流離の翻訳者 日日是好日

流離の翻訳者 日日是好日

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

「金木犀(キンモクセイ)」は秋の季語だが、キンモクセイの甘い香りが街角のあちこちから漂ってくる。キンモクセイの香りは、数百種類の揮発性化合物がブレンドされたものだそうで、特にイオノン類とデカラクトン類が特有の「甘く少し熟したような香り」を形成しているらしい。AIの回答であるが化学に疎い私にはチンプンカンプンである。

 

また、キンモクセイの香りには以下のような効果があるらしい。

 

1.リラックス・鎮静効果

脳波研究(α波の増加)から、副交感神経の活性化が確認されている。緊張や不安を軽減し、心拍数や血圧をやや下げる効果がある。

2.嫌なにおいのマスキング効果

トイレや体臭成分を打ち消す効果が非常に強く、芳香剤として古くから利用されている。

3.女性ホルモン様作用・催淫的効果

一部成分(イオノン、ジャスモン系)は女性ホルモン(エストロゲン)様作用を持ち、動物実験では交配行動を促進した例もある。古代中国でキンモクセイは「桂花」として愛や官能の象徴とされ、「催淫花」と呼ばれたこともある。

 

AIのおかげで何でも瞬時に調べられる時代になったが、若い人たちは何を勉強すべきか悩んでいることだろう。我々の時代は、ある意味良かったと思われる。

 

 

ネットによると今日は「スーパームーン」らしい。スーパームーンとは、楕円軌道における月の地球への最接近と、満月または新月が重なることにより、月が地球から最も大きく見える現象をいう。朝方の曇天も昼過ぎから晴れてきた。何とか満月が望めそうである。

 

 

「キンモクセイ(桂花)」を詠んだ漢詩を探してみた。

 

 

「題桂花美人」高啓                                    「桂花美人に題す」

 

桂花庭院月紛紛                                            桂花の庭院 月紛紛(ふんぷん)

按罷霓裳酒半醺                                            霓裳(げいしょう)を按じ罷みて 酒半ば醺ず

折得一枝攜滿袖                                            一枝を折り得て携へれば 袖に満ち

羅衣今夜不須熏                                            羅衣今夜 熏ずるを須(もち)いず

 

(現代語訳)

キンモクセイの香りが漂う庭に、月の光が溢れている。

美女の美しい舞曲が終わる頃、酒にも半ば酔って良い気持ちになった。

ひと枝を折って手に持てば、袖が良い香りに満ちあふれる。

今夜は薄衣(うすぎぬ)に香を焚かなくても良さそうだ。

 

 

 

「羆」と書いて「ヒグマ」と読む。「羆害(熊害)」は「ユウガイ」と読み、クマ科の哺乳類による獣害を指し、人間や飼育動物、農作物への被害、交通機関との衝突などが含まれる。

 

私が高校の頃、「グリズリー(grizzly)」という恐怖映画があったが、grizzlyは北米に生息するハイイログマのことである。因みに、ヒグマは英語でbrown bear、ツキノワグマはAsiatic black bearという。

 

 

「熊」を音読みで「ユウ」と読む点について、大学時代の教養部の国史学で「熊津(ユウシン)」という都市の名前が出てきたことを思いだした。古代朝鮮の百済の古都の名前で、万葉仮名では久麻那利(クマナリ)、百済語では固麻那羅(コマナル)と表記・呼称されるらしい。

 

国史学の講義は「古代日朝関係史」と題するもので、「七支刀と広開土王碑」というテキストが使われていた。担当されたのは坂元義種助教授……、それにしても、どうでもいい事ばかりいつまでも覚えているものだ。

 

 

ところで、私が生まれ育ったのは「熊〇町」というところで、ある意味「熊」は身近な存在だったが、幸いにして熊には動物園を除いて遭遇したことはない。今のところ、九州に熊は生息していないと言われている。

 

それが、先日「小国町の養鶏場でクマ被害」というニュースを聴いて驚いたが、黒川温泉などで有名な熊本県阿蘇郡の小国町ではなく、山形県の小国町と知って胸をなでおろしたところである。まあ同じ日本国内ことであり、他人ごとではないのだが。

 

 

