優れた音楽ドキュメンタリー作品を数多く制作している英国BBCチャンネル4のシリーズから"SYNTHE BRITANIA"~『シンセ・ブリタニア』を紹介する。この作品はシンセサイザーを初めテクノロジーの急速な進化と共に1970~1980年代中期にかけて隆盛を極めた英国のエレクトロニック・ミュージック(電子音楽)の歴史を俯瞰したものだ。基本的に1980年代に一世を風靡したシンセポップ~エレクトロポップの発展過程を検証したものであるが、これらエレクトロニクス分野の技術発展はパンク~ニューウェイブ以降に出現した英国オルタナティヴ・ミュージック、ノイズ~インダストリアル等様々な音楽ジャンルの形成・発達にも大きな役割を果たしたものだと再確認した。
BBC Synth Britannia

作品では冒頭、
"A long tome ago in agalaxy far,far away...."(昔々、宇宙は遠く遠く‥)
というテロップが流れ、ロバート・モーグ博士が発明したモーグ・シンセサイザー(昔は誤って「ムーグ」と発音していたものだ)の電子音が鳴る。
この作品は時代区分で言えば1970~1980年までを扱ったパート1、それ以降のパート2により構成されているが、圧倒的に面白いパート1を取り上げる。
"ALIENATED SYNTHESISTS"(異端のシンセサイザー奏者達)とタイトルが付けられた作品のパート1ではまず異形のシンセ奏者と呼ぶに相応しいワルター・カーロスが紹介される。カーロスは英国の作家、アンソニー・バージェスが1962年に出版した小説をスタンリー・キューブリック監督が映画化した『時計仕掛けのオレンジ』(1971年)の音楽を担当した米国のシンセサイザー奏者で、性転換手術を受けて現在はウェンディと改名しているユニークなキャリアを持つアーティストだ。『時計仕掛け~』は(この時代から見た)近未来バイオレンス映画で、極端な管理社会が生み出す病理を描いた典型的なディストピア(反ユートピア)作品でもある。この時代は日本でも英国でも世情は同じで、1960年代には米国の宇宙ロケットのアポロ11号の月面着陸等の宇宙開発により「スペースエイジ=宇宙時代」と持て囃され「未来」という言葉がそれまでは希望に満ちたものだったのだが、1970年代に入ると科学技術の進化がもたらす負の側面-公害や自然破壊等にもスポットが当たるようになり未来というものが期待と不安が混在したものとして語られるようになっていった。
Clockwork Orange (1971) HD Trailer (1080p)
※スタンリー・キューブリック監督作品『時計仕掛けのオレンジ』のトレイラー。

4分過ぎには以前、『クラウトロック』を紹介した際にも触れたドイツのシンセ・ユニット、クラフトワークが紹介される。彼らが英国でも注目されるようになった『アウトバーン』リリース後の1975年には英国BBCの長寿番組だった科学技術番組"Tomorrow's World"『明日の世界』でも電子音楽のパイオニアとして特集されていた。
Kraftwerk Autobahn on BBC Tomorrow's World 1975
※英国BBC制作の科学技術番組『明日の世界』でクラフトワークが特集された回の一コマ。

1970年代中期にはシンセサイザーはEL&Pのキース・エマーソンを初めとした主にプログレッシブ・ロックのバンドやアーティストによって使用され、クラシックや現代音楽等の高度な音楽知識を持つ限られた一部の者のみが扱う高価な楽器でガレージバンドや一介のミュージシャンには中々手が出せない代物だった。
8分過ぎに英国のパンクバンドのザ・クラッシュの映像が流れ、彼らやザ・ダムド等の出現によって単純明解な3コードロックが復権を果たし、この動きは後にシンセポップの代表格となる英国中部の工業都市シェフィーリド出身のヒューマン・リーグのフィリップ・オーキー(1955年生まれ)やマーティン・ウェア(1956年生まれ)等の若いアーティスト達にも情熱さえあれば「誰でも表現活動ができる」という希望を与えた。ヒューマン・リーグはこの作品中、再三フィーチャーされていて作品全体のガイド役的な存在でもあるのだが、1977年に結成されたシンセサイザーとシーケンサーを操る上述の中心メンバー二人から成るシンセポップ・バンドで1979年にアルバム『リプロダクション』でデビューする。その後バンドは二派に分裂するがいずれも商業的にも大成功を収めた。1980年代に入ってMTVの普及に伴い、いち早くプロモクリップを使った徹底したイメージ戦略によるアーティスト・プロモーションにより新たな時代を切り開いた先駆者としても有名だ。因みにバンド名は『スターフォース:アルファ・ケンタウリ』等のボードゲームの会社として有名なシミュレーション社から発売されたゲームの名前を拝借したとの事だ。
The Human League- Blind Youth+YouTube Mix
※ヒューマン・リーグのデビュー・アルバムに収録された『ヒューマン・ブラインド』+YouTube Mix。

