先日、都内のあるショップに立ち寄った際、女性ボーカリストが歌っているボブ・ディランの『イッツ・オール・オーバー・ナウ・ベイビー・ブルー』のカバーバージョンが聞こえてきた。何故か激しく情動を揺さぶられ、思わずショップスタッフに「これ、誰が歌っているんですか?」と聞いてみると「ホールのコートニー・ラヴですよ。」との事。コートニー・ラヴ‥今は映画女優としての活躍が目につくが、彼女は1990年代初頭に世界中の音楽シーンを席巻したグランジ~オルタナティヴロック・ムーブメントの旗頭であるニルヴァーナのカート・コバーン夫人だった事でも知られる。早いものでグランジ~オルタナティヴロック・ブームからもう20年。今回は所謂「グランジ」の発祥地である米国ワシントン州シアトルの音楽シーンを検証したダグ・プレイ監督による映像作品『hype!(ハイプ)』(1996年)を紹介したい。
Hype! - FULL MOVIE (1996)
一言で「グランジ」といってもその言葉には様々な要素があり音楽ムーブメントとしての意味のみならず、それはファッションやライフスタイルまでも含むこの時代の若者文化を象徴するキャッチフレーズでもあった。といってもこうしたムーブメントの宿命でグランジ・ムーブメントも数年間で忘れ去られてしまう儚いものであったのだが、そういう意味でも「hype=誇大宣伝、でっちあげ」というこのタイトルは秀逸だ。
作品の冒頭にはグランジ真っ盛りの時期に米国で『ローリング・ストーン』誌と並ぶカルチャーマガジンである『スピン』誌の1992年12月号に掲載された、
"Seattle...is currently to the rockn''roll world what Bethlehem was Chsistianity."
「シアトル‥はロック一色となった。それはまるでかつて(イエスの生誕地であるパレスチナの)ベツレヘムがキリスト教に塗り替えられたように。」
との一文がアップされる。そして曇天がちな気候だが森に囲まれて豊かな天然資源を擁し港湾都市として栄えるシアトルの町並みをバックにオレゴン州ポートランド出身のローカルバンド、クラッカーバッシュの『バンデージ』が流れ、そのままバンドのライヴ映像へと繋いでいく。続いてシアトルから程近いベリンガム出身のガレージパンクバンドのモノメンのメンバーや写真家のチャールズ・ピーターソン、グラフィックデザイナーのアート・チャントリー、グランジ勃興期から活動していたスキン・ヤードの中心メンバーでもありグランジ関連の作品を多数手がけたプロデューサー、ジャック・エンディーノ等、シアトル・シーンを担い手となった人物達がグランジ・ブレイク以前のシアトルの音楽シーンについて思い思いに振り返る。
モノメンのクラブでのライヴ映像を挟んでシアトル出身のウォークアバウツのメンバーやこれまたシアトル・シーンの立役者であるエンジニア、プロデューサーのスティーブ・フィスク(ポストパンク的なインストゥルメンタルロックバンドのペル・メルのメンバーでもあった)が1980年代中期のシアトルのバンドについてトーキング・ヘッズやキリング・ジョーク等のパンク~ニューウェイブバンドから多大な影響を受けていたと語っている。
8分過ぎに1980年代初頭に活動していたポストパンクバンドのU-メンの映像、そしてシアトル・シーンの重鎮で1979年から活動しているファストバックスが登場し、彼らの代表曲『Kストリート』の演奏シーンが流れる。それから生粋のシアトル・バンドであるメルヴィンズのバズとデイル、サウンドガーデンのキム・セイルとマット・キャメロン、先述のU-メンにいたトム・プライスが結成したガス・ハッファーのメンバーが各々お気に入りだったシアトルのバンドの名を挙げた後、シアトルの古株バンドのストマック・パンプのメンバーだったレイトン・ビーザーがパソコン画面上にシアトル・シーンのファミリー・ツリーをアップしながらポップなサウンドアプローチをするパワーポップバンド、実験的なサウンドのノイズロックバンド、ハードロック~メタル等々、シアトル・シーンではバンド個々が多彩な音楽性を持っていたと証言する。そして短命に終わったバンドではあるが、グリーン・リバーやマルファンクシャン、スキン・ヤードといった当地では名の知れたバンドのメンバーによって結成されたマザー・ラヴ・ボーンがグランジ・ブレイク以前のバンドとしてはシアトル・シーンのミッシングリンク的存在であったという。マザー・ラヴ・ボーンは後に大ブレイクするパール・ジャムを結成するストーン・ゴッサードが在籍していた事でも知られる。
