今年は、10月半ばになっても暑さが引かず、当分は半袖で過ごせそうである。それでも、週に一度ほど通う近所のスパの水風呂が、いつの間にか少し冷たく感じられるようになった。
水風呂に浸かっていると、ある種の解放感とともに、様々な思考が頭の中に浮かんでは消える。だが冷たさに耐えきれなくなり、思考はいつも中断され、再びサウナ室へと戻ることになる。──まあ、そのくり返しが、案外心地よいものなのだが。
東日本大震災のあった2011年の11月の終わり、ふとしたきっかけで断酒を始めた。それから6年間、2017年の11月頃まで、一滴のアルコールも口にしなかった。
断酒中の夜は比較的有意義だった。DVDを観たり、仕事関係の本を読んだり。法務と技術が触れ合う知的財産権を学び、資格を取得できたのもその成果の一つである。
ただ、資格を取ってから9年が過ぎ、実務に触れる機会が乏しかったこともあって、今ではすっかり忘れてしまった。やはり、資格を取っただけでは、知識は定着しないものである。
その後、今の妻と交際を始めてから、少しずつ酒を飲むようになった。その方が食も進み、会話も弾み、何より楽しい。飲酒にも、度を越さなければそれなりの効用がある。妻が料理好きなこともあって、酒量は自然と増え、体重もまた単調増加することになった。
酒を飲んでいるときにも、色々なことを思いつく。ただし、そういう発想はどこかに書き留めておくべきである。まるで俳句のようなものだ。そうしなければすぐに忘れてしまう。
たとえ覚えていたとしても、酔いが醒めてから慎重にもう一度考え、人に相談するなどして一呼吸置くべきである。酔った頭には、ときに思い違いもある。
もう少し秋が深まり、柿の実が色づく頃になったら、近場の温泉の露天風呂にでも浸かって、色々なことを考えてみたい。これまでの自らの人生のこと、家族や友人のこと、そしてこれからの生活のこと。そんな時間も、また乙なものである。
──さて、以下、陶淵明の漢詩「飲酒」を掲げ、ゆっくりと鑑賞してみたい。
「飲酒」 陶淵明
結廬在人境 庵を結んで人境に在り
而無車馬喧 而も車馬の喧(かまびす)し無し
問君何能爾 君に問ふ何ぞ能く爾(しか)ると
心遠地自偏 心遠ければ地自づから偏なり
採菊東籬下 菊を採る東籬の下
悠然見南山 悠然として南山を見る
山氣日夕佳 山気 日夕に佳(よ)く
飛鳥相與還 飛鳥 相与(とも)に還る
此中有眞意 此の中(うち)真意有り
欲辨已忘言 弁ぜんと欲すれども已に言を忘る
(現代語訳)
小さな庵を構えて人里に住んでいるので、車馬の騒音に煩わされることはない。
「何故そのようにしていられるのか?」と人に聞かれるが、心が俗世から離れていると自然とこんな境地に達するものである。
東側の垣根の下で菊の花を採り、南山の悠然とした姿をゆったりと眺めている。
山の佇まいは朝な夕なに美しく、鳥たちが連なって塒(ねぐら)へと帰っていく。
「このような自然と一体となった心境の中にこそ、本当の悟りがあるのだ」と感じてそれを言葉にしようとしたが、既に何を考えていたのか忘れてしまった。