久しぶりにブログを更新。

去る9月22日、新大久保EARTHDOMにて開催されたスキンヘッドバンドが集結した"ICEPICK'13"を体験して、個人的に思うところが多々あった素晴らしいイベントだった。

出演バンドは名古屋のAGGRO KNUCKIEの招聘により米国からやって来たBOUND FOR GLORYを含めて全8バンド、16時スタートで22時終演という長丁場のイベントだったがバンドのショウはもとよりバンドのメンバーや関係者と観客との交流の場面等を垣間見るにつけ、非常に内容の濃いものだったと感じた。

入場したのが16時30分過ぎだったので最初に見たのが秋田出身の鎧。
昨年に引き続きいてのイベント出演となるのだが一年振りに見た彼らは相変わらずメタリックで重厚なサウンド、巨漢のフロントマンの野獣のような咆哮を織り交ぜた凄まじいヴォーカリゼーションは聴き物だ。サウンドのテイストは1980年代の英国のNWOBHM以降のヘヴィメタルバンドやモーターヘッドを彷彿とさせるリフとメロディーラインがバランス良く共存した感じで、昨今のメタルやハードコアのバンドに比べるとキャッチーな印象がある。彼らのようなバンドは実はメタルヘッズにも支持されても不思議ではない。個人的には鎧のギタリストはソロパートのプレイがNWOBHM期のモーターヘッドのエディ・クラークを連想させた。この夜出演した他のバンドにも言えるのだが日本のスキンヘッドバンドは皆、かなりハイレベルの演奏力を持っている。
鎧のフロントマンの武骨なMC「日本が好きで何が悪い!」、この一言が他の日本のスキンヘッドバンドにも共通する表現者としてのステイトメントだと思う。

残された呼吸 - 雷矢
※今回のイベントでは実際に見る事は叶わなかったのだが東京のスキンヘッドバンド、雷矢の『残された呼吸』。MIXにはこの夜、トリを務めた鐵槌=SLEDGE HAMMERの名曲『儚き花よ(KAMIKAZE)』が聴ける。

"ICEPICK'13" 出演バンド "雷矢"
※"ICEPICK'13"の雷矢の出演バンド紹介。『続行の歌』のPVがアップされている。

謎の多いバンド「鎧」
※今回のイベントを主宰したICEPICKのホームページに掲載されている秋田の鎧のプロフィール紹介(昨年度の記事)。

"ICEPICK'13" 出演バンド "鎧"
※"ICEPICK'13"の鎧の出演バンド紹介。彼らの音源『限界を超えろ』がアップされている。

続いて登場した名古屋のAGGRO KNUCKLEはこの夜、一番注目していたバンドだ。今回のイベントの主役でもある米国のベテランス・キンヘッドバンド、BOUND FORGLORYを招聘したのが彼らであり、今回の日本ツアーを記念して両バンドによるスプリット作品『Respect & Honor East Meets West』をリリースした。
実は彼らをライヴを見るのはこれが3度目なのだが2年前に名古屋のライヴハウス、TINY7で初めて見た時に感じた鮮烈な印象は忘れられない。
非常に個人的な話になるが今を去る事33年前に僕がまだ10代だった頃、当時京都にあったライヴハウスのサーカス&サーカスで町田町蔵氏率いるパンクバンド、INUのライヴを初体験した時と同じようなインパクトがあった、決して誇張でなく。
それは現在のAGGRO KNUCKLEが、かつてのINUが時代の気分、時代の空気を反映していると直感したからだ。会場も比較的小さなライヴハウスだったサーカス&サーカスで見たINUは観客もまばらで決して盛り上がったライヴだったとは言えないが、饒舌なMCも含めて町田氏の発する気、オーラのようなものがその時代の気分を代弁していたような気がした。
対して2年前のAGGROO KNUCKLEはというとやはり小さな会場で数バンドが出演したイベントで彼らの出順も中盤で、決して良いポジションではなかったと思うのだが、ライヴ中にフロントマンの発する並々ならぬ気迫に心底圧倒された。
敢えて言うがここではライヴに於ける観客動員の多寡は問題ではない。
ただ、両バンドの政治的立場や思想・信条は恐らく対極にある。
乱暴な物言いをすればかつてのINUはリベラル、左翼的な思想・理念に依拠した表現活動をしていたと思うし、AGGRO KNUCKLEは保守、右翼というより愛国的なマインドに則った表現活動をしていると言えよう。
そこで時代の空気という問題であるが1980年代初頭の日本では特に若者は(所謂ノンポリ=ノンポリシーが多数派だったが)、基本的にはリベラルな思想が是とされており、社会的には低成長期に入ったとは言え国民は豊かさを満喫し、若者にとっては満たされた退屈な日常からいかに脱却するかが大きなテーマになっていた。
そんな時代にINUの町田氏は観客に向かって叩き付けるように以下のような歌詞を歌った。
「俺の存在を/頭から打ち消してくれ俺の存在を/頭から否定してくれ」(メシ喰うな!)
「曖昧な欲望しか持てず/曖昧な欲望を持て余し/いつもお前はテレビに釘付け/疲れ果ててもやめられない」(フェイドアウト)
まさに閉塞した時代の声なき声を代弁しているように感じたものだ。

AGGRO KNUCKLEについてはライヴ体験時には歌詞そのものは英語なので聴きとれなかったのだが、フロントマンの短いMCや一挙一動、そしてバッキングメンバーのプレイによる強靭なサウンド、それらが一体となったトータルなバンド・パフォーマンスが何故か時代の気分を体現しているように感じたのだ。
観客が持ち込んだ国旗日の丸をモチーフにしたフラッグを掲げ、MCはシンプルに「闘え!」というシンプルなメッセージを込めたものだったが、初めてINUのライヴを見てから三十余年、様々な意味で日本の社会の構造・情勢も変化し、今やAGGRO KNUCKIEのようなメッセージが自分にとってもリアルに響くような時代になったのか、と感慨深いものがあった。
思えば日本人を取り巻く経済的環境もこの十数年で大きな変化があった。
例えばバブル崩壊後の十年程はまだ一億総中流と言われていて雇用もそれなりに安定し、大・中小企業を問わず高卒・大卒で入社すれば一律、ポストの昇進や昇給が保証されて誰もがそれなりの人生設計も描く事が可能だった。
ところが今世紀に入る頃から、かねてから問題視されていた非正規雇用の派遣社員を企業側がこぞって使役するようになり、彼らはかつては労働人口の大半を占めていた正規雇用の社員のような安定した人生設計が不可能になってきた。
社会・経済だけでなく政治的にも3年前に尖閣諸島で起きた中国漁船と海上保安庁の巡視船との衝突事件を契機に日中、そして竹島を巡って日韓の領土問題が国民的な関心事になっている。
またミサイル発射実験等、北朝鮮の日本に対する度重なる挑発行為も日本人の国防意識その他を大きく変革した。
社会・経済、そして政治的な側面からみても色々な局面で日本、そして日本人に「闘う」ことを否応なく強いられる世相だ、しかも強い意志を以って。
このライヴの時に物販でAGGRO KNUCKIEの1stCD『Unshakable Determimation』を購入したのだが、スクリュードライバーのカバーを含む全6曲、タイトルは元より歌詞やサウンドは「闘う強い意志」をそのままパッケージしたようなビビッドな作品だった。
歌詞についても曖昧なレトリックを弄するようなものではないが、メディアによる情報操作の問題を取り上げた「Manipulator」を筆頭に真摯でストレートなメッセージが込められており、そこには時代を明確に見据えた真のインテリジェンスを感じた。