13分過ぎにエキセントリックなガレージパンクバンドのガス・ハッファー、15分過ぎにワシントン州オリンピア出身の「ローファイ」バンド、サム・ヴェルヴェット・サイドウォークのライヴ映像が流れる。一口にグランジ=シアトル・シーンと言ってもそれは同じ州のオリンピアやタコマ、隣接州であるオレゴン州ポートランド辺りまでを包括した音楽シーンを指し、これら各地域のバンドやレーベルが相互に連携して活動して一つの音楽シーン~コミュニティーを形成していたと言えよう。
17分過ぎにはポートランド出身のパンクバンド、デッド・ムーン、20分過ぎにはポップパンクバンドのフロップの演奏シーンがフィーチャーされ、これらのバンドの作品をリリースしたポップラマ・レコードのコンラッド・ウノやサーフ・ガレージやトラッシュR&Rバンドを多数輩出したエストラス・レコードのデイヴ・クライダー、オリンピアの音楽シーンの重鎮でKレコードを主宰するカルヴィン・ジョンソン(ローファイ・バンド、ビート・ハプニングのリーダーでもある)等インディペンデント・レーベルのオーナーが彼らなりの視点で当時を回想する。
23分過ぎにスキン・ヤードのメンバーでありC/Zレコードのオーナーであるダニエル・ハウスが登場し、マルファンクシャンやメルヴィンズ、サウンドガーデン等重要バンドを多数収録した同レーベルが最初にリリースしたオムニバス作品『ディープ・シックス』(1986年)がグランジ・ムーブメントの発火点だったと語る。
DeepSix (Full Album)
※C/Zからリリースされたオムニバス・アルバム『ディープ・シックス』(1986年)。
更にメルヴィンズの演奏シーンが流れ、巨漢フロントマン、タッド・ドイル率いるタッドのメンバーがグランジとは「よりノイジーで、不協和で、かつヘビーな」音楽だと語る。
TAD- Greasebox
※タッドの『グリース・ボックス』(1993年)。
24分過ぎには無名時代のニルヴァーナやマッドハニーがオープニングアクトを務めた事もあったブラッド・サーカスの演奏シーンがあり、ジャック・エンディーノ他関係者がグランジ・ムーブメントの代名詞とも言える最重要インディペンデント・レーベルのサブ・ポップ・レコードの台頭について語る。サブ・ポップ・レコードは1979年にオリンピアで発行されたファンジン(当初は『サブタレニアン・ポップ』というタイトルだった)で、元々は雑誌だけの体裁だったのが1981年からローカルバンドの音源を収録したコンピレーション・カセットテープを付録に付けるようになり、このアイディアが発展して最終的にはレコード・レーベルになったと創設者のブルース・パヴィットとジョナサン・ポーンマンが語っている。二人は1986年にオリンピアからシアトルに移り、ここを拠点に本格的にレーベル活動をスタートさせる。第一弾のリリースはニューヨークのソニック・ユースや日本の少年ナイフも参加したオムニバス『サブ・ポップ100』でこの作品にはブレイク後のニルヴァーナのプロデュースを手がけるスティーヴ・アルビニのソロ作品やハードコアパンクのネイキッド・レーガン等、非常にバラエティーに富んだラインナップが並んでいる。
Sub Pop 100- 01 Spoken word intro thing Steve Albini
※サブ・ポップの記念すべきファースト・リリース『サブ・ポップ100』に収録されたスティーヴ・アルビニの実験的なナンバー。『サブ・ポップ200』との音源コンテンツのミックス。
翌年にはマッドハニーのマーク・アームやパール・ジャムのストーン・ゴッサードが参加していたグリーン・リバーのEP『ドライ・アズ・ア・ボーン』、サウンドガーデンの『スクリーミング』をリリースし、レーベルとしての基盤を固める。
