流離の翻訳者 日日是好日

流離の翻訳者 日日是好日

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

今年は、10月半ばになっても暑さが引かず、当分は半袖で過ごせそうである。それでも、週に一度ほど通う近所のスパの水風呂が、いつの間にか少し冷たく感じられるようになった。

 

水風呂に浸かっていると、ある種の解放感とともに、様々な思考が頭の中に浮かんでは消える。だが冷たさに耐えきれなくなり、思考はいつも中断され、再びサウナ室へと戻ることになる。──まあ、そのくり返しが、案外心地よいものなのだが。

 

 

東日本大震災のあった2011年の11月の終わり、ふとしたきっかけで断酒を始めた。それから6年間、2017年の11月頃まで、一滴のアルコールも口にしなかった。

 

断酒中の夜は比較的有意義だった。DVDを観たり、仕事関係の本を読んだり。法務と技術が触れ合う知的財産権を学び、資格を取得できたのもその成果の一つである。

 

ただ、資格を取ってから9年が過ぎ、実務に触れる機会が乏しかったこともあって、今ではすっかり忘れてしまった。やはり、資格を取っただけでは、知識は定着しないものである。

 

 

その後、今の妻と交際を始めてから、少しずつ酒を飲むようになった。その方が食も進み、会話も弾み、何より楽しい。飲酒にも、度を越さなければそれなりの効用がある。妻が料理好きなこともあって、酒量は自然と増え、体重もまた単調増加することになった。

 

 

酒を飲んでいるときにも、色々なことを思いつく。ただし、そういう発想はどこかに書き留めておくべきである。まるで俳句のようなものだ。そうしなければすぐに忘れてしまう。

 

たとえ覚えていたとしても、酔いが醒めてから慎重にもう一度考え、人に相談するなどして一呼吸置くべきである。酔った頭には、ときに思い違いもある。

 

 

もう少し秋が深まり、柿の実が色づく頃になったら、近場の温泉の露天風呂にでも浸かって、色々なことを考えてみたい。これまでの自らの人生のこと、家族や友人のこと、そしてこれからの生活のこと。そんな時間も、また乙なものである。

 

 

──さて、以下、陶淵明の漢詩「飲酒」を掲げ、ゆっくりと鑑賞してみたい。

 

 

「飲酒」 陶淵明

 

結廬在人境                                 庵を結んで人境に在り

而無車馬喧                                 而も車馬の喧(かまびす)し無し

問君何能爾                                 君に問ふ何ぞ能く爾(しか)ると

心遠地自偏                                 心遠ければ地自づから偏なり

採菊東籬下                                 菊を採る東籬の下

悠然見南山                                 悠然として南山を見る

山氣日夕佳                                 山気 日夕に佳(よ)く

飛鳥相與還                                 飛鳥 相与(とも)に還る

此中有眞意                                 此の中(うち)真意有り

欲辨已忘言                                 弁ぜんと欲すれども已に言を忘る

 

 

(現代語訳)

小さな庵を構えて人里に住んでいるので、車馬の騒音に煩わされることはない。

「何故そのようにしていられるのか?」と人に聞かれるが、心が俗世から離れていると自然とこんな境地に達するものである。

東側の垣根の下で菊の花を採り、南山の悠然とした姿をゆったりと眺めている。

山の佇まいは朝な夕なに美しく、鳥たちが連なって塒(ねぐら)へと帰っていく。

「このような自然と一体となった心境の中にこそ、本当の悟りがあるのだ」と感じてそれを言葉にしようとしたが、既に何を考えていたのか忘れてしまった。

 

 

 

ノーベル生理学・医学賞、化学賞と立て続けに京大卒の先輩方が受賞され、大学・教養部のクラスのグループLINEが大いに盛り上がっていた。それにしても、「京大は理系だ!」とつくづく感じる。

 

 

京大のスクールカラーはダークブルー(濃青)だが、これは大正9年(1920年)、瀬田川にて行われた東大・京大の両大学ボート部による第一回対抗競漕で、両大学の乗るボートをくじ引きで決め、その際、京大がダークブルー(濃青)、東大がライトブルー(淡青)に決まったことに由来するらしい。

