1980年代後半からレッド・ホット・チリ・ペッパーズ等の一群のバンドのブレイクに伴い「ミクスチャー」と呼ばれるジャンルが台頭し始めるが、そもそも20世紀のポピュラー音楽自体、様々なジャンルの異種交配の歴史でもある。レッド・ホット・チリ・ペッパーズや彼らに先駆けた異種交配音楽の天才でもあるプリンスに多大なる影響を与えたのが所謂「Pファンク」と呼ばれる音楽集団のの総帥ジョージ・クリントンだ。
前回紹介した米国西海岸のギャングスタラップのオリジネイターN.W.A.(及び解散後のメンバーの各作品)はサンプリングソースとして1970年代に一世を風靡したファンクミュージック、取り分けPファンクの楽曲を好んで使っていた。Pファンクとは何か?
今回は米国PBSが制作した「インディペンデント・レンズ」シリーズから2005年10月に放送されたジョージ・クリントン率いるパーラメント/ファンカデリックのドキュメンタリー"Parliament-Funkddelic - One Nation Under A Groove"を紹介する。
Parliament Funkadelic- One Nation Under A Groove (docu 2005)
ジョージ・クリントンは1941年7月22日にノースカロライナ州カナポリスで生まれ、後にニュージャージー州ニューアークに移住し、そこで1956年にドゥーワップ・コーラスグループのザ・パーラメンツを結成して音楽活躍をスタートさせる。パーラメンツはクリントンが営んでいた同州プレインフィールドにある床屋の裏部屋を練習場所にして、カルヴィン・サイモン、グレイディ・トーマスとコーラスワークの習得に勤しみ、床屋の仕事を通じてクラレンス"ファズィー"ハスキン、ベース歌手のレイ・デイヴィスやバッキングバンドのメンバーを揃えていったと言う。クリントンはフォー・トップスやマーサ&ザ・ヴァンデラス、スモーキー・ロビンソン・アンド・ザ・ミラクルズ、ザ・シュープリームス、ザ・テンプフテーションズ等を輩出して飛ぶ鳥を落とす勢いだったベリー・ゴーディー率いる「ヒッツビルUSA」、モータウンレコードのオーディションを受ける為にバンドを引き連れてミシガン州デトロイトへ赴く。パーラメンツはニュージャージー時代に2枚シングルを小さなローカルレーベルからリリースしたのだがいずれも芳しい成果は得られなかった。クリントン等はチャンスを掴もうとモータウンの事務所の外をうろついたり、さながらストリートミュージシャンの如く歌ったりしていたのだがそれを聴き付けたマーサ・アンド・ザ・ヴァンデラスのマーサ・リーヴズの口利きでモータウンのオーディションを受ける事になった。が、そこそこの反応しか得られず、結局レヴィロットと言うデトロイトのレーベルから数枚シングルをリリースした。1967年8月にリリースした5枚目のシングル『アイ・ウォナ・テスティファイ』はR&Bチャートで3位に入るヒットとなり、パーラメンツもニューヨークの黒人音楽の殿堂、アポロ劇場にオージェイズ等と一緒に初出演する事になった。
The Parliaments I Wanna Testify
※ザ・パーラメンツの1968年のヒット曲、『アイ・ウォナ・テスティファイ』。

しかし頼みにしていたレヴィロットレコードは倒産してしまう。クリントンが笑いながら語るにはこの後、コーラスグループとして髪を撫で付けてスーツ着用でステージに立っていた彼らはいきなりヒッピーになってしまったと言う。
1968年にはそれまでメインパフォーマーだったコーラスグルーブのパーラメンツをひとまず封印し、今度はバッキングバンドを全面に押し出してバンドパフォーマンスをメインにしたファンカデリックと名乗り、アーメド・ボラディアンがデトロイトに新たに設立したウエストバウンド・レコードと契約する事になった。但し便宜上、パーラメンツのメンバーから成るバンドのコーラスグループをパーラメントを名乗り1970年にはこのパーラメント名義でデトロイトのインヴィクタスレコードからアルバム『オズミウム』をリリースしている(構成メンバーはファンカデリックとほぼ同一)。
6分過ぎに1970年にリリースされたデビュー・アルバム『ファンカデリック』収録の『ホワット・イズ・ソウル』が流れる。
The Parliaments w/ Funkadelic LIVE Eddie Hazel 1969 "fixed" video
※ファンカデリックの1969年のTV出演時のライヴ映像。

