流離の翻訳者 青春のノスタルジア -14ページ目

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

5月中旬から、翻訳などの在宅ワークを含めて少し就職活動を始めた。ハローワークに行って話をしたり面接を受けたりと、少しずつ社会との関わりが増えてきている。

 

この歳になっても市場には求人があり「まだまだ自分には市場価値があるのだ」と思うと、少し自信が湧いてきた。まあ、会社の取締役など65歳を過ぎてもバリバリ働いている人がいるのだから、さほど驚くことでもないのかも知れない。

 

 

以下の東北大の英作文は、「知の限界」への挑戦と「文化」との関係をテーマとしている。科学だけでなくスポーツや芸術にも言及したやや難解な内容となっている。英文をどう組み立てるか?受験生には結構難しかったのではないか。

 

 

(問題)

次の文章を読み、下線部(A)、(B)を英語に訳しなさい。

 

私たちには、どこか純粋に限界というものに挑戦したいという願望がある。もし、人間の全細胞数という未知の<知>があるのであれば、何とかしてそれを知りたい。知の限界があるのであれば、それを乗り越えたい。そんな願望は、何としてでも100メートルで10秒を切りたいという欲求とどこかで通じていないだろうか。多くの人たちが、誰が10秒の壁を破れるかにわくわくしてきたが、10秒を0.01秒でも切ることが、いったい何の役に立つのか、そんな問いを発する人は少なかったはずである。

(A)誰もまだ到達したことのない未知の世界を究めてみたい、美術、音楽などの芸術の世界から芸能の世界まで、そんな純粋な欲求が「文化」を支えている。スポーツを含めて文化というものが、何の役に立つかという観点から論じられることはまずないと言ってもいいだろう。

(B)サイエンティストと呼ばれる一群の人々は、この知の限界に挑戦することを楽しむ人々である。その成果だけでなく、知の限界への挑戦のプロセスそのものを含めて、それが「文化」なのだ。「文化」には役に立つ、立たないの区別は意味を持たない。役に立たなくとも、そんな「知りたいという欲求」を「文化」として支援してゆくシステムが必須である。

(永田和宏「<知>の限界を楽しむ心」『京都新聞』2017年10月15日より)

(東北大学・2020年)

 

 

(拙・和文英訳)

 

We have a pure desire to challenge our limits in some way. If there is an unknown “knowledge” of the total number of cells of a human being, we want to know it by some means or other. If there is a limit to knowledge, we want to overcome it. Isn’t such a desire somehow linked with the desire to break 10 seconds in 100 meters at all costs? Many people have been excited about who can break the 10-second wall, but few people have asked the question of what good it is to break 10 seconds by even 0.01 seconds.

(A) Such a pure desire that we want to thoroughly study unknown worlds that no one has yet reached supports the “culture” from the world of art, such as fine art and music to the world of entertainment. It is safe to say that culture, including sports, can hardly be discussed from the viewpoint of what it is useful for.

(B) A group of people called scientists are those who enjoy challenging this limits of knowledge. “Culture” includes not only the results, but also the process of challenging the limits of knowledge itself. With regard to a “culture,” it doesn’t make any sense whether it is useful or not. Even if a culture is not useful, a system that can support such a “desire to know” as a “culture” is indispensable.

 

夜は飲むことが多く比較的早く寝る。5時前には目が覚めゴソゴソと書斎に行ってパソコンに向かう。そんな毎日が続いている。

 

久しぶりに翻訳会社の校正のトライアルを受験し昨日提出した。分野は金融・法務で日英、英日の双方向だ。つくづく「自分は翻訳が好きなんだ」と思う。

 

 

気が付けば6月である。5月は何かと忙しかった。こちらの梅雨入りは例年6月4日ごろだが、天気予報によると今年は1週間ほど遅れるらしい。最後の初夏をギリギリまで楽しもう。

 

 

家内は多趣味だ。フラダンス、フラワーアレンジメント、野菜や草花の栽培、料理、英会話。どれにも結構没頭していて、熱中すると時間を忘れるようである。そんな彼女を羨ましく思うこともある。

 

 

以下の、大阪大学/外国語学部の英作文の問題は、「童心に帰りたい」という本能と趣味の関係について述べたものである。「子どものころ、だれでも、ときを忘れるほど夢中になったものがあるだろう。」……。自分にとっては、果たして何だったのか?