さて、久しぶりに見るこの夜の彼らのライヴは果たして期待に違わぬハイテンションな素晴らしいものだった。
暗めの照明の中、荘厳なSEに乗ってステージに繰り出したメンバーは気合い十分、約30分のパフォーマンスは演奏のスキル、トータルな表現力等あらゆる面に於いて以前目にした時よりも格段の進歩が感じられた。
途中、ヘヴィメタルバンドのAC/DCを想起させるようなハードブギ調の新曲もあり、キャッチーなアプローチを試みる彼らの新境地を垣間見る事ができた。

余談だが先出の町田氏が率いたパンクバンドは最初に僕が見た1980年秋の時点で徳間ジャパン・レコードから翌春にデビューする事が決まっており、これは件の1stアルバム『メシ喰うな!』のプロデュースを務めた音楽評論家の鳥井賀句氏が彼らに惚れ込んでレコード会社やプロダクション数社と折衝して実現させたものだ。
残念ながらINUはデビュー後3ヶ月足らずで解散してしまうのだが、アルバム・リリース前後には音楽誌から一般誌等、紙媒体を中心にかなりのメディア露出があった。
省みてAGGRO KNUCKLEを初めとしてスキンヘッドバンドは現状、メディア露出する機会が殆どない。
これは以前、某大手出版社の方と歓談した際に耳にしたのだが日本のメディア、特に音楽関係の紙媒体のスタッフは戦後、ずっとリベラル、左翼的なスタンスを取るのが是とされていて「愛国」等保守的なニュアンスを持った文化的事象は無視、あるいは排除されがちだったという事だ。
こうしたメディアのマインドはいかに大多数の国民の政治的な志向性や関心対象が保守的なベクトルに向いても中々それには同調しないだろうという見解だった。
かつてのINUは時代の空気を代弁したバンドだったと思うのだ確かに大勢を占めていたがリベラル、左翼的なマインドを持ったメディア関係者には彼らの主張や存在そのものが歓迎されていたように思う。

いみじくも秋田の鎧がMCで叫んだ「日本が好きで何が悪い!」と言わざるを得ない空気が戦後半世紀余りに渡って日本のメディアでは支配的だった。

AGGRO KNUCKLE - Manipulator
※AGGRO KNUCKLEの1stアルバムに収録されている"Manipulator"他のMIX。

"ICEPICK'13" 出演バンド "AGGRO KNUCKLE"
※"ICEPICK'13"のAGGROKNUCKLEの出演バンド紹介。新曲『28』の音源がアップされている。

以下、後続の出演バンドについては次回以降に書きます。
去る12月22日、新宿ANTI-KNOCKで開催されたイベント『BUILT TO LAST』に行ってきた。このイベントはBLINDSIDEとRUTHLESSという比較的若い世代のハードコア・バンド2バンドによって企画されたもので東京を初めとする関東圏から東は東北・仙台、西は大阪まで総勢10バンドが参加して開催されたものだった。当日は途中入場だった為にMIDGARDSORM、FORLIFE、DeadSoulsの3バンドは観る事ができなかったのだが、会場入りした時にライヴの真っ最中だったFAKECOUNTからラストのBLINDSIDEまでライヴ・パフォーマンスからMCに至るまで、出演したバンド各々が各自の個性を発揮し、観る側としても理屈抜きに楽しめた素晴らしいイベントだった。
このイベントを通じてハードコアという特定のジャンルに限らず、昨今の音楽シーンが直面している状況・情勢についても考えさせられ、啓発されるものが多々あった、個人的にも収穫の多いイベントだった。
会場に到着すると東京出身のポップパンクバンド、FAKECOUNTのライヴが後半に差し掛かったところだった。このバンドは初めて観たのだがバンドのプロフィールを見ると米国のキッド・ダイナマイト等をフェイバリットバンドに挙げているが、確かにキッド・ダイナマイトや米国のポップパンクの急先鋒だったインディペンデント・レーベルのルックアウト系バンドのような活きの良いラフでメロディックな楽曲を中心にエネルギッシュなパフォーマンスを披露した。
続いて仙台出身のBREAK OF CHAINが登場。メタリックで重厚かつメロディックなギターサウンドで声量十分なフロントマンを中心に協力なパフォーマンス&プレイで圧倒的な存在感を発揮していた。途中に披露した木訥なMCもパワフルなステージの印象と妙なギャップがあって面白かった。規定のセットメニュー終了後、米国のOiバンド、アイアン・クロス(アグノスティック・フロントのカバーでも知られる)の『クルシファイド』をプレイしたが、彼らの音楽的ルーツを垣間見る思いがした。
BREAK OF CHAIN's official profile
※仙台出身のハードコア・バンド、BREAK OF CHAINのMySpaceオフィシャルサイト。

続いて横浜のFIGHT IT OUTはいつも通りの全力パフォーマンス&プレイで会場人気はやはり一番だったようだ。この日はライヴ開始直後にボーカルのYang氏が照明スタッフに客電を点けるようリクエストし、煌々と蛍光灯も点った明るい中、熱いパフォーマンスが繰り広げられた。これは彼らが常日頃主張するバンドも観客も同一線上に立ってライヴ空間を共有しようというメッセージが込められていたのかも知れない。
出順6番目はこの日の主催バンドの一つでもあるRUTHLESSた。このバンドが気になったのはバンド名が米国西海岸のヒップホップ・レジェンド、N.W.A.のリーダーだったラッパーのEazy-Eが立ち上げたインディペンデント・レーベル、RUTHESSと同名だった事だ。またこのバンドのフロントマンであるdiesk03氏のブログのプロフィール欄には"Easy-D"というロゴマークもアップされており思わずニヤリとさせられる。ライヴはリラックスした雰囲気で進行し、女性客数人から歓声が上がると酒が入って上機嫌なdiesk氏は「黄色い声も身内ばっかりか。」と自嘲気味に呟く一幕もあったが、終始フレンドリーなパーティー乗りでかなりのハードコア・マニアの彼ららしいバラエティー豊かなスタイルのハードコア・ナンバーを軽快にプレイした。diesk03氏はINTERACT RECORDという自身のレーベルを運営しており、RUTHLESSのデモ初め国内・国外問わず様々なハードコア・バンドの音源やマーチを取り扱っている。またこのレーベルのロゴマークが先のEasy-Eを含むN.W.A.のメンバーがそのマーチ・アイテムを好んで身に着けていた米国NFLのプロフットボールチーム、オークランド・レイダースのチーム・ロゴをモチーフにしたものだったので再びニヤリとしてしまった。
DemonDayz
※東京出身の新進気鋭のハードコア・バンド、RUTHLESSのフロントマン、diesk03氏のブログ。「田吾作ハードコア」と称して世界各地の知られざる辺境のバンドを紹介するコーナーが面白い。プロフィール欄から彼の運営するレーベルのINTERACT RECORDのサイトへもリンクできる。