続いて当時のベトナム戦争や米国内での反戦運動の映像がアップされ、8分過ぎから彼らの特異なサウンド面について様々な角度から考察する。同じくデビューアルバムに収録の『アイ・ゴット・ア・シング』が流れる中、この時期ファンカデリックと共演する事の多かったデトロイト出身のプロトパンクバンドにしてラウドロックの始祖、MC5のギタリストであったウェイン・クレイマーが証言する。MC5は同系列のパンクバンド、イギーポップ率いるザ・ストゥージズやフリージャズのオーネット・コールマンやサン・ラ等と共にファンカデリックと同じコンサートで何度か共演し、異なった音楽性を持ったグループ同士、互いに刺激し合っていたと言う。そしてファンカデリックのオリジナル・ベーシスト、ビリー"ベース"ネルソンが語るには初期の彼らのサウンドはリズム&ブルース(あくまで当時のもので昨今の所謂"R&B"とはニュアンスが異なる)、ゴスペル、ジャズを融合したものでジミ・ヘンドリックス、そして当時「アートロック」と称され洗練されたポップでサイケデリックなサウンドを売り物に数多くのヒットも放ったヴァニラ・ファッジからも大きな影響を受けたと語っている。ベース&リズム・ギター担当のコーデル"ブギ"モッソンはジミの派手なパフォーマンスやフィードバック奏法を模倣したと回想する。
13分過ぎには『レディ・マーマレード』(1975年)の大ヒットで知られる女性ソウルコーラスグループ、ラベルのメンバーとして知られるノナ・ヘンドリックス(彼女はクリントン等と同郷のニュージャージー出身)がファンカデリックの印象について「ローリング・ストーンズやエリック・クラプトン等と同じようにブルースにインスパイアされたロックを演奏していたのだが、彼らの"ファンク"はそれらとは全く異質なものでそれまで聴いた事もなかったような音楽、ただ一言~ワイルドだった。」と証言。
ファンカデリックの3枚目のアルバム『マゴット・ブレイン』(1971年)のタイトル曲についてギタリストのゲイリー・シャイダーはずばり"crying soul"(泣き叫ぶ魂)、そうした心象風景をそのまま表現しようとプレイした、と語る。これについてMC5のウェイン・クレイマーは「(彼らのギターサウンドは)ディストーションやフィードバック等エレクトリックギターのエフェクターを駆使してプレイしたものだが、それら技術的なものを超える"何か"があった」と言う。
FUNKADELIC - Maggot Brain (Eddie Hazel & Michael Hampton, Maryland 1983)
※ファンカデリックのエ1983年のライヴからディ・ヘイゼルとマイケルハンプトンの2大看板ギタリストによる『マゴット・ブレイン』

『ファンク-人物、歴史そしてワンネス』(ブルース・インターアクションズ刊)の名著のあるリッキー・ヴィンセントやクリントンのフォロワーであるファンクミュージシャンのリック・ジェームスは彼らのサウンドの独創性とドラッグ体験との関わりを指摘しているが、彼らのショウではパフォーマーも観客も皆キマっていていつもハイな状態だったらしい。
Funkadelic- Cosmic Slop Live 1973
※ファンカデリックの『コスミック・スロープ』。MTVもまだ無かった時代に彼らが制作したプロモーション映像。

