流離の翻訳者 日日是好日

流離の翻訳者 日日是好日

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

英会話スクールは自宅から車で10分ほどの商業モールにあり、日曜日の午後は大抵そこに通っている。クリスマスが近いからか駐車場が混んでいて、やむを得ず屋上に車を停めた。

 

レッスンの前に書店に立ち寄り来年のダイアリーを購入した。2007年以降のダイアリーは全て保存しているが、その引出しを開けると古書のような少し黴びた匂いがする。

 

パラパラと捲れば昨今記載が随分雑になっている。これは年を経るにつれて予定がだんだん少なくなるからであり、まあ仕方ないか!と諦めるよりほかなさそうである。

 

 

レッスンを終えて屋上から見えたのは、所々が赤やオレンジ色に染められた墨絵のような雲と、雲の切れ目から降り注ぐ柔らかい日差しだった。このような現象を「天使の梯子」とも呼ぶらしい。ほんの数分間ではあったが何か得した気分になった。

 

 

30年くらい前にある資格試験のための経営学をかじったことがある。学生時代、「経営学」の単位はとったが勉強した記憶はほとんどなかった。

 

経営学の関連で「販売管理」という科目があり、テキストにはマーケティングや消費者行動理論、また購買行動モデルなどが展開されていた。テキストを読んでいて、自分に身近な内容で面白いと感じた分野だった。

 

 

先日のブログで、これからの一年で何冊か経済学・経営学の専門書を読む!と宣言したが、この分野の専門書を読んでみようと決めた。アマゾンの中古品で見つけたのが以下の書である。

 

「消費者心理学」(山田一成、池内裕美著/勁草書房)

 

年の瀬までには届くようだが、「年末年始の休み中に少しでも読めれば」と期待するクリスマス・イブである。

 

 

バイパスの中央分離帯の並木が伐採され1年近く放置されていたが、最近工事が再開された。バイパスに繋がる新しい道路が整備中で、交差点の新設を含む大がかりな工事が予想される。

 

今後の渋滞を思うとある意味憂鬱だが、新道路が開通すれば便利にもなるだろうし、新しい街並みや景観も開けるだろう。

 

学生時代は考えもしなかったが、新しい道路や街を作る仕事、即ち建設・不動産の業界に進んでも面白かったかもしれない。時々そんなことを想う。

 

 

先日は弟夫婦との忘年会で、居酒屋からカラオケと深夜まで楽しく過ごした。たまたま私の誕生日に重なったが、随分久しぶりの賑やかな誕生日となった。

 

 

今朝は9時過ぎまでゆっくり眠ったが、記憶に残る深い夢を見た。なんと夢の中に学生時代の専門書が出てきたのだ。

 

夢の中の私は30代前半くらい、会社で部長に経済理論を説明している夢だった。部門は経営企画部門、会社は高層ビルの上層階なので安田火災のようである。

 

夢の中には、全く自信は無いものの、経済学は素人の部長に何とか理解してもらおうと苦戦している私がいた。資料を作成し、学生時代に読んだ専門書を参照しながら説明していた。夢の中に出てきた専門書が以下の3冊である。

 

①「近代経済学」(新開陽一・新飯田宏・根岸隆著/有斐閣)

②「金融」(舘龍一郎・浜田宏一著/岩波書店)

③「国民所得理論」(宮沢健一著/筑摩書房)

 

夢には出てこなかったが、他にもゼミのテキストとして使用した以下の2冊の専門書もある。

 

④「ケインズ経済学のミクロ理論」(根岸隆著/日本経済新聞社)

⑤「反独占の経済学」(馬場正雄著/筑摩書房)

 

ごく少ない学生時代の勉強時間の中で、いずれもそれなりに読んだ書ではある。これらの書は今も書斎の本棚で埃を被っているが、経済学は生きている学問であり、当時の書を読み返したところで、現代の経済にはもはや適用できない。

 



 

 

学生時代にあまり勉強しなかったことがトラウマとなって、時々夢に現れては「もっとしっかり勉強しろ!」と私の尻を叩く。

 