続いて登場した東京のハードコア・バンド、CREEPOUTのライヴを体験したのはこの日で3回目だったが、いずれも素晴らしいショウで個人的には大好きなバンドだ。ボーカルのQUNIHYDE氏は地声が1980年代のニューヨークのハードコア・バンド、例えばジャッジのマイク・ジャッジやボストンのSSDのスプリンガのような声質で、熱血直情径行型の熱いハードコア・サウンドをプレイするバッキングと見事にフィットしている。この日はNUMBのSENTA氏やヒップホップ・グループMEDULLAのMC、ILL-TEE氏、元GUERILLA CROWZというバンドのボーカリスト等、彼らの盟友が飛び入り総出演で実にキレの良いパフォーマンスを繰り広げた。西東京出身という絆で結ばれた彼らがステージ上でお互いに「ブラザー」と呼び合う由縁は伊達ではない。
kunihydeのブログ
※西東京ハードコア、CREEPOUTのフロントマン、QUNIHYDE氏のブログ。

トリ前には大阪出身の5人組ハードコア・バンドのRUNNERが登場した。彼らを観るのは勿論これが初めてだったのだが基本的にはヘヴィなサウンドながらどの曲も細かいアレンジがなされ、ここ十年程の間に新たに出現した様々なスタイルのハードコア・バンドのエッセンスが詰まった美味しいトコ取りのモダンなサウンドだった。ボーカルのMCは非常に真摯な態度でイベントを主催した2バンドや他の共演バンド、そして来場した観客への謝意を述べていた。彼らは今年5月にファースト・フルアルバム『voices』をリリースした。
Music Revolution ISHIZUE BLOG
※ハードコアやメタルコア等のアイテムを扱っている大阪のショップ、isizueのブログにてRUNNERのアルバム"voices"が紹介されたポスト。

そしてこの日のもう一つの主催バンドであるBLINDSIDEがトリを務めるべくステージに登場した。彼らを観るのはこの日が2度目で、実は初めて観たのが今年2月の同じ新宿ANTI-KNOCKのあるイベントだったのだが、荒削りながら各プレイヤーが思い切ったアタックの強い演奏で目を引くものがあって気になっていた。その後は8月に開催された"BLOODAXE FESTIVAL 2012"等、何回か彼らの出演するイベントに足を運んだのだが途中入場した為、会場入りするといずれも彼らの出番が終わった後で(彼らは概ね出順トップだった)、ついぞ観る機会を逸してしまっていた。それがこの日は自らの企画するイベントで大トリを務めるという事で、僅か数ヶ月の間にバンドとしてもハードコア・シーンのオーガナイザーとしても彼らの成長が感じられた場面だった。フロントマンのタケシ氏のリラックスした緩めのMCを挟みつつ緩急自在のハードコア・ナンバーを次々と披露、さすがにそれまでの出演バンドのライヴで散々モッシュダンスした観客は体力が残っておらず会場全体が「モッシュの嵐」という訳には行かなかったがバンドのパフォーマンス&プレイやMCに込めた真摯な主張等、2月に観た時とは比較にならない程の存在感があった。締めのMCでも主催バンドの立場からイベントの総括、そして出演バンドや関係者、観客への感謝の意を表し、また観客各位に会場売りしている各バンドのCDやマーチの購入を呼び掛ける等、これまで陰に日に彼らをサポートしてきた先輩バンドでシーンの重鎮でもあるLOYAL TO THE GRAVEのコバ氏譲りの穏当なものだった。こうして若い世代が先達の一挙一動を身振り手振りを真似ながら身に付け、ハードコア・シーンというものが世代から世代へと着実に受け継がれていくのだろうと、何となく感慨深い思いに駆られた。
BLIND SIDE's official profile
※このイベントを主催したBLINDSIDEのMySpaceオフィシャルサイト。来年には活動歴5年の集大成として初のアルバム(11曲入り)をリリースするとの事。期待したい。

この次代を担う若い世代のバンドが一念発起して企画したイベントを体験してみて、改めて新たな時代の音楽シーンの在り方等に思いを馳せてみた。
話は飛躍するがここ数年、音楽産業全体でCDを初めとする、所謂パッケージソフトの売上高の減少が深刻化している。これはiPod等の携帯型デジタル音楽プレイヤーの普及に伴う音楽配信システムの普及や合法・違法を問わずインターネット上で様々な音楽無料DLサービスが開始され、音楽コンテンツそのものの供給システムが大きく変わってしまった為だ。こうした流れに最初に注視するようになったきっかけは今から5年前に米国のアーティスト、プリンスが新作アルバム『プラネット・アース』を英国の新聞『デイリー・メイル』紙の日曜版『メイル・オン・サンデー』の付録として添付し、作品の正式リリースの前にCDを無料配布してしまうという大胆な試みを行った事だ。
アルバムを無料配布したPrinceの戦略(1)WIRED.jp
※米国のデジタル・コンテンツ・カルチャー誌『WIRED』のウェブ版に2007年7月17日に配信されたプリンスのCD無料配布に関する記事。