18分過ぎには「ファンクの帝王」ジェームス・ブラウンのバッキングメンバーとして活躍した後、1972年にパーラメントに参加したベーシストのブーツィー・コリンズ、そしてニューヨークの名門、ジュリアード音楽院を卒業したというPファンク軍団員としては異色の経歴を持ったキーボード奏者のバーニー・ウォーレルが登場し、クリントンの創造的源泉は最初にジェームス・ブラウンがやった事だったと語る。
JAMES BROWNGREATEST DANCE MOVES EVER-THERE WAS A TIME LIVE
※全盛期のジェームス・ブラウンのダンスステップミックス。マイク捌き、ダンスパフォーマンス共にマイケル・ジャクソンもぶっ飛ぶ。

20分過ぎにはラッパーのアイス・キューブやショック・G(初期にはあの2パック・シャクールも在籍していた西海岸出身のヒップホップグループ、デジタル・アンダーグラウンドのメンバー)、そしてファンクチューンを大胆にサンプリングしたトラックで話題を呼んだニューヨークのデ・ラ・ソウルのメンバー達がファンカデリックのアーティストコンセプトを表象したアルバムを彩ったカバーアートについて語る。アイス・キューブ曰く「クレイジーでサイケデリック、スペイシーだった。」。続いてファンカデリックの『コズミック・スロップ』(1973年)や『ワン・ネイション・アンダー・ア・グルーヴ』(1978年)のカバーがアップされ、それらの作品やクリントンのソロアルバムのアルバムカバーを手掛けたイラストレーターのペドロ・ベル、そしてパーラメントのアルバムのカバーデザインを担当したオバートン・ロイドが登場してアフロフューチャリズムを基本的コンセプトに据えながらユーモア感覚も盛り込んだ、独創的だったカバーアートについてあれこれ語る。ここでアフロフューチャリズムとは簡単にいうと黒人=アフリカ系米国人の感受性を宇宙の中心に据え、最終的には歴史の中心に据えるという概念で、これをクリントン流に説明すると、アフリカが文明の発祥地であり、エジプトのピラミッドを作ったのが(おそらく宇宙から来た)アフリカ人なのだという考え方で、そのアフリカ人が「がんがん盛り上げる(Tear the roof off the sucker)~『ギヴアップ・ザ・ファンク』より」ことのできるかっこいい奴らだった。そして文明を生み出したのが黒人であるという「アフリカ中心主義」思想であり、それがサウンドや歌詞、アートワーク等のあらゆる表現に反映されたもので古くはフリージャズのサン・ラもアフロフューチャリズムの先駆者だ。
22分過ぎには「ファンカティーア(熱狂的なPファンクフリークの意)」であり、著名な映画・TVディレクターであるレジー(レジナルド)・ハドリン(今冬公開予定のクエンティン・タランティーノ監督作品『ジャンゴ-繋がれざる者』ではプロデューサーを務める)が彼らのアートワークについてアルバムごとに設定されたテーマやのコンセプトを具現化し、また現実には起こり得ない「革命」が描かれたりしてそれ自体で完結した一つの世界観が表現されている、と評している。
1974~1979年までファンカデリックのマネージャーを務めていたコリー・バソリンが語るにはクリントンは次第にアルバムカバーに描かれた世界観をステージアートで再現したいと考えるようになった。この頃、1970年にアルバムを1枚リリースしたきりでその後はレコードリリースのなかったプロジェクト、パーラメントを再始動させる事となり、タイミング良く旧知の音楽業界人であるニール・ボガートが新たにカサブランカレコードを設立した。カサブランカレコードのセシル・ホルムズが証言するには、パーラメントがカサブランカと正式契約すると、社長であるニールはアルバムカバーに描かれた世界をショウで再現するというクリントンのアイディアを実現すべくステージセットの莫大な制作費用をバンド側にポンとアドバンス(前渡し)した。
23分過ぎに1974年7月にパーラメントの2枚目のアルバム『アップ・フォー・ザ・ダウンストローク』をリリースをカサブランカからリリースした際に制作されたTVCMフィルムが流れるが、こうしたプロモーションがなされた事からもパーラメントにかけるカサブランカ側の期待の大きさが伺える。
1975年にはカサブランカからの2枚目(通算3枚目)にあたる『チョコレート・シティ』がリリースされるが、このアルバムはアルバムカバーに米国国会議事堂とワシントン記念塔、リンカーン記念館をデザインしたもので、作品中、クリントンの「チョコレートの都市(ChocolateCities)」と「ヴァニラの郊外(VanillaSuburbs)」について「黒人達があんたの方に向かって行進してくるときには、ジェームス・ブラウンの通行証を忘れるなと言うように!」という芝居がかった口調のナレーションが入る。米国の国家の中枢機関が集積する都市ワシントンをクリントンの想像の産物である架空の都市「チョコレート・シティ」に擬え、これは米国で黒人がいずれ社会のマジョリティーになるという暗諭が込められたものだった。
25分過ぎにはブーツィー・コリンズのソロプロジェクト、ブーツィーズ・ラバー・バンドの『サイコティック・バンプ・スクール』(1976年)が流れるがこの曲で活躍するのはフレッド・ウェズリー、メイシオ・パーカー、リチャード"クッシュ"グリフィスという、ジェームス・ブラウンのバッキングを務めたホーン・セクション、JBズである。
FRED WESLEY & The J B's Damn Right I Am Somebody
※JBズのメンバーとしてジェームス・ブラウンのバッキングを担当していたフレッド・ウェズリーが『ソウルトレイン』出演した時の映像。