歳を重ねた今、来年の誕生日(師走)までには「最新の経済学や経営学の専門書を何冊か読破しよう!」との思いを新たにした年の瀬となった。

 

冬空の下、まるで取り残されたかのような柿の実が夕日に照らされて冷たく輝いている。

 

「忠臣蔵」の討入りが過ぎて、今年も歳を重ねる時期になった。毎年のことだが「今年も何もできなかった!」と一抹の寂しさを胸に年の瀬を迎える。

 

 

 

「忠臣蔵」の仇討ちのストーリーは大好きで、今まで随分多くの作品を観てきた。NHK大河ドラマにも「忠臣蔵」を扱ったものが結構あるが、こちらはあまり観ていないようだ。

 

①大河ドラマ第2作「赤穂浪士」1964(昭和39)年

②大河ドラマ第13作「元禄太平記」1975(昭和50)年

③大河ドラマ第20作「峠の群像」1982(昭和57)年

④大河ドラマ第38作「元禄繚乱」1999(平成11)年

 

①については全く記憶がない。②は高校2年、青春真っただ中の作品だが、こちらも殆ど観ていない。その当時は「破れ傘刀舟悪人狩り」に心酔していた。勧善懲悪で実に痛快な番組だった。

 

②の主役は柳沢吉保で石坂浩二が演じ、大石内蔵助が江守徹、浅野内匠頭が片岡孝夫、そして吉良上野介が小沢栄太郎、と実に豪華なキャスティングである。大河ドラマに関心が向かわなかったのが不思議なくらいだ。

 

 

 

③は新入社員の年、年明けから運転免許の取得、大学卒業、東京への移転・入社と慌ただしかった年だった。正直、大河ドラマどころではなかった。

 

③の主役は大石内蔵助で緒形拳が演じ、浅野内匠頭が隆大介、そして吉良上野介が伊丹十三である。伊丹十三の不気味な吉良上野介の映像がぼんやりと記憶に残っている。

 

④は郷里北九州に戻って3年目、英会話を学び始めた年だった。土・日は殆どNOVAに通っておりあまり観なかった。庶民的であまり悪役らしくない吉良上野介が新鮮だったことだけが記憶に残っている。

 

④の主役は大石内蔵助で中村勘九朗が演じ、徳川綱吉が萩原健一、浅野内匠頭が東山紀之、そして吉良上野介が石坂浩二というキャスティングだった。また、女性陣も結構豪華だった。

 

 

 

 

しかし、「忠臣蔵」と言えば、やはり民放の以下の2作品が思い出深い。

 

⑤年末時代劇「忠臣蔵」(日本テレビ系-1985年)

⑥新春ワイド時代劇「大忠臣蔵」(テレビ東京系-1989年)

 

⑤は東京で業務に忙殺されていた頃の作品である。年末に帰省し短い休暇の間に親元で観た記憶がある。

 

⑤の主役は大石内蔵助で里見浩太朗が演じ、浅野内匠頭が風間杜夫、そして吉良上野介が森繁久弥である。「年末時代劇」のシリーズは以後数年間続くことになった。

 

⑥はバブル経済が絶頂を迎えつつあった時期である。この年は帰省せず、高校時代の親友と奥多摩の温泉旅館で年を越した。途中まで観ていたが酒が回って寝てしまった記憶がある。何度か再放送を観たが、この作品が一番面白かった。

 

⑥の主役は大石内蔵助で松本幸四郎が演じ、浅野内匠頭が近藤正臣、そして吉良上野介が芦田伸介である。片岡孝夫が演じた垣見五郎兵衛の件(くだり)には思わず涙が出た。

 

 

 

 

こうして忠臣蔵の系譜を辿ってみたが、21世紀に入って以来あまり印象に残る「忠臣蔵」は放映されていないようである。

 

できれば近い将来に、正統派「忠臣蔵」のドラマ・映画をNHKでも民放でも構わないので豪華なキャスティングで製作して欲しいな、と願うばかりである。

 

今年の漢字が「熊」に決まった。私が予想した「高」は第3位だった。

 