9分過ぎに英国エレクトロニック・ミュージック史に於ける最重要人物と言っていいダニエル・ミラー(1954年生まれ)が登場する。ミラーは自身のバンド、ザ・ノーマルの作品をリリースする為に1978年にインディペンデント・レーベルのミュート・レコードを立ち上げ、その後は所属アーティストだったデペッシュ・モードの世界的なブレイクによりこの種のジャンルのトップ・レーベルとなった。また他にもニック・ケイブやディアマンダ・ギャラス等のゴス・ロックやアヴァンギャルドなアーティストの発掘によりコマーシャル・ベースでも成功を収めた先鋭的な音楽レーベルとして揺るぎないポジションを確立した。ミラーは英国のSF作家であるJ・G・バラードが1973年に書いた悪夢のような近未来小説の『クラッシュ』にインスパイアされた"Warm Leatherette"をザ・ノーマルのデビュー・シングルに収録している。この『クラッシュ』は後に紹介するゲイリー・ニューマンの『カーズ』やその他このジャンルのアーティスト多数に多大なるインスピレーションを与えた。
The Normal - T.V.O.D.
※ザ・ノーマルのデビュー・シングルに収録された"T.V.O.D."。
Crash! (1971) Part 1 of 2
※J・G・バラードが1973年に小説『クラッシュ』を発表する以前の1971年に自身が出演して制作した同名のショートフィルム。パラノイアックな自動車事故への不安感を表現した問題作だ。

ヒューマン・リーグのメンバーも当時ロキシー・ミュージックのメンバーだった頃のブライアン・イーノのパンキッシュなキーボード・プレイと並んでJ・G・バラードの作品には大いに刺激されたと語っている。この頃(1970年代中期)には安価なコルグのミニ・シンセサイザーが開発・量産化されてシンセサイザーが楽器として一般ユーザーにも普及していった。
初期のエレクトロニック・ポップでクラフトワークと共に偉大な功績を残したのが15分過ぎに紹介されるイタリア出身の音楽プロデューサー、ジョルジオ・モロダー(1940年生まれ)である。今年亡くなった往年の「ディスコ・クィーン」、ドナ・サマー(1948~2012年)のプロデュースにより一躍注目を浴び、ディスコ音楽の父として知られる彼は後に様々なアーティストのプロデュースでも勇名を馳せるが、古典的SF映画の傑作であるフリッツ・ラング監督が1926年に制作した『メトロポリス』(これまたディストピア作品)のリメイク版(映像素材を再編集したもの)の音楽を手掛ける等、多方面に渡って様々な音楽プロジェクトで活躍している。
I Feel Love - Donna Summer
※ドナ・サマーの『アイ・フィール・ラヴ』(1977年)。同時代の他のディスコ・ナンバーが生演奏によるグルーヴ重視だったのに比べ、大胆にエレクトロ・ミニマル・ミュージックの要素を導入している。
Giorgio Moroder - Baby Blue (Disco Video 1979).
※1979年にリリースされたジョルジオ・モロダーのソロ作品『ベイビー・ブルー』。