 

これは、イギリスのオックスフォード大(ダークブルー)・ケンブリッジ大(ライトブルー)の例に倣ったもので、ボートに限らず、両大学のスポーツ対校戦に出た選手には、「ブルー」の称号が与えられ、人格高尚な紳士とみなされ尊敬の目で迎えられたという。

 

 

現在の京大の入試と我々の時代(47年前)とを比べてみると、2次試験の社会科が1科目になったこと(東大は今でも2科目)、経済学部が理系からも受験できるようになったことなど、京大文系は以前に比べて入り易くなったようにも思われる。

 

一方で、共通テスト(1次試験)での英語のリスニング、全般的な英語の問題量の増加、社会科での論述問題の増加などを考慮すれば、今の受験生の負荷は決して小さくなく、一概に簡単になったとは言えないようである。

 

 

大学入試のことは今でも思い出すが、入学してからはしっかり勉強した記憶がない。経済学部では教養部2回生から本学の授業が受講できたが、当時はマルクス経済学の講義も多く面食らうことが多かった。まともに受講したのは金融論くらいだった。

 

そんなこんなで、ろくな勉強もせずに受けた2回生の学部試験の結果は酷いものだった。周りからは「留年確実」とまで囁かれた。また、2回生後半から3回生前半にかけて、麻雀や酒に現を抜かした時期があった。昼夜が逆転した生活だった。

 

 

その頃の生活を漢詩に書いてみた。私に限らず、似たような暮らしを経験した人もいるだろう。「人格高尚な紳士」は何処に行ったのか?

 

 

「洛友秋日」 無名子

 

嗚呼徹麻復徹麻                                       嗚呼徹麻、復(また)徹麻

喫茶珈琲始一日                                       喫茶の珈琲一日を始(はじ)む

下宿還爆睡如屍                                       下宿に還れば、爆睡すること屍の如し

覚夕刊届銭湯開                                       覚むれば夕刊届き銭湯開く

野球始朋来誘酒                                       野球始まれば朋来たりて酒に誘う

青雲志今何処在                                       青雲の志、今何処(いずこ)にか在る

小人不顧翌日課                                       小人は翌日の課を顧みず

欲奪点棒失単位                                       点棒を奪わんと欲して単位を失う

 

(現代語訳)

嗚呼!徹マン、今日もまた徹マン。喫茶「バンビ」のモーニングで一日が始まる。

下宿に戻れば屍のように爆睡し、目が覚めれば既に夕刊が届き銭湯も開いている。

(ひと風呂浴びて)野球が始まるころには友人が飲みに行こうと誘いに来る。

あの頃の青雲の志は何処へいったのやら?

徳のない人間は翌日の課題を顧みず、点棒を奪おうとして単位を失うのだ。

 

註)喫茶「バンビ」は、左京区浄土寺石橋町に実在する喫茶店

 

 

先週の日曜は妻の誕生日で、思い立って大分県・日田の豆田町まで車を走らせた。豆田町は5年ぶりくらいだった。高速なら鳥栖を経由して大分道に入るが、あまりに遠回りなので一般道を使った。国道322号線経由で英彦山を通って小石原に入るルートである。

 

 

10時半過ぎに家を出て、途中「道の駅小石原」で焼き物を物色し煮物用の皿を購入した。日田・豆田町に着いたのは13時近かった。日田市は九州北部では最も気温が高い場所の一つである。天候は晴れ予想通り暑く、町は外国人観光客(主に韓国人)で溢れていた。

 

 

 

 

車を停めて、まずは腹ごしらえである。駐車場から少し歩いたカフェ(食堂)にフラッと入った。客は外国人ばかりだった。チキン南蛮定食と鶏天定食を注文したが、ボリュームもありなかなか美味しかった。

 

 

 

食事を終えて古い町並みをブラブラと散策した。豆田町には何か所か公衆トイレが設置されていて、観光客に優しい町になっている。人に道を尋ねてもみな親切に教えてくれた。道すがら、下駄・草履の専門店、味噌・醤油の専門店、また地酒の酒蔵などを物色した。