今年の英単語というのもある。各辞書の編纂元・機関が選定するもので、2025年の英単語は、Oxford University Pressが“rage bait”(怒りを誘う刺激的なネットコンテンツ)、Collins English Dictionaryが“vibe coding”(AIを使った新しいコーディング概念)、そしてCambridge Dictionaryが“parasocial”(一方通行の擬似的な関係性)だった。

 

仕事柄、単語や言葉については自然と関心が深くなるようである。

 

 

 

「詭弁」とは「一見もっともらしく聞こえるが、実際には論理がすり替えられていたり、意図的に誤解を招く議論・言い回し」を言う。

 

 

教養部のクラスに詭弁を巧みに操る男がいた。千葉県出身のJである。Jは何かと諺・格言などを引用しては詭弁を弄していた。例えば「酒は百薬の長、風邪は万病のもと、従って、酒を百杯飲めば風邪が治る」のような理論だった。学生時代、Jとは麻雀・酒以外、あまり付き合いはなかった。

 

 

入学当初、Jはいつもブレザーを着て通学していた。見かけは紳士的なのだが、こと麻雀となると鬼のような男だった。その風貌から「大魔神」とか「ガーゴイル」とも呼ばれていた。「鬼の居ぬ間の半荘」という諺までできたほどである。

 

Jは麻雀にうるさい男だった。うるさいと言っても決して「造詣が深い」の意味ではない。麻雀中やたらやかましいのである。

 

ある局で、Jが初巡に「西」を碰(ポン)した。誰かが「オタ風鳴くかぁ?!」と批判すると「燕雀安(いずくん)ぞ鴻鵠の志を知らんや」とほざいた。すなわち「君のような燕・雀程度の若輩者に、どうして私のような大人物の崇高な志が理解できるだろうか、いや理解できはしない」という意味である。

 

 

2回生以降、雀荘と化していた下宿でJによく会うようになった。いつもかなり酔った状態で下宿に現れた。「あー酔うた!酔うた!」が彼の口癖だったが、バイト代の殆どが酒に消えていたようである。

 

その下宿には受験生が一人居た。麻雀の面子が足りないとJはその受験生に声を掛け「今日一日勉強したところで大差ない、麻雀で先輩たちの薫陶を受けた方がよっぽどましだ」などと言っては無理やり彼を麻雀に誘った。麻雀から薫陶など受けられる筈がない。

 

一方で、面子が足りていれば彼がどんなに麻雀したくても「予備校生は勉強しろ!」と冷たく言い放った。その受験生からは相当な恨みを買っていたようである。

 

 

京都の夏は暑いが、当時クーラーなど勿論無かった。夏になると上半身裸で麻雀を打つ輩も出てきた。JもMも麻雀の最中、上半身裸で相撲取りのように自慢の三段腹を叩くようになった。ここから「日本三段腹同盟」が組織された。この対抗勢力として「日本太鼓腹連合」、「日本肋骨枢軸」も結成された。

 

 

Jの詭弁は麻雀一般にも言及した。Jは、自分が勝っているときは「麻雀は単なるゲームではなく、所謂『闘牌』という人生を掛けた闘いだ!」などと宣(のたま)うかと思えば、自分が負けているときは「Mさん!麻雀くらいでそんなに真剣になるなよ!」と宣った。Jの理論には、基本的に真理もなければ誠実さのかけらも無かった。

 

 

3回生の11月上旬、文学部のMの下宿でJと居合わせた。Jは京大の学園祭「11月祭」のやり方についてブツブツ文句を言い始めた。MはJの主張を黙って聞いていたが、途中、怒り心頭に達したようで「J!そんなことは俺に言うな!11月祭の実行委員会に行って主張してこい!」と言い放った。

 

するとJは「Mさん!そんな『錦の御旗を担いだような』言い方をせんでもいいやん!」と言った。この「錦の御旗」という単語の使い方が実に滑稽で面白く思わず笑ってしまった。以来「錦の御旗」という単語が我々の間でも頻繁に使われるようになった。

 

 