モロダーは後年、ティナ・ターナーやジャネット・ジャクソン、デヴィッド・ボウイ等怱々たるビッグネームのアーティストも手掛け、文字通り音楽シーンを総なめにした感があるが、ここで彼のプロデュース・ワークで個人的に特に気に入っているものの幾つかを以下に紹介したい。
まず米国出身ながら英国で最初に成功を収めたロン(1948年生まれ)とラッセル(1953年生まれ)のエキセントリックなポップバンド、スパークスである。モロダーがプロデュースした1979年リリースのアルバム『No.1・ソング・イン・ヘヴン』は(彼ら自身は所謂「オールドウェイブ」のアーティストだったのだが)パンク~ニューウェイブとディスコ・ミュージックの融合という新たな境地を開拓した意欲作である。
Sparks - Number 1 Song in Heaven 1979
※スパークスのアルバム『No.1・ソング・イン・ヘヴン』収録のタイトルトラック。
Sparks - When I Kiss You
※こちらは本題からは逸れるが、スパークスが一時期音楽活動から離れた後、数年のブランクを経て1995年にリリースしたアルバム"Gratuitous Sax & Senseless"(邦題『官能の饗宴』)に収録された"(When I Kiss You I hear Charlie Parker Playing)"。TV映画『スタートレック』に出演した女優としても知られるミュージシャンのクリスティー・ヘイドンがドラマーとして参加した、まさにアゲアゲなダンス・チューン。モンドテイスト満点のパフォーマンスだが取り分けクリスティーの艶やかさに目を奪われる。
Sparks Christi Haydon - What Would Katharine Hepburn Say (It's Bizarre '93)
※スパークスに参加した経緯について語るクリスティー・ヘイドンのインタビュー。

モロダーと言えばパンク・ムーヴメントのファースト・ウェイブ期に活躍していたロンドンSS、ジェネレーションXのベーシストだったトニー・ジェイムス(1958年生まれ)が結成したエレクトロ・グラム・パンク・バンド、ジグ・ジグ・スパトニックのデビュー・アルバム"Flaunt It"(1986年)のプロデュース・ワークも忘れられない。
Sigue Sigue Sputnik- Love Missile F1-11 (uncensored)
※"Flaunt It"に収録された"Love Missile F1-11"。当時米ソ冷戦下であったこの時期に「愛のミサイル」とタイトリングされた楽曲も凄いが、バンド名自体、"Burn,Burn,Satelite"を意味し、実在したモスクワのストリート・ギャングのチーム名に由来するという。
21st Century Boy
※同じくデビュー・アルバムから"21st Century Boy"。プロモ映像でも明らかな彼らの日本へ偏愛ぶりは1986年当時、プロモーションで来日したボーカルのマーティン・デグヴィル(1961年生まれ)にインタビューしたタレント、アーティストのちわきまゆみさんからも聞いた。

モロダーについては様々な評価があるが、面白かったのはストーナー・ロックの大御所であるクィーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジのジョシュ・オム(1973年生まれ)がかつて米国のファンジン『FLIPSIDE』誌(#120)で、
"I gotta say one of the heaviest songs of the all time Is Donna Summer"I Feel Love,"the Georgio Moloder version. The keyboards are so heavy. It makes my blood boil. The heaviness comes from all directins. That quality can be captured. That's the real stoner rock."(今まで聴いた中で一番ヘヴィーな曲はジョルジオ・モロダー・バージョンのドナ・サマーの『アイ・フィール・ラヴ』だ。ヘヴィーなキーボード・サウンドは血をたぎらせ、ディレクション全てがヘヴィーでそのクォリティーに魅了された。これが真の「ストーナー・ロック」だ。)
と語っていた事だ。確かに電子音で一定のリズムを繰り返すミニマル・ミュージックの一種でもあるモロダーの作り出したサウンドはクラブやディスコで長時間、大音量で聴いていれば脳に何らかの刺激を与える麻薬的な効果があるだろう。またモロダーのシンセ・サウンドは1980年代後半にダンス・ミュージックの主流となったユーロビート・ディスコ、そして1990年代に日本で一大ブームを巻き起こしたジュリアナ・サウンド~小室哲哉ファミリーの一連のヒット曲のサウンド・ベースにもなっている。
18分過ぎには初期の英国オルタナティヴ・バンドの重鎮、キャバレー・ボルテールのリチャード・H・カークが登場する。バンド名は言わずもがな20世紀初頭に盛り上がった前衛的芸術運動のダダイズムの拠点で同運動の推進者であるフーゴー・バルがスイスのチューリッヒに開いたキャバレー、カフェに由来している。キャバレー・ボルテールは当時新進気鋭のインディペンデント・レーベルだったラフ・トレードからデビューし"Mix-Up"(1979年)、"The Voice of America"(1980年)等、エレクトロニクスを駆使した実験的で刺激的なサウンド・コラージュで表現形態としてはある種パンクより過激な姿勢を持ち、ポストパンク期のバンド群の中では圧倒的な存在感を放っていた。リチャードが語ったもので興味深いのはヒューマン・リーグと同じくシェフィールドという重工業都市で活動を始めた彼らは子供の頃の1950~1960年代にTVで見た『ドクター・フー』や『クォーターマス』といった超自然現象を扱ったSFドラマに影響を受け、成長してからはウィリアム・S・バロウズやダダイズムに感心を持ち工業都市のBGMとしての蒸気ハンマー等の工場ノイズを音像化しようとしたのだが、それが「インダストリアル・ミュージック」と呼ばれるようになったと言う。
Cabaret Voltaire - Nag Nag Nag
※キャバレー・ボルテールのデビュー・アルバムに収録された"Nag Nag Nag"(1979年)。

