためらい)がちだ。

 

しかし、時には中西氏のような大胆な発想による別解が、原作者の真意へ到達する近道かも知れない。

 

昨年末に最後の職場を退職したので、先日フリーランスとしての名刺を作り直した。

 

今年は旧友・旧知との再会が多く名刺が役に立っている。それにしてもみんな歳をとったものだ。

 

昨日の飲み会は福岡・赤坂で「もつ鍋」だった。随分久しぶりの味を堪能した。また旧友たちの懐かしい顔を見ていると記憶が次から次へと甦ってくる。脳がまた活性化されたようだ。

 

 

 

季節外れだが、今回は「雪」がテーマである。

 

私が幼い頃は、子どもにとっては雪は「寒い」ものではなく「楽しい」ものだった。今でもそんな雪の日の記憶が甦ることがある。

 

 

 

当時の主たる暖房設備は掘りごたつだった。掘りごたつの中には火鉢があり練炭を燃やしていた。こたつに顔を突っ込むと一酸化炭素中毒になる状況だった。

 

石油ストーブが既にあったかどうかははっきりしない。床面にも火鉢を置いて暖をとっていたような記憶がある。夜寝るときは湯たんぽで暖をとった。

 

 

 

父は若い頃バイクに乗っていた。何度か後ろに乗せてもらったが怖いと思ったことはなかった。ただ、その日はバイクが運転できるような状況ではなかった。大雪だったからだ。

 

まだ私が小学校に上がる前のこと、そんな大雪が降った次の日、小学校の前の道は雪で真っ白になっていた。いわゆる「三八豪雪」(昭和38年=1963年)である可能性が高い。

 

その道を父母と私それに祖母の4人で歩いている。たぶんこたつ用の練炭を買いに行く途中のような記憶がある。

 

何故そのシーンだけを覚えているのかわからない。昭和の寒い灰色の空の下の記憶である。

 

庭の躑躅(つつじ)が咲き始めた。朝方は冷えるが日中は初夏のような時節になった。

 

ところで、この「躑躅」という漢字がだ、音読みでは「てきちょく」と読み「二、三歩進んでは止まること、躓(つまづ)く、躓いて止まること」(漢字源)の意味がある。

 

一説によると、ある種の躑躅には毒性があり、その葉を食べた羊が躑躅(てきちょく)して死んだことが由来とも言われている。

 

 

 

私を可愛がってくれた伯父・伯母が昔住んでいた辺りに今でも時々行く。よく遊んだ神社が今も残っており、神社の裏手には公園がある。

 

この公園は当時はとても広く感じたが、今見ると大したことはない。伯父の家から神社までの距離についても同じである。単に自分のスケール(度量ではなくサイズ)が大きくなっただけのことである。

 

 

 

夏休み・冬休みには何日間も伯父夫婦の家に泊まった。父母と違い何をやっても怒られることはなく私にとってはわがままのし放題で居心地のよい場所だった。

 

伯父の家の周りにも自然と同世代(小学校の低・中学年)の友達ができた。不思議と当時は誰とでもすぐに仲良くなれた。男の子が多かったが顔は全く思い出せない。

 

 

神社の側に「石屋」(今で言えば石材業)を営んでいる家があった。そこには5~6人の姉妹がいた。男の子は居らず、こちらは何となく顔が思い浮かぶ。全員が器量よしだった。

 

当時一番上の姉さんが高校生くらいで、一番下は私より年下だった。伯父夫婦の家に行くと必ずその家に遊びに行くようになった。

 

私が行くとお菓子を出してくれ、姉妹が皆で私の相手をしてくれた。その家で初めて「甘酒」というものを飲まされた。これが私が飲んだ最初のアルコールである。でも本当に優しくて綺麗な姉さん達だった。

 

 

この我が儘放題させてくれる伯父夫婦と、優しい美人姉妹に囲まれた幼少期が私の今の性格の形成に大きな影響を与えているものと思う。

 

伯父・伯母の家は随分前に取り壊され道路の一部になった。石屋の家屋は、ほぼ当時のまま残っているが空き家になっているように見える。人が住んでる気配は感じない。

 

 

あの美人姉妹も既に皆「婆さん」の範囲に入っていると思うが、できれば(お互い)生きているうちにもう一度会いたいと思う。私にとっては決して頭が上がらない人々である。

子どもはわけもわからないものに恐怖心を抱くものだ。

 

 

幼い頃、私を可愛がってくれた伯父・伯母の家の座敷には赤い牛が描かれた絵皿があった。焼き物だったのかガラスだったのか。とにかく濃い青を背景に赤い牛が描かれていた(写真はネットで拾ったもの)。

 

どういうわけか私はその絵皿が怖かった。私が遊びに行くと伯父・伯母は絵皿を裏返しにした。それでも絵皿の存在が怖かった。結局、伯父・伯母は絵皿を何処かへ片づけてしまった。

 

すると今度は絵皿が置いてあったサイドボード自体、また終いには座敷に入ること自体が怖くなった。「座敷には赤い牛がいる」というトラウマができ上ってしまったようである。