その他、Jは、怪談「耳なし芳一」から「意味なし呆一」というギャグを作ったり、「長男の惣六」(正しくは「惣領の甚六」)という新語を生み出したりした。それから8年くらい経った銀行勤務時代に「意味なし呆一」を使ってみたが意外にも受けた。

 

 

Jの詭弁は概して「知的でくだらない」が、まあ、何とも憎めない人物とも言える。

 

今年2月に上洛し、JやMを含む雀友と再会した。あの詭弁家のJも、すっかり好好爺になっていた。来春には同窓会の総会も予定されており、彼の詭弁がまた聞けるかと思うと今から楽しみである。

 

週明けから穏やかな日和が続いている。業者に依頼して外窓とエアコンのクリーニングを行ったら、見違えるくらいきれいになった。

 

妻はクリスマス・デコレーションやリース作りに余念がない。今日はクリスマスに飲むシャンペンも買った。日々年の瀬が近づいている。

 

 

「LOVE PSYCHEDELICO」に「ノスタルジック '69」という曲がある。20年くらい前、このグループにハマった時期があった。歌を聴くと当時の心象風景が蘇える。これも歌を聴く楽しみの一つである。

 

 

 

私にとって最もノスタルジックなのは1986年(昭和61年)だ。情報システム部に異動になって3年目、仕事にも少し自信がついてきた時期だった。

 

この年の3月に、車を三菱・ミラージュから日産・シルビアに買い替えた。車と一緒に気持ちまで一回り大きくなった気がした。初めてのドライブは山梨の昇仙峡。以後、毎週のように中央高速を走り、秋には京都まで遠征した。独りドライブの楽しみの原点はこの辺りにある。

 

5月、課内旅行(運用グループ旅行)の幹事を担当し、その下見で清里まで車を走らせた。途中濃霧の中、やっとのことでペンション「ランボォ(Rimbaud)」に辿り着いた。若き日のほろ苦い思い出である。

ドライブ中によく聴いたのが、中森明菜のアルバム「ファンタジー〈幻想曲〉」(1983年)。2曲目の「瑠璃色の夜へ」は名曲だ。

 

 

 

その年は、同期の親友が年末に小倉まで遊びに来た。二人で小倉の老舗ラーメン屋「月天」で食べたことを思い出す。今は代替わりして店も移転して少し味も変わったが、思えば東京勤務時代で一番楽しい時期だった。

 

 

 

 

中森明菜が「ミ・アモーレ」でレコード大賞をとったのが1985年で、日航機の墜落事故、プラザ合意、阪神の優勝など何かと慌ただしい年だった。でも実際に「ミ・アモーレ」をよく聴いたのは翌1986年になってからだった。

 

この曲を聴くと、何となく古き良き昭和の師走の情景を思い出すのは私だけだろうか?

 

妻が30年来の親友のご子息の結婚披露宴に出席するというので、午前中式場まで車で送った。幸いなことに、天気は風もなく気持ちの良い冬晴れとなった。

 

 

私はと言えば、週初から鼻風邪で臥せっており耳鼻科、呼吸器内科と巡って、レントゲン、肺活量検査までして、処方された薬を服用しようやく小康状態を取り戻したところである。熱は出なかったが「喘息」を患っていたようである。

 

毎度のことだが、病気になって初めて健康の有難さを思い知らされる。また、どの病院に行っても医師は自分より年下ばかりだ。随分歳をとったものである。

 

 

学生時代の思い出話をまた一つ……。

 

学生時代の友人Eは、哲学の道沿いを少し東に入った下宿(一軒家)に住んでいた。その下宿は小さな外門まで付いた古風な造りで、私と同じく3回生に上がる時に、大学近くの吉田本町からわざわざ引っ越した浄土寺にあった。

 

一軒家であれば当然にして友人たちの溜まり場となる。確かにEの下宿でもよく麻雀を打った。麻雀だけではない。作業スペースがとれるEの下宿を利用して卒論を仕上げようとした不届きな輩もいた。文学部のMである。

 

 