22分過ぎにはリヴァプール出身のOMD(オーケストラル・マヌヴァーズ・イン・ザ・ダーク)のアンディー・マクラスキー(1959年生まれ)とポール・ハンフリース(1960年生まれ)の二人がバンド結成当時に状況について語る。彼らは当時、それ程裕福ではなかったがやはり1976年にコルグ社から発売された安価なシンセサイザー(マイクロ・プリセット・シンセサイザー)を手に入れて思い付くままにキーボードを操作しているうちに後に発表する楽曲の骨格となる多くのメロディーラインが浮かび上がった。彼らは1979年にインディペンデント・レーベルのファクトリー・レコードからシングル『エレクトリシティー』でデビューし、その後インディペンデント・レーベルの草分けとして急成長中だったヴァージン・レコード傘下のディンディスクと契約し、翌1980年に『エノラ・ゲイの悲劇』の大ヒットで押しも推されぬシンセポップの第一人者となる。
OMD - Electricity
※OMDのデビュー・シングル『エレクトロニシティー』の珍しいパフォーマンス映像。

26分過ぎにはファクトリー・レコードの看板バンドだったマンチェスター出身のポストパンク・バンド、ジョイ・ディビジョン(以下JDと略記)のバーナード・サムナーがシンセサイザーとの出会いについて興味深い証言をしている。彼は1976年に雑誌『エレクトロニクス・トゥデイ』に掲載されたアナログ・シンセサイザーの「トランセンデント2000」の記事を読んでシンセサイザーに関心を持ち、まずパンクバンドとしてスタートした彼らがワルシャワ等幾つかバンド名をチェンジした末、JD名義で活動するまで試行錯誤しながらシンセサイザーを導入したハンマー・ビート・サウンドと呼ばれる独自のスタイルを完成させた。JDは『アンノウン・プレジャー』(1979年)、『クローザー』(1980年)という2枚のアルバムと5枚のシングルをリリースした後にフロントマンのイアン・カーティスが1980年5月18日に自殺するという悲劇によりその活動の幕を閉じるが今日に至るまで多数のフォロワーを生み出しオルタナティヴやインダストリアル、ゴス等様々な文脈に於いてそれらのジャンル先駆けとして語られている。イアン亡き後、バンドはニュー・オーダーと改名してJDサウンドの発展形としてのダンス・ミュージックを模索し、途中何度か活動休止するが現在も現役活動中だ。JDも沈み込むような陰欝なメロディーラインや絶望感溢れるリリックが特徴で見逃されがちな事だが基本的にはビート主体のダンス・ミュージックだったと認識している(ライヴ時のイアンの何か憑き物に取り憑かれたようなダンス・パフォーマンスはよく知られている)。
Joy Division - Atmosphere (Video)+YouTube Mix
※イアンの死語、1980年9月にリリースされたジョイ・ディビジョンのラスト・シングルとなった『アトモスフィア』のプロモクリップ。

