去る12月8日(土)に横浜関内のライヴハウス、B.B.STREETに於いて開催された地元横浜出身の2バンド、FIGHT IT OUTとA.O.Wの共同企画によるイベント『SHOCK WAVE 2012』に行ってきたが、色々と考えさせられる事、思う事が多々あって非常に有意義な時間を過ごした。このイベントは週末土曜日という事もあって開場が15時30分、開演が16時と早めの時間帯に開催された。
僕は当日、昼過ぎから色々と予定が嵩んで開演には間に合わず19時頃に入場した。このライヴハウスに来るのは2度目で、前回は9月にこの日の主催バンドであるA.O.Wが単独で企画した『流転』というパンク~ハードコアバンドのイベントだったのだが横浜ハードコアのレジェンド、システマティック・デスや札幌ハードコアの重鎮スラング、そしてこの日の共同企画バンドであるFIGHT IT OUTも出演し、これまた内容の濃いイベントだった。B.B.STREETはJR関内駅から徒歩数分の場所にあるショッピング・モールの「セルテ」ビルの12階にあり、交通アクセスも含めて非常に恵まれたロケーションだ。
このイベントはハードコア・バンドとヒップホップ・アクトのクロスオーバー・イベントだったのだが、会場に到着するとヒップホップ・ユニットのR61BOYSのライヴが始まるところだった。このユニットは初めて観たのだが、3人のMCにDJという構成で彼らのプロフィールやキャリア等、事前に全く未チェックだったのだがリラックスした良い雰囲気のパフォーマンスだった。DJの音響機材の調子がイマイチだったようだが、3人のMCは飄々としたマイクリレーで若干ナードなテイストの日本語ラップを披露した。短めのショウだったのでDJの制作したトラック等からあまり背景を詮索する事は叶わなかったが、皆年齢は若いようで今後の活動が楽しみだ。彼らの日常語であろう日本語のリリックはやはり僕の世代には馴染みが薄いものだったが、それはそれで新鮮なものだった。あくまで僕の個人的な見解だが、ヒップホップのユニットチームというのはバンド以上にパフォーマー全員の場数や経験が物を言うジャンルだと思う。パフォーマンススキルをアップさせる為のリハーサルや音合わせには膨大な労力を要するものだ。今後の健闘を願う。
DOGBITE
※R61BOYSが所属している神奈川を拠点として活動しているレーベル、ドッグバイトのfacebookアカウント。

彼らの後にA.O.Wが出演したのだが、期待通りのパフォーマンス、プレイで観客も巻き込んでの激しいモッシュダンスの嵐。観客も含めて皆、爽快な時空間を共有していたようだ。彼らのライヴを体験するのはこれが4回目だったのだがFIGHT IT OUT同様、彼らのライヴも観る度に新たな発見がある。この夜はオープニングはファストコア、パワーヴァイオレンス的なアプローチでかなりブルータルなプレイでこちらの意表を突いた。2、3曲目かメロウなエモテイストもあり、しかしてハードでラウド、ノイジーな独特のギターサウンドが炸裂する唯一無二のA.O.Wのサウンドワールドが展開。フレーズの合間々に超速でフィーバックノイズをインサートするギタープレイはやはりクール、否が応にもこちら側-観客の情動に訴える。以前はギタリストのプレイばかりに目を奪われていたのだがベース、ドラムスのリズムセクションもかなり個性的なプレイでコーラスもバッチリ決め、フロントマンのSOUICHIROU氏のパフォーマンスを引き立てている。メンバー皆がエンジョイしてプレイしているのが観客にも良いヴァイブレーションを引き起こし、ライヴ終了後には会場に何とも言えない清々しい空気が漂っていた。
アーティスト情報|「A.O.W」 - DEATH BLOW MUSIC
※A.O.Wの作品をリリースしているデスプロウ・ミュージックオフィシャルサイト内のA.O.Wのアーティスト情報。

続いて登場した名古屋のメタリックなハードコアバンド、DIEDRO LOS DIABLOSが始まるとライヴ直前にオーダーしたカクテルのジントニックが体に回って意識が朦朧としてきた。情けない事に急性アルコール中毒に陥ってしまったのだ。そう言えばこの日はバタバタして朝から何も食していなかったので、酒の回りが速かったようだ。受付スタッフに事情を話して「少し横になりたい。」旨を告げると階下の10階に倉庫のようなスペースがあるのでそこで休むようにと言われ、瀕死の思いでエレベーターホールまで行き10階に降りた。タカを括ってジントニックをほぼ一気飲みしたのがまずかったのだが急性アルコール中毒とは恐ろしいもので血中アルコール濃度が急速に上昇し、下手をすると数分で意識を失う。以前、何度か同じような状況に陥った事があったがこの夜はかなりヤバかった。目指す倉庫スペースにたどり着く以前に10階のエレベーターホール前にソファーがあったので、取り敢えずそこに身を横たえた。そして自販機でミネラルウォーターや烏龍茶を買ってがぶ飲みし、ひたすら回復を待った。とにかく大量に水分を補給してトイレに何回か駆け込んだ末、何とか体調を戻して再び会場に足を運ぶと時刻はもう21時を回っていた。
会場に再入場するとヒップホップユニットのMEDULLAのショウが始まっていた。他にも楽しみにしていたバンドやアーティストが沢山あったのだが、この日はかなり円滑にイベントが進行してMEDULLAの後はトリのFIGHT IT OUTを残すのみとなっていた。MEDULLAは東京でも西部、吉祥寺界隈をベースに活動しているヒップホップ・チームでMC、DJも揃って手練れのメンバーで構成されているようだ。東京のローカル・シーンの代表格であるNUMBを筆頭とするハードコア・バンドとも深い交流があるようで、僕がこれまで足を運んだイベントでもよく見かける面子がMCの一人だった。2008年にドロップしたファースト・アルバム『BOOZE BOOZE STICKY THING』に続いて今年5月にEP『Soundpolice VS Technopolice』をリリースしたりと精力的に活動している。僕が会場に復帰した頃はもう彼らのセットも終演に近づいていたのだが、観客からも非常に良いリアクションがあって盛り上がっていた。
midnightmetal.net/
※MEDULLAのレーベル、ミッドナイトメタル・レコードのオフィシャルサイト。
『ジャンルの壁を壊せ ILL-TEE という男☆ 1/29-2/01 ☆』SENTA NUMBのブログ
※東京ハードコア・シーンの重鎮、NUNBのフロントマン、SENTA氏のブログに紹介されているMEDULAのMC、ILL-TEE氏のポスト記事。SENTA氏もヒップホップだけでなく他ジャンルのアーティストとの交流に意欲的に取り組んでいる。

そして短いインターバルの後に待望のFIGHT IT OUTのライヴへと雪崩れ込んだ。この夜も彼らの真骨頂、全力プレイ全開で圧倒的なパフォーマンスだったのだがギター、ベース、ドラムス各々のプレイヤーが一体となり、何がリードで何がリズムセクションなのかという次元を超えたタイトでフリーフォームなプレイは何度体験しても刺激的だ。ギターのJAY氏のプレイは良く聴くとソロパートでは毎回趣向を凝らしていて、おそらくスローにプレイすればブルージーな響きがあるようなフレーズを緩急自在に織り込んでファストにプレイしていた。そしてベース、ドラムスと一体となって独特のグルーヴ感を醸し出す。初めて彼らのライヴを体験したのは昨年末だったのだが(ファンク・ミュージックの持つグルーヴ感に魅力を感じる)僕自身、強く引き込まれるものがあったのはジャンルを超越したこのグルーヴ感だったのかも知れない。そんなグルーヴ感溢れるバッキング演奏の上を自由に駆け抜けるようなフロントマンのYANG氏のパフォーマンスも、この夜は一際ハイテンションだった。
SHOCKWAVE2012
※この日のイベントのフライヤーがアップされているFIGHT IT OUTのオフィシャルサイト。