何故、今年は熊による被害が多いのか?AIの回答では以下の5点が挙げられていた。

1.餌(エサ)不足・山の木の実の「凶作」

2.生息数・分布の拡大・人里接近傾向

3.里山・人里などの自然境界の変化(耕作放棄・過疎化・管理の手薄)

4.気候・環境条件(猛暑・餌確保困難・活動期の延長)

5.山の資源・生息地の劣化・開発の影響

 

熊が悪いのか?人が悪いのか?自然・気候が悪いのか?なかなか簡単には解決できない問題と思われる。

 

 

先月から始まった朝の連ドラ「ばけばけ」の主題歌「笑ったり転んだり」がなかなかいい。季節は晩秋へと向かっているが、あまり深刻なことは考えず、今日ものんびりと暮らしてゆきたい。

 

 

先週末からの日本シリーズのソフトバンク・ホークスの応援で一喜一憂し、昨日は学生時代の友人との飲み会やハロウィンなど何かと気忙しい一週間となった。

 

 

 

旧友との飲み会は楽しいものだ。肴は学生時代の様々な思い出や、社会人になってからの失敗談や恋バナ(少ないが)。談笑するうちに酒もつまみもかなり進んだ。

 

飲み会の途中に他の友人たちに電話を掛けたり、飲み会の写真を大学のグループLINEに送ったり。その反応もまた楽しい。最近、飲むとよくやるパターンである。

 

 

 

午後10時過ぎ飲み会は終わり、妻の迎えの車を待つ繁華街は、様々なコスプレを身に纏った若者たちで溢れていた。この街も随分若返ったように思われる。

 

 

眠るだけ眠ってひと風呂浴びたらアルコールが抜けた。昼前、近くの商業施設に行くと、早速ホークス優勝セールが行われていて、あるブランドの全商品が20%オフになっていた。秋冬物ジャケットとパーカーを購入、妻には秋物のジャケットとトレーナーをプレゼントした。

 

午後は、妻が日本語教室のボランティアに行っている間、溜まっていた新聞を走り読みしていると、妻が「夢つくし」の新米10キロを車に積んで帰ってきた。運ぶのはいつも私の役目である。

 

同僚のボランティアの日本語講師に、農家を営まれている方がいるらしい。随分と割安に購入できたようだ。このうち5キロは今月下旬の3連休に帰省してくる娘の家族にプレゼントする予定である。

 

 

それにしても、ここのところ株価の上昇が半端ない。日経平均は年末までに55,000円、来年は60,000円を目指す展開か?という記事を新聞で見つけた。保有資産の大部分を株式など有価証券で持っている私にとっては有難い話だが、果たして今後も上昇基調は続くのか?

 

株式投資のベテランの友人の説を引用すれば「株価の行方は神のみが知る!」であるが。

 

 

とは言え、何かとラッキーな11月入りとなったが、こんな日常がこれからも続いてほしいものである。

 

妻が、週一回近くの公民館で外国人に日本語をボランティアで教えている。今日はそこの行事でバーベキューがあるらしい。幸い秋晴れとなったが私は留守番である。

 

 

一乗寺は当時から学生の街だった。映画館(京一会館)やスーパー、喫茶店、食堂、飲み屋、パチンコ屋となんでも揃っており、大学へは市バスでも行けるし京福電鉄で出町柳に出る方法もあった。便利で交通至便な場所だった。

 

アパートの近くには「一乗寺下り松」や雲母漬総本舗の「穂野出」などの観光スポットもあり、観光客が歩くのもしばしば見られた。

 

 

 

私が一乗寺に引っ越してからも、友人たちは自転車やバイクで容赦なく(笑)私の部屋を訪れた。そんな友人の一人とフラッと入った居酒屋が、一乗寺宮ノ東町にあった「炉端焼 京八」である。面倒見のよいマスターと優しいママさんが店を回していた。

 

以来、友人たちはわざわざ一乗寺に来て「京八」で飲むことが多くなった。カウンターの席の全てを私の友人たちで占領したこともあった。とにかく安くて美味しい店だった。

 

「京八」へは卒業してからも京都に行けば必ず顔を出した。翻訳者デビューした2008年の秋に行ったのが最後となった。その後マスターが亡くなり閉店したらしい。マスター、ママさん、友人たちとの写真が今も手許に残っている。

 

 

喫茶店でよく行ったのは「オレンジ」と「パロット」。「オレンジ」のチキンカツやトンカツはボリュームがありよく食べた。当時はコーヒー付きで500円くらいだった。

 