28分過ぎにグリーン・リバー解散後に新たにマーク・アームが結成したマッドハニーの『タッチ・ミー・アイム・シック』(1988年)のライヴ映像が流れ、所属アーティストや元スタッフ、ローカルエリアの音楽評論家達によってサブ・ポップ躍進の原因についてあれこれと語るが、一つにはサブ・ポップが1988年に始めた「サブ・ポップ・シングルズ・クラブ」という会員制の通販システムが巷で大きな話題になった事を挙げている。これは一定の金額の会費を支払って会員になるとサブ・ポップがリリースしたシングルが毎月郵送されてくるというもので、レーベル側は事前にレコードの制作費を調達でき、また会員は次にどんな作品が送られてくるのか分からないというスリルやバンドの先物買い的な醍醐味を味わえるという、両者にとって一挙両得のユニークなシステムで、米国のみならずヨーロッパ初め世界各国で会員を確保した。因みにこのシステムの第一弾リリースがニルヴァーナの『ラブ・バズ』だった。
31分過ぎにラヴ・バッテリーの『ビトウィン・ジ・アイズ』がインサートされ、「森林から出て来たシアトルのロックがワイルドに」という音楽誌の見出し等が紹介される。ハードコアパンクバンドのコフィン・ブレイクの映像が流れた後、グランジ=シアトル・ロックを題材にした『ロックンロール・モブスターガールズ』(1988年)というコメディードラマのワンシーンも流れる。
35分過ぎにはニルヴァーナの『スメルズ・ライク・ア・ティーン・スピリット』が初めてライヴで披露された時の貴重な映像がアップ。1989年にサブ・ポップからリリースされた彼らのアルバム『ブリーチ』のカバー写真を撮ったチャールズ・ピーターソンがニルヴァーナのライヴ写真を紹介する。チャールズはニルヴァーナの他にもサブ・ポップの作品に写真を多数提供し、サウンド面を担ったプロデューサーのジャック・エンディーノ、そしてグラフィックデザインを手掛けたアート・チャントリーと共にビジュアル面に於けるサブ・ポップの作品のクリエイティブ・チームの一員としてレーベル・イメージの形成に一役買った。1990年にメジャー・レーベルであるDGCと契約したニルヴァーナは翌年9月に『ネヴァーマインド』をリリース、シングル『スメルズ・ライク・ア・ティーン・スピリット』もMTVで繰り返しオンエアされて大ブレイクする。彼らは『ローリング・ストーン』や『スピン』誌等のカルチャーマガジンや『サーカス』他の有力音楽誌の表紙を次々と飾り、彼らの出現によりシアトルもまた「グランジ・シティ」として以前にも増して注目されるようになる。
39分過ぎには『デイリー・バラエティー』誌の"'Seattle Sound'melts down pop metal"(シアトル・サウンドがポップメタルを暴落させた)という興味深い見出しが目に付く。余談になるがニルヴァーナのブレイク以前は音楽シーン、殊にロックのメインストリームはロサンゼルス出身の「スプレー・メタル」「LAメタル」と呼ばれるポップメタル~派手なメイクにコスチュームをセールスポイントとするモトリー・クルー等のバンド群で俗に言う「ロック・スター」達であった。彼らは1970~1980年代にかけて急成長を遂げた音楽産業の中にあって大手レコード会社やプロダクション、ブッキング・エージェンシーが構築したスターシステムに乗って巨額の収入を得るようになり、私生活でもハリウッド・スター顔負けのグラマラスライフを送る等、音楽シーンに於ける新たな「エスタブリッシュメント」としてニルヴァーナ等のインディペンデントな活動をしてきたアーティスト達の攻撃対象となっていた。メディアもこの対立構図を面白おかしく報道し、特にニルヴァーナのカート・コバーンのガンズ・アンド・ローゼズのアクセス・ローズに対する度重なる「口撃」は格好のゴシップネタとなっていた。
シアトル出身のパール・ジャムやアリス・イン・チェインズ、サウンドガーデンもこの時期にブレイクし、シアトル出身というのが一つのブランドとなり大手レコード会社はこぞってシアトル詣でをして青田買いとも言えるバンドのスカウティング活動もしていた。あのマドンナも自身が設立したレーベル「マーベリック」からシアトル出身のキャンドルボックスをデビューさせ、一定の成功を収めている。そうした陰でこの頃、それまで我が世の春を謳歌していたポップメタルバンドは次々とレコード会社から契約を打ち切られて解散したり、活動規模を縮小せざるを得なくなって失意の日々を送る事となった。
41分過ぎにはガレージパンク系のインディペンデント・レーベルのエンプティ・レコードのブレイク・ライト等がこの時期起きた状況を苦々しく振り返る。