この日はFIGHT IT OUT、A.O.W、VIVISICK、DIEDRO LOS DIABLOSMEDULLA、Waterweed、HIRATUKA DECODER、R61BOYS、BLACK BUCKの都合9組のアーティストだったのだが、僕が観た限り(都合4組)では観客も含めてハードコアとヒップホップのアクトが非常に良い雰囲気で融合していたように思う。あくまで僕の個人的な感想だが、これまで何度か体験したこうした試み(ハードコア×ヒップホップ)のイベントではどこか双方のジャンルの観客によそよそしさが漂っていたのだが、この日はそんな印象は無く皆リラックスしてイベントそのものを楽しんでいたようだ。
ハードコア(またはメタルも含む、広義に於けるロック)とヒップホップの融合‥これは双方のジャンルに於ける歴史上、必然性のあるものであり様々なジャンルがクロスオーバーしてきたポップ・ミュージックの中でも本来、抜群に相性が良いはずだ。
米国のヒップホップ・カルチャー誌の『ヴァイブ』誌が1999年に刊行した『ヒストリー・オブ・ヒップホップ』に『ニューヨーク・タイムズ』のポップ・ミュージック批評家でジャーナリスト、作家として幅広い活動をしているニール・ストラウスが寄稿した『ラップ・アンド・ロック』というパラグラフがあるが、そこにはこう書かれている。少し長くなるが一部を以下、そのまま抜き書きしてみる。
「ラッパーたちがロックに着眼し始めたのは何も政治的な意図に基づいてのことではなく、それがスタイル上の必須条件になっていたからだった。その発展の出発点から、それを説明する言葉すらまだ存在しなかったような時から、ヒップホップはパーフェクトなブレイクを探し当てるということであり、それを2台のターンテーブルを使って往ったり来たりジャグリングして見せることだった。そして、そのパーフェクトなブレイクはどんな種類の音楽から発見されることもあり得ないことではなかった。ファンク、ビバップ、クラシック、もしくはロック-どんなミュージシャンでも1小節や2小節くらいならすぐプレイできるようなグルーヴのものだ。もしかしたらそれが、現在までにヒップホップ全体において最も頻繁にサンプルされたロック・ソングがレッド・ツェッペリンやエアロスミスのような大物ではない理由なのかも知れない。グランドマスター・フラッシュからU.T.F.O.、ビッグ・ダディ・ケインにアイス・キューブ、パフ・ダディからクリス・クロスまで、少なくとも20曲以上のトラックで使われているのは、実はビリー・スクワイアの"Big Beat"に入っているドラム・ブレイクなのである。」
「ヒップホップがビッグビジネスになる前に、ラッパーとロッカーは既にイデオロギー的な共通点を見出していた。だが両者が最初に融合をみた時、ヒップホップが見つけたソウルメイトはメタルではなく、パンクとニュー・ウェイヴだった。[みんなそれ(白人少年たちがヒップホップにイレあげること)をヴァニラ・アイスやビースティー・ボーイズが最初だったみたいに言ってるが、実のところはこの音楽を最初に受け容れたのはパンク・ロッカーやニュー・ウェイヴァーたちだったんだ。連中は俺をパンク・ロック・クラブに連れていってミキシングをさせたんだぜ。あの頃にはパンク・ロッカーたちがハードコアなブラックやヒスパニックのフッドにやって来てジャムするなんてのは当たり前みたいに見られた光景だったんだ]と(ヒップホップ生みの親)アフリカ・バンバータは1990年代初期に語っている。」
以上は1980年代初頭のヒップホップ黎明期から後半の拡大期までのラップとロックの関わりについて考察したものだが、英国のパンクバンド、ザ・クラッシュはグランドマスター・フラッシュを自分たちのライヴの前座に起用し、また彼らは1981年にリリースした『7人の偉人』『ディス・イズ・レディオ・クラッシュ』という一連のシングルではサウンド面で大胆なヒップホップ・アプローチをして話題を呼んだ。またパンクロックの始祖、セックス・ピストルズ、そして1980年代の英国オルタナティヴ・ミュージックの牽引役だったパブリック・イメージ・リミテッドのフロントマンであるジョン・ライドンとアフリカ・バンバータは敏腕プロデューサー、ビル・ラズウェルのセットアップにより双方のジャンルの象徴的な声をぶつけ合った12インチ・シングル『ワールド・ディストラクション』(1984年)をタイムゾーン名義でリリースした。
This Is Radio Clash
※英国のパンクバンド、ザ・クラッシュが1981年にリリースしたシングル『ディス・イズ・レディオ・クラッシュ』。レゲエ、ダブの要素に加えスクラッチプレイ等初期のヒップホップの必須マナーも大胆にフィーチャーしている。
Time Zone - World Destruction
※アフリカバンバータとジョン・ライドンというヒップホップとパンクのゴッドファーザー同士が共演した『ワールド・ディストラクション』。

続いて1990年代のエポックについては以下-。
「アンスラックスとパブリック・エネミーはシングル1枚(元々はアンスラックスのシャウトアウトをフィーチャーしたPEの"Bring The Noise"のリメイク)だけにとどまらず、ツアーまるまる1本分の共演にまで発展した。後にソニック・ユースやシスターズ・オブ・マーシー、スティーヴン・スティルスといった面々ともコラボレーションすることになる(PEの)チャック・Dが語るように、ラップとメタルのビートは並列が可能なのだった。もしくはアイス・Tが言う通り、[結局、何もかもロックなんだよ。"Bring The Noise"はアンスラックスがPEとコラボレートする前からロックだったのさ]。」
「加えて、病んだ社会に対する反抗の表われとして、情け容赦ない世界をありのままに描くことにより、ヘヴィ・メタルとラップは同じ病気の兆候とみなされることになる。PMRC(Parents Music Resource Center=青少年に有害な映画、音楽、TV番組等を排除する社会活動団体)から警察までが80年代半ばに取り締まりの対象としたのは大半がヒップホップとメタルのアルバムだった。同じ抑圧的な力に目の敵にされ、ラップとメタルは文字通り互いの反発力を利用して立ち上がり、連携して闘うことを余儀なくされたのである。[白人の怒れるキッズと黒人の怒れるキッズを一緒にしてみて、そこで俺たちが気づいたのは、俺たちは結局どっちも同じことで怒っているんだってことだった。で、てことは俺たちには状況を引っくり返すチャンスがマジであるってことじゃねえか-力を合わせてな]とアイス・Tはその当時希望に胸膨らませ語っている。」
Public Enemy ft Anthrax- Bring The Noise (Offical Music Video)
※パブリック・エネミーとアンスラックスの歴史的コラボレーション、『ブリング・ザ・ノイズ』(1991年)のライヴ映像。後半にはアイス・Tの姿も見られる。

「アルバム全曲ラップとロックのコラボレーションで固めるという、1993年の映画『ジャッジメント・ナイト』のサウンドトラック盤-アイス・Tとスレイヤー、ハウス・オブ・ペインとヘルメット、ブーヤー・トライブとフェイス・ノー・モア、オニクスとバイオハザード、そしてサイプレス・ヒルとソニック・ユースといった組み合わせを収録-がリリースされたことで、この時期ラップとロックの(ラップは黒人、ロックは白人の専売特許であるという当時の既成概念に立った上での)人種差別撤廃論者たちは楽観を極めていたのである。だが、これだけの共通点があったにも拘らず、ヘヴィ・メタルとハードコア・ラップは結局自分たちが真の仲間同士であることを証明するには至らなかった。ラッパーたちは相変わらずラップのオーディエンスに向かってプレイし、メタル・バンドは相変わらずメタルのオーディエンスに向かってプレイし、二つは決して完全にニュートラルな共通の地盤で折り合うことはなかったのである。」
Onyx ft. Biohazard- Judgement Night
※同じニューヨーク出身のアーティスト、オニクスとバイオハザードがコラボレートした映画『ジャッジメント・ナイト』のタイトル・トラック。

また1990年代後半にはヒップホップメタル、ラップメタルとも呼ばれ一世を風靡したロサンゼルス出身のミクスチャー・ロック・バンド、コーンが同郷のラッパー、アイス・キューブをフィーチャーした『チルドレン・オブ・ザ・コーン』を収録したアルバム『フォロー・ザ・リーダー』(1998年)をリリース。またアイス・キューブが同年リリースしたアルバム『ウォー&ピース-ヴォリューム1』にはコーンをフィーチャーした『ファック・ダイイング』が収録され、コーンが主宰して行われた『ファミリー・ヴァリュー・ツアー』にはアイス・キューブが参加した。
KoRn Feat Ice Cube - Children Of The Korn/Wicked
※コーン主宰の『ファミリー・ヴァリュー・ツアー』でのアイス・キューブとの共演シーン。

「恐らく、ロッカーとラッパーのタッグがカルチャー的に重要な意味を持つ時がいつか再び訪れるだろう。(1999年の時点に於いて)20年に渡るクロスオーバーの歴史は、既に十分その影響を及ぼしているのかも知れない。全米に於けるレコードの小売状況を調査している会社、サウンドスキャンによれば、どちらにしても現在ラップ購買層の70%が白人であり、ラップとロックのファンの間の黒人白人の区別などというものはもはやアナクロニズムになろうとしている。」
今世紀に入ると日本でもラップとロックのコラボレーションは盛んになり2002年には東京のハードコアバンドのNUMBとラッパーのS-WORD、ETERNAL BとDABOのコラボレーション作品『EDSN』がリリースされた。また1998年から名古屋で開催されていたヒップホップとハードコアの祭典『MURDER THEY FALL』の存在もこうした動きの象徴する大規模なイベントだった。僕はこの時期、暫く音楽シーンから離れていたので詳細については明るくはないのだが、下記のブログのポスト記事を参照されたい。
『MURDER THEY FALLの歴史』DJOLDE-Eのオフィシャルブログ「INFRONT BLOG」
※名古屋を拠点としてDJ、パーティー・オーガナイザー等、幅広い活動をしているDJOLDE-E氏のブログから『MURDER THEY FALL』の歴史についてのポスト記事。
Live At Murder They Fall 7 on Vimeo
※2004年に開催された『MURDER THEY FALL Vol.7』に出演した愛知・常滑が生んだ不世出のラッパー、故・TOKONA-Xのライヴ・シーン。単にラッパーとしてだけでなくあらゆるジャンルを見渡しても表現者として破格のスケールを持ったアーティストだった。R.I.P.

また最近でも愛知県豊橋市を拠点に活動するハードコアバンド、SLUDGEのフロントマンであるKO-TA氏はその名もズバリ、『JUDGEMENT NIGHT』というイベントを不定期ながら地元・豊橋市で開催している。去る7月に東京のショップ・SHAFTが主宰して渋谷のライヴスペース、THE GAMEで開催されたイベント『TERRITORY』でSLUDGEのライヴを観たのだがオールドスクールのニューヨーク・ハードコアを彼らなりに消化した独自のスタイルを確立しており、テンションの高いパフォーマンスを披露していた。彼らのファースト・ミニアルバム『BURNING BURNER』には同郷のラッパー、TWO-J氏をフィーチャーした『IN MY HOOD』が収録されている。
JUDGEMENT NIGHT#7 後記|KO-TA SLUDGEのブログ
※地元・豊橋市でイベント『JUDGEMENT NGHT』を主宰しているSLUDGEのフロントマン、KO-TA氏の同イベント後記のポスト記事。
SLUDGE "IN MY HOOD feat.TWO-J"
※SLUDGEの音源『BURNING BURNER』収録の『IN MY HOOD』のプロモクリップ。同作品はショップ・SHAFT等にまだ在庫がある模様。これは必聴!

