流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

父が亡くなって今日で18年になる。その日も暑い日で気温は36℃くらいまで上がった。父が亡くなったのは早朝で、慌ただしさと喪失感の中、病院の中庭で煙草を吸いながら弟と何か話した記憶がぼんやりと残っている。干支が一回り半、時の経つのは速いものだ。

 

 

福岡の筥崎宮で「放生会(ほうじょうや)」が始まった。博多三大祭りの一つで、博多に秋の訪れを告げる祭りと言われている。この祭りの趣旨は「万物の生命をいつくしみ、殺生を戒め、秋の実りに感謝する」ことである。夏の間に殺生された虫たちの魂を供養するものなのかもしれない。

 

祭りでは「ちゃんぽん」と呼ばれるガラスでできたおもちゃの笛が売られており、吹くと「チャンポン」という音がする。涼しげなデザインがお洒落だが、この祭りに行ったことは無い。父は俳句が趣味で何度か祭りに行って句を詠んだようだ。

 

二階の父の書斎を探してみれば、何処かに「放生会」を詠んだ句が出てくるかもしれない。

 

 

 

筥崎宮には今まで何度か行ったことがある。年明けに行われる「玉せせり(玉取祭)」も有名な祭りの一つだ。男たちが褌(締め込み)一丁になり集団で競って玉取りを行い、その年の吉凶を占う正月行事である。とかく博多の祭りは、男たちが褌一丁でウロウロするものが多い。

 

筥崎宮の楼門に掲げられる「敵国降伏」とは、鎌倉期に亀山上皇が納められた御宸筆(天皇の自筆)を、楼門建立の際、小早川隆景が模写拡大して掲げたものらしい。その真意は、武力で相手を降伏させる覇道ではなく、徳の力をもって導き、相手が自ずから靡き降伏するという王道である我が国のあり方を説いているという。

 

 

 

筥崎宮の近くに老舗屋台の「花山」がある。九大に通っていた高校時代の友人が学生時代にバイトしていた縁で、何度か連れて行ってもらった。調べると創業は昭和28年で私より年上でかなり有名な屋台のようだ。焼き鳥とラーメンを食べたが、もう随分昔で味は覚えていない。次回、彼と会う時は「花山」もありか、と思う。

 

 

それにしても、父は「放生会」でどんな句を詠んだのだろう。「書斎を探してみるか!」という気持ちになった。18年の時を経て、父の想いに触れることができるかもしれない。

 

 

私が通った高校は、小倉北区の到津というところにある。高校の裏手の大通りを挟んだ向かい側に「九州歯科大学(Kyushu Dental University)」がある。

 

日本でただ一つの公立の歯科大学で、その影響か市内には歯科医院が多い。有名な歯科医も数多いようだ。だが、私にとって、幼い頃から歯医者は怖い場所の一つだった。当時は子どもには痛い治療が多かった。歯科医になろう、などとは思ったことは一度もなかった。

 

 

そんな九州歯科大学近くにあるラーメン屋「宝龍」に、フラーっと入ったのが数年前のことである。看板には久留米ラーメンと書かれており、店先に漂う臭い豚骨の香りに誘われたからである。

 

店内はカウンターと小上がりの座敷が二席ほどの広さだが、座敷の壁には、誰が弾くのか二本のギターが掛けられていた。

 

 

ラーメンを注文して暫く待つと、なみなみのスープが盛られた一品が出てきた。スープを一口啜って「美味い!」と感じた。私好みの味である。ラーメンも色々食べたがなかなかこの味に当たらない。「私は久留米の味が好きだったのか!」と改めて認識させられた。

 

 

自宅からやや距離もあり、なかなか行けなかったが、先日思い立って、妻を連れて食べに行った。蒸し暑い日だったが、相変わらずの美味さに大汗をかきながら大盛りを完食した。妻もこの味は好きらしい。

 

私があまりに汗をかくのを見かねたのか、大将は私だけのために、わざわざポータブルの扇風機持ってきて点けてくれた。人の優しい心に触れた気がした。

 