42分過ぎにはギターポップバンド、ポウジーズのライヴショットを挟み、先述のコフィン・ブレイクのメンバーが何でもかんでもシアトル=グランジと一括りにされる事に反発を覚えたと証言する。
44分過ぎにはヤング・フレッシュ・フェローズの日本ツアーの模様がフィーチャーされ、グランジ・ブレイクの波はこの日本も襲う事になった。ガレージパンク系のレコードショップとして有名な東京・西新宿のバーンホームズ・レコードのオーナーやインディペンデント・レーベルのRBFレコードを主宰し、現在は東京・新代田のライヴハウスFEVERを運営する西村氏がちらりと映っている。
45分過ぎにシーウィードの『グランジフェスト'93』の演奏シーンがフィーチャーされるが、このバンドは1994年秋に来日した際、僕は彼らのライヴを観る事ができた。場所は恵比寿の「ギルティー」というライヴスペースでグランジ・ブームに陰りが見えたこの時期、ブレイク前のハイ・スタンダード等の日本のバンドと共演したのだがハイスタのライヴが非常に盛り上がっていたのが印象に残っている。そんな中、シーウィードのメンバーはマイペースなパフォーマンスで「僕達はシアトルじゃなくてタコマ出身だ。」とMCで語っていた。ハイスタもメロコア・アプローチのサウンドでブレイクしたのだがそれ以前、結成当初はニルヴァーナのようなグランジ色濃いサウンドだったと記憶している。
48分過ぎにはアリゾナ州出身ながらシアトルに移住してサブ・ポップから幾つか作品をリリースしたクレイジーなR&Rバンド、スーパーサッカーズのライヴがフィーチャーされる。このバンドも1993年暮れにサブ・ポップが日本のソニー・レコードと配給契約を結んだ事を契機に日本でも開催されたサブ・ポップの名物ショーケース・ライヴ『サブ・ポップ・レイムフェスト(駄目バンド祭り)』に出演している。
SUPERSUCKERS / BORN WITH A TAIL - Directed by Rocky Schenck
※スーパーサッカーズの『ボーン・ウィズ・ア・テイル』(1995年)。
50分過ぎからは当時のグランジ狂騒曲とも言えるメディアへの過剰な露出ぶりが紹介されるが「グランジ・エアロビクス」というエアロビクスのカリキュラムコースや「グランジ」という商標が入ったエフェクターの広告、人気TV番組「サタデー・ナイト・ライヴ」で著名なコメディアンのアダム・サンドラーがグランジをネタにしたシーンがフィーチャーされ、果ては「グランジ・ポッキー」なるスナック菓子まで登場する。
53分過ぎにはそれらの現象を象徴するように"Mass culture embraces the Style of Seattle."(マスカルチャーはシアトルのスタイルを取り込んだ)という新聞の見出しがアップされる。
53分過ぎにはオハイオ州出身でシアトルに移住してきた女性ボーカリスト、ミア・サパタを擁するギッツのライヴシーンがインサートされるが不幸にもボーカルのミアは1993年7月3日に強姦殺人事件に巻き込まれ死去してしまう。
57分過ぎにはニューヨーク・タイムズが"The Living Arts"-Success for the Great Unwashed「生きる芸術~洗練とは無縁の偉大なる成功」という大見出しを付けて紹介し、こうした一流紙がグランジ文化をマグロな視点で俯瞰する記事で取り上げるまでになった。続けて巻き舌ボーカルが新鮮なシアトルのパンクバンド、ジップガンの映像が挿入され、ポップラマ・レコードのコンラッド・ウノがファッション面からのグランジ・ブレイクについて語る。ファッション誌『ソーマ・マガジン』では"Born to Grunge"という見出しが表紙を飾りグランジ・ファッションで一番ポピャラーなフランネルシャツが郊外のショッピングモールで量販されていた当時の様子が紹介される。
61分過ぎには女性ボーカルをフィーチャーしたノイズロックバンド、ハマーボックスのライヴ映像が流れるが、こうした実験的なサウンドのバンドが注目されるようになったのもグランジ=シアトル印のバンドなら何でもメディアが取り上げた、この時代以降の事だったようだ。