上掲の記事の冒頭にあるように「デジタル時代に価値を失うのは楽曲そのものではなく、そのコピーだという認識だ。コピーの価値が低くなればなるほど、オリジナルの価値が高くなる。」という認識は画期的だった。プリンスは「このデジタル時代に価値を失いかけているのは楽曲そのものではなく、そのコピーだということを認識しているためでもある。アルバムは、発売から時間がたつほど、友人のCDにせよ、見知らぬ他人の共有フォルダにせよ、リスナーがコピー源を見つける可能性が高くなる。だが、そうしたコピーの価値がどんどん低くなれば、最終的にはオリジナルのみが価値を認められる。」と考え、プリンスの作品の配給先であるソニーBMGは英国での発売を中止し、「新聞の呼び物としてアルバムを無料配布すれば、音楽の価値を確実に下げてしまう。」等の小売店側の反発に遇いながらもこの企画を断行、結果としてこの後に英国で行われた21回のコンサートのうち、15回は発売から1時間以内にチケットが完売した。コンサート会場だったO2 Arenaの収容人員は約2万人で、もし残りの6公演も完売すれば、総売り上げは2,600万ドルを超えるという。『メイル・オン・サンデー』は300万部の発行部数を誇るが同紙の宣伝費として計上されたいくばくかの金額によりプリンスはアルバムの制作費を賄い、同紙の付録CDをコピー商品ではない最高の「オリジナル」であるライヴ・パフォーマンスを提供する自身のコンサート・チケットを「売る」為の宣伝素材にしてしまったのだ。
個人的な体験を踏まえると僕が音楽業界に足を踏み入れた1980年代はCD(レコード)等パッケージ・ソフトを売る為にアーティストやバンドはコンサート・ツアーを行うとう、言い換えればライヴはパッケージソフトの販売促進活動の一環という認識が一般的だった。プリンスの一連の戦略はそうしたかつての音楽ソフトとライヴという商品の関係を主客逆転させてしまったものであり、デジタル時代のアーティスト活動のあるべき姿を予見するものだった。
次にこの日本での音楽ソフトの急激な売り上げ減少に関する記事がアップされている『livedoor NEWS』の『日刊サイゾー』配信記事を紹介する。
「完全に終わった」 沖縄ブーム終焉でオレンジレンジが苦境に
※沖縄出身のミクスチャー系バンド、オレンジレンジのCDアルバム売り上げの減少を伝える『日刊サイゾー』2009年9月6日配信記事。

これは沖縄出身のバンド、オレンジレンジが2009年8月にソニーミュージックエンタテインメントからリリースしたアルバム『world world world』が発売直後、初動の段階に於いて4万枚強のセールスしか上げられず、2004年にリリースしたセカンドアルバム『musiQ』が200万枚を超えるセールスを記録したのに比べると僅か5年足らずの間に1/50まで売上枚数を減らしてしまったという事である。この記事は「沖縄出身のバンドブームの終焉」という視点に立ったものであるが、これは音楽ソフトの売り上げ不振という音楽産業全体の傾向を象徴的に伝えたものだ。
オレンジレンジの事例も含めて日本ではここ数十年、大衆音楽~ポピュラー・ミュージック(最近は「J-POP」と総称される)はずっと大手のレコード会社とプロダクションによって先導・支配されてきた。それがインターネットの普及を筆頭とする昨今の音楽産業を取り巻く環境の劇的変化により、旧来のシステムそのものが瓦解し、全てに於いて未曾有の局面に直面している。
この一年程、個人的にハードコア・バンドのライヴやイベントに足を運ぶうち、そうした思いは更に強まった。特に先述の東京のハードコア・バンド、LOYAL TO THE GRAVEのコバ氏の発言やライヴでのMC、そして彼らの動き方そのものからメジャー、アンダーグラウンドを問わず新時代のアーティストのあるべき姿というものが朧げながら見えてきたよいな気がするのだ。去る11月10日に渋谷のライヴスペース、THE GAMEで開催されたイベント『Amp×Loud Vol.2』にLOYAL TO THE GRAVEが出演した際のライヴ中にコバ氏がMCで語った内容は示唆に富むものだった。「もうこれからは音源(CD作品)を出す事だけがバンドの最終ゴールじゃないんだ。俺達は今年米国のEulogyレコードから新作アルバムをリリースして一つの目標を達成した。この後12月には米国でツアーをやるけどそれが終わったらまた新たなテーマに向かって進んで行く。これからはバンド各々がそれぞれに目標を定めて突き進んでいかないと(ダメだ)。」と。まさにその通りだ。音楽業界のインフラ自体が解体されつつある、混沌として活動テーマを見付け辛い時代だからこそ、かつてのようにレコード会社やプロダクションの敷いたレールに乗るのではなく自らが道を切り開いていかなければならない。そしてアーティストやユーザーにとってもCD等のコピー商品としての音楽ソフトだけでなくプリンス曰く、ライヴ・パフォーマンスという究極のオリジナルが益々価値を高めて行くだろうし、ライヴ以外ではマーチ等の関連商品の売り上げがアーティスト活動をグレードアップさせる経済的基盤として更に重要視されるようになるだろう。そして今後の音楽シーンを活性化させる為にはこのイベントを企画した2バンドのような若い世代の活躍が必須要件である。
D.I.Y (Short Hardcore Documentary)
※昨今の若い世代のハードコア・バンドのライフスタイルや音楽シーンに対する取り組み方についてインタビューを中心として編成されたたドキュメンタリー。ヴェガン・ライフスタイルを標榜する英国マンチェスターのレコードショップ、V Revoution、同地のハードコア・バンド、Broken Teeth、オランダのレーワルデン出身のCornered、米国ニューヨーク州ロングアイランド出身のBacktrack、米国カリフォルニア州ロアート・パーク出身のCeremony、同じくロサンゼルス出身のRotting Outのメンバーが登場。
優れた音楽ドキュメンタリー作品を数多く制作している英国BBCチャンネル4のシリーズから"SYNTHE BRITANIA"~『シンセ・ブリタニア』を紹介する。この作品はシンセサイザーを初めテクノロジーの急速な進化と共に1970~1980年代中期にかけて隆盛を極めた英国のエレクトロニック・ミュージック(電子音楽)の歴史を俯瞰したものだ。基本的に1980年代に一世を風靡したシンセポップ~エレクトロポップの発展過程を検証したものであるが、これらエレクトロニクス分野の技術発展はパンク~ニューウェイブ以降に出現した英国オルタナティヴ・ミュージック、ノイズ~インダストリアル等様々な音楽ジャンルの形成・発達にも大きな役割を果たしたものだと再確認した。
BBC Synth Britannia

作品では冒頭、
"A long tome ago in agalaxy far,far away...."(昔々、宇宙は遠く遠く‥)
というテロップが流れ、ロバート・モーグ博士が発明したモーグ・シンセサイザー(昔は誤って「ムーグ」と発音していたものだ)の電子音が鳴る。
この作品は時代区分で言えば1970~1980年までを扱ったパート1、それ以降のパート2により構成されているが、圧倒的に面白いパート1を取り上げる。
"ALIENATED SYNTHESISTS"(異端のシンセサイザー奏者達)とタイトルが付けられた作品のパート1ではまず異形のシンセ奏者と呼ぶに相応しいワルター・カーロスが紹介される。カーロスは英国の作家、アンソニー・バージェスが1962年に出版した小説をスタンリー・キューブリック監督が映画化した『時計仕掛けのオレンジ』(1971年)の音楽を担当した米国のシンセサイザー奏者で、性転換手術を受けて現在はウェンディと改名しているユニークなキャリアを持つアーティストだ。『時計仕掛け~』は(この時代から見た)近未来バイオレンス映画で、極端な管理社会が生み出す病理を描いた典型的なディストピア(反ユートピア)作品でもある。この時代は日本でも英国でも世情は同じで、1960年代には米国の宇宙ロケットのアポロ11号の月面着陸等の宇宙開発により「スペースエイジ=宇宙時代」と持て囃され「未来」という言葉がそれまでは希望に満ちたものだったのだが、1970年代に入ると科学技術の進化がもたらす負の側面-公害や自然破壊等にもスポットが当たるようになり未来というものが期待と不安が混在したものとして語られるようになっていった。
Clockwork Orange (1971) HD Trailer (1080p)
※スタンリー・キューブリック監督作品『時計仕掛けのオレンジ』のトレイラー。