 

ネットで調べると、ギターを弾かれるのは大将のようである。涼しくなったらまた食べに行こう。お勧めの一店である。

 

 

 

※動画は拝借いたしました。

学生時代「餃子の王将」(京大農学部前店)には随分お世話になった。下宿から歩いて15分ほどかかったが、当時歩くことには苦にならなかった。

 

王将の秋のメニューに「肉茄子定食」なるものがあった。これが実に美味かった。茄子と豚肉の甘辛炒めで、タマネギやニンジン、タケノコやピーマンも入っていた。ライスとスープがついて当時450円くらいだったから、今の半額以下だろう。

 

あまりの美味さに、昼食、夕食と続けて食べたこともあった。今でも自宅近くの「餃子の王将」に時々行くが、このメニューは果たして現存しているのか。今度探してみよう。

 

 

 

昔から茄子は好物だが、この点では妻と好みが一致している。焼き茄子、炒め物、煮びたし、天ぷら、味噌汁、漬物などなど何でも好きだ。そんな中で思い出すのが、私が幼い頃、母がよく作った茄子料理である。

 

その料理は、我が家では「茄子の田楽」と呼ばれていた。普通「茄子の田楽」と言えば、茄子を真っ二つに切って焼いたものに甘辛い味噌を塗ったものが殆どだが、我が家のものは全くの別物だった。一言でいえば、茄子、ピーマンと豚肉の味噌炒めだった。

 

 

私が高校、弟が中学の頃、母が胆石の手術で入院したことがあった。当時の手術は現在の内視鏡によるものではなく大がかりなもので、母の入院期間も1か月以上だった。

 

はっきりと覚えていないが、その母の入院期間中、私と弟はこの「茄子の田楽」がどうしても食べたくなった。ある土曜日の午後、弟と「とりあえず作ってみるか!」ということになった。

 

 

近くのスーパーで茄子、ピーマンと豚肉を買い出しに行き、とにかく、見よう見まねで作ってみた。本来ならば、最初に茄子、ピーマンと豚肉を十分炒めてから取り出し、別途、味噌、砂糖、酒、しょう油などでソースを作り、それを絡めて完成させるものだろうが、とりあえずフライパンに全具材を放り込んで炒めて煮込んで、それなりの田楽が出来あがった。

 

それにしても、茄子は煮崩れてベチャベチャになり、ピーマンも見る影もなく、惨憺たる見栄えではあったが、食べてみると、これが実に美味かった。料理の途中、味見だけはしていたからだろう。あっという間に二人で平らげてしまった。

 

 

妻に、この「茄子の田楽」がどんな味だったのかを伝え、何度か作ってもらったが、いまだに母の味には届かない。母が元気なうちに、レシピなど聞いておくべきだった、とつくづく後悔している。

 

 

9月に入り、セミの鳴き声がツクツクボウシに変わったが、まだまだ暑い。新学期(市内の小学校は今年から二学期制に変わったが)が始まり、何処か疲れを引きずった子供たちの姿を街中でよく見かけるようになった。

 

 

祖母が元気な頃は、自家製の味噌を作っていた。ネットで調べると、作り方は、①大豆を1日半程度水に漬ける⇒②大豆を煮てすり鉢で潰す⇒③潰した大豆に塩と麹を混ぜ合わせる⇒④容器に入れて熟成させる、というプロセスのようである。

 

祖母が使っていた容器はぬか床と同じような壺で、暗い床下に置いて熟成させていた。今思えば、祖母がそんな苦労をして作った味噌で作った味噌汁を毎日飲んでいたことになる。

 

 

味噌汁の具を好きな順で言えば、私の場合、①タマネギ⇒②ナス⇒③里芋⇒④貝(アサリ・シジミ)、となる。豆腐や油揚げ、小葱はオプションだ。ソーメンを入れることもある。

 

妻は、色々な野菜が入った具だくさんの味噌汁が好きなようで、いつも豚ぬきの豚汁のようなものになるが、単品野菜の味わい深い味噌汁を少し懐かしく感じる。まあ、作るのは彼女なので、あまり文句は言えないが…。