3回生のある日、教養部以来の友人の南禅寺のS、文学部のM、私でEの下宿で麻雀をする約束をした。麻雀は12:30くらい開始の予定だった。その日、私は11:30くらいにEの下宿に着いた。しばらくするとSも来た。

 

「なんか腹減ったなぁ~、先に飯でも食いに行くか!」となり、3人で近くの喫茶店へ行った。ただ、その喫茶店にはマンガがたくさん置いてあった。

 

マンガを読むのに集中し気が付くと13:00をとっくに過ぎていた。喫茶店を出て3人で慌てて下宿に戻った。果たして……、Eの下宿の外門の前には仁王立ちした文学部のMの姿があった。またその顔は阿吽(仁王像)ならぬ怒れる「大魔神」の様相を呈していた。

 

まあ、今のように携帯電話一台あれば、片付いた話ではあるが……。

 

 

今年2月、雪の中を上洛し、Eの下宿の跡地を訪ねた。だが下宿も外門も、あの「大魔神」の怒りを知る由もなく一般の宅地へと姿を変えていた。

 

 

「大魔神」事件の代償かもしれないが、Eと私は4回生の秋、例の一軒家の下宿でMの卒論の作成を手伝わせられるという憂き目を味わうことになった。かかる卒論事件の顛末については、また何処かで綴ることとしたい。

 

「炬燵猫」とは、炬燵の中や炬燵布団の上でじっとしている猫のことで、冬の季語である。

 

 

 

アニメ「うる星やつら」に登場する「こたつねこ」は、大人の背丈ほどもある大きな化け猫で、江戸時代に生きていた野良猫だった。だが、心ない人間にコタツに入れてもらえず凍死したため、化け猫となって現世に蘇ったらしい。まあ、どちらでもよいことではあるが……。

 

 

学生時代の友人Kは猫好きだった。Kの下宿の大家は年老いた姉妹(婆さん)だったが、その婆さんたちが猫を可愛いがるからか、下宿には数匹の猫が住みついていた。その猫たちがKの部屋にも時々訪ねてきていた。

 

Kの両親は大阪在住で、御父上から時々高級なウィスキーを入手しており、我々もよくご相伴に預かっていた。

 

その日も、Kの部屋で私と友人とで、ウィスキーの水割りを飲んでいると、Kがツマミらしきものを皿に盛ってきた。アラレのような感じで結構いけたが、どういうわけかKは一口も食べなかった。

 

ツマミはすぐに無くなった。「K!これまだある?」と尋ねると「あるけどぉ~?これやで!」と彼が見せたパッケージには、大きな猫の写真が印刷されていた。

 

幸い、そのキャットフードで腹を壊すことは無かった。

 

 

 

 

Kと猫に関して、こんなこともあった。

 

ある冬の日、Kの部屋で麻雀を打っているとドアの外で「カリカリ」と引っ掻く音がする。開けると猫が入ってきた。猫は我々が麻雀する炬燵のそばで気持ちよく眠っていた。

 

その日の麻雀は深夜におよび、眠さに堪えて麻雀を打っていると気持ちよく寝ている猫が恨めしく思えた。誰かが配牌や自摸の悪さの腹いせに猫を叩き起こした。猫は驚いて飛び起き、暫くするとまた眠った。このような虐待が何回か続いた。

 

そしてある時……、叩き起こされた猫がついに怒った。猫は麻雀卓に跳び上がり牌を一通り破壊すると、部屋の隅に行きじっと動かなくなった。以後叩いても起きることはなかった。まるで「置き猫」だった。

 

やはり猫を麻雀に付き合わせてはいけない。

私が最初に買ったアルバム(LP)は、荒井由実の「ユーミン・ブランド」だった。高校2年の頃、レコード店で友人が「絶対にこれがいい!」と勧めてくれたことがきっかけである。

 

確かにそのアルバムには名曲が散りばめられていた。「あの日に帰りたい」、「やさしさに包まれたなら」、「ルージュの伝言」、「翳りゆく部屋」など、今も色褪せない曲ばかりだ。

 

 

 

 