彼らを軍団に引き入れたのはブーツィーだが、こうして更に強力な布陣となったパーラメントは『マザーシップ・コネクション』をリリースし、まさにそのアルバム・カバー・アートを具現化した宇宙船等、派手なステージセットを擁した大掛かりな「Pファンク・アース・ツアー」を敢行する。
27分過ぎからそのツアーの模様がフィーチャーされているがPファンクファミリーの女性コーラスグループ、パーレットの一員のジャネット・ワシントンや同じくPファンクファミリーの女性グループ、ブライズ・オブ・ファンケンシュタインのドーン・シルヴァ等がこのツアーにまつわるエピソードを披露しているが、宇宙船のマザーシップ(母船)のセットからクリントンが登場した時の観客の驚いた様子は忘れられないと語っている。
32分過ぎには観客として当時の彼らのショウーを目撃したショック・Gがファン気質丸出しにしてその体験がいかにエキサイティングなものであったかを興奮した面持ちで回想する。代表曲の一つ『フラッシュ・ライト』(1977年)ではクリントンが握るレイガン(光線銃)が点滅し、それに合わせてバーニー・ウォーレルがキーボードで独特の効果音を弾く等など。
Parliament Funkadelic - Give Up The Funk - Mothership Connection Houston 1976
※「Pファンク・アース・ツアー」から『キヴアップ・ザ・ファンク』。極上のファンクチューン。
Dope! P-Funk Live Mothership Landing
※「Pファンク・アース・ツアー」から『マザーシッフ・ランディング』。最高にクールでバカバカしいステージセット。
Flash Light (Part 1)- Houston 1978
※1978年のテキサス州ヒューストンでのショウから『フラッシュ・ライト』