 

 

今思い出したが、私が風邪を引いたりして体調が悪いときに、母が「呉汁」作ってくれた。大豆を煮たものをすり鉢で軽く潰したものを具にした味噌汁だ。大豆以外には油揚げくらいしか入っていなかったが、体の芯から温まったような気がした。「呉汁」ももう50年近く味わっていない。

 

 

今はスーパーに行けば何種類もの味噌が並んでいるが、祖母の手作りの味噌や、母の「呉汁」の味は、二度と味わうことのできない特別なものである。

 

 

 

 

「ぬか漬け」は英語でrice bran picklesという。私は漬物が好きで、その中でもこのぬか漬けが大好物だ。祖母や母の世代には、家庭に「ぬか床」(rice bran pickling beds)があって、自家製のぬか漬けを作っていた。ぬか漬けにはその家独自の風味があった。

 

我が家でも、以前妻がこのぬか漬けづくりに挑戦したが、ぬか床の維持・管理が難しく結局断念してしまった。昨今はスーパーなどでも本物のぬか漬けを置いているところは少なく、「道の駅」などで時々見つけると急いで買い物かごに入れていた。

 

 

私は、月一回ある病院に通っているが、その近くに古い市場がある。この市場は私が幼い頃からあった。市場には、八百屋、魚屋、肉屋、花屋、総菜屋や食堂などが昭和の雰囲気で営業されている。

 

この市場の中で、年配の女性が露店で自家製のぬか漬けを売っているのを見つけたのが数年前のことである。安くもあり、とりあえず買ってみた。漬かりは100点満点とは言えないものの、本物であることは間違いない。私はやや漬かり過ぎの酸味が強いものが好きだが、少し漬かりが足らないようだ。しかし、贅沢は言っておられない。

 

以来、ぬか漬けが食べたくなると、この市場に顔を出すようになった。

 

 

以前勤務していた職場で、ある年配の男性が、ぬか床の代わりに味噌とヨーグルトで漬けたキュウリを持ってきて食べさせてくれた。ぬか漬けとほぼ同じ風味なのに驚いた。当時独り暮らしだったこともあり、早速大きなタッパーを買って自家製ぬか漬けに挑戦した。

 

それなりのものができ上がったが、やはり少し違う気がした。また、味噌とヨーグルトのぬか床は、結構水分が出て、思いのほか維持・管理が面倒だった。2か月くらい続いたが、結局断念してしまった。やはり美味しいものを作るのは、それなりに大変なのである。

 

 

 

東京から福岡・博多にUターンしたのが1989年の9月なので、もうすぐ36年になる。今年は干支が3回りした同じ巳年だ。

 

博多で働き始めた当初は、東京時代の反動からか、昼食はラーメンを食べることが多かった。当時の東京には豚骨ラーメンの店は殆ど無かった。あまりにラーメンばかり食べるので、周りからは「ラーメンマン」と呼ばれた。

 

 

 

当時、博多駅のガード下に飲食店があった。よく通ったのが「万寿園」という居酒屋である。焼き鳥、刺身や素朴な家庭料理のほか、ラーメンも食べられた。博多ではラーメンを出す居酒屋が多かった。

 

そこで、よく注文したのが「ゴマサバ」だった。「ゴマサバ」は博多/北九州の郷土料理でサバの刺身を醤油に漬けて、小ネギやすりゴマを振りかけたものである。これが、実に美味しかった。毎回のように注文するので、店に入ると大将から「ゴマサバの兄ちゃん!いらっしゃい!」と声を掛けられた。

 

大将と妹さんで店を回されていたが、今でも何となくお二人のお顔が思い浮かぶ。

 

 

北九州にはサバやイワシを使った郷土料理がもう一つある。「ぬかみそ炊き(ぬか炊き)」だ。ぬかみそを入れてサバやイワシを炊いた(煮た)もので、青魚独特の生臭さが消えて実に美味しい。