大学時代、ユーミンから遠ざかったが、東京で働いた1980年代、再びユーミンにのめりこんだ。「VOYAGER」、「REINCARNATION」、「NO SIDE」、「DA・DI・DA」などのアルバムは擦り切れるほど聴いた。

 

「破れた恋の繕し方教えます」は、当時のほろ苦い恋バナを思い起こさせるし、「リフレインが叫んでる」には東京を離れた頃の哀愁が漂う。

 

 

 

 

九州にUターンしてから、ユーミンを聴くことはほとんどなくなった。目まぐるしく移り変わる環境に追われ、音楽を楽しむ余裕があまりなかった。また、(最初の)結婚期間には全く聴かなかった。ある意味、恋心とは無縁の日々を過ごしていたからかも知れない。

 

 

2010年に独りになり再びユーミンが戻ってきた。独りドライブの楽しさに気づき、まるで昭和の自分を取り戻すかのようにひたすら車を走らせた。気がつけば、ユーミンのアルバムの殆どを買い揃えていた。

 

独りドライブの中で、「情熱に届かない」、「哀しみのルート16」、「Lundi」、「人魚姫の夢」など心に刺さる曲も増えていった。彼女の曲を聴くと恋をしたくなる気持ちが湧き上がってくるらしい。実際、独りになってから何度か恋をした。

 

 

 

 

 

このように、ユーミンの曲は私の人生の時々にそっと寄り添ってきたが、今は英会話仲間のおかげで、彼女の曲がカラオケで歌えるようにもなった。好きな曲が歌えるというのは実に楽しいものだ。

 

ユーミンとのつき合いもはや半世紀になったが、これからも彼女は歌い続けるだろう。私もユーミンのレパートリーを少しずつ増やしていきたい。これまではメロディから入っていた彼女の曲だが、今後は歌詞をじっくり味わいながら大切に歌っていきたいと思う。(完)

 

 

商業の町小倉、工業の町八幡と戸畑、そして港湾の町門司と若松の5市が合併して1963年に北九州市は誕生した。

 

新しい市の名前は全国公募され第1位は「西京市」だったが、ある長老から「天子様が居られた歴史も無いのに『京』と名乗るのは如何なものか?」との鶴の一声で、第2位の「北九州市」が選ばれたらしい。

 

 

 

2003年夏、新しい英会話学校の門を叩いた。そこは少人数制で個性的な生徒が多かった。

 

同じクラスで親しくなった生徒が二人いた。偶然にも二人とも早稲田出身で政経学部と理工学部、この二人が私のカラオケの歴史に少なからぬ影響を与えることになった。

 

 

 

政経学部の男性は神奈川出身で大手証券会社勤務、私より5つくらい年下だった。いつも大きなリュックを背負ってPOLO RALPH LAURENのブランドを身に着けていた。

 

彼と飲んで二次会の「アルファ」で驚いたのが「軍歌しか歌わない」ことだった。「軍歌しか歌わないのか?」と尋ねると「軍歌しか知らない!」と答えた。

 

とにかく彼は数多くの軍歌を知っていた。「出征兵士を送る歌」、「加藤隼戦闘隊」、「ラバウル海軍航空隊」、「若鷲の歌」、「荒鷲の歌」……、などなど。また実に堂々とした歌いっぷりだった。私までが軍歌ファンになってしまった。

 

2005年頃、彼は東京に異動になったが、折に触れて北九州を訪れた。私が翻訳者デビューしてからも二人で飲んでは軍歌を歌った。彼が私に愛読書2冊をプレゼントしてくれたことがあり、お返しに3枚組の軍歌CDを贈ったことを思い出す。

 

動脈瘤乖離で倒れた後、彼と最後に会ったのが2012年くらいだった。その後、証券会社を退職してテンプル大学で勉強を始めたと聞いたが、そのあたりから音信不通となった。今も元気で居られることを祈るばかりである。

 

 

 

 

 

 

もう一人、理工学部の男性は、福岡市出身で私と同い年、大手電機会社でロボティックスやAI関連のエンジニアとして勤務していた。

 