因みにアルバム『マザーシップ・コネクション』には『P・ファンク』というナンバーが収録されているが、Pファンクの"P"とはピュア(pure)を意味し、Pファンク=ピュア・ファンクとの事。またこの頃からパーラメントやファンカデリックを初めクリントンが関わった多数のプロジェクトが立ち上がるが、それらはパーラファンカデリックメント軍団(the Parliafunkadelicment Thang)やPファンク軍団(P-Funk Mob)とも総称されるようになる。
35分過ぎには先述のブライズ・オブ・ファンケンシュタインのレパートリーである『ディスコ・トゥ・ゴー』(1978年)に収録)の演奏シーンが一瞬アップされるが、彼女達も含めてクリントンはPファンクファミリーをかつてのモータウンレコードのようにソングライター、バッキングミュージシャン、コーラスグループを一つのチームとして使い、プロジェクトによってその組み合わせを変え、様々な作品を制作する体制を作り上げようとした。
37分過ぎにはPファンクファミリーの宣伝担当だったトム・ヴィッカース(「情報大臣」という洒落の効いた役職名が冠されている)、A&Rマンのロン・ダンバーがクリントンのビジネス面での展開について語る。クリントンは1977~1978年にかけて増殖した一連のPファンク関連のグループのプロデュースを手掛けるようになるが、ワーナーブラザースを筆頭にカサブランカ、アリスタ、アトランティックと都合4社と契約を結び、ほぼ同じメンバーで違ったプロジェクトで次々とレコードをリリースした。それらの作品、ブーツィ・コリンズ(ウィリアム・ブーツィ・コリンズ名義でリリース)の『灼熱のPファンク(原題"The One Giveth,The Count Taken Away")』(1982年)、ブライズ・オブ・ファンケンシュタインの『ファンク・オア・ウォーク』(1978年/アトランティック)、エディ・ヘイゼルの『ゲーム・デームス・アンド・ギター・サングス』(1977年/ワーナー・ブラザース)、パーレット『のプレジャー・ブリンシプル』(1978年/カサブランカ)、フレッド・レズリー・アンド・ザ・ホーン・ホーンズの『ア・ブロウ・フォー・ミー、ア・トゥートゥ・トゥ・ユー』(1977年/アトランティック)、バーニー・ウォーレルの『オール・ザ・ウー・イン・ザ・ワールド』(1978年/アリスタ)、ファンカデリックの『アンクル・ジャム・ウォンツ・ユー』(1979年/ワーナー・ブラザース)のカバーが次々とアップされる。
Brides Of Funkenstein "Disco To Go"
※ブライズ・オブ・ファンケンシュタインの『ディスコ・トゥー・ゴー』
Parlet - Pleasure Principle
※パーレットの『プレジャー・プリンシプル』
Fred Wesley & The Horny Horns - A Blow For Me, A Toot For You
※フレッド・ウェズリー・・アンド・ザ・ホーン・ホーンズの『ア・ブロウ・フォー・ミー、ア・トゥートゥ・トゥ・ユー』