29分過ぎには英国のパンク~ニューウェイブ・バンド、ウルトラヴォックスのフロントマンとして活動した後、ソロ・アーティストに転じたランカシャー出身のジョン・フォックス(1947年生まれ)が登場。彼はヴァージン・レコードからリリースしたソロ第一作目の『メタマティック』で非常に高い美意識を提示し、音楽メディアに絶賛された。元々美術学生だった彼は「若い頃は自分もご多分に漏れず[怒れる若者]の一人だった。必然的に当時勃興しつつあったパンク・ムーヴメントに身を投じてウルトラヴォックスの一員として活動したが、段々と自分本来のアート志向が頭をもたげてソロ活動を通じて自由な表現活動を満喫しようと考えてバンドを脱退した。」と当時を回想する。彼は1980年代に4枚のアルバムをリリースした後、音楽活動から身を退き大学教授の肩書も持つグラフィック・デザイナーとして活躍していたが1997年に自身のレーベル、メタマティック・レコードを立ち上げて『シフティング・シティー』をリリースしてカムバック、現在も活動している。
John Foxx- 20th Century+YouTube Mix
※ジョン・フォックスが1981年にリリースしたミニ・アルバム『バーニング・カー』収録曲の『トゥエンティース・センチュリー』。

32分過ぎにはキャバレー・ボルテールを紹介した際に触れた「インダストリアル・ミュージック」の創始者であるスロッビング・グリッスル(以下TGと略記)のメンバーだったコージー・ファニ・トゥッティ(1951年生まれ)とクリス・カーター(1953年生まれ)が登場する。TGは1975年に英国ヨークシャー州のキングストン・アポン・ハルで結成されたインダストリアル・バンドでリーダーのジェネシス・P・オリッジ(1950年生まれ)とコージーは元々クーム・トランスミッションというハフォーマンス・アート・グループで活動していたのだが、パンク・ムーブメントの勃興と共にバンド形態での表現活動に転身した。「経験主義や脅迫観念に基づいた産業人間の為の産業音楽の追求」をスローガンに掲げ、先述した三人にピーター・クリストファーソンを加えた4人編成でノイズやテープ・エフェクトを駆使した独自の音響空間で過激なパフォーマンスを繰り広げるライヴが評判を呼び、彼らの登場時、英国の音楽メディアは話題騒然となった。自身のレーベルであるインダストリアル・レコードを設立し、1981年に解散するまでに4枚のスタジオ・アルバムをリリースするが「死の工事の音楽」等の彼らが提示した様々なコンセプトやテーマ、表現手法は後々多くのアーティストに影響を与えており、記憶に新しい所では1990年代に花開いた米国産インダストリアル・ミュージックのナイン・インチ・ネイルズやマリリン・マンソン等はTG無くして存在し得なかった事だろう。生と死、聖と俗、そして暴力や性衝動等人間の持つネガティブな側面をタブーぎりぎりの境界線上まで踏み込み、際どいリリックやアート・ワークでこれ程リスナーやオーディエンスの視聴覚を刺激し続けたバンドは後にも先にも彼らだけだろう。TGが音楽的な側面で特筆されるのはノイズを単なる効果音としてではなく表現の主軸に据えてしまった事で所謂ノイズ・ミュージックのイノベーターでもある。彼らが本格的にノイズ・ミュージック的なアプローチを試みる契機となったのは米国の多才なアーティスト、ルー・リードが1975年にリリースした問題作『メタル・マシン・ミュージック』を聴いた事だと言う。コージーとクリスはTG脱退後はクリス&コージーとして活動し(現在はカーター・トゥッティ名義)、過激なサウンド・コラージュは鳴りを潜めたが一転してEBM(エレクトロニック・ボディ・ミュージック)のパイオニアとなった。クリスはバンド参加以前はタンジェリン・ドリーム等ドイツのエレクトロニクス・バンドの作品を好んで聴いていたと言う。またTG在籍時もシンセサイザーとリズムボックス等サウンド面の要であった彼は「我々はパンクバンドではない。パンクではなくインダストリアル・エクスペンタル・ミュージックだ。」と断言している。
Chris And Cosey - Heartbeat
※TG解散後の1981年にラフ・トレードからリリースしたアルバム『ハートビート』のタイトル・トラック。心臓の鼓動を彷彿とさせる無機的な電子音が流麗なるメロディーを紡ぎ出して多彩な展開をしていく。
throbbinggristle - discipline
※TGの代表曲『ディシプリン』のライヴ映像。
LOU REED - Metal Machine Music (2010 Remastered Vinyl) (Complete).wmv
※全編ホワイト・ノイズで埋め尽くされたルー・リードの『メタル・マシン・ミュージック』(1975年)。当初はアナログ盤2枚組でリリースされ、長きに渡ってCD化再発されなかった問題作。