英会話仲間のある女性が、彼をmild faced gentlemanと喩えたが、まさにそんな男だった。彼と差しで飲むようになったのは翻訳者になってからのことで、年末の会社での納会の後に朝まで歌ったことを覚えている。

 

なんと、彼はわざわざカラオケ・スクールに通うほど歌好きだった。従って、歌い方も本格的で、カラオケで表示される点数にもこだわっていた。

 

ジャンルは昭和の歌謡・演歌など何でも歌ったが、特にサザンオールスターズ(桑田佳祐)の曲が好きだったようである。「メロディ(Melody)」、「真夏の果実」などは彼から教わったようなものである。

 

また、私が女性ヴォーカルの曲を心地よく歌えるようになったのは彼のおかげで、「キーを高くして歌ってみたら!」との一言が私のカラオケの世界を大きく拡げてくれたと言っても過言ではない。

 

今はお互い本業をリタイヤし、パート的な仕事に従事しているが、これからも年に1~2回は、飲んでカラオケを楽しみたいと思っている。(続く)

 

 

 

商業都市福岡のイメージカラーが青や緑であるのに対し、工業都市北九州のイメージカラーは赤である。これは若戸大橋の色や溶鉱炉の鉄の赤を映しているように思われる。

 

高度成長期には「四大工業地帯」の一つとして一世風靡した北九州市の人口が、福岡市に追い抜かれたのは私が大学に進学した1978年で、「ひかりは西へ」の山陽新幹線が博多まで開通した1975年から3年後のことだった。

 

 

 

1997年9月に郷里北九州に戻った。真の意味でのUターンだったが、大学卒業から15年以上が経過し町並みも随分変わっていた。北九州に戻ってしばらくの間は、飲み会での付き合いなどを除いて、自分からカラオケに行くことはなかった。

 

 

それが、1999年の春に英会話を習い始め、英会話仲間とも飲むようになりカラオケの世界に再び入り込むことになった。世代・性別・職業もバラバラな英会話仲間との飲み会やカラオケは刺激的であり、また仕事上のストレスの解消にもなっていた。

 

英会話学校には通算で3校、8年通ったが……、なかなか上達しないものである。当時の英会話仲間には特筆すべき人物が2人いて、1人とは今も付き合いがあるが、彼らについては後述することとしたい。

 

英会話仲間とよく歌ったのは長渕剛の「RUN」や「しょっぱい三日月の夜」。少し長い曲だが「ふざけんじゃねぇ」を歌うこともあった。

 

 

 

 

2001年4月、あるグループに異動になった。グループリーダー(上司)は営業一筋のベテランだったが、飲み助でもあり歌好きでもあった。以来、事あるごとに「ナイト・セッション」と称する飲み会・カラオケの嵐が吹き荒れた。

 

折良くも(折悪しくも)、その上司の中学の同級生が小倉・鍛治町のスナック「アルファ」でママさんをやっており、明るく陽気なママさんのもとで、夜を徹してカラオケ三昧に興じることになった。

 

上司は「チューリップ」や「かぐや姫」など昭和のフォークソングが好きだったが、決して演歌は歌わなかった。その一方で「LOVE PSYCHEDELICO」など新しい曲には挑戦していた。だが、歌うたびにその歌唱力は確実に上達しており、何処か他で練習しているのでは?とさえ思わせるほどだった。

 

私は相変わらず昭和歌謡や演歌を歌っていたが、当時ダウン・タウン・ブギウギ・バンドにハマっていた。「身も心も」、「欲望の街」、「裏切者の旅」などをよく歌った。

 

さらに、阿木燿子作詞・宇崎竜童作曲による山口百恵の「イミテイション・ゴールド」や「曼珠沙華」にも挑戦した。女性ヴォーカルはキーが合わずかなり苦戦したが、その頃はただただ歌う楽しさに酔いしれていた。

 

 

 

 

 

「アルファ」は東日本大震災前に閉店し、名前を変えて若松に移転した。その店には、上司と一度だけ行ったが、それがママさんとのお別れとなった。ママさんが若くして亡くなってからもう10年以上になる。(続く)