「パロット」ではモーニングをよく食べた。ワッフルを出す珍しい店だった。2年前の春、京都に行ったとき「オレンジ」は無かったが「パロット」は残っていた。どうも最近閉店したらしい。就職活動のときも毎朝「パロット」のモーニングで気合を入れていた。

 

 

「京一会館」のそばに安売りのスーパーがあり時々行ったが、アパートからやや遠く、近くのスーパーで済ましていた。そのスーパーのそばに「にしむらや」という食堂があった。ここは料理が一皿ごと盛られている社員食堂のような形式で味は良かったがやや割高だった。

 

 

「京一会館」で思い出すのが、土曜日のオールナイトのポルノ映画である。これに毎週のように通っていた悪友数名が、日曜日の朝5時過ぎに私の部屋を襲撃した。寝ている方にとっては堪ったものじゃない。

 

まあ、ビデオすら殆どない時代だったから、そんな娯楽に走る輩もいたのだろうと微笑ましくも思えるのだが。

 

 

一昨日、昨日と気持ちの良い秋晴れだったが、今日は久々の雨で気温も下がった。昨日まで半袖で頑張ったが、この土日で衣替え、来週からは秋の装いとなりそうである。

 

 

今までの人生を振りかえると、結構な回数引っ越しをしている。住んだ場所も、京都で2か所、東京で2か所、福岡で2か所、北九州で5か所。随分転々としたものだ。

 

 

今も思い出す引っ越しがいくつかあるが、京都の吉田二本松町から一乗寺燈籠本町への引っ越しは特に思い出深い。

 

吉田の下宿は結構厳格で、門限や麻雀禁止など学生に対するルールも厳しかった。一回生の夏、週刊文春から「下宿百年」の取材が来て、私や私の部屋の写真が週刊誌に掲載された。大家さんが言うには「私の部屋が比較的きれいに整頓されていた」から選んだそうである。雑誌に写真が載ったのは、もちろんこのときが最初で最後だ。

 

 

下宿生は全員京大で理科系の学生が多かった。両隣は理学部数学科の3回生と医学部の5回生、どう見ても硬派ばかりである。経済学部の軟弱な私には少し場違いだったように思われる。

 

下宿に友だちを呼んで騒いだり酒盛りしたりと、大家さんから何度か叱責された2回生の終わり、下宿を出ることを決意した。当時は大学から少し離れたところでプライバシーが保たれるところにしようと考えていた。

 

 

出町柳の不動産屋で一乗寺の新築アパート「さくら荘」を見つけた。いわゆる1Kで窓が2方向にありトイレ付き、銭湯も徒歩1分のところにあった。大学へは自転車で20分くらいの場所だった。「此処に決めた!」と一発で契約した。

 

家賃は2倍ほどになるが、家庭教師のバイトもあり何とかなると考えた。また、とにかく大学のそばを離れたかった。だが、これがそもそも間違いだったようである。

 

 

当時は引っ越し業者など無い。友人二人が引っ越しを手伝ってくれた。一人が軽トラを借りてきて、家財道具を積み込んで吉田から一乗寺へと運んだ。お礼に二人に食事を御馳走した。当時の引っ越しとはそんなものだった。

 

 

一乗寺での新生活に胸を膨らませつつ、引っ越しも終わり進むゼミも決まって一段落した1980年3月、生協の売店で買ったグレーのスタジャンを身に羽織り、巷ではクリスタルキングの「大都会」や渡辺真知子の「唇よ、熱く君を語れ」という曲が大ヒットしていた。

 

 

 

 

先日、娘が孫娘の幼稚園の運動会の写真や動画を送ってきた。子供の成長は速いものだ。写真を見るたび一回り大きくなっている。LINEは家族・親族間のコミュニケーションを活発にしてくれる。

 

一昨日くらいから気温が少し下がった。後10日もすれば衣替えをしなければならないかも知れない。今年も秋が深まりつつある。

 

 

李白に「山中與幽人対酌(山中にて幽人と対酌す)」という七言絶句がある。第二句の「一杯一杯復一杯」は知っている人も多いだろう。

 

この詩を本歌取りして、以下の七言律詩を作ってみた。大学2回生のある冬の夜を詠んだものである。翌日の課を顧みずよく遊んだ頃だった。

 

