新・英語の散歩道(その70)-人を感動させる表現-あるCMの映像から | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

ここ数日、天気が良いせいか朝方冷え込む。川の両岸の桜は散って川面に積もった花びらも殆どが流れ去ってしまった。春も盛りを過ぎたようである。

 

 

ブログを書いていていつも思うのは、もっと上手い文章が書けないか?もっと感動的な文章が書けないか?ということである。

 

翻訳者であるという自負から、言葉には敏感なつもりでいる。他人が発した言葉や書いた文章の粗は目につくが、果たして自分のものついてはどこまで神経を使っているのか。人は自分に対してはとかく甘いものである。

 

 

そんなことを考えていたら、以下の文章を発見した。人は無意識のうちに、どこかから借りてきたような陳腐な表現を使ってしまうものである。

 

 

 

 

(問題)

言葉の皮肉な在り方のひとつに、大げさな言葉はわれわれをあまり感動させず、つつましく発せられたささやかな言葉が、しばしば人を動かすという事実がある。

私は日ごろ詩を書いたり、散文を綴ったりしているが、いずれの場合においても最もむずかしいのは、自分が一番力を入れて書こうとしていること、いわば思い詰めて考え、人に伝えたいと思っている一番大切なことをどう表現するかという問題である。強調したいことは最上級の言葉で語りたいと思うのが自然の要求であって、その誘惑は強い。けれども、私たちが採っている最上級の表現というものは、皮肉なことに、たいていの場合は出来合いのものである。概念的で通念によって汚され、ひからびた表現である場合がほとんどである。その例証は政治家たちの用語の中にいくらでも見いだすことができる。

(大岡 信「詩・ことば・人間」より引用)

 

(拙・和文英訳)

One of the ironical characteristics of language is the fact that exaggerated words do not impress people very much, but small and humble words often move people’s heart.

I usually write poetry and prose, but the most difficult thing in the both cases is how to express what I really intend to write with all my strength, as it were, the most important thing that I think earnestly and want to tell to others. It is natural requirement that I would like to talk what I want to emphasize in the finest terms, and such temptation is strong. Ironically, however, the finest expressions we usually use are ready-made ones. In most cases, they are conceptual and polluted by conventional wisdom, and so they are old-fashioned expressions. A lot of illustrative examples can be found in the terminologies of politicians.