64分過ぎにはアリーナツアーをこなすまでにビッグネームとなったサウンドガーデンのショウの舞台裏(ステージ・セッティング)、そして圧倒的な演奏力を誇る彼らの超強力なライヴパフォーマンスがフィーチャーされる。このバンドは1994年2月にクラブチッタ川崎で行われた来日公演を体験した事もあり、数あるグランジバンの中でも個人的に思い入れもひとしおだ。
Soundgarden(MTV Live & Loud, 1996)
※MTVの企画『ライヴ&ラウド』に於けるサウンドガーデンのライヴ・フッテージ。
69分過ぎにはオールガール・グループの7イヤー・ビッチのライヴ映像が流れるが、彼女達はロサンゼルス出身のL7等と共にオールガールのグランジ~オルタナティヴロックバンドの代表格として活躍した。
71分過ぎには"'Seattle Scene'and Heroine Use:How bad is it?"(シアトル・シーンとヘロイン常用:何て事だ。)という新聞の見出しが紹介されるが1990年3月19日にマルファンクシャン、マザー・ラヴ・ボーンのフロントマンだったアンドリュー・ウッドがヘロインの過剰摂取により亡くなった。そしてその4年後の1994年4月8日にはヘロイン中毒によって著しく精神状態が不安定だったニルヴァーナのカート・コバーンが猟銃自殺を遂げる。
73分過ぎにはスクリーミング・トゥリースのボーカリスト、マーク・ラネガンのソロ作品でメランコリックな『ザ・リバー・ライズ』が流れる中、多くのファンが詰めかけて執り行われたカートの通夜の模様がアップされる。
75分過ぎにはこの作品でも度々重要な発言をしてきたグランジ・ムーブメントのスポークスマン的存在であったパール・ジャムのエディ・ヴェダーがシアトルのミュージシャン仲間を集めて1995年1月8日に行った4時間に渡る公開ラジオセッション『セルフ・ポリューション・レディオ』の模様を映した映像が流れる。
そして最後にシアトルで起きたグランジ・ムーブメントは1966~1967年に米国のサンフランシスコで起きたフラワー・ムーブメント、また英国のロンドンで起こったパンクロック・ムーブメント、リバプールのマージービートに匹敵する、一地方都市から生まれて世界中に拡散していった一大音楽ムーブメントだったと振り返り、このムーブメントの渦中にあったミュージシャンや関係者が各々の観点で短くコメントし、エンディングにヤング・フレッシュ・フェローズの『ダーク・コーナー・オブ・ザ・ワールド』が流れてこの作品は幕を閉じる。
この作品は1996年に制作されたもので監督を務めたタグ・プレイはこの後2001年に今度はDJ、ターンテーブリスト達にスポットを当ててヒップホップの歴史を俯瞰した『スクラッチ』でドキュメンタリー作品の監督として一級の評価を確立した。グランジという、実体の解らない音楽文化ムーブメントについて、ナレーションを一切入れずに当時の関係者の証言と映像を繋ぎ合わせて見事に描き出している。この作品を見れば一目瞭然だがグランジ・ムーブメントとは一音楽ジャンル、カテゴリーと言うよりもその時代特有の「空気」を反映したもののように思う。実際、登場するバンドはパンク、ハードロック、メタル、ハードコアパンク、ポップパンク、ガレージパンク、ノイズロックetc.多種多様な音楽性を持っている。そしてやはりレーベルではサブ・ポップ、バンドではニルヴァーナ(というよりカート・コバーン)がグランジなるものの諸々全てを象徴していた。先述のようにサブ・ポップはファンジンからスタートしてインディペンデント・レーベルへと展開していったもので、これは1980年代のアンダーグラウンドな音楽シーン特有のファンジン文化の発展した形態としては珍しいものではない。サブ・ポップが突出してこの時代に急成長を遂げたのはシングルズ・クラブ等の斬新な企画を次々と打ち出した事もあったのだが、(ニルヴァーナにも当てはまるのだが)やはり時代と個性の巡り合わせ以外の何物でもない。ニルヴァーナについてはブレイク後からカートの死後も真偽不明の怪しげなものも含めて夥しい量の情報がメディアに流れ続けている。音楽シーンに於いてそれだけ大きな存在感を発揮していたという事だろうが殊にカートはミュージシャンとして以前に、非常に特異で複雑なパーソナリティーを持った人物でインタビュー等で刺激的な発言を繰り返し、メディアの好餌になっていた感も否めない。