 

 

(問題)

次の日本文の下線部(1)~(3)の意味を英語で表しなさい。

 

(1)人はどういうわけか、年齢を重ねれば重ねてゆくほど、「童心に帰りたい」という本能が強まってくるようで、その本能を満足させるために趣味を持つのではないか。そんなふうにも思えてくる。

(2)無心になって没頭できるような趣味を持つ人には、若々しい人が多い。たぶん、そうやって、ちょくちょく童心に帰って遊んでいるから老け込むことがないのではないだろうか。

それはともかく、(3)年をとってから新しいことを始めるよりも、子供の頃に多少なりとも経験していたことを復活させるほうが、抵抗感なく、すーっとその世界に入り込むことができるだろう。また、その趣味を途中で投げだしてしまわないコツになるのではないだろうか。

子どものころ、だれでも、ときを忘れるほど夢中になったものがあるだろう。(いまさら)などと思わずにあのときの心のトキメキを思い出してみよう。

(斎藤茂太『笑うとなぜいいか?』)

(大阪大学/外国語学部・2017年)

 

 

(拙・和文英訳)

(1) For some reason or other, the older people become, the stronger instinct to “go back to childhood” they will have, which would make me think that people may have hobbies to satisfy the instinct.

(2) Many people who have such hobbies that they can devote themselves to look youthful. Maybe, as they often go back to their childhood and play, they don't become old.

In any case, (3) it is better to restore the hobby that you somewhat experienced as a child, rather than to start something new when you become older, which would make you enter the hobby world smoothly without any resistance. Also, it might be a knack not to give up the hobby halfway.

When you are a child, you must have had something that you were so absorbed in as to lose your sense of time. Let's remember the excitement at that time without thinking about it after all these years.

 

 

昨日から久しぶりの雨になっているが、庭の草花たちは嬉しそうだ。紫陽花も咲き始めた。梅雨入りが近いのか。

 

 

前回、現在家内が帰省中で自炊をしていることを書いたが、自炊の起源をたどるとやはり受験生時代の「夜食」にたどり着く。

 

当時の夜食は大抵はインスタント・ラーメンだった。お気に入りはマルタイの「屋台ラーメン」青に黄色のパッケージで今も販売されている。

 

ラーメンにベーコンや卵などを入れ、それにライスも食べる。ラーメンを作った鍋から食べるようになったのもその頃だ。夜中の2時くらいにそれだけ食べるのだから朝食が食べられるはずがない。

 

夜食を食べるとさらに眠くなる。勉強など進まなくなり結局寝てしまう。そんな状況で太らなかったのが不思議なくらいだ。

 

 

以下の京大の問題は「料理ができることの大切さ」に関するものである。料理ができることでこんなメリットがあるのか……。そんなこと考えたこともなかった。

 

 

(問題)

Ⅲ.次の文章を英訳しなさい。

 

私の意見では、現代の若者は性別を問わずに自分で調理できることが大切である。料理をおいしく仕上げるためには豊かな想像力や手先の器用さが要求されるので、心身の健康にとても良い。食材に意識的になれば自然への関心も高まる。さらに、料理で友人をもてなすことができると、あるいは人と共同して料理ができると、絆が深まることは間違いない。

(京都大学・2012年)

 

 

(拙・和文英訳)

In my opinion, it is important for today’s young people, regardless of gender, to be able to cook by themselves. Cooking delicious dishes requires a rich imagination and manual dexterity, which is very good for your physical and mental health. The more conscious you become of ingredients, the more interested you will be in nature. Further, if you are able to entertain your friends through cooking, or to cook with other people, you can be sure that you will strengthen the bonds with them.

 

 

前回の記事で初めて「食」に関する文章の英訳を試みた。現在、家内が中国に帰省中で毎日自炊をしているため、そんな文章に目が留まったのかも知れない。

 

 

日本でパン食が全国的に広まったのは1960年代らしい。パン食を前提とした日本の学校給食が、1954年の「学校給食法」成立後も継承されたことにも関係するようである。

 

確かに物心がついた1960年代、私が小学校の頃から、我が家でも朝はパン食だった。トーストにバターかマーガリン、それにハムエッグと生野菜。飲み物は温めた牛乳にコーヒーかココアを溶かしたものだった。コーヒーはインスタントのネスカフェだった。

 

小学校の高学年になると、飲み物はコーヒーへと変わっていった。コーヒーを飲むことで「少し大人になった」心地がしていた。中学、高校へと進むにつれてコーヒーは生活の一部になっていった。