 

このトラウマから抜け出したのは小学校の高学年くらいの頃だ。考えてみれば普通に牛肉を食べるようになった頃かも知れない。

 

私が中学に上がった頃、伯父・伯母の家の赤い牛の絵皿は元の位置に戻されていたが、もう絵皿に恐怖心を抱くことはなかった。

 

伯父・伯母が亡くなってからずいぶん時が経った。あの絵皿の所在は今はわからない。

 

 

 

二日間の黄砂の嵐が過ぎて、昨日の夕方からかなり強い雨になった。車に降り積もった黄砂も完全に流れ落ちただろう。

 

先日、近所を歩いていると、庭に藤の花が美しく咲いている家を見つけた。桜は散って藤の時節になった。父方の祖母は名前を「藤子」といった。ちょうどこの時期が誕生日だった。随分可愛がってくれた祖母だった。

 

 

「藤」の語源は「吹散(ふきちり=吹き流し)」。英語では wisteria と言う。花言葉は「優しさ」「歓迎」。西洋では welcomesteadfast らしい。

 

 

 

五木寛之著「回想のすすめ」「人の記憶は、いったいどの位まで幼児期にさかのぼれるのだろうか」について書かれた一節があるが、たぶん幼稚園に入る前の不思議な記憶が残っている。

 

私は二人の祖母(一人は藤子さん)に連れられて、父が入院している病院らしきところからバス(?)で渡船場に向い、そこから渡船に乗る。

 

病院かバス乗り場かで何かお菓子が詰まった青いバッグを買ってもらった記憶がある。ペコちゃんの絵がついた濃い青のビニールのバッグだ。

 

渡船はたぶん若戸渡船だろう。まだ若戸大橋ができる前だろうから1962年より前なので私が4歳くらいのことになる。

 

 

 

港に着くと二人の祖母に手を引かれて丘を登っている映像に移る。丘の頂上付近に祠(ほこら)がある。その祠に入ると祠の壁には「眼眼眼眼眼眼……」「膝膝膝膝膝膝……」などと書かれた紙がたくさん貼り付けられていた。

 

参詣者が自分が患っている部位を書いて病気の治癒を祈願したものであることを祖母たちから教わった。その紙の中に「膀胱膀胱膀胱膀胱膀胱膀胱……」と書かれたものがあった。どういうわけか、これを私は「ボウコウ」と読めた。

 

そのとき二人の祖母は「○○ちゃんよく読めたね!」と褒めてくれている。そんなシーンで記憶は終わる。

 

 

実に不思議な記憶である。その祠が何処だったのか何度か検索して調べてみたが、今も所在はわからない。

 

今思えば、入院していた父の病気快癒の祈願だったのかも知れない。もちろん祖母たちも母も他界しており確認するすべはない。

 

ここ数日、天気が良いせいか朝方冷え込む。川の両岸の桜は散って川面に積もった花びらも殆どが流れ去ってしまった。春も盛りを過ぎたようである。

 

 

ブログを書いていていつも思うのは、もっと上手い文章が書けないか?もっと感動的な文章が書けないか?ということである。

 

翻訳者であるという自負から、言葉には敏感なつもりでいる。他人が発した言葉や書いた文章の粗は目につくが、果たして自分のものついてはどこまで神経を使っているのか。人は自分に対してはとかく甘いものである。

 

 

そんなことを考えていたら、以下の文章を発見した。人は無意識のうちに、どこかから借りてきたような陳腐な表現を使ってしまうものである。

 

 

 

 

(問題)

言葉の皮肉な在り方のひとつに、大げさな言葉はわれわれをあまり感動させず、つつましく発せられたささやかな言葉が、しばしば人を動かすという事実がある。

私は日ごろ詩を書いたり、散文を綴ったりしているが、いずれの場合においても最もむずかしいのは、自分が一番力を入れて書こうとしていること、いわば思い詰めて考え、人に伝えたいと思っている一番大切なことをどう表現するかという問題である。強調したいことは最上級の言葉で語りたいと思うのが自然の要求であって、その誘惑は強い。けれども、私たちが採っている最上級の表現というものは、皮肉なことに、たいていの場合は出来合いのものである。概念的で通念によって汚され、ひからびた表現である場合がほとんどである。その例証は政治家たちの用語の中にいくらでも見いだすことができる。

(大岡 信「詩・ことば・人間」より引用)

 

(拙・和文英訳)

One of the ironical characteristics of language is the fact that exaggerated words do not impress people very much, but small and humble words often move people’s heart.

I usually write poetry and prose, but the most difficult thing in the both cases is how to express what I really intend to write with all my strength, as it were, the most important thing that I think earnestly and want to tell to others. It is natural requirement that I would like to talk what I want to emphasize in the finest terms, and such temptation is strong. Ironically, however, the finest expressions we usually use are ready-made ones. In most cases, they are conceptual and polluted by conventional wisdom, and so they are old-fashioned expressions. A lot of illustrative examples can be found in the terminologies of politicians.