カートの経歴を簡単に紹介すると、1967年ワシントン州アバディーン生まれで両親の離婚を契機に鬱病を患い、周囲の人間と協調できずと孤立しがちだった高校時代にブラック・サバスやエアロスミスと出会い‥といったこの世代の若者にありがちな精神的遍歴を背負って音楽活動をスタートした。この部分だけ取り上げても同世代の若者に強い共感を呼んだのもよく理解できる。この世代は米国では俗に「X世代」と呼ばれ、彼らは1960~1970年代中期生まれで成長経済期に働き盛りだった両親の下に育ち、物質的には恵まれたものの家庭不和や希薄な人間関係から疎外感や孤独感に苛まれるのが常だったという。また彼らX世代は成人した頃には成長経済の反動から企業がリストラやダウンサイジングを推進した為に就職難に喘ぐ若者が溢れ返った。当時「コーポレイト・ロック」(産業ロック)と呼ばれ、利潤追求の企業活動の一環になってしまったバンドやそれを取り巻くシステムに激しく毒づいたカートの一連の言動は、この世代の抱える憤怒を代弁していたとも言えるし、その激しいサウンドや攻撃的なライヴパフォーマンスと共に彼らにある種のカタルシスをもたらしていたのだろう。社会現象にまでなったグランジのブレイクはニルヴァーナ及びカートの存在あってこそのものだったのは衆目の一致する所だろう。また最初に触れたカート夫人となったコートニー・ラヴとの結婚、そして恐らくは薬物による様々なトラブルや奇行も好奇心旺盛なメディアにセンセーショナルに報道される度に人々の抱く彼らへの幻想を膨らませていった。コートニー・ラヴについては彼女との出会いからカートの迷走が始まった事もあってかカートの魔女、毒婦扱いする向きもあるが(コートニーによるカートの暗殺説まである)、結果としてスキャンダルも利用してしまう彼女のメディア対応もあってニルヴァーナの知名度が飛躍的に高まったのも事実である。
バンドとしてのニルヴァーナについて着目しておきたいのは最終的にドラマーの座に落ち着いたデイヴ・グロール(現在はフー・ファイターズ他の活動で知られる)はスクリームというハードコアパンクバンド出身であり、またニルヴァーナの3枚目のアルバム『イン・ユーテロ』リリース時期にツアー・ギタリストとして参加していたパット・スメアはロサンゼルスで1970年代末のハードコアパンク勃興期に活動していたジャームスのオリジナルメンバーであった。
Nirvana - 1991 Reading Festival, Endless Nameless
※ニルヴァーナがブレイクする一つのきっかけとなった1991年英国のレディング・フェスティバルでのライヴ。カートがドラムセットにダイブするシーンは衝撃的だった。
Nirvana - The In Utero Concert 1993 - Full Length Film
※MTVの『ライヴ&ラウド』でのニルヴァーナ。もう一人のギターは元ジャームス、後にフー・ファイターズにも参加するパット・スメア。
ニルヴァーナも米国のハードコアパンクの源流とも言える人脈に連なるバンドであったという事である。パット・スメアのいたジャームスは非常に興味深いバンドでダービー・クラッシュという破滅型フロントマンを擁し、彼もまたヘロインの過剰摂取で夭逝してしまうのだが、非常に複雑なパーソナリティを持った人物でカートとの類似性を指摘する人も多い。ジャームスは音楽性に於いてもアグレッシブなハードコアパンクから「脱力系」とも言われる投げやりなローファイ・ナンバーまで、グランジ~オルタナティブロックのバンドに先駆けて特異なサウンドアプローチをしていたバンドで、過激なライヴパフォーマンス等、色々な意味で雛型だったとも言える。
The Decline of Western Civilization Part 1(The Germs)
※ドキュメンタリー映画『デクライン』(1981年)でのジャームスの出演シーン。
またアルバム『イン・ユーテロ』ではシカゴのポストパンクバンド、ビッグ・ブラックを率いて活動し、エンジニアとして数々の米国アンダーグラウンド・ロックの作品を手掛けたスティーヴ・アルビニをプロデューサーとして起用、他にもニルヴァーナのブレイクを後押ししたソニック・ユース等と共にそれまで日の当たらなかったアンダーグラウンド・シーンの先鋭的なアーティストを引き立てた。サブ・ポップのコンピレーション『サブ・ポップ100』にも参加した日本の少年ナイフやボアダムスをツアーのオープニングアクトに起用したりして彼らや日本のアンダーグラウンド・シーンを広く世界に知らしめた。