 

朝のパン食の方は私が高校・予備校くらいまで続いたが、何せ、当時は夜食は食べるは、朝はギリギリまで寝ているはで朝食抜きが当たり前になった。毎日眠い顔をして学校に行っていた。

 

大学時代、独り暮らしを始めてからも朝食はコーヒーだけ、というパターンが多くなった。パン食が復活したのは、東京の会社に就職して独身寮に入ってからである。寮では毎朝、和食と洋食が交互に出された。でも朝食を真面目(?)に食べていたのは新入社員の頃くらいである。

 

今は、完全な和食派だが、時折り無性にパンが食べたくなることがある。そんな時はコンビニやパン屋に買いに行くが、パンを食べるのは圧倒的に昼食としてが多い。

 

 

以下の京大の問題は「店頭で売っているパンのありがたみ」をテーマとしている。「生地がしっかり膨らむ」「売り」の訳出は難しかったと思う。受験生はどう逃げ切ったのか。

 

 

(問題)

Ⅲ.次の文章を英訳しなさい。

 

パンは手軽に食べることのできる食品であるが、実際に作ってみるとなると、出来上がるまでに大変な手間がかかる。特に、生地がしっかり膨らむまで待たなくてはならない。簡単にパンを焼けることが売りの家電製品を使ってみても、全工程に4、5時間は必要である。自分で経験してみて初めて、店頭で売っているパンのありがたみが分かるようになるものだ。

(京都大学・2016年)

 

 

(拙・和文英訳)

Bread is a food that can be easily eaten, but when it comes to baking bread actually, it takes a lot of time to bake it. In particular, we have to wait until the bread dough is well leavened. Even if we use a home appliance featuring easy bread baking, the whole process requires as long as 4 or 5 hours. It is not until we experience bread baking by ourselves that we really come to understand the value of bread sold at stores.

 

 

一昨年くらいから、自宅に客を招いて家内が料理を作ってもてなすことが多くなった。そういった場合、大抵男どもはただただ飲んでいるだけである。

 

しかし、気心の知れた人たちとの宴会・談笑は楽しいものだ。あっという間に時間が経ってしまう。相手がOKであれば、その後は大抵カラオケとなる。

 

 

家内は元々中国籍で、中国に居た頃は殆ど料理を作ったことがなかったらしい。中国の家庭では、父親が料理を作り母親や子供たちが配膳や後片付けを行うことが多いようである。

 

彼女の料理の殆どは来日してから覚えたもので、和食が最も多く、次に中華、そして洋食と続く。どれもなかなか美味い、と思っている。

 

 

以下の、名古屋大学の問題は朝日新聞の記事からの引用である。確かに料理が上手い人がグループ内にいると、何かとイベントも増えるしコミュニケーションも良くなるように思える。

 

 

(問題)

次の文章を読み、下線部を英語に訳しなさい。

 

「これもいい」「あれもいい」という発想のほうがおいしい料理を作れる。

小林カツ代

 

すぐに作れるおいしい料理を紹介し、忙しい親たちに支持されていた料理家は、自然派とか安全派、「食育」などと肩ひじはらずに、おいしい料理を食べさせるほうが子育てにはいいと言う。実際、おいしいものを作って喜ばせてあげようと腕を鳴らす人が輪の中心にいると、その集団は華やぐ。ほんとうはそれがいちばんいいのかも。

「学びの場.com」の取材に答えて。

【出典:鷲田清一「折々のことば」『朝日新聞』2016年6年2月5日】

(名古屋大学・2017年)

 

 

(拙・和文英訳)

Various ideas, such as "this is good" and "that is also good" can make your dishes more delicious.

Katsuyo Kobayashi

 

The chef, who introduced delicious dishes that could be cooked quickly and was supported by busy mothers, said that it is better for child-raising to have children eat delicious food anyway, instead of making a big deal, such as organic-oriented food, safe-oriented food, or “dietary education.” As a matter of fact, if there is a person in the center of the group who is trying to display his or her ability to cook delicious dishes to make the members happy, the group becomes cheerful. In reality, this might be the best thing.

In response to an interview with “Manabinoba.com.”