 

 

ふと、日田土鈴の専門店に入ると蛙の土鈴が目に留まった。眼をつぶった緑色の蛙である。帰宅してから箱を開けると「もし、土鈴が割れた時は、それが身代わりになってくれたと言われています」というメッセージが添えられていた。何とも健気な蛙である。

 

 

 

15:00過ぎには豆田町を後に帰途に着いた。途中、小石原に新しいカフェができていたので立ち寄った。外壁がガラス張りでなかなかお洒落な雰囲気だった。一杯のアイスコーヒーで少し運転の疲れがとれた。

 

 

 

途中、夕飯の買い物をして帰宅したのは18:00過ぎだった。それから、日田の日帰り旅を振り返りながら杯を重ねることになった。

 

今日、近くの中学校で運動会の予行演習が行われているのを見た。今でも中学校では10月に運動会が行われているのか。

 

私が小・中学校の頃は、運動会は10月と決まっていた。妙な話だが、私は入場行進するのが好きだった。なんか軍隊みたいで恰好よかったからだ。また行進曲のメロディも好きだった。例えばワーグナーの「双頭の鷲の旗の下に」なども普通に流されていた。

 

時は昭和40年代の前半、テレビの懐メロではまだ軍歌が歌われ、日本の戦争映画なども放映されるなど戦後の雰囲気があちこちに残っていた。

 

 

小学校の運動会では、5・6年になると紅組・白組男子で騎馬戦(川中島)が行われた。紅組が武田信玄、白組が上杉謙信と相場が決まっていた。何故かワクワクする競技だった。なお、騎馬戦を「川中島」と呼ぶのはどうも私の住む地域だけらしい。

 

競技の前には「鞭声粛々夜河を渡る」の詩吟が流されたり、「川中島の歌」を歌ったりした。私は元々武田信玄のファンだったが、1969年放送のNHK大河ドラマ「天と地と」を観て以来、上杉謙信のファンになった。それは今も変わっていない。

 

 

 

「八月十五夜」を詠んだ蘇軾の漢詩「中秋月」を紹介したので、もう一つの名月「九月十三夜」の漢詩を紹介したい。漢詩が片見月(かたみつき)とはならないように。

 

 

その詩とは上杉謙信の「九月十三夜陣中作」である。戦陣にて自らの戦果を讃え故郷を振り返る名作である。以前、下手な英訳を試みているので、併せてそれも掲載する。

 

 

上杉謙信 「九月十三夜陣中作」

 

霜満軍営秋気清                              霜は軍営に満ちて 秋気清し

数行過雁月三更                              数行の過雁(かがん) 月三更(さんこう)

越山併得能州景                              越山併(あわ)せ得たり 能州の景

遮莫家郷憶遠征                              遮莫(さもあらばあれ) 家郷遠征を憶うを

 

(拙現代語訳)

霜が陣営を白く覆って、秋の気配が清々しい。真夜中の月が冴えざえと照り映える中、幾列かの雁が空を渡ってゆく。越後・越中の山々に加え、遂にこの能登の風景も手中に収めることができた。故郷では家族が遠征にある我が身を案じているだろうが、とりあえず今夜はこの十三夜の月を眺めていよう。

 

 

(自作英訳・改訂第二版)

“A Poem on the 13th night at the camp” by UESUGI Kenshin

 

Frost has fully covered the camp amid the crisp autumn air.

Some rows of wild geese are passing under the silent moon at midnight.

Winning a splendid landscape of Noto together with Etchu and Echigo mountains.

For the time being, let me leave it aside the homeland worrying about our expedition!