ただ、この後1982年にクリントン最大の理解者でありスポンサーであったカサブランカのニール・ボガートが死去し、同社も倒産すると破竹の進撃を続けていたPファンク軍団の勢いも陰りが見えるようになる。同じ頃、ワーナーブラザースからの『ジ・エレクトリック・スパンキング・オブ・ウォー・ベイビーズ』(1981年)は当初アナログ2枚組でリリースする予定が1枚に、またペドロ・ベルが描いたアルバムカバーのアートワークが猥褻だとしてレーベルから修正させられた。数百万枚のアルバムセールスがあったものの薬物使用によるメンバーの度重なる逮捕等、クリントン周辺は何かとトラブル続きだった。当初Pファンクファミリー期待の星とされたロジャー・トラウトマン率いるザップもクリントンの下を離れてワーナーブラザースと独自の契約を結んでデビューし、大成功を収める。
43分過ぎには約一年間の休養期間を経てリリースされたクリントンのカムバック作品、『アトミック・ドッグ』(1982年)のプロモクリップがアップされるが、この曲は新たにキャピトルレコードと契約したクリントンのソロ・アルバム『コンピューター・ゲームス』からシングル・カットされたものだが驚異的な売り上げを記録し、当時ディスコやクラブのダンスフロアでかかりまくった。また後にヒップホップ・アクト達によってこの曲のリズムがサンプリングされた回数は史上最高であろうと言われている。『ザ・ニガ・ヤー・ラヴ・トゥ・ヘイト』(1990年)や『マイ・サマー・バケーション』(1991年)『ゲットー・バード』(1993年)でこの曲のサビを使っているアイス・キューブも『この曲はアンセムだ』、と語っている。そしてPファンクファミリーが事実上、活動停止した1981年以後もプリンス、バーケイズ、ザップというアーティスト等によってクリントンの確立したファンクミュージックのフォーマットは生き永らえていた。
44分過ぎにはクリントンのフォロワーの一人であるリック・ジェームスの1982年のヒット・チューン『スーパー・フリーク』が流れるが、この曲は人気ラッパー、M.C.ハマーのヒット曲『ユー・キャン・タッチ・ディス』(1990年)にサンプリング・ループされている。Pファンク・ファミリーのバーニー・ウォーレルはアフロサウンド志向を打ち出したニューウェイブバンド、トーキング・ヘッズのベーシストであるティナ・ウェイマスのラッププロジェクト、トム・トム・クラブのレコーディングに参加した事を契機にトーキング・ヘッズのツアーにも参加、さらにアルバム『スピーキング・イン・タンズ』(1983年)、1984年に公開されたトーキング・ヘッズのコンサートの模様を収録した映画『ストップ・メイキング・センス』にもフィーチャーされている。
1985年にリリースしたセカンド・アルバム『フリーキー・スタイリー』のプロデュースをクリントンに委ねたレッド・ホット・チリ・ペッパーズのアンソニー・キーディスとフリーもコメントしているが、彼らも基本的にはクリントン直系のファンクそのもののリズム隊にメタリックなギター、それにラップを中心にしたボーカルというスタイルで活動初期には「ファンクメタル」とも呼ばれていた。また彼らのライヴパフォーマンスに於けるちょっと逸脱したパーティー感覚もクリントン譲りだろう。
Red Hot Chili Peppers - Grammy's 1993 (Give It Away live with P. Funk and award speech)
※レッド・ホット・チリ・ペッパーズが1993年のグラミーアワードでクリントン等と共演した時の映像。彼らのお下劣さとドラッグ依存のルーツはPファンクか?

1980年代後半には1970年代のPファンク作品が有名無名を問わず、様々なヒップホップアクトによってサンプリング・ソースとして使用された。
パブリック・エネミーの『911・イズ・ア・ジョーク』(1989年)にはパーラメントの『フラッシュ・ライト』、デ・ラ・ソウルの『ミー、マイセルフ・アンド・アイ』(1989年)はファンカデリックの『(ノット・ジャスト)ニー・ディープ』、デジタル・アンダーグラウンドの『ザ・ハンプティー・ダンス』(1990年)はパーラメントの『レッツ・プレイ・ハウス』、アイス・キューブの『バップ・ガン』(1994年)はファンカデリックの『ワン・ネイション・アンダー・ア・グルーヴ』という具合に。
De La Soul - Me, Myself And I
※デ・ラ・ソウルの『ミー、マイセルフ・アンド・アイ』
Funkadelic-(Not Just) Knee Deep
※ファンカデリックの『(ノット・ジャスト)ニー・ディープ』
Digital Undergound "Humpty Dance"
※デジタル・アンダーグラウンドの『ハンプティ・ダンス』
Let's Play House - Parliament
※パーラメントの『レッツ・プレイ・ハウス』
Ice Cube - Bop Gun
※アイス・キューブの『バップ・ガン』。タイトル自体、パーラメントの1977年作品にリスペクトを捧げたPファンク愛に溢れたナンバー。御大クリントンも出演。

50分過ぎには1997年にはビー・ジーズやジョニ・ミッチェル等と共に晴れて「ロックの殿堂」入りを果たした時の映像が流れるが受賞式での各メンバーのスピーチやパフォーマンスがいかにも彼ららしい。
番組のエンディングでは1996年にエピック・レコードからリリースされたクリントンのソロ・アルバム『T.A.P.O.F.O.M.』に収録された『イフ・エニバディ・ゲッツ・ファンクド・アップ(イッツ・ゴナ・ビー・ユー)』のプロモクリップが流れ、最後の画面では

IF YOU FAKE THE FUNK
YOUR NOSE WILL GROW...