 

ご飯がすすむのはもちろんだが、先日のニュースによれば、市内の高校生が「ぬか炊き」を使ったパンで、サバやクジラを具材にした新商品を開発したらしい。機会があれば食べてみたいものである。

 

 

妻は、以前はサバの生臭さが苦手だったらしい。「ぬか炊き」を食べさせると「これは美味しい!」と言った。今度は「ゴマサバ」を食べさせて、この秋には我が家で「ゴマサバ」が楽しめるようになれば、と秘かに願っている。

 

先日の新聞によると、マルタイの「棒ラーメン」の売上が関東・関西地区で増加しているらしい。米・麦などの物価の上昇に影響されたもので、一袋130円程度で2人前という経済的なところが受けているという。ご多分に漏れず我が家にもこの「棒ラーメン」の在庫があった。

 

 

マルタイの「棒ラーメン」は1959年の発売で私の年齢とほぼ等しい。同じくマルタイの「屋台ラーメン」が1969年に発売されるまでは、我が家の食卓の即席ラーメンの定番だった。

 

後発の「屋台ラーメン」はトンコツ風味が美味しく「棒ラーメン」にとってかわった。高校・予備校では私の夜食の不動の定番となった。大学時代、母がこの「屋台ラーメン」を箱で下宿に送ってきたことがあった。当時、京都ではマルタイの商品は出回っていなかった。九州出身の友人に配って一緒に食べたことを思い出す。

 

具のない「屋台ラーメン」(素ラーメン)は味気ないものだったろうが、そのときは故郷を懐かしみ有難がって食べたものである。この「屋台ラーメン」も現在の我が家の在庫にしっかりとある。

 

 

 

 

ここで、少し英語の話題に触れてみたい。「棒ラーメンは経済的と書いたが、形容詞はeconomicalである。economical「節約できる・無駄がない・コスパが良い」という意味であるのに対し、類似語のeconomic「経済の・経済に関する」という意味である。この辺は大学受験で覚えた人も多いだろう。

 

では、以下の文はどういう意味だろうか?

 

1) The report is rather economical with the truth about the environmental damage.

2) The minister was accused of being economical with the truth during the debate.

 

economical with the truthはイディオムで、直訳すると「真実に対して倹約的」だが、実際には、「本当のことを全部言わない・ごまかす」という婉曲表現となる。outright lie(はっきりした嘘)ではなく、事実を都合よく省いたり、誤解を招くように話すことを意味する。

 

従って、上記の文の意味は、

1)「その報告書は環境被害についてかなりごまかしている」

2)「その大臣は討論の最中、事実を隠していると非難された」

 

 

英会話のテキストにそんな表現が出てきた。

 

一昨日、久しぶりにギラギラしない夏の夕暮れを見かけた。その夜「京都・五山の送り火」がBSで生中継されていた。松明の炎が消えてゆくように今年の盆が静かに過ぎていった。

 

 

高校野球で地元校が敗れベスト8が出揃う頃、「今年の夏も終わりだなぁ~」と感傷的な気持ちになる。こんな暑い夏、さっさと逝って欲しいものだが、夏の終わりにはいつもそんな一抹の寂しさが付きまとう。

 

 

お盆で一週間ほど休みだった英会話学校で昨日レッスンを受けてきた。そこには休みを終えてそれなりに疲れて社会復帰しつつある講師・スタッフや生徒の姿があった。

 

 

先日、新聞に書評が掲載されていた「基軸通貨ドルの落日-トランプ・ショックの本質を読み解く-」(中野剛志著・文藝春秋)を、盆休み中に読み終えるつもりが、結構難解でなかなか思うに任せない。経済学の根本的な知識が欠けているようである。

 

 

そんなこんなで、今日から日本列島が再始動しているが、今日も相変わらずの暑さが続いている。ふと、こんな曲が思い浮かんだ。

 

いよいよ「晩夏光」の季節が始まる。

 

 