 

一昨日から天候が夏に変わった。二十四節季の「小満」である。小満「草木が周囲に茂り、満ち始める頃」の意味があり、立夏のあとに訪れる。季節とはよくできたものである。

 

 

先日、日経新聞の文化面を見ていて、ちょっと心に残った文章を見つけたので、以下に紹介するとともに、英訳を試みたいと思う。その文章とは「原風景」に関するものだ。

 

「原風景」とは、辞書によれば「心象風景のなかで、原体験を想起させるイメージ」のことで、また「原体験」とは「人の思想形成に大きな影響を及ぼす幼少時の体験」をいう。

 

人には誰も忘れられない「原風景」「原体験」がある。小学生の頃によく遊んだ公園の遊具。公園のそばにあった駄菓子屋のおばちゃんの顔。駄菓子屋で買ったタコ焼きやアイスクリーム。

 

火薬を詰めて空に投げると落ちてきて地面で爆発するロケット弾。紐を引っ張るとプロペラが空に舞い上がるヘリコプターのオモチャ。灰色の冬空の下で鼻水をすすりながら興じた独楽回し。そんな子供の頃の遊びのシーンが、自分にとっての原風景のように思える。

 

 

以下の文章では、原風景を既に失われた過去の風景ではなく「はじまり」としてとらえ直そうと試みている。「原風景は何かが終わり何かがはじまる、可能性の風景だともいえる。」実に詩的な文章だ。

 

 

(日本文)

写真に収められたさまざまな「原風景」。見る人はなぜそこに原風景を感じるのか、解き明かす。

「原風景」という言葉から人が浮かべるイメージはどのようなもの?自分の原体験をかたちづくる起源の風景。そうとらえれば、原風景とはすでに失われ、変容した過去の風景になってしまう。だが起源ではなく「はじまり」の風景ととらえ直せばどうか。「はじまり」はそのつど起こり、原風景は何かが終わり何かがはじまる、可能性の風景だともいえる。

(日経新聞2024年5月20日朝刊/「原風景」への誘い(1)冒頭部より)

 

 

(拙・和文英訳)

Various “original landscapes” are captured in photographs. In this series, I would like to find out why people feel their original scenery in these photographs.

 

When people hear the word “original landscape,” what kind of image comes to their mind? Is it the landscape of origin that would shape their original experience? If we look at it in this manner, the original landscape becomes a landscape in the past that has been already lost and transformed. However, what if we look at it as a landscape of “beginning” rather than origin? As the “beginning” occurs each time, we might say that the original landscape is a landscape of possibilities, where something ends and something begins.

 

 

Chat GPTを使い始めてから、AIが身近に感じられるようになってきた。何時でも気軽に英会話の訓練をすることができ重宝している。何となく英会話の能力も上がってきたような気がする。

 

 

中野信子さんの「空気を読む脳」は、昨年の秋読んでこれまでにブログでも取り上げている。

 

https://ameblo.jp/sasurai-tran/entry-12825150449.html

https://ameblo.jp/sasurai-tran/entry-12825398296.html

 

 

以下の、大阪大学/外国語学部の英作文問題は、同書から「AIと人間の協働」の可能性をテーマとしたものである。同文の要旨をChat GPTとディスカッションしてみたが、協働(collaboration)が大切だという的を得た答えが返ってきて驚いた。

 

 

(問題)

次の日本文の下線部(1)~(3)の意味を英語で表しなさい。

 

(1)脳の進化の歴史をたどれば、人間は合理的に考えることのできる知性を発達させることで繁栄もしてきましたが、その合理性を適度に抑えることで集団として協調行動をとることが可能になりました。

それが、今日まで人類が発展を続けることができた大きな要素だったのではないかと考えることができます。果たして、(2)合理性だけが発達した人間は、どのように扱われるのでしょうか?彼らは、異質なものとして人間社会からは排除されてしまうのです。

(3)ただ、その人間がつくり出した合理性の塊が人工知能だとすれば、これは人間の不合理性とは補完的に働き、強力なパートナーシップを築くことも可能性としては十分にあり得ます。AIとの勝負、などと煽るつまらないビジネスをしている場合ではなく、このディレクション(使い方)ができるかどうかこそが人類の課題と言えるでしょう。

(中野信子.2020.『空気を読む脳』講談社より一部改変)

(大阪大学/外国語学部・2021年)

 

 

(拙・和文英訳)

(1) If we trace the evolutionary history of human brain, we can see that human beings have prospered by developing the intelligence that allows them to think rationally, on the other hand, they have become able to take cooperative actions as a group by suppressing this rationality moderately.