 

「冬夜與洛友対局」無名子                        「冬夜洛友と対局す」

 

冬夜洛友集囲卓                                            冬夜洛友集いて卓を囲む

起家決而東場始                                            起家決まりて東場始まる

半荘一荘復一荘                                            半荘一荘復た一荘

振聴多牌復冲和                                            振聴多牌復た冲和

誰問今既西場入                                            誰か問う「今既に西場に入るか」と

皆笑曰未東三局                                            皆笑いて曰く「未だ東三局なり」と

明朝有煩独語課                                            明朝煩しき独語の課有り

須出席勿失単位                                            須らく出席し単位を失うこと勿れ

 

(現代語訳)

ある冬の夜、悪友が集まって卓を囲むことになった。

起家(親)が決まり東場が始まった。

気がつけば半チャンがイーチャンになり、またイーチャンと長丁場になった。

振聴(フリテン)や多牌(ターハイ)など冲和(チョンボ)も多発した。

何を血迷ったのか「今西入しとる!?」などとほざく輩がいる。

皆呆れて「何言うてんねん!まだ東三局やで!」と返す。

明日は朝(一コマ目)から鬱陶しいドイツ語の授業がある。

必ず出席して単位を落とさないようにしなければ。

 

 

今年は、10月半ばになっても暑さが引かず、当分は半袖で過ごせそうである。それでも、週に一度ほど通う近所のスパの水風呂が、いつの間にか少し冷たく感じられるようになった。

 

水風呂に浸かっていると、ある種の解放感とともに、様々な思考が頭の中に浮かんでは消える。だが冷たさに耐えきれなくなり、思考はいつも中断され、再びサウナ室へと戻ることになる。──まあ、そのくり返しが、案外心地よいものなのだが。

 

 

東日本大震災のあった2011年の11月の終わり、ふとしたきっかけで断酒を始めた。それから6年間、2017年の11月頃まで、一滴のアルコールも口にしなかった。

 

断酒中の夜は比較的有意義だった。DVDを観たり、仕事関係の本を読んだり。法務と技術が触れ合う知的財産権を学び、資格を取得できたのもその成果の一つである。

 

ただ、資格を取ってから9年が過ぎ、実務に触れる機会が乏しかったこともあって、今ではすっかり忘れてしまった。やはり、資格を取っただけでは、知識は定着しないものである。

 

 

その後、今の妻と交際を始めてから、少しずつ酒を飲むようになった。その方が食も進み、会話も弾み、何より楽しい。飲酒にも、度を越さなければそれなりの効用がある。妻が料理好きなこともあって、酒量は自然と増え、体重もまた単調増加することになった。

 

 

酒を飲んでいるときにも、色々なことを思いつく。ただし、そういう発想はどこかに書き留めておくべきである。まるで俳句のようなものだ。そうしなければすぐに忘れてしまう。

 

たとえ覚えていたとしても、酔いが醒めてから慎重にもう一度考え、人に相談するなどして一呼吸置くべきである。酔った頭には、ときに思い違いもある。

 

 

もう少し秋が深まり、柿の実が色づく頃になったら、近場の温泉の露天風呂にでも浸かって、色々なことを考えてみたい。これまでの自らの人生のこと、家族や友人のこと、そしてこれからの生活のこと。そんな時間も、また乙なものである。

 

 

──さて、以下、陶淵明の漢詩「飲酒」を掲げ、ゆっくりと鑑賞してみたい。

 

 

「飲酒」 陶淵明

 

結廬在人境                                 庵を結んで人境に在り

而無車馬喧                                 而も車馬の喧(かまびす)し無し

問君何能爾                                 君に問ふ何ぞ能く爾(しか)ると

心遠地自偏                                 心遠ければ地自づから偏なり

採菊東籬下                                 菊を採る東籬の下

悠然見南山                                 悠然として南山を見る

山氣日夕佳                                 山気 日夕に佳(よ)く

飛鳥相與還                                 飛鳥 相与(とも)に還る

此中有眞意                                 此の中(うち)真意有り

欲辨已忘言                                 弁ぜんと欲すれども已に言を忘る

 

 

(現代語訳)