これまで長々と引用してきたニール・ストラウスの『ラップ・アンド・ロック』は最後にこう締め括っている。
「だがラップとロックを隔てる壁がどれほど徹底的に取り去られようとしても、それはきっと、例えて言えばベルリンの壁のように人々の意識の中には常に存在し続けることだろう。あとほんの数10年のうちに、この章に出てきたアーティストたちの大部分がオールディーズ・バンドとしてサーキットを回るようになり、例えばアンスラックスとRun DMCがまだその頃も頑張って活動を続けていたとすれば、彼らが共に手を携え、『Dinosaurs Of Rock And Rap(ロックとラップの恐竜たち)』などと銘打って、縮小する一方の(双方のアーティストの)オーディエンスを何とか地場固めするためのツアーをやることに疑念の余地はない-そしてきっとその時にも、彼らが掲げる人種融合のメッセージは相変わらずその意味も必要性も失ってはいないに違いないのだ。」と。
これまで様々なイベントを体験した実感としては日本でもジャンルの壁というものはそう易々と突き崩す事のできるものではないと思う。また闇雲に何でもミクスチャー、クロスオーバーしてしまうのが素晴らしいという事でもないだろう。各々のジャンルにはそこにしか存在しない美学のようなものもある。しかしニール・ストラウスが言う「人種融合のメッセージは相変わらずその意味も必要性も失ってはいないに違いないのだ。」という一文は、敢えて人種と言わないまでも、あらゆる集団や共同体同士が相互理解をする必要性というものを示唆している。例え価値観や思想信条、ライフスタイルが異なっていても相手を全否定するのでなく、お互いの個性を尊重した上での相互理解である。実社会に於いては勿論の事だが、こと音楽文化に於いてもこうした(社会的)通念は不可欠なものだと思う。
前回は1990年代の音楽シーンを席巻したオルタナティヴロックの源流の一つであるグランジ~シアトルのロックについて書いたが、今回はそれをさらに遡って1980年代初頭の米国西海岸のパンク~ハードコアシーンにスポットを当てた映像作品"RAGE:20 YEARS OF PUNKROCK WESTCOAST STYLE"(2001年)を紹介する。
Rage: 20 Years Of Punk Rock
この作品はマイケルとハロルドのビショップ兄弟、スコット・ジャコビーが制作・監督したもので当時の音楽シーンに携わっていたアーティストや関係者の証言を交えてコンパクトに編集されている。米国西海岸と言ってもやはりニューヨーク、そして英国で火が付いたパンクロック・ムーブメントに真っ先に反応して比較的大きな動きが生まれたのはカリフォルニア州のサンフランシスコやロサンゼルスといった大都市であった。
作品では冒頭、"In the beginning...there was a boring silence of rock star bullshit...fat cat record companies...and disco fever.(初めは、糞ったれなロックスターの退屈な沈黙があり、太ったずる賢い猫のようなレコード会社、そしてディスコフィーバーがあった。)
the Pistols called collect...and the West Coast paid the bill."(ピストルズはキリスト教徒のミサの集梼と呼ばれ、西海岸はそれまでのツケを支払うはめになった。)
というテロップが流れる。
最初に現在はワーナー・ミュージック・グループの一員であるライノ・エンターテインメントの社長を務めるハロルド・ブロンソンが自身のキャリアを振り返りながらカリフォルニアでパンクシーンが形成されていった過程について証言する。
ブロンソンはロサンゼルスのウエストウッド大通りに1973年にオープンしたレコードショップ、『ライノ・レコード』の店長だった。彼はパンクムーブメントが勃興する直前、1976年に英国のロンドンに拠点を置くインディペンデント・レーベルの走りであるスティッフ・レコードを訪ね(当時のスティッフはワンルームのちっぽけなオフィスだったと言う)、直接英国のパンクバンドのレコードを買い付けて仕入れ、いち早くロサンゼルスに紹介した。スティッフ・レコードはデイヴ・ロビンソンとジェイク・リヴェラによって1976年に設立され、所属アーティストにはニック・ロウやエルヴィス・コステロ、イアン・デューリー等の所謂「パブロック」(英国名物のパブで酔客相手に演奏していたロックバンド)のアーティスト、リーナ・ラヴィッチのようなニューウェイブ系のエキセントリックな女性シンガー、そしてザ・ダムドのようなパンクバンドまで非常にバラエティーに富んだラインナップで、ピンク・フェアリーズ等の英国のアンダーグラウンドなロックバンドとパンクロックを結ぶミッシングリンク的な側面も持つ。ザ・ダムドやセックス・ピストルズ、ザ・クラッシュ等ブロンソンが仕入れた英国のパンクバンドのレコードは1976年頃からライノ・レコードの店頭でかかっていた。「1970年代中期まで米国の音楽シーンの主流はジェームス・テイラーのような内省的なシンガーソングライターやイーグルスのようなウエストコーストサウンド、そしてディスコミュージックが主流で、ラウドなサウンドを求める若者はそんな状況に飽き飽きしていた。」とブロンソンは回想する。
3分過ぎに独特のキーボードサウンドをフィーチャーしたロサンゼルス出身の「シンセパンク」バンドのスクリーマーズ、5分過ぎに同じくロサンゼルス出身のウィアドーズのライヴ映像がアップされ、同地のバンドのレコード音源のプロデュースを多数手掛けたギーザ・Xが黎明期のカリフォルニアのパンクシーンについて語る。スクリーマーズはトマータ・ドゥ・プレンティー(1948年生まれ、2000年没)によって1975年にシアトルで結成されたタッパーウェアズというバンドを母体とする。翌年ロサンゼルスに移住した彼らはウィスキー・ア・ゴー・ゴーやロキシー等のクラブ出演で人気を博し、『ロサンゼルス・タイムス』等の地元紙でも絶賛されだ。また『ジンボ』のキャラクター制作で知られるイラストレーターのゲイリー・パンターがデザインしたクールなバンドロゴが印象に残る。活動期間は6年程と短かったのだがドラマーとして参加していたK.K.バレット(スパイク・ジョーンズ監督の20091年公開映画『かいじゅうたちのいるところ』のプロダクションデザイナーを務めた)等、バンド解散後もクリエイティブ面で優れた才能を発揮した一癖も二癖もあるメンバーが出入りしていた。ウィアドーズは1976年にジョンとディックスのデニー兄弟によって結成されだパンクバンドで、後にレッド・ホット・チリ・ペッパーズのデビューアルバムにドラマーとして参加するクリフ・マルティネスも一時期在籍していた。このマルティネスも他にキャプテン・ビーフハートのバンドメンバーに抜擢されたりもした才人で、現在では幅広く映画音楽の制作を手掛け、2011年公開の映画『ドライヴ』も彼の手によるものだ。ギーザ・Xはアリス・バッグ率いるザ・バッグスや後に大ブレイクしたゴーゴーズ等、女性パンクバンドの名も挙げてロサンゼルスのパンクシーンの開放性を語っている。続いてバイオレントなパフォーマンスで名を馳せたジャームスのライヴ映像が流れ、スラムピット(現在のモッシュピット)が生まれたのは彼らのライヴが最初だったようだ。
Flipside - Best Of Volume 1: Bad Religion, Circle Jerks, Dickies, Weirdos
※米国西海岸のファンジン『フリップサイド』の映像版『フリップサイドビデオ~ベスト・オブ・ヴォリューム1』。冒頭からバッド・レリジョン、26分過ぎからサークル・ジャークス、63分過ぎからウィアドーズ、97分過ぎからディッキーズのライヴ映像が収録されている。

6分過ぎにジャック・グリシャム(1961年生まれ)が登場するが彼はT.S.O.L.(True Sunds of Liberty)やカテドラル・オブ・ティアーズ、テンダー・フューリー、ジョイ・キラー等幾多のバンドのフロントマンとして活躍したが、ロサンゼルス近郊のロングビーチを拠点として活動を始めたT.S.O.L.は独特の陰影あるメロディーでポップなサウンドアプローチをしていた事もあり、後発のメタルバンドにも支持された。ガンズ・アンド・ローゼズは彼らの友人で1988年の大ヒット曲『スウィート・チャイルド・オブ・マイン』のプロモクリップではドラマーのスティーヴン・アドラーがT.S.O.L.のTシャツを着用している。
TSOL (SUBURBIA) DARKER MY LOVE & WASH AWAY IN HD
※T.S.O.L.がペネロープ・スフィーリス監督作品映画『サバービア』(1984年)での出演シーン。
Guns N' Roses - Sweet Child O' Mine
※ガンズ・アンド・ローゼズの『スウィート・チャイルド・オブ・マイン』のプロモクリップ。ドラマーがT.S.O.L.のTシャツを着用している。