4分過ぎには以前、『クラウトロック』を紹介した際にも触れたドイツのシンセ・ユニット、クラフトワークが紹介される。彼らが英国でも注目されるようになった『アウトバーン』リリース後の1975年には英国BBCの長寿番組だった科学技術番組"Tomorrow's World"『明日の世界』でも電子音楽のパイオニアとして特集されていた。
Kraftwerk Autobahn on BBC Tomorrow's World 1975
※英国BBC制作の科学技術番組『明日の世界』でクラフトワークが特集された回の一コマ。

1970年代中期にはシンセサイザーはEL&Pのキース・エマーソンを初めとした主にプログレッシブ・ロックのバンドやアーティストによって使用され、クラシックや現代音楽等の高度な音楽知識を持つ限られた一部の者のみが扱う高価な楽器でガレージバンドや一介のミュージシャンには中々手が出せない代物だった。
8分過ぎに英国のパンクバンドのザ・クラッシュの映像が流れ、彼らやザ・ダムド等の出現によって単純明解な3コードロックが復権を果たし、この動きは後にシンセポップの代表格となる英国中部の工業都市シェフィーリド出身のヒューマン・リーグのフィリップ・オーキー(1955年生まれ)やマーティン・ウェア(1956年生まれ)等の若いアーティスト達にも情熱さえあれば「誰でも表現活動ができる」という希望を与えた。ヒューマン・リーグはこの作品中、再三フィーチャーされていて作品全体のガイド役的な存在でもあるのだが、1977年に結成されたシンセサイザーとシーケンサーを操る上述の中心メンバー二人から成るシンセポップ・バンドで1979年にアルバム『リプロダクション』でデビューする。その後バンドは二派に分裂するがいずれも商業的にも大成功を収めた。1980年代に入ってMTVの普及に伴い、いち早くプロモクリップを使った徹底したイメージ戦略によるアーティスト・プロモーションにより新たな時代を切り開いた先駆者としても有名だ。因みにバンド名は『スターフォース:アルファ・ケンタウリ』等のボードゲームの会社として有名なシミュレーション社から発売されたゲームの名前を拝借したとの事だ。
The Human League- Blind Youth+YouTube Mix
※ヒューマン・リーグのデビュー・アルバムに収録された『ヒューマン・ブラインド』+YouTube Mix。

9分過ぎに英国エレクトロニック・ミュージック史に於ける最重要人物と言っていいダニエル・ミラー(1954年生まれ)が登場する。ミラーは自身のバンド、ザ・ノーマルの作品をリリースする為に1978年にインディペンデント・レーベルのミュート・レコードを立ち上げ、その後は所属アーティストだったデペッシュ・モードの世界的なブレイクによりこの種のジャンルのトップ・レーベルとなった。また他にもニック・ケイブやディアマンダ・ギャラス等のゴス・ロックやアヴァンギャルドなアーティストの発掘によりコマーシャル・ベースでも成功を収めた先鋭的な音楽レーベルとして揺るぎないポジションを確立した。ミラーは英国のSF作家であるJ・G・バラードが1973年に書いた悪夢のような近未来小説の『クラッシュ』にインスパイアされた"Warm Leatherette"をザ・ノーマルのデビュー・シングルに収録している。この『クラッシュ』は後に紹介するゲイリー・ニューマンの『カーズ』やその他このジャンルのアーティスト多数に多大なるインスピレーションを与えた。
The Normal - T.V.O.D.
※ザ・ノーマルのデビュー・シングルに収録された"T.V.O.D."。
Crash! (1971) Part 1 of 2
※J・G・バラードが1973年に小説『クラッシュ』を発表する以前の1971年に自身が出演して制作した同名のショートフィルム。パラノイアックな自動車事故への不安感を表現した問題作だ。

ヒューマン・リーグのメンバーも当時ロキシー・ミュージックのメンバーだった頃のブライアン・イーノのパンキッシュなキーボード・プレイと並んでJ・G・バラードの作品には大いに刺激されたと語っている。この頃(1970年代中期)には安価なコルグのミニ・シンセサイザーが開発・量産化されてシンセサイザーが楽器として一般ユーザーにも普及していった。
初期のエレクトロニック・ポップでクラフトワークと共に偉大な功績を残したのが15分過ぎに紹介されるイタリア出身の音楽プロデューサー、ジョルジオ・モロダー(1940年生まれ)である。今年亡くなった往年の「ディスコ・クィーン」、ドナ・サマー(1948~2012年)のプロデュースにより一躍注目を浴び、ディスコ音楽の父として知られる彼は後に様々なアーティストのプロデュースでも勇名を馳せるが、古典的SF映画の傑作であるフリッツ・ラング監督が1926年に制作した『メトロポリス』(これまたディストピア作品)のリメイク版(映像素材を再編集したもの)の音楽を手掛ける等、多方面に渡って様々な音楽プロジェクトで活躍している。
I Feel Love - Donna Summer
※ドナ・サマーの『アイ・フィール・ラヴ』(1977年)。同時代の他のディスコ・ナンバーが生演奏によるグルーヴ重視だったのに比べ、大胆にエレクトロ・ミニマル・ミュージックの要素を導入している。
Giorgio Moroder - Baby Blue (Disco Video 1979).
※1979年にリリースされたジョルジオ・モロダーのソロ作品『ベイビー・ブルー』。