 

 

 

お向かいの家の庭先に咲く赤と黄色のヒガンバナが美しい。10月に入り吹く風もやや涼しくこちらは初秋の佇まいになった。

 

 

 

お月見のシーズンが近づいているが、今年の八月十五夜(中秋の名月)は10月6日(月)、因みにもう一つ名月、九月十三夜(栗名月)は11月2日(日)となっている。いずれかの名月を見損なうことを片見月(かたみつき)と呼び縁起が悪いとする風習もあるらしい。

 

 

今から14年前、東日本大震災の年のブログで「中秋の名月」を詠んだ蘇軾(蘇東坡)(1036-1101)の「中秋月」を紹介した。中秋の名月(旧暦八月十五日)は中国では「中秋節」と呼ばれ祭日となっている。

 

 

その当時、3年間のフリーランス生活を終え、翻訳会社の正社員として勤務し始めて半年程経った頃で、工業英語の世界に少しずつ慣れてきた時期だった。日々新しい表現に出会い、脳も身体も飽和した状況が続いていた。

 

 

その頃、この詩を読んで果たして何を感じたのだろうか?今のような、それなりに幸せな暮らしが訪れるなどとは思ってもいなかった。

 

 

蘇軾 「中秋月」

 

暮雲収盡溢清寒                              暮雲 収まり尽きて 清寒溢る

銀漢無聲轉玉盤                              銀漢 声無く 玉盤を転ず

此生此夜不長好                              此の生 此の夜 長(とこしなへ)に好からず

明月明年何處看                              明月 明年 何れの処にか看ん

 

(現代語訳)

日暮れに雲は消え去り爽やかな涼気が溢れている。

音も無く流れる銀河(天の川)に宝石で作られた皿のような明月が現れた。

これほどに素晴らしい人生、素晴らしい夜だが、決してそれは永遠に続くことはない。

来年はこの月を、果たして何処で眺めていることだろう。

 

 

妻の発案で連休に倉敷・岡山と一泊二日で小旅行をしてきた。倉敷は以前から一度行ってみたかったところで、大分県日田市と同じく旧・天領である。日田にも「豆田町(豆田の町並み)」という観光スポットがある。

 

 

川沿いの「倉敷美観地区」では、白壁の古い町並みにファッショナブルな新しい店が溶け込んでおり、またデニム発祥の地とあって、デニム・ジーンズの専門店も多く軒を構えていた。

 

倉敷駅には朝10:00過ぎに着いたが、残念ながら川舟流しのチケットは既に完売していた。チケット売り場には朝9:00から行列ができるらしい。美観地区には人力車も走っており、秋風に吹かれながら川辺のベンチに腰かけていると、少しだけタイムスリップしたような気がした。

 

 

 

 

町を散策しての昼食は、英会話のクラスメートに勧められた「倉敷ラーメン」。入った「升家」の醤油ラーメンは濃い目のスープが絶品だった。

 

お洒落なカフェで一休みしてから「大原美術館」へ。本館、工芸・東洋館、児島虎次郎記念館の3館を巡った。

 

 

 

 

 

 

 

 

夕方、ホテルにチェックインしてまた一休み。宵闇が迫る頃、居酒屋を探して町に出た。自転車に乗った年配の男性に道を尋ねた。

 

「地元の方ですか?」⇒「まあ地元だけど70年くらいしか住んでないよ!(笑)」

「飲み屋を探しているんですが」⇒「あのアーケードに入ったら十字路がある。そこを右に行っても左に行っても店はあるよ!結構美味い店も多いが、もう50年は行っていない!(笑)」

 

そんな漫才のような掛け合いのおかげで、いい店が見つかった。「肉と魚の 倉敷 太鼓判」。新鮮な魚と生ビール、地酒「萬年雪荒走り」がなかなか美味かった。

 

 

居酒屋を出て再び美観地区へ。酔いを醒ましながら歩く町には静かなライトアップが施されていた。「今年の夏が終わった」気持ちになった。

 

 

 

 

 

 

父が亡くなって今日で18年になる。その日も暑い日で気温は36℃くらいまで上がった。父が亡くなったのは早朝で、慌ただしさと喪失感の中、病院の中庭で煙草を吸いながら弟と何か話した記憶がぼんやりと残っている。干支が一回り半、時の経つのは速いものだ。

 

 