11分過ぎにブラック・フラッグ、サークル・ジャークスという西海岸パンク~ハードコア・シーンの重要バンドのフロントマンだったキース・モリス(1955年生まれ)がインタビューに答えるが、彼は近年ではジャズをバックにスポークンワードのパフォーマンスを披露するミジェット・ハンドジョブというプロジェクトでも活動している。スポークンワードというのは時には音楽をバックにする事もあるが基本的にはパフォーマーが時事ネタや個人的心情を一人で喋り、主として話術の面白さを披露するものでポエトリーリーディングとも異なる独特な表現形態で、他に元ブラック・フラッグのヘンリー・ロリンズや元デッド・ケネディーズのジェロ・ビアフラ等ハードコア畑出身者にはバンド活動以外にもこうしたアプローチの表現活動をするアーティストは多い。キース・モリスはスポークンワード・パフォーマンスさながらの芝居がかった語り口で初期のカリフォルニアのパンクシーンを回想するが、身振り手振りを含めて実に良い味を出している。彼によると1976年頃まで、当地のティーンエイジャーは週末はたいてい大麻パーティーをしたりスケートボードに勤しんだり、また赤、青、紫等色取り取りに髪を染め、派手なコスチュームでクラブに出かけてグラムロックを聴きながら踊ったりと各々自由なスタイルで楽しんでいたが、パンクロックが流行り始めるとそうした若者達が皆、この音楽やライフスタイルに夢中になった。彼は元々メインストリームのポップミュージックには全く関心がなく、パンク勃興以前にはロサンゼルスを拠点にパンクと同じようなアティテュード、マインドで活動していたフランク・ザッパやキャプテン・ビーフハートを聴いていたという。キースはロサンゼルス近郊のハーモーサビーチで生まれ育ち、同郷のグレッグ・ギン等とブラック・フラッグを結成した。1978年、グレッグが設立したインディペンデント・レーベルのSSTからシングル『ナーバス・ブレイクダウン』をリリースしたが翌年バンドを脱退し、後にパッド・レリジョンのギタリストとして活躍するグレッグ・ヘストン等と共に自らがリーダーシップを取って新たにサークル・ジャークスを結成した。サークル・ジャークスは1980年に当地のインディペンデント・レーベルであるフロンティア・レコードから1980年に『グループ・セックス』をリリース、この作品のアルバム・カバーはマリーナ・スケートボード・パークにパンクスを集めて撮影された写真が使用されている。その後、1980年代に3枚のアルバムをリリース後、キースがバグ・ランプという別プロジェクトでの活動に専念したりした為に一時期活動が停滞するが1995年に折からのパンクリバイバル・ブームに乗ってメジャーのポリグラム・レコードから『オディティーズ、アブノーマリティーズ・アンド・キュリオシティーズ』をリリースする。また2000年にはオフ!というプロジェクトを立ち上げ、カナダを拠点とするユニークなカルチャー雑誌の『ヴァイス』が設立したレコードレーベルからシングルとアルバムを1枚ずつリリースしている。
Circle Jerks: "Wild In the Streets"
※サークル・ジャークスのセカンドアルバム『ワイルド・イン・ザ・ストリーツ』(1982年)のタイトルトラックのライヴ映像。
Circle Jerks - Nervous Breakdown
※サークル・ジャークスの2009年南米チリのサンチャゴでのライヴ映像。ブラック・フラッグの名曲『ナーバス・ブレイクダウン』をパーフェクトにプレイ!
CIRCLE JERKS - Live At The House Of Blues.avi
同上のライヴ映像のフルバージョン。メンバーにはバッド・レリジョンのグレッグ・ヘトソンをフィーチャー。
Midget Handjob EPK (pt.1 of 3)
※キース・モリスのスポークンワード・プロジェクトであるミジェット・ハンドジョブの映像作品。

15分過ぎにプロスケートボーダーでストリートパンクバンド、USボムズのフロントマンとして活躍するドゥエイン・ピータース(1961年生まれ)がパンク~ハードコアとスケートボードとの関係について語る。彼は32歳になる1993年にUSボムズを結成し、2000年からディー・ハンズというプロジェクトでも活動しているが、これには後に彼の奥方となるコリー・パークス(トラッシーなR&Rバンド、ナッシュビル・プッシーの元メンバー)も参加している。ドゥエインはバンド活動を始める遥か前のパンク勃興期からスケートボーダーとしては名が通っており、著名なプロスケートボーダーで俳優でジャーナリストでもあるスティーヴ・オルソンは1970年代後半のドゥエインについて次のように証言している。「ドゥエイン・ピータースの場合、突然長髪を、バッサリ切ったんだ。彼は100%、パンクロックにのめり込んでいったね。ループを初めて決めたのもドゥエインだ。彼は今でも素晴らしいスケーターだよ。でも、最初にスケーターとなった頃は、ブロンドの長髪で、思い切りサーファー・キッズだったんだ。そのうち、よくトイレでスケーター達の髪の毛を切ったりして、パンク/スケートボードの融合を強力に推し進めた。」
US BOMBS - We are the problem (OFFICIAL VIDEO)
※USボムズのアルバム『ウィ・アー・ザ・プロブレム』(2006年)のタイトル・トラックのプロモクリップ。
Independent Trucks: Duane Peters
※ドゥエイン・ピータースのスケーティング映像。終盤、スケーティングを終えたドゥエインが車からディスクを一度放り投げ、それを拾って"Pistols,Devo,Stiff Little Fingers,and maybe Ramones Clash...that's it. You'll ripping.”などと言いながら改めて知人に渡してハイタッチする一連の所作は最高にクール。

20分過ぎにクリスチャン・デス、ゴス・プリーステス等のバンドを渡り歩き、最近はソロ・アーティストとして活動しているカリフォルニアの「ゴス・クィーン」、ジタン・デモン(1958年生まれ)が1980年代初頭のロサンゼルスのパンクシーンから何故クリスチャン・デスのようなゴスバンドが生まれたのか、その経緯について語る。クリスチャン・デスは1978年にロサンゼルス郊外のポモナで結成され、最近では「デスロック」等とも呼ばれているがコープスメイク(白塗りに隈取を施した、ゾンビを思わせるメイク)をしたり独特の耽美的なサウンド等、こうしたアプローチをするバンドの始祖でもある。バンドの主宰者でフロントマンでもあったロズ・ウィリアムス(1963年生まれ)は1998年4月1日に44歳の若さで自殺している。ジタン・デモンはポンペイ99'というニューウェイブバンドのヴォーカル兼キーボードとして音楽活動をスタートさせ、後に他のメンバー共々クリスチャン・デスに合流する。クリスチャン・デスはジタン加入前には同郷のパンクバンド、アドレッセンツのギタリストだったリック・アグニューが参加していたが、このラインナップでフロンティア・レコードからデビュー・アルバム『オンリー・シアター・オブ・ペイン』(1981年)をリリースしている。ジタン等が参加後にロズはデヴィッド・ボウイやルー・リードを思わせるヴォーカルスタイルを取って全体的な表現に深みを増した名盤『カタストロフィ・バレー』(1984年)をリリースする。パンクから発展してデスロック・アプローチをするようになったバンドには女性フロントウーマン、ダナ・キャンサー率いる45グレイブがおり、クリスチャン・デスと共にこの地のシーンを盛り上げた。
Pompeii 99 - The Nothing Song
※ジタン・デモンが音楽活動をスタートさせたポンペイ99の『ルック・アット・ユアセルフ』(1982年)収録曲『ザ・ナッシング・ソング』。時代を感じさせるスカテイストのチープなニューウェイブ・サウンド。
Christian Death - Live
※オリジナル・ラインナップによるクリスチャン・デスの1993年のロサンゼルスのパトリオット・ホールに於けるライヴのフルショウ。
Christian Death - Tales Of Innocence
※クリスチャン・デスの1986年リリースのアルバム『アトロシティー』収録の『テイルズ・オブ・イノセンス』+YouTube Mix。
The Adolescents-Who is Who
※ロサンゼルス近郊オレンジ・カウンティー出身のパンクバンド、アドレッセンツのファーストアルバム(1981年)収録曲『フー・イズ・フー』のライヴ映像。

25分過ぎにドン・ボールズが登場するが彼はジャームス、45グレイブ、セレブリティー・スキン、ヴォックス・ポップ、ヴェノーマス・インヴィジブル・アマンダ等のバンドでドラマーとして活躍したロサンゼルス・パンクシーンのツワモノだ。彼が執筆協力して出版された『レキシコン・デビル』(ブレンダン・ムレン、アダム・パーフレイ著)は『LAパンクの歴史~ジャームスの栄光と伝説』というタイトルで2004年に邦訳版も刊行されているが、これは目茶苦茶面白かった。またジャームスの軌跡を映画化したロジャー・グロスマン監督による『ジャームス~狂気の秘密』(2009年公開、原題"What We Do Is Secret")はDVD化されて日本語字幕入り版もリリースされているが、中々の秀作だ。ジャームスについて少し書いておくとフロントマンのダービー・クラッシュ(1958年生まれ、本名ジャン・ポール・ビーム)は1977年にジャームスを結成してから1980年12月7日に21歳でヘロインの過剰摂取で死去するまで僅か3年足らずのアーティスト活動歴だったのだが、ロック(特にパンク)の持つ暴力性、ニヒリズム、ペシミズム等ネガティブな側面を体現する一方、所謂「ロックスター」に憧れてナルシシズムに満ちたプライベートライフを送る等、相反する両面を持った人物で非常に興味深い。ダービーの書いたリリックはとても10代で書いたものとはおもえない程、どれも人間の本性に関する深い洞察に溢れたものだ。彼は母親が結婚、離婚を繰り返したりという、非常に複雑な家庭に生まれ育ち、幼少の頃より画才や詩才に溢れていたがやがてロックやオカルティズムに関心を持ち、『西洋の没落』(ジャームスも登場するペネローブ・スフィーリス監督による西海岸パンクシーンのドキュメンタリー映画『デクライン』のタイトルはこれから取られた)の名著があるドイツの歴史学者で哲学者でもあるオズヴァルト・シュペングラーに傾倒し、多大なる思想的影響を受けた。シュペングラーは「文明には各々独立したサイクルがあってそのサイクルが終わると文明そのものが死滅するもので、西洋文明もいずれそんな運命を辿る。」という独自の歴史観で知られヨーロッパ中心史観や文明観を批判したが、ダービーは彼の著書にあった「偉大な人間は、その存在自体が本人の思想の犠牲になるような生き様を選ぶものだ。」という言葉にいたく感銘を受けたようだ。そしてこの言葉はその後のダービーの運命を予見していたかのようだ。ダービーはジャームスのステージでの過激なライヴパフォーマンスが注目を浴び、地元のパンクコミュニティーでは顔役的な存在となり、またプライベートでも暴力沙汰やドラッグ浸りで自由奔放に振る舞ったが、本来の知的で思慮深い自己と、周囲が期待するそうした粗野で反道徳的なパンクスのキャラクターを演じ続けるのに疲弊していったようだ。ジャームスはシングルを2枚リリースした後、1979年に名盤『GI』をジョーン・ジェットのプロデュースによって制作する。ダービーはジョーンがランナウェイズ在籍時代から友人で、自分の知り合いで一番有名な人物にプロデュースを依頼しようと思い立って彼女に白羽の矢を立てたようだが実際にはレコーディング中、彼女は何もせずに居眠りばかりしていたと言う憎めないエピソードもある。この作品は主にカリフォルニアの音楽シーンをサポートしていた『スラッシュ』というファンジンが設立したスラッシュ・レコードからリリースされたが『ロサンゼルス・タイムス』初め各紙誌で絶賛された。ジャームスについては稿を改めてまた書いてみたい。
Germs - Lexicon Devil
※ジャームスのセカンドシングル『レキシコン・デビル』(1978年)のライヴ映像。
CDジャーナルWeb版から 映画『ジャームス 狂気の秘密』、シアターN渋谷にてレイトロードショー!
※ジャームスの伝記映画『ジャームス 狂気の秘密』のレビュー記事。