モロダーは後年、ティナ・ターナーやジャネット・ジャクソン、デヴィッド・ボウイ等怱々たるビッグネームのアーティストも手掛け、文字通り音楽シーンを総なめにした感があるが、ここで彼のプロデュース・ワークで個人的に特に気に入っているものの幾つかを以下に紹介したい。
まず米国出身ながら英国で最初に成功を収めたロン(1948年生まれ)とラッセル(1953年生まれ)のエキセントリックなポップバンド、スパークスである。モロダーがプロデュースした1979年リリースのアルバム『No.1・ソング・イン・ヘヴン』は(彼ら自身は所謂「オールドウェイブ」のアーティストだったのだが)パンク~ニューウェイブとディスコ・ミュージックの融合という新たな境地を開拓した意欲作である。
Sparks - Number 1 Song in Heaven 1979
※スパークスのアルバム『No.1・ソング・イン・ヘヴン』収録のタイトルトラック。
Sparks - When I Kiss You
※こちらは本題からは逸れるが、スパークスが一時期音楽活動から離れた後、数年のブランクを経て1995年にリリースしたアルバム"Gratuitous Sax & Senseless"(邦題『官能の饗宴』)に収録された"(When I Kiss You I hear Charlie Parker Playing)"。TV映画『スタートレック』に出演した女優としても知られるミュージシャンのクリスティー・ヘイドンがドラマーとして参加した、まさにアゲアゲなダンス・チューン。モンドテイスト満点のパフォーマンスだが取り分けクリスティーの艶やかさに目を奪われる。
Sparks Christi Haydon - What Would Katharine Hepburn Say (It's Bizarre '93)
※スパークスに参加した経緯について語るクリスティー・ヘイドンのインタビュー。

モロダーと言えばパンク・ムーヴメントのファースト・ウェイブ期に活躍していたロンドンSS、ジェネレーションXのベーシストだったトニー・ジェイムス(1958年生まれ)が結成したエレクトロ・グラム・パンク・バンド、ジグ・ジグ・スパトニックのデビュー・アルバム"Flaunt It"(1986年)のプロデュース・ワークも忘れられない。
Sigue Sigue Sputnik- Love Missile F1-11 (uncensored)
※"Flaunt It"に収録された"Love Missile F1-11"。当時米ソ冷戦下であったこの時期に「愛のミサイル」とタイトリングされた楽曲も凄いが、バンド名自体、"Burn,Burn,Satelite"を意味し、実在したモスクワのストリート・ギャングのチーム名に由来するという。
21st Century Boy
※同じくデビュー・アルバムから"21st Century Boy"。プロモ映像でも明らかな彼らの日本へ偏愛ぶりは1986年当時、プロモーションで来日したボーカルのマーティン・デグヴィル(1961年生まれ)にインタビューしたタレント、アーティストのちわきまゆみさんからも聞いた。

モロダーについては様々な評価があるが、面白かったのはストーナー・ロックの大御所であるクィーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジのジョシュ・オム(1973年生まれ)がかつて米国のファンジン『FLIPSIDE』誌(#120)で、
"I gotta say one of the heaviest songs of the all time Is Donna Summer"I Feel Love,"the Georgio Moloder version. The keyboards are so heavy. It makes my blood boil. The heaviness comes from all directins. That quality can be captured. That's the real stoner rock."(今まで聴いた中で一番ヘヴィーな曲はジョルジオ・モロダー・バージョンのドナ・サマーの『アイ・フィール・ラヴ』だ。ヘヴィーなキーボード・サウンドは血をたぎらせ、ディレクション全てがヘヴィーでそのクォリティーに魅了された。これが真の「ストーナー・ロック」だ。)
と語っていた事だ。確かに電子音で一定のリズムを繰り返すミニマル・ミュージックの一種でもあるモロダーの作り出したサウンドはクラブやディスコで長時間、大音量で聴いていれば脳に何らかの刺激を与える麻薬的な効果があるだろう。またモロダーのシンセ・サウンドは1980年代後半にダンス・ミュージックの主流となったユーロビート・ディスコ、そして1990年代に日本で一大ブームを巻き起こしたジュリアナ・サウンド~小室哲哉ファミリーの一連のヒット曲のサウンド・ベースにもなっている。
18分過ぎには初期の英国オルタナティヴ・バンドの重鎮、キャバレー・ボルテールのリチャード・H・カークが登場する。バンド名は言わずもがな20世紀初頭に盛り上がった前衛的芸術運動のダダイズムの拠点で同運動の推進者であるフーゴー・バルがスイスのチューリッヒに開いたキャバレー、カフェに由来している。キャバレー・ボルテールは当時新進気鋭のインディペンデント・レーベルだったラフ・トレードからデビューし"Mix-Up"(1979年)、"The Voice of America"(1980年)等、エレクトロニクスを駆使した実験的で刺激的なサウンド・コラージュで表現形態としてはある種パンクより過激な姿勢を持ち、ポストパンク期のバンド群の中では圧倒的な存在感を放っていた。リチャードが語ったもので興味深いのはヒューマン・リーグと同じくシェフィールドという重工業都市で活動を始めた彼らは子供の頃の1950~1960年代にTVで見た『ドクター・フー』や『クォーターマス』といった超自然現象を扱ったSFドラマに影響を受け、成長してからはウィリアム・S・バロウズやダダイズムに感心を持ち工業都市のBGMとしての蒸気ハンマー等の工場ノイズを音像化しようとしたのだが、それが「インダストリアル・ミュージック」と呼ばれるようになったと言う。
Cabaret Voltaire - Nag Nag Nag
※キャバレー・ボルテールのデビュー・アルバムに収録された"Nag Nag Nag"(1979年)。

22分過ぎにはリヴァプール出身のOMD(オーケストラル・マヌヴァーズ・イン・ザ・ダーク)のアンディー・マクラスキー(1959年生まれ)とポール・ハンフリース(1960年生まれ)の二人がバンド結成当時に状況について語る。彼らは当時、それ程裕福ではなかったがやはり1976年にコルグ社から発売された安価なシンセサイザー(マイクロ・プリセット・シンセサイザー)を手に入れて思い付くままにキーボードを操作しているうちに後に発表する楽曲の骨格となる多くのメロディーラインが浮かび上がった。彼らは1979年にインディペンデント・レーベルのファクトリー・レコードからシングル『エレクトリシティー』でデビューし、その後インディペンデント・レーベルの草分けとして急成長中だったヴァージン・レコード傘下のディンディスクと契約し、翌1980年に『エノラ・ゲイの悲劇』の大ヒットで押しも推されぬシンセポップの第一人者となる。
OMD - Electricity
※OMDのデビュー・シングル『エレクトロニシティー』の珍しいパフォーマンス映像。

26分過ぎにはファクトリー・レコードの看板バンドだったマンチェスター出身のポストパンク・バンド、ジョイ・ディビジョン(以下JDと略記)のバーナード・サムナーがシンセサイザーとの出会いについて興味深い証言をしている。彼は1976年に雑誌『エレクトロニクス・トゥデイ』に掲載されたアナログ・シンセサイザーの「トランセンデント2000」の記事を読んでシンセサイザーに関心を持ち、まずパンクバンドとしてスタートした彼らがワルシャワ等幾つかバンド名をチェンジした末、JD名義で活動するまで試行錯誤しながらシンセサイザーを導入したハンマー・ビート・サウンドと呼ばれる独自のスタイルを完成させた。JDは『アンノウン・プレジャー』(1979年)、『クローザー』(1980年)という2枚のアルバムと5枚のシングルをリリースした後にフロントマンのイアン・カーティスが1980年5月18日に自殺するという悲劇によりその活動の幕を閉じるが今日に至るまで多数のフォロワーを生み出しオルタナティヴやインダストリアル、ゴス等様々な文脈に於いてそれらのジャンル先駆けとして語られている。イアン亡き後、バンドはニュー・オーダーと改名してJDサウンドの発展形としてのダンス・ミュージックを模索し、途中何度か活動休止するが現在も現役活動中だ。JDも沈み込むような陰欝なメロディーラインや絶望感溢れるリリックが特徴で見逃されがちな事だが基本的にはビート主体のダンス・ミュージックだったと認識している(ライヴ時のイアンの何か憑き物に取り憑かれたようなダンス・パフォーマンスはよく知られている)。
Joy Division - Atmosphere (Video)+YouTube Mix
※イアンの死語、1980年9月にリリースされたジョイ・ディビジョンのラスト・シングルとなった『アトモスフィア』のプロモクリップ。