小さな庵を構えて人里に住んでいるので、車馬の騒音に煩わされることはない。

「何故そのようにしていられるのか?」と人に聞かれるが、心が俗世から離れていると自然とこんな境地に達するものである。

東側の垣根の下で菊の花を採り、南山の悠然とした姿をゆったりと眺めている。

山の佇まいは朝な夕なに美しく、鳥たちが連なって塒(ねぐら)へと帰っていく。

「このような自然と一体となった心境の中にこそ、本当の悟りがあるのだ」と感じてそれを言葉にしようとしたが、既に何を考えていたのか忘れてしまった。

 

 

 

ノーベル生理学・医学賞、化学賞と立て続けに京大卒の先輩方が受賞され、大学・教養部のクラスのグループLINEが大いに盛り上がっていた。それにしても、「京大は理系だ!」とつくづく感じる。

 

 

京大のスクールカラーはダークブルー(濃青)だが、これは大正9年(1920年)、瀬田川にて行われた東大・京大の両大学ボート部による第一回対抗競漕で、両大学の乗るボートをくじ引きで決め、その際、京大がダークブルー(濃青)、東大がライトブルー(淡青)に決まったことに由来するらしい。

 

これは、イギリスのオックスフォード大(ダークブルー)・ケンブリッジ大(ライトブルー)の例に倣ったもので、ボートに限らず、両大学のスポーツ対校戦に出た選手には、「ブルー」の称号が与えられ、人格高尚な紳士とみなされ尊敬の目で迎えられたという。

 

 

現在の京大の入試と我々の時代(47年前)とを比べてみると、2次試験の社会科が1科目になったこと(東大は今でも2科目)、経済学部が理系からも受験できるようになったことなど、京大文系は以前に比べて入り易くなったようにも思われる。

 

一方で、共通テスト(1次試験)での英語のリスニング、全般的な英語の問題量の増加、社会科での論述問題の増加などを考慮すれば、今の受験生の負荷は決して小さくなく、一概に簡単になったとは言えないようである。

 

 

大学入試のことは今でも思い出すが、入学してからはしっかり勉強した記憶がない。経済学部では教養部2回生から本学の授業が受講できたが、当時はマルクス経済学の講義も多く面食らうことが多かった。まともに受講したのは金融論くらいだった。

 

そんなこんなで、ろくな勉強もせずに受けた2回生の学部試験の結果は酷いものだった。周りからは「留年確実」とまで囁かれた。また、2回生後半から3回生前半にかけて、麻雀や酒に現を抜かした時期があった。昼夜が逆転した生活だった。

 

 

その頃の生活を漢詩に書いてみた。私に限らず、似たような暮らしを経験した人もいるだろう。「人格高尚な紳士」は何処に行ったのか?

 

 

「洛友秋日」 無名子

 

嗚呼徹麻復徹麻                                       嗚呼徹麻、復(また)徹麻

喫茶珈琲始一日                                       喫茶の珈琲一日を始(はじ)む

下宿還爆睡如屍                                       下宿に還れば、爆睡すること屍の如し

覚夕刊届銭湯開                                       覚むれば夕刊届き銭湯開く

野球始朋来誘酒                                       野球始まれば朋来たりて酒に誘う

青雲志今何処在                                       青雲の志、今何処(いずこ)にか在る

小人不顧翌日課                                       小人は翌日の課を顧みず

欲奪点棒失単位                                       点棒を奪わんと欲して単位を失う

 

(現代語訳)

嗚呼!徹マン、今日もまた徹マン。喫茶「バンビ」のモーニングで一日が始まる。

下宿に戻れば屍のように爆睡し、目が覚めれば既に夕刊が届き銭湯も開いている。

(ひと風呂浴びて)野球が始まるころには友人が飲みに行こうと誘いに来る。

あの頃の青雲の志は何処へいったのやら?

徳のない人間は翌日の課題を顧みず、点棒を奪おうとして単位を失うのだ。

 

註)喫茶「バンビ」は、左京区浄土寺石橋町に実在する喫茶店

 

 

先週の日曜は妻の誕生日で、思い立って大分県・日田の豆田町まで車を走らせた。豆田町は5年ぶりくらいだった。高速なら鳥栖を経由して大分道に入るが、あまりに遠回りなので一般道を使った。国道322号線経由で英彦山を通って小石原に入るルートである。

 

 