GEORGE CLINTON

というブーツィーズ・ラバー・バンドの『ピノキオ・セオリー(ピノキオ原理)』の一節がアップされる。
Bootsy Collins - The Pinocchio Theory
※ブーツィーズ・ラバー・バンドの『ピノキオ・セオリー』。上記のラストワードを直訳すると「いんちきファンクをやらかすと(象のように)鼻が伸びる」というシュールな一節。
Snoop Dogg, George Clinton & Bootsy Collins Live @ Shrine Auditorium, Los Angeles, CA, 10-26-2005
※ブーツィー・コリンズはラッパーのスヌープ・ドッグの叔父に当たる。スヌープがブーツィー、クリントン他Pファンクファミリーと共演した2005年、シュリン・オーデトリアムでのショウ。

Pファンク及びクリントンについて個人的な思い出というと、まだ学生だった1980年代初頭、板橋区成増に住んでいた頃に同じアパートにファンクミュージック好きの友人がいてPファンク物のビデオをしょっ中観ていたものだ。以前ブログにも書いたが、ひょんなきっかけからそのアパートに現在は作家でミュージシャンでもある町田康氏が住む事になったのだが、ある時町田氏と一緒にパーラメントのライヴビデオを観ていた。すると町田氏は「こいつらのやってる事(音楽)は確かに凄い。それは認めるが、何で黒人が円盤(マザーシップの事)から出てくるのか、あれだけはよう分からん。」と語っていた。僕もこの時は同様の感想を抱いたのだが当時は黒人音楽と言えばあまり派手な演出は避けて淡々と日常の悲哀を情感込めて歌うブルースやソウル、またストイックに高い演奏スキルを競うジャズが最上のものであると思い込み、Pファンクのようにエンターテインメントに走りすぎて猥褻で破廉恥なパフォーマンスを売りにするアーティストは堕落した黒人音楽だという偏狭な認識をしていた(笑)。Pファンクに限らず、当時は音楽メディアも未発達で今のようなネットも普及しておらず、音楽やアーティストの周辺情報も乏しかった為、思わぬ誤解や勘違いをしてしまったものだ。当然、Pファンクのコンセプトのベースとなったアフロフューチャリズムの概念など思いもよらず、お下劣なコスチュームやビジュアル、シアトリカルなショウ等表面的なもので判断して食わず嫌いをしていた。ただこの頃、町田氏ともよくライヴをやっていたR&Rバンドでアンダーグラウンド・シーンの重鎮であったザ・フールズのボーカル、伊藤耕氏は何かの折りにPファンクの話題が出た際、「ジョージ・クリントン?バカだし最高じゃん。」と語っていた。伊藤氏はPファンクのメンバー同様、大麻での逮捕歴も多々あり(笑)、何かとクリントン等には親近感を抱いたのかも知れない。そう言えばザ・フールズの代表的に『Mr.Freedom』があるが、この曲の歌詞などクリントンの哲学・美学に一脈通じるものがある。伊藤氏の名言にこんなものがある。「本当の自由って奴はつくづく不自なもんだぜ。」
"Fools" アースビート伝説 '85
※ザ・フールズが1985年9月15日の日比谷野音『アースビート伝説'85』に出演した時の映像。曲は"Let's get stone brother,Let's get stone sister"。僕の周囲にいたミュージシャンでクリントンの本質を一番理解していたのは伊藤耕氏だったのかも知れない。