線状降水帯(linear precipitation band)により、2日ほどで1か月半分くらいの雨が降った。買い物に出たら道路上は雨水が溢れて川のようになっていた。干上がった田んぼは喜んだだろうが、川の近くの人たちは、さぞかし怖かっただろう。

 

線状降水帯が通り過ぎるとほぼ同時にセミが鳴きだし猛暑が戻ってきた。今年の夏は豪雨と猛暑で散々である。

 

 

私が幼い頃、お盆の時期になると近くの公園で「盆踊り」が催された。夜になると、浴衣を着て団扇を持って家族で公園に出かけた。公園の中心部には櫓が組まれ、櫓の上では太鼓が叩かれて「炭坑節」などの曲が流された。町内の人たちが櫓の回りを輪になって踊っていた。

 

お盆の時期に、伯父夫婦の家に泊っていたこともあり、そのときは伯父の町内の「盆踊り」に出かけた。そこで流れていたのが「沖縄音頭」という曲である。耳に残るメロディーで今でも懐かしく思い出す。

 

 

 

 

 

 

中学1年くらいを最後に「盆踊り」に出かけることはなくなった。「もう子供じゃない」と自分に言い聞かせていたのか。それとも、中島みゆきの「まつりばやし」の歌詞にあるように「人は誰でもまつりの終わりを知る まつりばやしに入れなくなる時を知る」の心境なのか。

 

ただ、盆踊りを踊る浴衣を着た若いお姉さんたちには、当時からそこはかとない色気を感じていた。それは今でも変わらない。

 

 

 

最後に「盆踊り」を見たのは東京で一人暮らしをしていた頃だ。国分寺市光町というところに住んでいた。お盆、夕方過ぎになると、近くから太鼓の音が響いてきた。太鼓の音のする方に向かって行くと公園があり、聞こえてきた曲は、なんと「炭坑節」だった。

 

「東京も九州の田舎と一緒じゃないか!?」と妙な親しみを覚えた。

 

 

これが平成の初めの頃なので、以来35年余り盆踊りは見ていないが、「今の子どもたちはちょっと可哀想だな」と感じた。

 

歴史に興味を持ったのは小学6年のときだ。教頭先生が古代史を研究されていた方で、社会(歴史)の特別授業があったからだ。小学生にもわかりやすい専門的な講義で、特に古墳銅鐸・銅鏡・勾玉などの出土物に興味を持った。

 

そんな歴史に対する純粋な興味や関心は中学校の間に消え失せた。歴史が、単なる高校入試科目の一つになったからなのか。教師やクラスの雰囲気が違ったからなのか?かなり受動的な科目になってしまった。

 

 

高校2年になって「世界史」の授業が始まった。教科書や授業の内容が新鮮で再び歴史に興味を持った。「チャート式 新・世界史」(数研出版)を買って、授業と並行して読み始めた。

 

勉強の成果はすぐに表れた。高校2年1学期の中間考査の世界史で98点をとり学年で1番になった。担当の教師はこれを褒めちぎってくれた。初めて味わう誇らしい気分だった。これがそれからの勉強のきっかけになったことは間違いない。

 

当時は、西洋史への関心が強かった。経済学部などではなく、文学部で西洋史を専攻し、キリスト教や十字軍の歴史などを研究しながら一生を送るのも楽しかったかも知れない。もちろん、それはそれで大変なことなのだろうが。

 

 

受験戦争がはじまり、世界史は再び単なる受験科目の一つになっていった。いくら好きでも全科目をバランスよく勉強しなければならない。ある意味、受験勉強とは個性を失わせるものである。そんなことを感じる。

 

 

そんな高校2年のころ、西洋史に関連したあるアニメが放映されていた。時は革命前夜のフランスである。タイトルは「ラ・セーヌの星」。毎週欠かさずに観ていた。

 

ヒロインの「ラ・セーヌの星(花売り娘のシモーヌ)」に、私は恋心に近い感情を抱いていたようである。今でも、そんな仮面をつけた女性に怪しい魅力を感じるのは、この辺りに由来するのかも知れない。