29分過ぎには英国のパンク~ニューウェイブ・バンド、ウルトラヴォックスのフロントマンとして活動した後、ソロ・アーティストに転じたランカシャー出身のジョン・フォックス(1947年生まれ)が登場。彼はヴァージン・レコードからリリースしたソロ第一作目の『メタマティック』で非常に高い美意識を提示し、音楽メディアに絶賛された。元々美術学生だった彼は「若い頃は自分もご多分に漏れず[怒れる若者]の一人だった。必然的に当時勃興しつつあったパンク・ムーヴメントに身を投じてウルトラヴォックスの一員として活動したが、段々と自分本来のアート志向が頭をもたげてソロ活動を通じて自由な表現活動を満喫しようと考えてバンドを脱退した。」と当時を回想する。彼は1980年代に4枚のアルバムをリリースした後、音楽活動から身を退き大学教授の肩書も持つグラフィック・デザイナーとして活躍していたが1997年に自身のレーベル、メタマティック・レコードを立ち上げて『シフティング・シティー』をリリースしてカムバック、現在も活動している。
John Foxx- 20th Century+YouTube Mix
※ジョン・フォックスが1981年にリリースしたミニ・アルバム『バーニング・カー』収録曲の『トゥエンティース・センチュリー』。

32分過ぎにはキャバレー・ボルテールを紹介した際に触れた「インダストリアル・ミュージック」の創始者であるスロッビング・グリッスル(以下TGと略記)のメンバーだったコージー・ファニ・トゥッティ(1951年生まれ)とクリス・カーター(1953年生まれ)が登場する。TGは1975年に英国ヨークシャー州のキングストン・アポン・ハルで結成されたインダストリアル・バンドでリーダーのジェネシス・P・オリッジ(1950年生まれ)とコージーは元々クーム・トランスミッションというハフォーマンス・アート・グループで活動していたのだが、パンク・ムーブメントの勃興と共にバンド形態での表現活動に転身した。「経験主義や脅迫観念に基づいた産業人間の為の産業音楽の追求」をスローガンに掲げ、先述した三人にピーター・クリストファーソンを加えた4人編成でノイズやテープ・エフェクトを駆使した独自の音響空間で過激なパフォーマンスを繰り広げるライヴが評判を呼び、彼らの登場時、英国の音楽メディアは話題騒然となった。自身のレーベルであるインダストリアル・レコードを設立し、1981年に解散するまでに4枚のスタジオ・アルバムをリリースするが「死の工事の音楽」等の彼らが提示した様々なコンセプトやテーマ、表現手法は後々多くのアーティストに影響を与えており、記憶に新しい所では1990年代に花開いた米国産インダストリアル・ミュージックのナイン・インチ・ネイルズやマリリン・マンソン等はTG無くして存在し得なかった事だろう。生と死、聖と俗、そして暴力や性衝動等人間の持つネガティブな側面をタブーぎりぎりの境界線上まで踏み込み、際どいリリックやアート・ワークでこれ程リスナーやオーディエンスの視聴覚を刺激し続けたバンドは後にも先にも彼らだけだろう。TGが音楽的な側面で特筆されるのはノイズを単なる効果音としてではなく表現の主軸に据えてしまった事で所謂ノイズ・ミュージックのイノベーターでもある。彼らが本格的にノイズ・ミュージック的なアプローチを試みる契機となったのは米国の多才なアーティスト、ルー・リードが1975年にリリースした問題作『メタル・マシン・ミュージック』を聴いた事だと言う。コージーとクリスはTG脱退後はクリス&コージーとして活動し(現在はカーター・トゥッティ名義)、過激なサウンド・コラージュは鳴りを潜めたが一転してEBM(エレクトロニック・ボディ・ミュージック)のパイオニアとなった。クリスはバンド参加以前はタンジェリン・ドリーム等ドイツのエレクトロニクス・バンドの作品を好んで聴いていたと言う。またTG在籍時もシンセサイザーとリズムボックス等サウンド面の要であった彼は「我々はパンクバンドではない。パンクではなくインダストリアル・エクスペンタル・ミュージックだ。」と断言している。
Chris And Cosey - Heartbeat
※TG解散後の1981年にラフ・トレードからリリースしたアルバム『ハートビート』のタイトル・トラック。心臓の鼓動を彷彿とさせる無機的な電子音が流麗なるメロディーを紡ぎ出して多彩な展開をしていく。
throbbinggristle - discipline
※TGの代表曲『ディシプリン』のライヴ映像。
LOU REED - Metal Machine Music (2010 Remastered Vinyl) (Complete).wmv
※全編ホワイト・ノイズで埋め尽くされたルー・リードの『メタル・マシン・ミュージック』(1975年)。当初はアナログ盤2枚組でリリースされ、長きに渡ってCD化再発されなかった問題作。

35分過ぎには先述のダニエル・ミラーが立ち上げたミュート・レコードからデビューしたシリコン・ティーンズのチャック・ベリーのR&Rの古典、『メンフィス・テネシー』のカバー・バージョンが流れる。実はこのユニットはダニエル・ミラーが一人で全楽曲を演奏してレコーディングされたものでダリル、ジャッキー、ポール、ダイアンというプロモクリップに映るメンバーは勿論ダミーで、当時NME等の音楽メディアには彼らのアーティスト写真やメンバー個々のプロフィールまで掲載され、それなりの人気も博すがBBCの人気DJであったジョン・ピールもこのアイディアを面白がって自身のラジオ番組で盛んにオンエアしてミラーの「仕掛け」に一役買った。ミラーが語るには十代の若者がギターの代わりにシンセサイザーを手に入れたら、まず何をやるだろうかと想像してみたらやはりシンプルなR&Rを演奏するだろうと考えてこのプロジェクトを思い付いたと言う。シリコン・ティーンズはシングルに続いてアルバム『ミュージック・フォー・パーティーズ』(1980年)をリリース、4曲のオリジナルを除いてキンクスやマンフレッド・マン、ジョー・ミーク、クリス・アンドリュース等オールディーズ・ヒット・ポップスのシンセポップ・カバー作品で占められ、当時このジャンルのティーンエイジャー~低年齢層への浸透化に貢献した。
Silicon Teens - Memphis Tennessee (1979)
※シリコン・ティーンズが1979年にリリースした『メンフィス・テネシー』。チャック・ベリーの往年のヒット・チューンをシンセポップ・サウンドで鮮やかにリメイク。