30分過ぎにはサンフランシスコのパンク~ハードコアシーンの総帥、ジェロ・ビアフラ(1958年生まれ)が当地の音楽シーンについて非常に雄弁に語る。彼はポリティカルなパンクバンドのパイオニアであるデッド・ケネディーズのフロントマンであり、またインディペンデント・レーベルの草分けであるオルタナティヴ・テンタクルズのオーナーを務め、また社会活動家、そしてスポークンワード・アーティストとしても有名である。1975~1976年頃にCBGBやマクシズ・カンサス・シティといったクラブを拠点としてニューヨークで起こったオリジナル・パンクムーブメントに呼応してサンフランシスコではザ・ナンズやクライム等のパンクバンドが活動を始めた。ジェロがデッドケネディーズを結成した1978年以前には米国の大手レコード会社はそうしたサンフランシスコのパンクバンドなどには見向きもしなかった。最初にメジャーのA&Mレコードと契約したサンフランシスコのバンド、ディッキーズはポップなサウンドとコミカルなキャラクターを前面に押し出してパンクバンドと言うよりニューウェイブバンドとして売り出した。今では考えられない話だが当時は「パンク」という言葉自体、大手レコード会社にとっては疎ましいものでラモーンズやトーキングヘッズ、リチャード・ヘル&ザ・ヴォイドズ等多くのニューヨークパンクのバンドの作品をリリースしていたサイアー・レコード(ワーナー・ブラザーズが配給)は契約していたバンドについてパンクという呼称を止めて「ニューウェイブ」とする方針を決定した。サンフランシスコのバンドはデッド・ケネディーズの他にもMDC等、政治的な姿勢を打ち出すバンドが多かったのだが、それは1970年代にヒッピームーブメント発祥の地であった事の名残かも知れない。ジェロは1979年に自身が立ち上げたオルタナティヴ・テンタクルズ(以下ATと略記)から1980年にデビュー・アルバム『フレッシュ・フルート・フォー・ロッティング・ベジタブルズ』をリリースした後、4枚の作品をいずれもATからリリースした後に解散したが、その後も様々なバンドとのコラボレーション、スポークンワード、ATの運営、パレスチナ解放を目指すBDS(Boycott Devestiment and Sanctions)キャンペーン等の、社会活動と老いて尚意気盛ん、精力的に活動している。ジェロの社会活動については1979年にデビューアルバムのリリースと同時にサンフランシスコ市長選挙に出馬(得票数10人中4位と健闘)した事は有名な話であるが、1985年にリリースしたDKのサードアルバム『フランケンクライスト』はインサートされていたH.R.ギーガー(映画『エイリアン』のプロダクション・デザインを担当)のデザインによるポスターが猥褻だとしてロサンゼルス市副司法長官に告訴された。結果的にこの裁判はジェロ側が勝訴したのだがこの事件を契機にロックアーティストの「表現の自由」を巡る論争が全米で盛り上がり、各地の自治体でフランク・ザッパ等有名無名を問わず多数のロックアーティストを呼んで公聴会が開かれる騒ぎとなった。
Jello Biafra Runs For Mayor And Interviews
※ジェロ・ビアフラが1979年にサンフランシスコ市長選挙に出馬した際のドキュメント映像。
Dead Kennedys - In God We Trust Inc: Lost Tapes
※デッド・ケネディーズのシングル作品『イン・ゴッド・ウィ・トラスト』(1981年)制作時のドキュメント映像。
Jello Biafra& D.O.A. - FULL METAL JACKOFF
※ジェロ・ビアフラがカナダのパンクバンド、D.O.A.とコラボレーションしたアルバム『ラスト・スクリーム・オブ・ミッシング・ネイバーズ』(1989年)収録曲の『フルメタル・ジャックオフ』のライヴ映像。ジェロはスポークンワードや市長選挙出馬等の様々な活動を経て身に付けたであろうバリエーション豊かな自己表現スタイルを最終的にはこのようにライヴパフォーマンスに昇華させた。D.O.A.のヘヴィな演奏と一体になって時に政治演説の如く米国の政治・社会状況をボディランゲージ?を交えて痛烈にアジテーションしまくる様は圧巻だ。

51分過ぎにサンフランシスコのバンド、フリッパーの映像が流れるが、このバンドは前回触れたグランジムーブメントの主要バンドであるメルヴィンズ等、スラッジメタルバンドやノイズロックバンドの先駆者として後発のバンドにリスペクトされている。サンフランシスコのインディペンデント・レーベル、サブタレニアン・レコードから『ジェネリック・フリッパー』(1982年)、『ゴーン・フィッシン』(1984年)をリリースした後、ヴォーカリストのウィル・シャッターが1987年12月9日にヘロインの過剰摂取により死去するのだが、新たなラインナップで1993年には『アメリカン・グラフィシィー』をデフアメリカン・レコード(現在はアメリカン・レコーディングスと改称)からリリースしている。デフアメリカンの設立者でスレイヤーやレッド・ホット・チリ・ペッパーズ他、ロック史に残る重要な作品を数多く手掛けた名プロデューサーのリック・ルービンがフリッパーの大ファンだった事は有名な話である。
Flipper - Live Target Video 1980-81
※元祖スラッジバンド、フリッパーのライヴ映像作品。

この作品を通じて1980年代の西海岸パンク~ハードコアシーンを俯瞰してみると、どんな音楽ムーブメントにも同じような事が言えるのだが、非常に多彩な音楽性を持ったアーティスト、バンドが群雄割拠していた事に驚かされる。またカリフォルニア州といってもサンフランシスコからロサンゼルス、ロサンゼルス近郊のロングビーチ、ハーモーサビーチ、オレンジ・カウンティー、ポモナ等地域ごとに各々小さな音楽コミュニティーがあり、それらが相互に連携し、影響し合って音楽シーンを形成していた。作品中、登場するアーティストではキース・モリスとジェロ・ビアフラの二人はスポークンワードをやっているだけの事もあって話術も巧みで話の内容も圧倒的に面白い。
米国西海岸の初期パンクシーンについての個人的な思い出というと、以前書いたがヒップホップでを例にとると日本ではある時期まではニューヨーク産のものが本物で、それ以外の地域のものは格が落ちるという認識があったが、パンク~ハードコアに関しても同様に1980年代後半までは英国産のものが本物で米国産や他地域のものは敬遠されがちだった。そんな風潮に風穴を開けたのはカリフォルニア州ヴェニスビーチ出身のスイサイダル・テンデンシーズが日本で紹介された事がきっかけだったように思う。スイサイダル・テンデンシーズ(以下STと略記)はマイク・ミューアを中心に1981年に結成されたハードコアバンドで、マイクの実兄のジムはプロスケートボーダーとして知られ、STもスケートパンクとも称された。STが日本に紹介された1987年、僕が身を寄せたインディーズ系の原盤制作会社であるミュージック・ビジョンズは実はこの年、大手レコード会社の日本クラウンがSTのファーストアルバム(米国では1983年リリース)の日本盤を発売した際、そのライセンスリリースの仲立ちをしていたのだ。この頃、ミュージック・ビジョンズの社長(他に輸入レコードショップ、UKエディソンを経営)が経営していた下北沢のスケートボードショップのヴァイオレント・グラインド(現在の経営者は別人)の販売促進を目論んでSTの作品の日本でのリリースに踏み切ったようだ。ヴァイオレント・グラインドのスタッフに横浜出身の文殊川氏という方がいて、僕も彼にST初め米国のパンク~ハードコアバンドについて色々な情報を聞いてから米国、特に西海岸のバンドに関心を持った覚えがある。文殊川氏は元々スケートボーダーで日本でスケートボードとパンク~ハードコアの親和性を確認したのは彼の存在が最初だった。それまで日本のパンクスというと英国のパンクスの影響が色濃く、ファッションもそれに倣って鋲打ち革ジャンに革パン、黒のスリムジーンズ等が定番だったのだが、彼は明るい原色のTシャツやデニムジーンズを身に付けていた。
Suicidal Tendencies- "Institutionalized" Frontier Records
※スイサイダル・テンデンシーズの1983年リリースのデビューアルバム収録曲『インスティテューショナライズド』のプロモクリップ。