10時半過ぎに家を出て、途中「道の駅小石原」で焼き物を物色し煮物用の皿を購入した。日田・豆田町に着いたのは13時近かった。日田市は九州北部では最も気温が高い場所の一つである。天候は晴れ予想通り暑く、町は外国人観光客(主に韓国人)で溢れていた。

 

 

 

 

車を停めて、まずは腹ごしらえである。駐車場から少し歩いたカフェ(食堂)にフラッと入った。客は外国人ばかりだった。チキン南蛮定食と鶏天定食を注文したが、ボリュームもありなかなか美味しかった。

 

 

 

食事を終えて古い町並みをブラブラと散策した。豆田町には何か所か公衆トイレが設置されていて、観光客に優しい町になっている。人に道を尋ねてもみな親切に教えてくれた。道すがら、下駄・草履の専門店、味噌・醤油の専門店、また地酒の酒蔵などを物色した。

 

 

ふと、日田土鈴の専門店に入ると蛙の土鈴が目に留まった。眼をつぶった緑色の蛙である。帰宅してから箱を開けると「もし、土鈴が割れた時は、それが身代わりになってくれたと言われています」というメッセージが添えられていた。何とも健気な蛙である。

 

 

 

15:00過ぎには豆田町を後に帰途に着いた。途中、小石原に新しいカフェができていたので立ち寄った。外壁がガラス張りでなかなかお洒落な雰囲気だった。一杯のアイスコーヒーで少し運転の疲れがとれた。

 

 

 

途中、夕飯の買い物をして帰宅したのは18:00過ぎだった。それから、日田の日帰り旅を振り返りながら杯を重ねることになった。

 

今日、近くの中学校で運動会の予行演習が行われているのを見た。今でも中学校では10月に運動会が行われているのか。

 

私が小・中学校の頃は、運動会は10月と決まっていた。妙な話だが、私は入場行進するのが好きだった。なんか軍隊みたいで恰好よかったからだ。また行進曲のメロディも好きだった。例えばワーグナーの「双頭の鷲の旗の下に」なども普通に流されていた。

 

時は昭和40年代の前半、テレビの懐メロではまだ軍歌が歌われ、日本の戦争映画なども放映されるなど戦後の雰囲気があちこちに残っていた。

 

 

小学校の運動会では、5・6年になると紅組・白組男子で騎馬戦(川中島)が行われた。紅組が武田信玄、白組が上杉謙信と相場が決まっていた。何故かワクワクする競技だった。なお、騎馬戦を「川中島」と呼ぶのはどうも私の住む地域だけらしい。

 

競技の前には「鞭声粛々夜河を渡る」の詩吟が流されたり、「川中島の歌」を歌ったりした。私は元々武田信玄のファンだったが、1969年放送のNHK大河ドラマ「天と地と」を観て以来、上杉謙信のファンになった。それは今も変わっていない。

 

 

 

「八月十五夜」を詠んだ蘇軾の漢詩「中秋月」を紹介したので、もう一つの名月「九月十三夜」の漢詩を紹介したい。漢詩が片見月(かたみつき)とはならないように。

 

 

その詩とは上杉謙信の「九月十三夜陣中作」である。戦陣にて自らの戦果を讃え故郷を振り返る名作である。以前、下手な英訳を試みているので、併せてそれも掲載する。

 

 

上杉謙信 「九月十三夜陣中作」

 

霜満軍営秋気清                              霜は軍営に満ちて 秋気清し

数行過雁月三更                              数行の過雁(かがん) 月三更(さんこう)

越山併得能州景                              越山併(あわ)せ得たり 能州の景

遮莫家郷憶遠征                              遮莫(さもあらばあれ) 家郷遠征を憶うを

 

(拙現代語訳)

霜が陣営を白く覆って、秋の気配が清々しい。真夜中の月が冴えざえと照り映える中、幾列かの雁が空を渡ってゆく。越後・越中の山々に加え、遂にこの能登の風景も手中に収めることができた。故郷では家族が遠征にある我が身を案じているだろうが、とりあえず今夜はこの十三夜の月を眺めていよう。

 

 

(自作英訳・改訂第二版)

“A Poem on the 13th night at the camp” by UESUGI Kenshin

 

Frost has fully covered the camp amid the crisp autumn air.

Some rows of wild geese are passing under the silent moon at midnight.

Winning a splendid landscape of Noto together with Etchu and Echigo mountains.

For the time being, let me leave it aside the homeland worrying about our expedition!