福岡の筥崎宮で「放生会(ほうじょうや)」が始まった。博多三大祭りの一つで、博多に秋の訪れを告げる祭りと言われている。この祭りの趣旨は「万物の生命をいつくしみ、殺生を戒め、秋の実りに感謝する」ことである。夏の間に殺生された虫たちの魂を供養するものなのかもしれない。

 

祭りでは「ちゃんぽん」と呼ばれるガラスでできたおもちゃの笛が売られており、吹くと「チャンポン」という音がする。涼しげなデザインがお洒落だが、この祭りに行ったことは無い。父は俳句が趣味で何度か祭りに行って句を詠んだようだ。

 

二階の父の書斎を探してみれば、何処かに「放生会」を詠んだ句が出てくるかもしれない。

 

 

 

筥崎宮には今まで何度か行ったことがある。年明けに行われる「玉せせり(玉取祭)」も有名な祭りの一つだ。男たちが褌(締め込み)一丁になり集団で競って玉取りを行い、その年の吉凶を占う正月行事である。とかく博多の祭りは、男たちが褌一丁でウロウロするものが多い。

 

筥崎宮の楼門に掲げられる「敵国降伏」とは、鎌倉期に亀山上皇が納められた御宸筆(天皇の自筆)を、楼門建立の際、小早川隆景が模写拡大して掲げたものらしい。その真意は、武力で相手を降伏させる覇道ではなく、徳の力をもって導き、相手が自ずから靡き降伏するという王道である我が国のあり方を説いているという。

 

 

 

筥崎宮の近くに老舗屋台の「花山」がある。九大に通っていた高校時代の友人が学生時代にバイトしていた縁で、何度か連れて行ってもらった。調べると創業は昭和28年で私より年上でかなり有名な屋台のようだ。焼き鳥とラーメンを食べたが、もう随分昔で味は覚えていない。次回、彼と会う時は「花山」もありか、と思う。

 

 

それにしても、父は「放生会」でどんな句を詠んだのだろう。「書斎を探してみるか!」という気持ちになった。18年の時を経て、父の想いに触れることができるかもしれない。

 

 

私が通った高校は、小倉北区の到津というところにある。高校の裏手の大通りを挟んだ向かい側に「九州歯科大学(Kyushu Dental University)」がある。

 

日本でただ一つの公立の歯科大学で、その影響か市内には歯科医院が多い。有名な歯科医も数多いようだ。だが、私にとって、幼い頃から歯医者は怖い場所の一つだった。当時は子どもには痛い治療が多かった。歯科医になろう、などとは思ったことは一度もなかった。

 

 

そんな九州歯科大学近くにあるラーメン屋「宝龍」に、フラーっと入ったのが数年前のことである。看板には久留米ラーメンと書かれており、店先に漂う臭い豚骨の香りに誘われたからである。

 

店内はカウンターと小上がりの座敷が二席ほどの広さだが、座敷の壁には、誰が弾くのか二本のギターが掛けられていた。

 

 

ラーメンを注文して暫く待つと、なみなみのスープが盛られた一品が出てきた。スープを一口啜って「美味い!」と感じた。私好みの味である。ラーメンも色々食べたがなかなかこの味に当たらない。「私は久留米の味が好きだったのか!」と改めて認識させられた。

 

 

自宅からやや距離もあり、なかなか行けなかったが、先日思い立って、妻を連れて食べに行った。蒸し暑い日だったが、相変わらずの美味さに大汗をかきながら大盛りを完食した。妻もこの味は好きらしい。

 

私があまりに汗をかくのを見かねたのか、大将は私だけのために、わざわざポータブルの扇風機持ってきて点けてくれた。人の優しい心に触れた気がした。

 

 

ネットで調べると、ギターを弾かれるのは大将のようである。涼しくなったらまた食べに行こう。お勧めの一店である。

 

 

 

※動画は拝借いたしました。

学生時代「餃子の王将」(京大農学部前店)には随分お世話になった。下宿から歩いて15分ほどかかったが、当時歩くことには苦にならなかった。

 

王将の秋のメニューに「肉茄子定食」なるものがあった。これが実に美味かった。茄子と豚肉の甘辛炒めで、タマネギやニンジン、タケノコやピーマンも入っていた。ライスとスープがついて当時450円くらいだったから、今の半額以下だろう。