この時期には以前度々書いたDJイベント『ロンドンナイト』のDJをやっていた福田哲也氏がスケートボーダーにターゲットを絞った『スプラッター・ジ・エンド』(スケートナイト)というDJイベントを新宿のツバキハウスで定期的に開催したりしていた。当時の日本で活躍していたスケートパンクバンドでは現在でも活動しているローズ・ローズが知られている。彼らは1983年に結成され、もうキャリア30年にも及ぶが後にグラインドコアやデスメタル的なサウンドアプローチにチャレンジしたりと、その時々に於いて一番エクストリームなサウンドを追求しているようだ。また横浜を拠点に活動していたマッド・コンフラックスも純粋なスケートパンクではないが、それまでは英国のハードコアバンドからの影響が顕著だった日本のバンドの中で米国産のハードコア・テイストを盛り込み、独特のスタイルを確立したバンドとして印象深い。
ROSE ROSE - There's no realism
※日本のスラッシュメタルバンドのオムニバス・アルバム『スカル・スラッシュ・ゾーン』(1986年)収録のローズ・ローズの『ゼアズ・ノー・リアリズム』。同作品には何故かXジャパン(当時はまだX名義)も参加していた。
Roserose - Mosh of Ass
※インディペンデントレーベルのドグマからリリースされたローズ・ローズのデビュー・アルバム『モッシュ・オブ・アス』(1987年)のタイトル・トラック。
Mad Conflux-Lower
※横浜出身のハードコアバンド、マッド・コンフラックスの同郷のバンド、ジャンキーとのスプリットシングル(1987年)から『ロウアー』。
先日、都内のあるショップに立ち寄った際、女性ボーカリストが歌っているボブ・ディランの『イッツ・オール・オーバー・ナウ・ベイビー・ブルー』のカバーバージョンが聞こえてきた。何故か激しく情動を揺さぶられ、思わずショップスタッフに「これ、誰が歌っているんですか?」と聞いてみると「ホールのコートニー・ラヴですよ。」との事。コートニー・ラヴ‥今は映画女優としての活躍が目につくが、彼女は1990年代初頭に世界中の音楽シーンを席巻したグランジ~オルタナティヴロック・ムーブメントの旗頭であるニルヴァーナのカート・コバーン夫人だった事でも知られる。早いものでグランジ~オルタナティヴロック・ブームからもう20年。今回は所謂「グランジ」の発祥地である米国ワシントン州シアトルの音楽シーンを検証したダグ・プレイ監督による映像作品『hype!(ハイプ)』(1996年)を紹介したい。
Hype! - FULL MOVIE (1996)
一言で「グランジ」といってもその言葉には様々な要素があり音楽ムーブメントとしての意味のみならず、それはファッションやライフスタイルまでも含むこの時代の若者文化を象徴するキャッチフレーズでもあった。といってもこうしたムーブメントの宿命でグランジ・ムーブメントも数年間で忘れ去られてしまう儚いものであったのだが、そういう意味でも「hype=誇大宣伝、でっちあげ」というこのタイトルは秀逸だ。
作品の冒頭にはグランジ真っ盛りの時期に米国で『ローリング・ストーン』誌と並ぶカルチャーマガジンである『スピン』誌の1992年12月号に掲載された、
"Seattle...is currently to the rockn''roll world what Bethlehem was Chsistianity."
「シアトル‥はロック一色となった。それはまるでかつて(イエスの生誕地であるパレスチナの)ベツレヘムがキリスト教に塗り替えられたように。」
との一文がアップされる。そして曇天がちな気候だが森に囲まれて豊かな天然資源を擁し港湾都市として栄えるシアトルの町並みをバックにオレゴン州ポートランド出身のローカルバンド、クラッカーバッシュの『バンデージ』が流れ、そのままバンドのライヴ映像へと繋いでいく。続いてシアトルから程近いベリンガム出身のガレージパンクバンドのモノメンのメンバーや写真家のチャールズ・ピーターソン、グラフィックデザイナーのアート・チャントリー、グランジ勃興期から活動していたスキン・ヤードの中心メンバーでもありグランジ関連の作品を多数手がけたプロデューサー、ジャック・エンディーノ等、シアトル・シーンを担い手となった人物達がグランジ・ブレイク以前のシアトルの音楽シーンについて思い思いに振り返る。
モノメンのクラブでのライヴ映像を挟んでシアトル出身のウォークアバウツのメンバーやこれまたシアトル・シーンの立役者であるエンジニア、プロデューサーのスティーブ・フィスク(ポストパンク的なインストゥルメンタルロックバンドのペル・メルのメンバーでもあった)が1980年代中期のシアトルのバンドについてトーキング・ヘッズやキリング・ジョーク等のパンク~ニューウェイブバンドから多大な影響を受けていたと語っている。
8分過ぎに1980年代初頭に活動していたポストパンクバンドのU-メンの映像、そしてシアトル・シーンの重鎮で1979年から活動しているファストバックスが登場し、彼らの代表曲『Kストリート』の演奏シーンが流れる。それから生粋のシアトル・バンドであるメルヴィンズのバズとデイル、サウンドガーデンのキム・セイルとマット・キャメロン、先述のU-メンにいたトム・プライスが結成したガス・ハッファーのメンバーが各々お気に入りだったシアトルのバンドの名を挙げた後、シアトルの古株バンドのストマック・パンプのメンバーだったレイトン・ビーザーがパソコン画面上にシアトル・シーンのファミリー・ツリーをアップしながらポップなサウンドアプローチをするパワーポップバンド、実験的なサウンドのノイズロックバンド、ハードロック~メタル等々、シアトル・シーンではバンド個々が多彩な音楽性を持っていたと証言する。そして短命に終わったバンドではあるが、グリーン・リバーやマルファンクシャン、スキン・ヤードといった当地では名の知れたバンドのメンバーによって結成されたマザー・ラヴ・ボーンがグランジ・ブレイク以前のバンドとしてはシアトル・シーンのミッシングリンク的存在であったという。マザー・ラヴ・ボーンは後に大ブレイクするパール・ジャムを結成するストーン・ゴッサードが在籍していた事でも知られる。
13分過ぎにエキセントリックなガレージパンクバンドのガス・ハッファー、15分過ぎにワシントン州オリンピア出身の「ローファイ」バンド、サム・ヴェルヴェット・サイドウォークのライヴ映像が流れる。一口にグランジ=シアトル・シーンと言ってもそれは同じ州のオリンピアやタコマ、隣接州であるオレゴン州ポートランド辺りまでを包括した音楽シーンを指し、これら各地域のバンドやレーベルが相互に連携して活動して一つの音楽シーン~コミュニティーを形成していたと言えよう。
17分過ぎにはポートランド出身のパンクバンド、デッド・ムーン、20分過ぎにはポップパンクバンドのフロップの演奏シーンがフィーチャーされ、これらのバンドの作品をリリースしたポップラマ・レコードのコンラッド・ウノやサーフ・ガレージやトラッシュR&Rバンドを多数輩出したエストラス・レコードのデイヴ・クライダー、オリンピアの音楽シーンの重鎮でKレコードを主宰するカルヴィン・ジョンソン(ローファイ・バンド、ビート・ハプニングのリーダーでもある)等インディペンデント・レーベルのオーナーが彼らなりの視点で当時を回想する。
23分過ぎにスキン・ヤードのメンバーでありC/Zレコードのオーナーであるダニエル・ハウスが登場し、マルファンクシャンやメルヴィンズ、サウンドガーデン等重要バンドを多数収録した同レーベルが最初にリリースしたオムニバス作品『ディープ・シックス』(1986年)がグランジ・ムーブメントの発火点だったと語る。
DeepSix (Full Album)
※C/Zからリリースされたオムニバス・アルバム『ディープ・シックス』(1986年)。
更にメルヴィンズの演奏シーンが流れ、巨漢フロントマン、タッド・ドイル率いるタッドのメンバーがグランジとは「よりノイジーで、不協和で、かつヘビーな」音楽だと語る。
TAD- Greasebox
※タッドの『グリース・ボックス』(1993年)。
24分過ぎには無名時代のニルヴァーナやマッドハニーがオープニングアクトを務めた事もあったブラッド・サーカスの演奏シーンがあり、ジャック・エンディーノ他関係者がグランジ・ムーブメントの代名詞とも言える最重要インディペンデント・レーベルのサブ・ポップ・レコードの台頭について語る。サブ・ポップ・レコードは1979年にオリンピアで発行されたファンジン(当初は『サブタレニアン・ポップ』というタイトルだった)で、元々は雑誌だけの体裁だったのが1981年からローカルバンドの音源を収録したコンピレーション・カセットテープを付録に付けるようになり、このアイディアが発展して最終的にはレコード・レーベルになったと創設者のブルース・パヴィットとジョナサン・ポーンマンが語っている。二人は1986年にオリンピアからシアトルに移り、ここを拠点に本格的にレーベル活動をスタートさせる。第一弾のリリースはニューヨークのソニック・ユースや日本の少年ナイフも参加したオムニバス『サブ・ポップ100』でこの作品にはブレイク後のニルヴァーナのプロデュースを手がけるスティーヴ・アルビニのソロ作品やハードコアパンクのネイキッド・レーガン等、非常にバラエティーに富んだラインナップが並んでいる。
Sub Pop 100- 01 Spoken word intro thing Steve Albini
※サブ・ポップの記念すべきファースト・リリース『サブ・ポップ100』に収録されたスティーヴ・アルビニの実験的なナンバー。『サブ・ポップ200』との音源コンテンツのミックス。
翌年にはマッドハニーのマーク・アームやパール・ジャムのストーン・ゴッサードが参加していたグリーン・リバーのEP『ドライ・アズ・ア・ボーン』、サウンドガーデンの『スクリーミング』をリリースし、レーベルとしての基盤を固める。
28分過ぎにグリーン・リバー解散後に新たにマーク・アームが結成したマッドハニーの『タッチ・ミー・アイム・シック』(1988年)のライヴ映像が流れ、所属アーティストや元スタッフ、ローカルエリアの音楽評論家達によってサブ・ポップ躍進の原因についてあれこれと語るが、一つにはサブ・ポップが1988年に始めた「サブ・ポップ・シングルズ・クラブ」という会員制の通販システムが巷で大きな話題になった事を挙げている。これは一定の金額の会費を支払って会員になるとサブ・ポップがリリースしたシングルが毎月郵送されてくるというもので、レーベル側は事前にレコードの制作費を調達でき、また会員は次にどんな作品が送られてくるのか分からないというスリルやバンドの先物買い的な醍醐味を味わえるという、両者にとって一挙両得のユニークなシステムで、米国のみならずヨーロッパ初め世界各国で会員を確保した。因みにこのシステムの第一弾リリースがニルヴァーナの『ラブ・バズ』だった。