この時期、こうしたティーン・エイジャーへのシンセポップ・アプローチとして成功した例としてポルトガル出身でベルギーやフランスで活躍した女性シンガーのリオも印象深い。彼女はベルギー出身のシンセポップ・ユニットのテレックスのプロデュースによりシングル『バナナ・スプリット』でドイツを拠点に世界中に配給網を持っていたアリオラ・レコードからデビューし大ヒットしてこの種のジャンルのサウンド・アプローチで活動するポップ・イコン~アイドル的存在となった。
Lio- Banana Split+YouTube Mix
※リオのデビュー曲『バナナ・スプリット』+YouTube Mix。最近は日本でもパフュームのブレイクにより再認識されつつあるテクノポップの原点。健康的なお色気(今や死語)を振り撒くリオはまさにポップ・イコンそのもの。日本でもこの時期に同様のコンセプトでバンド・フォーマットでジューシー・フルーツが大ブレイクした。余談だがロサンゼルスのパンクバンド、ザ・ディッキーズはこの曲のパンクカバー・バージョンをリリースし、ライヴでも定番ナンバーにしていた。

37分過ぎに登場するゲイリー・ニューマン(1958年生まれ)はデビュー直後に日本でも絶大な人気を博し、代表曲『カーズ』は当時ラジオの洋楽チャート番組で軒並みNo.1を獲得し、ショッピングモールや喫茶店の有線放送でもパワープレイ状態で文字通り「耳にタコ」が出来る程よく聴いた(聴かされた)ものだ。彼はチューブウェイ・アーミーという自身のソロ・プロジェクトで1978年にインディペンデント・レーベルのベガーズ・バンケットから同名アルバムでデビューし、翌1979年1月にリリースしたアルバム『レプリカズ』収録曲の『アー・フレンズ・エレクトリック?』がヒットし、同年9月にゲイリー・ニューマン名義でリリースした上述の『カーズ』も収録した『ザ・プレジャー・プリンシプル』も大ヒット。この番組でも一際長くフィーチャーされており、「彼はパンクであり、またサイファイでありJ・G・バラードでもあった」と紹介されている。ヒューマン・リーグの女性メンバーだったスーザン・アン・サリーとジョアンヌ・キャトラルの二人もそれまでに無かったユニークなサウンド、キャラクターだったと絶賛している。『カーズ』も先述のJ・G・バラードの『クラッシュ』にインスピレーションを得た作品であるが、その独創的なサウンドとビジュアル・イメージの完璧な構築により大衆性をも併せ持った新しいタイプのポップスターとしてこの時代にあって不動のポジションを確立した。
Gary Numan - Cars
※ゲイリー・ニューマンの1979年の大ヒット曲『カーズ』。

こうした英国のエレクトロニック・ミュージック~シンセ・ポップの波を受けて当時、日本で活躍していたアーティストと言えばまずYMOが挙げられるのだろうが、お茶の間にまで浸透させたテクノポップ・バンド、ジューシー・フルーツのプロデュースを手掛けた仕掛け人、近田春夫(1951年生まれ)氏の存在も際立っていた。近田氏は元々はキーボード奏者としてグループ・サウンズ末期にパイロットというバンドに参加したのを契機にアーティスト活動をスタートさせるのだが、その後「日本のロック」黎明期に多数のレコーディング・セッションやライヴ・サポートを経て1976年に自身のバンド、ハルヲフォンを率いてキング・レコードからデビューする。アルバム3枚をリリースしてハルヲフォンを解散した後、1979年にソロ・アルバム『天然の美』をリリースしたた後、機を見るに敏な近田氏は同年に近田春夫&BEEFを結成、当初は自らがボーカリストとして活動していたが自らはバンドの表舞台から退き、同バンドのギタリストだったイリアこと奥野敦子をフロントに据えてジューシー・フルーツと改名してリリースしたテクノポップ・アプローチのシングル『ジェニーはご機嫌ななめ』が折りからのテクノポップ・ブームに乗って大ヒットする。更に同時期にはアヴァンギャルドなサウンド・アプローチで独特の存在感を発揮したテクノポップ・バンドのヒカシューのプロデュースをも手掛け、1980年代初頭の日本の音楽シーンに確かな爪痕を残した。エレクトロニック・ポップに伝統的な日本の「歌謡曲」テイストも取り込んだ、この時期の近田流ジャパニーズ・エレクトロニック・サウンドは異端にして主流になったという点で日本のポップス史上に於いて特記すべきエポックだった。
ジューシィ・フルーツ - ジェニーはご機嫌ななめ (Live 1980) HD
※近田春夫氏の全面バックアップ、プロデュースの下、大ブレイクしたジューシー・フルーツの代表曲『ジェニーはご機嫌ななめ』(1980年)。
Perfume - ジェニーはご機嫌ななめ (Live) [HD]
※現在のテクノポップ・アイドルであるパフュームによる同曲のカバー・バージョン。
(CHIKADA HARUO) 近田春夫 & BEEF - LADY HURRICANE (1979)
※近田氏がジューシー・フルーツ改名以前にBEEF名義で活動していた時期のライヴ映像。
ヒカシュー モデル PV
※近田氏がプロデュースを手掛けたヒカシューのデビュー・アルバム収録曲のクラフトワークのカバー・バージョン、『モデル』(1979年)。
GATEBALL- HIT THE ROAD JACK [+ 3tracks] ※近田氏が1983年に元ピンナップスのリタこと野元貴子、元ハルヲフォンの高木英一と結成したゲートボールのカセット・マガジン『TRA』に収録された音源。謎の多い?プロジェクト。
Susan - Ah Soka!+Japanese New Wave YouTube Mix
※YMOの三人のプロデュースで男女問わず多数のアーティストやタレントがデビューしたが個人的には一番気に入っていたのが高橋幸宏氏がプロデュースした女性シンガーのスーザン。1980年にリリースされたファースト・アルバム『Do You Believe In Music?』の収録曲『Ah Soka!』。
8 1/2(ハッカニブンノイチ) シティー・ボーイ
※初期の日本のパンク~ニューウェイブバンドの中でも異色の存在だった8 1/2。後にゲルニカを結成する上野耕路氏が曲の後半に披露するキーボード・プレイは同時期に活躍していた英国のバンド、XTCのバリー・アンドリュースにも引けをとらないエキセントリックな閃きを感じさせる。