SHONENKNIFE / NIRVANA * 1993 MTV INTERVIEW+ LIVE CLIPS
※少年ナイフのMTVインタビュー。
またニルヴァーナはシアトルから少し離れたオレゴン州ポートランドで1970年代から活動していたワイワイパーズというパンクバンドのカバーをレパートリーにしており、地域の先達バンドをリスペクトする姿勢も後進のバンドに影響を与えた。1993年にはニルヴァーナやホールも参加したワイパーズのトリビュート・アルバムがリリースされている。
Wipers - Over the edge
※ワイパーズの『オーバー・ジ・エッジ』(1983年)。
Hole- Over The Edge
※ホールによる同曲のカバーバージョン。コートニーの佇まい、ムーヴはやはりクール。
Hole- Reasons to be Beautiful - Live
※ホールの『リーズン・トゥ・ビー・ビューティフルル』。ジュールズ・ホランドのTV番組での映像(1998年)。
ロックバンドに限らずアーティストというものははメジャーレーベルと契約すると専属契約に縛られて活動を制限されがちだったのだがニルヴァーナはDGCと契約後もフットワーク軽くインディペンデント・レーベルから作品をリリースしたり(ジーザス・リザードとのスプリット・シングル等)様々なコンピレーションに音源提供していた。ニルヴァーナ及びカート・コバーンについて書きはじめるときりがないのだが、音楽的にはヘビーかつノイジーな中にもポップな要素が散りばめられて楽曲自体、非常に耳に馴染み易かったというのも見落とされがちだ。カートは『ローリング・ストーン』誌のインタビューでパワーポップバンドのチープ・トリックから作曲面で多大な影響を受けたと語っている。
CHEAP TRICK - I Want You To Want Me (1979 UK TV Appearance) ~ HIGH QUALITY HQ
※チープ・トリックの代表曲『甘い罠』(1979年)。2分20秒にカートに関するテロップが入る。天才的な作曲センスはまさにポップ・マエストロ。
ポップといえばシアトルのポウジーズのようなギターポップバンドの出現に呼応するかのように東海岸のマサチューセッツ州ボストンからはレモンヘッズが一気にブレイクし、またシアトル出身バンドのようなノイジーでポップなサウンドのダイナソーJr.もグランジ・ブームに乗ってトップバンドの仲間入りをした。ダイナソーJr.のようなサウンドの先駆者である英国のジーザス&メリーチェイン等もこの時期、再び脚光を浴びるようになり、グランジ・ブームはこうした様々な波及効果を生んだ。
The Posies- Golden Blunders
※ポウジーズの『ゴールデン・ブランダース』(1990年)
The Lemonheads - It's A Shame About Ray (Video)
※レモンヘッズの『イッツ・ア・シェイム・アバウト・レイ』(1992年)。
Dinosaur Jr.- Just Like Heaven
※ダイナソーJrの『ジャスト・ライク・ヘヴン』(1989年)。
日本はと言うとこの時期に活動していたバンドでは個人的にはニューキーパイクス、ヴォリューム・ディーラーズの2バンドが印象に残っている。彼らはグランジとは言い難いがニルヴァーナがブレイクして日本でもそうした動きが知られるようになる以前から、ごく当たり前のようにサブ・ポップやニルヴァーナが持っていたインディペンデント・アティテュードで活動していたように思う。
NUKEY PIKES
※ニューキーパイクスの"Milk & Sugarcorn"のライヴ映像。
Nukey Pikes - Dancing Queen
※ニューキーパイクスのファースト・アルバム(1991年)に収録のアバのカバー。
VOLUME DEALERS 91.11.11 ANTIKNOCK
※ヴォリューム・ディーラーズの1991年のライヴ。彼らはSOIA、フガジの初来日公演でフロントアクトを務めた。