31分過ぎにラヴ・バッテリーの『ビトウィン・ジ・アイズ』がインサートされ、「森林から出て来たシアトルのロックがワイルドに」という音楽誌の見出し等が紹介される。ハードコアパンクバンドのコフィン・ブレイクの映像が流れた後、グランジ=シアトル・ロックを題材にした『ロックンロール・モブスターガールズ』(1988年)というコメディードラマのワンシーンも流れる。
35分過ぎにはニルヴァーナの『スメルズ・ライク・ア・ティーン・スピリット』が初めてライヴで披露された時の貴重な映像がアップ。1989年にサブ・ポップからリリースされた彼らのアルバム『ブリーチ』のカバー写真を撮ったチャールズ・ピーターソンがニルヴァーナのライヴ写真を紹介する。チャールズはニルヴァーナの他にもサブ・ポップの作品に写真を多数提供し、サウンド面を担ったプロデューサーのジャック・エンディーノ、そしてグラフィックデザインを手掛けたアート・チャントリーと共にビジュアル面に於けるサブ・ポップの作品のクリエイティブ・チームの一員としてレーベル・イメージの形成に一役買った。1990年にメジャー・レーベルであるDGCと契約したニルヴァーナは翌年9月に『ネヴァーマインド』をリリース、シングル『スメルズ・ライク・ア・ティーン・スピリット』もMTVで繰り返しオンエアされて大ブレイクする。彼らは『ローリング・ストーン』や『スピン』誌等のカルチャーマガジンや『サーカス』他の有力音楽誌の表紙を次々と飾り、彼らの出現によりシアトルもまた「グランジ・シティ」として以前にも増して注目されるようになる。
39分過ぎには『デイリー・バラエティー』誌の"'Seattle Sound'melts down pop metal"(シアトル・サウンドがポップメタルを暴落させた)という興味深い見出しが目に付く。余談になるがニルヴァーナのブレイク以前は音楽シーン、殊にロックのメインストリームはロサンゼルス出身の「スプレー・メタル」「LAメタル」と呼ばれるポップメタル~派手なメイクにコスチュームをセールスポイントとするモトリー・クルー等のバンド群で俗に言う「ロック・スター」達であった。彼らは1970~1980年代にかけて急成長を遂げた音楽産業の中にあって大手レコード会社やプロダクション、ブッキング・エージェンシーが構築したスターシステムに乗って巨額の収入を得るようになり、私生活でもハリウッド・スター顔負けのグラマラスライフを送る等、音楽シーンに於ける新たな「エスタブリッシュメント」としてニルヴァーナ等のインディペンデントな活動をしてきたアーティスト達の攻撃対象となっていた。メディアもこの対立構図を面白おかしく報道し、特にニルヴァーナのカート・コバーンのガンズ・アンド・ローゼズのアクセス・ローズに対する度重なる「口撃」は格好のゴシップネタとなっていた。
シアトル出身のパール・ジャムやアリス・イン・チェインズ、サウンドガーデンもこの時期にブレイクし、シアトル出身というのが一つのブランドとなり大手レコード会社はこぞってシアトル詣でをして青田買いとも言えるバンドのスカウティング活動もしていた。あのマドンナも自身が設立したレーベル「マーベリック」からシアトル出身のキャンドルボックスをデビューさせ、一定の成功を収めている。そうした陰でこの頃、それまで我が世の春を謳歌していたポップメタルバンドは次々とレコード会社から契約を打ち切られて解散したり、活動規模を縮小せざるを得なくなって失意の日々を送る事となった。
41分過ぎにはガレージパンク系のインディペンデント・レーベルのエンプティ・レコードのブレイク・ライト等がこの時期起きた状況を苦々しく振り返る。
42分過ぎにはギターポップバンド、ポウジーズのライヴショットを挟み、先述のコフィン・ブレイクのメンバーが何でもかんでもシアトル=グランジと一括りにされる事に反発を覚えたと証言する。
44分過ぎにはヤング・フレッシュ・フェローズの日本ツアーの模様がフィーチャーされ、グランジ・ブレイクの波はこの日本も襲う事になった。ガレージパンク系のレコードショップとして有名な東京・西新宿のバーンホームズ・レコードのオーナーやインディペンデント・レーベルのRBFレコードを主宰し、現在は東京・新代田のライヴハウスFEVERを運営する西村氏がちらりと映っている。
45分過ぎにシーウィードの『グランジフェスト'93』の演奏シーンがフィーチャーされるが、このバンドは1994年秋に来日した際、僕は彼らのライヴを観る事ができた。場所は恵比寿の「ギルティー」というライヴスペースでグランジ・ブームに陰りが見えたこの時期、ブレイク前のハイ・スタンダード等の日本のバンドと共演したのだがハイスタのライヴが非常に盛り上がっていたのが印象に残っている。そんな中、シーウィードのメンバーはマイペースなパフォーマンスで「僕達はシアトルじゃなくてタコマ出身だ。」とMCで語っていた。ハイスタもメロコア・アプローチのサウンドでブレイクしたのだがそれ以前、結成当初はニルヴァーナのようなグランジ色濃いサウンドだったと記憶している。
48分過ぎにはアリゾナ州出身ながらシアトルに移住してサブ・ポップから幾つか作品をリリースしたクレイジーなR&Rバンド、スーパーサッカーズのライヴがフィーチャーされる。このバンドも1993年暮れにサブ・ポップが日本のソニー・レコードと配給契約を結んだ事を契機に日本でも開催されたサブ・ポップの名物ショーケース・ライヴ『サブ・ポップ・レイムフェスト(駄目バンド祭り)』に出演している。
SUPERSUCKERS / BORN WITH A TAIL - Directed by Rocky Schenck
※スーパーサッカーズの『ボーン・ウィズ・ア・テイル』(1995年)。
50分過ぎからは当時のグランジ狂騒曲とも言えるメディアへの過剰な露出ぶりが紹介されるが「グランジ・エアロビクス」というエアロビクスのカリキュラムコースや「グランジ」という商標が入ったエフェクターの広告、人気TV番組「サタデー・ナイト・ライヴ」で著名なコメディアンのアダム・サンドラーがグランジをネタにしたシーンがフィーチャーされ、果ては「グランジ・ポッキー」なるスナック菓子まで登場する。
53分過ぎにはそれらの現象を象徴するように"Mass culture embraces the Style of Seattle."(マスカルチャーはシアトルのスタイルを取り込んだ)という新聞の見出しがアップされる。
53分過ぎにはオハイオ州出身でシアトルに移住してきた女性ボーカリスト、ミア・サパタを擁するギッツのライヴシーンがインサートされるが不幸にもボーカルのミアは1993年7月3日に強姦殺人事件に巻き込まれ死去してしまう。
57分過ぎにはニューヨーク・タイムズが"The Living Arts"-Success for the Great Unwashed「生きる芸術~洗練とは無縁の偉大なる成功」という大見出しを付けて紹介し、こうした一流紙がグランジ文化をマグロな視点で俯瞰する記事で取り上げるまでになった。続けて巻き舌ボーカルが新鮮なシアトルのパンクバンド、ジップガンの映像が挿入され、ポップラマ・レコードのコンラッド・ウノがファッション面からのグランジ・ブレイクについて語る。ファッション誌『ソーマ・マガジン』では"Born to Grunge"という見出しが表紙を飾りグランジ・ファッションで一番ポピャラーなフランネルシャツが郊外のショッピングモールで量販されていた当時の様子が紹介される。
61分過ぎには女性ボーカルをフィーチャーしたノイズロックバンド、ハマーボックスのライヴ映像が流れるが、こうした実験的なサウンドのバンドが注目されるようになったのもグランジ=シアトル印のバンドなら何でもメディアが取り上げた、この時代以降の事だったようだ。
64分過ぎにはアリーナツアーをこなすまでにビッグネームとなったサウンドガーデンのショウの舞台裏(ステージ・セッティング)、そして圧倒的な演奏力を誇る彼らの超強力なライヴパフォーマンスがフィーチャーされる。このバンドは1994年2月にクラブチッタ川崎で行われた来日公演を体験した事もあり、数あるグランジバンの中でも個人的に思い入れもひとしおだ。
Soundgarden(MTV Live & Loud, 1996)
※MTVの企画『ライヴ&ラウド』に於けるサウンドガーデンのライヴ・フッテージ。
69分過ぎにはオールガール・グループの7イヤー・ビッチのライヴ映像が流れるが、彼女達はロサンゼルス出身のL7等と共にオールガールのグランジ~オルタナティヴロックバンドの代表格として活躍した。
71分過ぎには"'Seattle Scene'and Heroine Use:How bad is it?"(シアトル・シーンとヘロイン常用:何て事だ。)という新聞の見出しが紹介されるが1990年3月19日にマルファンクシャン、マザー・ラヴ・ボーンのフロントマンだったアンドリュー・ウッドがヘロインの過剰摂取により亡くなった。そしてその4年後の1994年4月8日にはヘロイン中毒によって著しく精神状態が不安定だったニルヴァーナのカート・コバーンが猟銃自殺を遂げる。
73分過ぎにはスクリーミング・トゥリースのボーカリスト、マーク・ラネガンのソロ作品でメランコリックな『ザ・リバー・ライズ』が流れる中、多くのファンが詰めかけて執り行われたカートの通夜の模様がアップされる。
75分過ぎにはこの作品でも度々重要な発言をしてきたグランジ・ムーブメントのスポークスマン的存在であったパール・ジャムのエディ・ヴェダーがシアトルのミュージシャン仲間を集めて1995年1月8日に行った4時間に渡る公開ラジオセッション『セルフ・ポリューション・レディオ』の模様を映した映像が流れる。
そして最後にシアトルで起きたグランジ・ムーブメントは1966~1967年に米国のサンフランシスコで起きたフラワー・ムーブメント、また英国のロンドンで起こったパンクロック・ムーブメント、リバプールのマージービートに匹敵する、一地方都市から生まれて世界中に拡散していった一大音楽ムーブメントだったと振り返り、このムーブメントの渦中にあったミュージシャンや関係者が各々の観点で短くコメントし、エンディングにヤング・フレッシュ・フェローズの『ダーク・コーナー・オブ・ザ・ワールド』が流れてこの作品は幕を閉じる。