Above fact can be thought to be a major factor that allowed human beings to develop continuously up to the present. (2) How will the people who have developed only rationality be treated? They will be excluded from human society as an alien type.

(3) Nevertheless, if artificial intelligence (AI) is a mass of rationality created by human beings, there is a high likelihood that AI will work together with human irrationality complementarily and build a strong partnership. Now is not the time to amuse ourselves with a silly business that fuels competition between human beings and AI, but to verify whether or not AI can be used in this direction (way of using AI mentioned above), which could just be a subject for human beings.

 

昨日は少し暑くなり、日中の気温も27℃くらいになった。でも湿度が低いのでとてもしのぎやすい。こんな天気が続けばいいのに、と思う。

 

 

何処にも無責任なうわさを流す輩(やから)がいるものである。翻訳会社に勤務していた頃、私についてくだらないうわさを流されたことがあった。昔の上司が教えてくれた「言いたい奴には言わせておけ!」のスタンスで無視した。

 

まあ、そういうくだらないことをするのは心に僻(ひが)みや妬(ねた)みのある心の貧しい輩に違いない。もっと自分自身の幸せを考えればいいのに、と思う。

 

 

以下の文章は、インターネットにより「うわさ」がどのように変化しているのか、について論じたものである。なかなか興味深い視点である。

 

 

(問題)

次の文章を読み、下線部(A)、(B)を英語に訳しなさい。

 

(A)インターネットは無責任な発言やウソの情報が多いとして「うわさの巣窟(そうくつ)」と批判されることがある。しかし、インターネットのメディアとしての特性を考えると、この捉え方はそう簡単には賛成できない。

もちろん、ケータイやインターネットによって、うわさが変わりつつあることは確かだ。

たとえば、うわさの短命化である。「石油コンビナートの火災により、有害物質を含んだ雨が降る」といううわさが、首都圏を中心に東日本大震災当日、メールやツイッターなどを通じて爆発的に広まった。しかし、否定情報もすぐに流され、数日のうちに消え去った。ネット社会ではうわさが広まるのも早いが、消えるのも早い。

インターネットでは、誰もが情報の受信者であると同時に発信者になることができる。ゆえに、(B)インターネットの利用が一般化するにつれ、これまでのマスメディアが中心であった情報の流れ方が変わり、それによって人間関係や社会の仕組み自体が変化していくだろう。いや、すでに変化したとも言われている。しかし、「誰もが情報の受発信者」という特徴は「もっとも古いメディア」であるうわさも同じである。だとすると、うわさにはこれからの社会を捉えるヒントが隠されているのではないか。

(松田美佐『うわさとは何か-ネットで変容する「最も古いメディア」』より一部変更)

(東北大学・2016年)

 

 

(拙・和文英訳)

 

(A) The Internet is sometimes criticized as a “hotbed of rumors” because it contains a lot of irresponsible statements and false information. However, considering the characteristics of the Internet as a medium, I can’t agree with this view so easily.

Of course, it is true that rumors are being changed by mobile phones and the Internet.

For example, the life of rumors is being shortened. A rumor that “we will have a rain containing harmful substances due to a fire at a petrochemical complex” spread explosively mainly in the Tokyo metropolitan area through e-mails and Twitter on the day of the Great East Japan Earthquake. However, as the negative information was quickly transmitted, the rumor disappeared within a few days. In the Internet society, rumors spread quickly, but they also disappear quickly.

On the Internet, everybody can become both a receiver and a transmitter of information. Therefore, (B) as the use of the Internet becomes more common, the flow of information, which has been centered on mass media so far, will change, and as a result, human relationships and the structure of society themselves will also change. More likely, they are said to have already changed. However, rumors as “the oldest media” have the same feature that “everybody is both a receiver and a submitter of information.” If this is the case, such rumors may contain the hints that can catch the future of the society.