 

あまりの美味さに、昼食、夕食と続けて食べたこともあった。今でも自宅近くの「餃子の王将」に時々行くが、このメニューは果たして現存しているのか。今度探してみよう。

 

 

 

昔から茄子は好物だが、この点では妻と好みが一致している。焼き茄子、炒め物、煮びたし、天ぷら、味噌汁、漬物などなど何でも好きだ。そんな中で思い出すのが、私が幼い頃、母がよく作った茄子料理である。

 

その料理は、我が家では「茄子の田楽」と呼ばれていた。普通「茄子の田楽」と言えば、茄子を真っ二つに切って焼いたものに甘辛い味噌を塗ったものが殆どだが、我が家のものは全くの別物だった。一言でいえば、茄子、ピーマンと豚肉の味噌炒めだった。

 

 

私が高校、弟が中学の頃、母が胆石の手術で入院したことがあった。当時の手術は現在の内視鏡によるものではなく大がかりなもので、母の入院期間も1か月以上だった。

 

はっきりと覚えていないが、その母の入院期間中、私と弟はこの「茄子の田楽」がどうしても食べたくなった。ある土曜日の午後、弟と「とりあえず作ってみるか!」ということになった。

 

 

近くのスーパーで茄子、ピーマンと豚肉を買い出しに行き、とにかく、見よう見まねで作ってみた。本来ならば、最初に茄子、ピーマンと豚肉を十分炒めてから取り出し、別途、味噌、砂糖、酒、しょう油などでソースを作り、それを絡めて完成させるものだろうが、とりあえずフライパンに全具材を放り込んで炒めて煮込んで、それなりの田楽が出来あがった。

 

それにしても、茄子は煮崩れてベチャベチャになり、ピーマンも見る影もなく、惨憺たる見栄えではあったが、食べてみると、これが実に美味かった。料理の途中、味見だけはしていたからだろう。あっという間に二人で平らげてしまった。

 

 

妻に、この「茄子の田楽」がどんな味だったのかを伝え、何度か作ってもらったが、いまだに母の味には届かない。母が元気なうちに、レシピなど聞いておくべきだった、とつくづく後悔している。

 

 

9月に入り、セミの鳴き声がツクツクボウシに変わったが、まだまだ暑い。新学期(市内の小学校は今年から二学期制に変わったが)が始まり、何処か疲れを引きずった子供たちの姿を街中でよく見かけるようになった。

 

 

祖母が元気な頃は、自家製の味噌を作っていた。ネットで調べると、作り方は、①大豆を1日半程度水に漬ける⇒②大豆を煮てすり鉢で潰す⇒③潰した大豆に塩と麹を混ぜ合わせる⇒④容器に入れて熟成させる、というプロセスのようである。

 

祖母が使っていた容器はぬか床と同じような壺で、暗い床下に置いて熟成させていた。今思えば、祖母がそんな苦労をして作った味噌で作った味噌汁を毎日飲んでいたことになる。

 

 

味噌汁の具を好きな順で言えば、私の場合、①タマネギ⇒②ナス⇒③里芋⇒④貝(アサリ・シジミ)、となる。豆腐や油揚げ、小葱はオプションだ。ソーメンを入れることもある。

 

妻は、色々な野菜が入った具だくさんの味噌汁が好きなようで、いつも豚ぬきの豚汁のようなものになるが、単品野菜の味わい深い味噌汁を少し懐かしく感じる。まあ、作るのは彼女なので、あまり文句は言えないが…。

 

 

今思い出したが、私が風邪を引いたりして体調が悪いときに、母が「呉汁」作ってくれた。大豆を煮たものをすり鉢で軽く潰したものを具にした味噌汁だ。大豆以外には油揚げくらいしか入っていなかったが、体の芯から温まったような気がした。「呉汁」ももう50年近く味わっていない。

 

 

今はスーパーに行けば何種類もの味噌が並んでいるが、祖母の手作りの味噌や、母の「呉汁」の味は、二度と味わうことのできない特別なものである。