この作品は1996年に制作されたもので監督を務めたタグ・プレイはこの後2001年に今度はDJ、ターンテーブリスト達にスポットを当ててヒップホップの歴史を俯瞰した『スクラッチ』でドキュメンタリー作品の監督として一級の評価を確立した。グランジという、実体の解らない音楽文化ムーブメントについて、ナレーションを一切入れずに当時の関係者の証言と映像を繋ぎ合わせて見事に描き出している。この作品を見れば一目瞭然だがグランジ・ムーブメントとは一音楽ジャンル、カテゴリーと言うよりもその時代特有の「空気」を反映したもののように思う。実際、登場するバンドはパンク、ハードロック、メタル、ハードコアパンク、ポップパンク、ガレージパンク、ノイズロックetc.多種多様な音楽性を持っている。そしてやはりレーベルではサブ・ポップ、バンドではニルヴァーナ(というよりカート・コバーン)がグランジなるものの諸々全てを象徴していた。先述のようにサブ・ポップはファンジンからスタートしてインディペンデント・レーベルへと展開していったもので、これは1980年代のアンダーグラウンドな音楽シーン特有のファンジン文化の発展した形態としては珍しいものではない。サブ・ポップが突出してこの時代に急成長を遂げたのはシングルズ・クラブ等の斬新な企画を次々と打ち出した事もあったのだが、(ニルヴァーナにも当てはまるのだが)やはり時代と個性の巡り合わせ以外の何物でもない。ニルヴァーナについてはブレイク後からカートの死後も真偽不明の怪しげなものも含めて夥しい量の情報がメディアに流れ続けている。音楽シーンに於いてそれだけ大きな存在感を発揮していたという事だろうが殊にカートはミュージシャンとして以前に、非常に特異で複雑なパーソナリティーを持った人物でインタビュー等で刺激的な発言を繰り返し、メディアの好餌になっていた感も否めない。カートの経歴を簡単に紹介すると、1967年ワシントン州アバディーン生まれで両親の離婚を契機に鬱病を患い、周囲の人間と協調できずと孤立しがちだった高校時代にブラック・サバスやエアロスミスと出会い‥といったこの世代の若者にありがちな精神的遍歴を背負って音楽活動をスタートした。この部分だけ取り上げても同世代の若者に強い共感を呼んだのもよく理解できる。この世代は米国では俗に「X世代」と呼ばれ、彼らは1960~1970年代中期生まれで成長経済期に働き盛りだった両親の下に育ち、物質的には恵まれたものの家庭不和や希薄な人間関係から疎外感や孤独感に苛まれるのが常だったという。また彼らX世代は成人した頃には成長経済の反動から企業がリストラやダウンサイジングを推進した為に就職難に喘ぐ若者が溢れ返った。当時「コーポレイト・ロック」(産業ロック)と呼ばれ、利潤追求の企業活動の一環になってしまったバンドやそれを取り巻くシステムに激しく毒づいたカートの一連の言動は、この世代の抱える憤怒を代弁していたとも言えるし、その激しいサウンドや攻撃的なライヴパフォーマンスと共に彼らにある種のカタルシスをもたらしていたのだろう。社会現象にまでなったグランジのブレイクはニルヴァーナ及びカートの存在あってこそのものだったのは衆目の一致する所だろう。また最初に触れたカート夫人となったコートニー・ラヴとの結婚、そして恐らくは薬物による様々なトラブルや奇行も好奇心旺盛なメディアにセンセーショナルに報道される度に人々の抱く彼らへの幻想を膨らませていった。コートニー・ラヴについては彼女との出会いからカートの迷走が始まった事もあってかカートの魔女、毒婦扱いする向きもあるが(コートニーによるカートの暗殺説まである)、結果としてスキャンダルも利用してしまう彼女のメディア対応もあってニルヴァーナの知名度が飛躍的に高まったのも事実である。
バンドとしてのニルヴァーナについて着目しておきたいのは最終的にドラマーの座に落ち着いたデイヴ・グロール(現在はフー・ファイターズ他の活動で知られる)はスクリームというハードコアパンクバンド出身であり、またニルヴァーナの3枚目のアルバム『イン・ユーテロ』リリース時期にツアー・ギタリストとして参加していたパット・スメアはロサンゼルスで1970年代末のハードコアパンク勃興期に活動していたジャームスのオリジナルメンバーであった。
Nirvana - 1991 Reading Festival, Endless Nameless
※ニルヴァーナがブレイクする一つのきっかけとなった1991年英国のレディング・フェスティバルでのライヴ。カートがドラムセットにダイブするシーンは衝撃的だった。
Nirvana - The In Utero Concert 1993 - Full Length Film
※MTVの『ライヴ&ラウド』でのニルヴァーナ。もう一人のギターは元ジャームス、後にフー・ファイターズにも参加するパット・スメア。
ニルヴァーナも米国のハードコアパンクの源流とも言える人脈に連なるバンドであったという事である。パット・スメアのいたジャームスは非常に興味深いバンドでダービー・クラッシュという破滅型フロントマンを擁し、彼もまたヘロインの過剰摂取で夭逝してしまうのだが、非常に複雑なパーソナリティを持った人物でカートとの類似性を指摘する人も多い。ジャームスは音楽性に於いてもアグレッシブなハードコアパンクから「脱力系」とも言われる投げやりなローファイ・ナンバーまで、グランジ~オルタナティブロックのバンドに先駆けて特異なサウンドアプローチをしていたバンドで、過激なライヴパフォーマンス等、色々な意味で雛型だったとも言える。
The Decline of Western Civilization Part 1(The Germs)
※ドキュメンタリー映画『デクライン』(1981年)でのジャームスの出演シーン。
またアルバム『イン・ユーテロ』ではシカゴのポストパンクバンド、ビッグ・ブラックを率いて活動し、エンジニアとして数々の米国アンダーグラウンド・ロックの作品を手掛けたスティーヴ・アルビニをプロデューサーとして起用、他にもニルヴァーナのブレイクを後押ししたソニック・ユース等と共にそれまで日の当たらなかったアンダーグラウンド・シーンの先鋭的なアーティストを引き立てた。サブ・ポップのコンピレーション『サブ・ポップ100』にも参加した日本の少年ナイフやボアダムスをツアーのオープニングアクトに起用したりして彼らや日本のアンダーグラウンド・シーンを広く世界に知らしめた。
SHONENKNIFE / NIRVANA * 1993 MTV INTERVIEW+ LIVE CLIPS
※少年ナイフのMTVインタビュー。
またニルヴァーナはシアトルから少し離れたオレゴン州ポートランドで1970年代から活動していたワイワイパーズというパンクバンドのカバーをレパートリーにしており、地域の先達バンドをリスペクトする姿勢も後進のバンドに影響を与えた。1993年にはニルヴァーナやホールも参加したワイパーズのトリビュート・アルバムがリリースされている。
Wipers - Over the edge
※ワイパーズの『オーバー・ジ・エッジ』(1983年)。
Hole- Over The Edge
※ホールによる同曲のカバーバージョン。コートニーの佇まい、ムーヴはやはりクール。
Hole- Reasons to be Beautiful - Live
※ホールの『リーズン・トゥ・ビー・ビューティフルル』。ジュールズ・ホランドのTV番組での映像(1998年)。
ロックバンドに限らずアーティストというものははメジャーレーベルと契約すると専属契約に縛られて活動を制限されがちだったのだがニルヴァーナはDGCと契約後もフットワーク軽くインディペンデント・レーベルから作品をリリースしたり(ジーザス・リザードとのスプリット・シングル等)様々なコンピレーションに音源提供していた。ニルヴァーナ及びカート・コバーンについて書きはじめるときりがないのだが、音楽的にはヘビーかつノイジーな中にもポップな要素が散りばめられて楽曲自体、非常に耳に馴染み易かったというのも見落とされがちだ。カートは『ローリング・ストーン』誌のインタビューでパワーポップバンドのチープ・トリックから作曲面で多大な影響を受けたと語っている。
CHEAP TRICK - I Want You To Want Me (1979 UK TV Appearance) ~ HIGH QUALITY HQ
※チープ・トリックの代表曲『甘い罠』(1979年)。2分20秒にカートに関するテロップが入る。天才的な作曲センスはまさにポップ・マエストロ。
ポップといえばシアトルのポウジーズのようなギターポップバンドの出現に呼応するかのように東海岸のマサチューセッツ州ボストンからはレモンヘッズが一気にブレイクし、またシアトル出身バンドのようなノイジーでポップなサウンドのダイナソーJr.もグランジ・ブームに乗ってトップバンドの仲間入りをした。ダイナソーJr.のようなサウンドの先駆者である英国のジーザス&メリーチェイン等もこの時期、再び脚光を浴びるようになり、グランジ・ブームはこうした様々な波及効果を生んだ。
The Posies- Golden Blunders
※ポウジーズの『ゴールデン・ブランダース』(1990年)
The Lemonheads - It's A Shame About Ray (Video)
※レモンヘッズの『イッツ・ア・シェイム・アバウト・レイ』(1992年)。
Dinosaur Jr.- Just Like Heaven
※ダイナソーJrの『ジャスト・ライク・ヘヴン』(1989年)。
日本はと言うとこの時期に活動していたバンドでは個人的にはニューキーパイクス、ヴォリューム・ディーラーズの2バンドが印象に残っている。彼らはグランジとは言い難いがニルヴァーナがブレイクして日本でもそうした動きが知られるようになる以前から、ごく当たり前のようにサブ・ポップやニルヴァーナが持っていたインディペンデント・アティテュードで活動していたように思う。
NUKEY PIKES
※ニューキーパイクスの"Milk & Sugarcorn"のライヴ映像。
Nukey Pikes - Dancing Queen
※ニューキーパイクスのファースト・アルバム(1991年)に収録のアバのカバー。
VOLUME DEALERS 91.11.11 ANTIKNOCK
※ヴォリューム・ディーラーズの1991年のライヴ。彼らはSOIA、フガジの初来日公演でフロントアクトを務めた。