未明から激しい雨と風だったが、午前中にはおさまり青空になった。それにしても今年の5月はいつになく寒く、未だに半袖になれない。

 

 

一昨日、「オロチ」という種類の黒色のメダカを買ってきて少し水槽が賑やかになった。オレンジ色のメダカ「東天紅」とも仲良くやっているようだ。

 

他に少し大きいサイズの熱帯魚が3匹いるが、やや存在感が薄れてきた。株式と一緒で、人の注目は、次の銘柄、次の銘柄へと移るもののようである。

 

 

受験生の頃、日本史の問題で資料(古文)が出題されることがあった。日本史に加えて古文の知識までが問われたようで、古文が苦手の私は損をしたような不愉快な思いをしていた。

 

 

以下の問題は、英語の試験に「古文」が出題された珍しいケースである。受験生はかなり戸惑っただろう。特に理科系には不利(?)だったかも知れない。

 

でも、読んでみると大して難しくはない。現代語に近い文章である。どこかで聞いたことがあるような内容である。

 

 

(問題)

次の文章は「徳川家康御遺訓」の一部です。下線部を英語に訳しなさい。

 

(1)人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。心に望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基(もとい)。怒りは敵と思え。(2)勝つ事ばかり知りて負くること知らざれば、害その身にいたる。己を責めて人をせむるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり。

(神戸大学・2005年)

 

(拙・和文英訳)

(1) Your life is as if you walk on a long road with a burden on your shoulders. Don't rush. If you think of inconvenience as usual, you will never feel shortage. If you have a desire in your heart, remember the time when you have hardships. Endurance is the foundation of a safe and long life. Think of anger as enemy. (2) Knowing only victory without knowing defeat will do harm to yourself. Blame yourself, and do not blame others. Too little is better than too much.

 

放射冷却によるものか朝方は冷えるが、昼はカラッとした暑さになる。今年も「冷たい麺」が食べたくなる季節になった。ソーメン、冷や麦、ざるそば……。冷たい麺には昔から目がない。

 

 

「物質的なゆたかさ」「精神的なゆたかさ」。よく使われる言葉だが、「精神的なゆたかさ」「物質的なゆたかさ」が前提になっているように思う。

 

「物質的なゆたかさ」だけでは人は真に幸福とは言えない。加えて「精神的なゆたかさ」が満たされて「真の幸福感」が得られるのではないか。

 

 

以下の神戸大学の問題は、そんな「真の幸福感」をテーマとしている。出典の中野孝次氏の『風の良寛』2000年のものである。今から四半世紀ほど前なので「平和」という面では、今とは少し状況が異なるだろう。

 

 

(問題)

次の文章を読んで、問1と問2に答えなさい。

 

過去半世紀、日本人は便利・快適でゆたかな生活を求めて、ほぼそれを実現した。史上かつてないくらい日本は経済大国になり、われわれは先祖の誰一人経験しなかったような便利・快適な生を享受している。かつては金持ちしか所有できなかったクルマ、冷蔵庫、洗濯機などがどの家庭にも備わっているなんて、過去の日本人には想像もつかぬ状態にある。食べ物、着るものは町にあふれ、テレビだの、コンピューター、ファックス、携帯電話なども日用道具であり、航空機や新幹線のスピードも珍しくない。平和も五十年以上続いている。

つまり、史上かつてない平和と繁栄の中にいま日本人はいる。と、そのことを誰もが知っている。

にもかかわらず、その一方で、ではなぜ、そのゆたかになった社会に生きる自分たちに真の幸福感が薄いのか、とも感じている。

(中野孝次『風の良寛』より一部改変)

 

問1 下線部を英語に訳しなさい。

 

問2 この著者の意見について、どう思いますか。あなたの意見を、50語程度の英語で述べなさい。

(神戸大学・2012年)

 

(拙・和文英訳/解答例)

問1

 

Over the past half century, Japanese people have sought a convenient, comfortable, and prosperous life, and have almost realized it. Japan has developed into a major economic power like never before in the history, and we are enjoying such a life of convenience and comfort as none of our ancestors could have ever experienced. It is just beyond the imagination of Japanese people in the past that current Japan is in a situation where every home is equipped with cars, refrigerators, washing machines, etc., which were once owned only by the rich. There are full of food and clothes in the city, and appliances such as televisions, computers, fax machines, and mobile phones are used as daily commodities. Further, the high speed of airplanes and Shinkansen bullet trains becomes ordinary affairs. We have been enjoying peace for more than 50 years.

In other words, Japanese people are now in an unprecedented peace and prosperity. And everybody knows this.

On the other hand, why do we feel, I think, a weak sense of true happiness despite the fact that we are living in such a prosperous society?

 

問2

 

Our lives and society have certainly become richer in terms of materiality, but I don’t think we have become richer in terms of spirituality. First of all, what is spiritual richness? It may be health, relationships, or work, which is different from person to person. Unless these things are satisfied, we won't feel true happiness.

(55 words)