35分過ぎには先述のダニエル・ミラーが立ち上げたミュート・レコードからデビューしたシリコン・ティーンズのチャック・ベリーのR&Rの古典、『メンフィス・テネシー』のカバー・バージョンが流れる。実はこのユニットはダニエル・ミラーが一人で全楽曲を演奏してレコーディングされたものでダリル、ジャッキー、ポール、ダイアンというプロモクリップに映るメンバーは勿論ダミーで、当時NME等の音楽メディアには彼らのアーティスト写真やメンバー個々のプロフィールまで掲載され、それなりの人気も博すがBBCの人気DJであったジョン・ピールもこのアイディアを面白がって自身のラジオ番組で盛んにオンエアしてミラーの「仕掛け」に一役買った。ミラーが語るには十代の若者がギターの代わりにシンセサイザーを手に入れたら、まず何をやるだろうかと想像してみたらやはりシンプルなR&Rを演奏するだろうと考えてこのプロジェクトを思い付いたと言う。シリコン・ティーンズはシングルに続いてアルバム『ミュージック・フォー・パーティーズ』(1980年)をリリース、4曲のオリジナルを除いてキンクスやマンフレッド・マン、ジョー・ミーク、クリス・アンドリュース等オールディーズ・ヒット・ポップスのシンセポップ・カバー作品で占められ、当時このジャンルのティーンエイジャー~低年齢層への浸透化に貢献した。
Silicon Teens - Memphis Tennessee (1979)
※シリコン・ティーンズが1979年にリリースした『メンフィス・テネシー』。チャック・ベリーの往年のヒット・チューンをシンセポップ・サウンドで鮮やかにリメイク。

この時期、こうしたティーン・エイジャーへのシンセポップ・アプローチとして成功した例としてポルトガル出身でベルギーやフランスで活躍した女性シンガーのリオも印象深い。彼女はベルギー出身のシンセポップ・ユニットのテレックスのプロデュースによりシングル『バナナ・スプリット』でドイツを拠点に世界中に配給網を持っていたアリオラ・レコードからデビューし大ヒットしてこの種のジャンルのサウンド・アプローチで活動するポップ・イコン~アイドル的存在となった。
Lio- Banana Split+YouTube Mix
※リオのデビュー曲『バナナ・スプリット』+YouTube Mix。最近は日本でもパフュームのブレイクにより再認識されつつあるテクノポップの原点。健康的なお色気(今や死語)を振り撒くリオはまさにポップ・イコンそのもの。日本でもこの時期に同様のコンセプトでバンド・フォーマットでジューシー・フルーツが大ブレイクした。余談だがロサンゼルスのパンクバンド、ザ・ディッキーズはこの曲のパンクカバー・バージョンをリリースし、ライヴでも定番ナンバーにしていた。

37分過ぎに登場するゲイリー・ニューマン(1958年生まれ)はデビュー直後に日本でも絶大な人気を博し、代表曲『カーズ』は当時ラジオの洋楽チャート番組で軒並みNo.1を獲得し、ショッピングモールや喫茶店の有線放送でもパワープレイ状態で文字通り「耳にタコ」が出来る程よく聴いた(聴かされた)ものだ。彼はチューブウェイ・アーミーという自身のソロ・プロジェクトで1978年にインディペンデント・レーベルのベガーズ・バンケットから同名アルバムでデビューし、翌1979年1月にリリースしたアルバム『レプリカズ』収録曲の『アー・フレンズ・エレクトリック?』がヒットし、同年9月にゲイリー・ニューマン名義でリリースした上述の『カーズ』も収録した『ザ・プレジャー・プリンシプル』も大ヒット。この番組でも一際長くフィーチャーされており、「彼はパンクであり、またサイファイでありJ・G・バラードでもあった」と紹介されている。ヒューマン・リーグの女性メンバーだったスーザン・アン・サリーとジョアンヌ・キャトラルの二人もそれまでに無かったユニークなサウンド、キャラクターだったと絶賛している。『カーズ』も先述のJ・G・バラードの『クラッシュ』にインスピレーションを得た作品であるが、その独創的なサウンドとビジュアル・イメージの完璧な構築により大衆性をも併せ持った新しいタイプのポップスターとしてこの時代にあって不動のポジションを確立した。
Gary Numan - Cars
※ゲイリー・ニューマンの1979年の大ヒット曲『カーズ』。

こうした英国のエレクトロニック・ミュージック~シンセ・ポップの波を受けて当時、日本で活躍していたアーティストと言えばまずYMOが挙げられるのだろうが、お茶の間にまで浸透させたテクノポップ・バンド、ジューシー・フルーツのプロデュースを手掛けた仕掛け人、近田春夫(1951年生まれ)氏の存在も際立っていた。近田氏は元々はキーボード奏者としてグループ・サウンズ末期にパイロットというバンドに参加したのを契機にアーティスト活動をスタートさせるのだが、その後「日本のロック」黎明期に多数のレコーディング・セッションやライヴ・サポートを経て1976年に自身のバンド、ハルヲフォンを率いてキング・レコードからデビューする。アルバム3枚をリリースしてハルヲフォンを解散した後、1979年にソロ・アルバム『天然の美』をリリースしたた後、機を見るに敏な近田氏は同年に近田春夫&BEEFを結成、当初は自らがボーカリストとして活動していたが自らはバンドの表舞台から退き、同バンドのギタリストだったイリアこと奥野敦子をフロントに据えてジューシー・フルーツと改名してリリースしたテクノポップ・アプローチのシングル『ジェニーはご機嫌ななめ』が折りからのテクノポップ・ブームに乗って大ヒットする。更に同時期にはアヴァンギャルドなサウンド・アプローチで独特の存在感を発揮したテクノポップ・バンドのヒカシューのプロデュースをも手掛け、1980年代初頭の日本の音楽シーンに確かな爪痕を残した。エレクトロニック・ポップに伝統的な日本の「歌謡曲」テイストも取り込んだ、この時期の近田流ジャパニーズ・エレクトロニック・サウンドは異端にして主流になったという点で日本のポップス史上に於いて特記すべきエポックだった。
ジューシィ・フルーツ - ジェニーはご機嫌ななめ (Live 1980) HD
※近田春夫氏の全面バックアップ、プロデュースの下、大ブレイクしたジューシー・フルーツの代表曲『ジェニーはご機嫌ななめ』(1980年)。
Perfume - ジェニーはご機嫌ななめ (Live) [HD]
※現在のテクノポップ・アイドルであるパフュームによる同曲のカバー・バージョン。
(CHIKADA HARUO) 近田春夫 & BEEF - LADY HURRICANE (1979)
※近田氏がジューシー・フルーツ改名以前にBEEF名義で活動していた時期のライヴ映像。
ヒカシュー モデル PV
※近田氏がプロデュースを手掛けたヒカシューのデビュー・アルバム収録曲のクラフトワークのカバー・バージョン、『モデル』(1979年)。
GATEBALL- HIT THE ROAD JACK [+ 3tracks] ※近田氏が1983年に元ピンナップスのリタこと野元貴子、元ハルヲフォンの高木英一と結成したゲートボールのカセット・マガジン『TRA』に収録された音源。謎の多い?プロジェクト。
Susan - Ah Soka!+Japanese New Wave YouTube Mix
※YMOの三人のプロデュースで男女問わず多数のアーティストやタレントがデビューしたが個人的には一番気に入っていたのが高橋幸宏氏がプロデュースした女性シンガーのスーザン。1980年にリリースされたファースト・アルバム『Do You Believe In Music?』の収録曲『Ah Soka!』。
8 1/2(ハッカニブンノイチ) シティー・ボーイ
※初期の日本のパンク~ニューウェイブバンドの中でも異色の存在だった8 1/2。後にゲルニカを結成する上野耕路氏が曲の後半に披露するキーボード・プレイは同時期に活躍していた英国のバンド、XTCのバリー・アンドリュースにも引けをとらないエキセントリックな閃きを感じさせる。