前回は1990年代の音楽シーンを席巻したオルタナティヴロックの源流の一つであるグランジ~シアトルのロックについて書いたが、今回はそれをさらに遡って1980年代初頭の米国西海岸のパンク~ハードコアシーンにスポットを当てた映像作品"RAGE:20 YEARS OF PUNKROCK WESTCOAST STYLE"(2001年)を紹介する。
Rage: 20 Years Of Punk Rock
この作品はマイケルとハロルドのビショップ兄弟、スコット・ジャコビーが制作・監督したもので当時の音楽シーンに携わっていたアーティストや関係者の証言を交えてコンパクトに編集されている。米国西海岸と言ってもやはりニューヨーク、そして英国で火が付いたパンクロック・ムーブメントに真っ先に反応して比較的大きな動きが生まれたのはカリフォルニア州のサンフランシスコやロサンゼルスといった大都市であった。
作品では冒頭、"In the beginning...there was a boring silence of rock star bullshit...fat cat record companies...and disco fever.(初めは、糞ったれなロックスターの退屈な沈黙があり、太ったずる賢い猫のようなレコード会社、そしてディスコフィーバーがあった。)
the Pistols called collect...and the West Coast paid the bill."(ピストルズはキリスト教徒のミサの集梼と呼ばれ、西海岸はそれまでのツケを支払うはめになった。)
というテロップが流れる。
最初に現在はワーナー・ミュージック・グループの一員であるライノ・エンターテインメントの社長を務めるハロルド・ブロンソンが自身のキャリアを振り返りながらカリフォルニアでパンクシーンが形成されていった過程について証言する。
ブロンソンはロサンゼルスのウエストウッド大通りに1973年にオープンしたレコードショップ、『ライノ・レコード』の店長だった。彼はパンクムーブメントが勃興する直前、1976年に英国のロンドンに拠点を置くインディペンデント・レーベルの走りであるスティッフ・レコードを訪ね(当時のスティッフはワンルームのちっぽけなオフィスだったと言う)、直接英国のパンクバンドのレコードを買い付けて仕入れ、いち早くロサンゼルスに紹介した。スティッフ・レコードはデイヴ・ロビンソンとジェイク・リヴェラによって1976年に設立され、所属アーティストにはニック・ロウやエルヴィス・コステロ、イアン・デューリー等の所謂「パブロック」(英国名物のパブで酔客相手に演奏していたロックバンド)のアーティスト、リーナ・ラヴィッチのようなニューウェイブ系のエキセントリックな女性シンガー、そしてザ・ダムドのようなパンクバンドまで非常にバラエティーに富んだラインナップで、ピンク・フェアリーズ等の英国のアンダーグラウンドなロックバンドとパンクロックを結ぶミッシングリンク的な側面も持つ。ザ・ダムドやセックス・ピストルズ、ザ・クラッシュ等ブロンソンが仕入れた英国のパンクバンドのレコードは1976年頃からライノ・レコードの店頭でかかっていた。「1970年代中期まで米国の音楽シーンの主流はジェームス・テイラーのような内省的なシンガーソングライターやイーグルスのようなウエストコーストサウンド、そしてディスコミュージックが主流で、ラウドなサウンドを求める若者はそんな状況に飽き飽きしていた。」とブロンソンは回想する。
3分過ぎに独特のキーボードサウンドをフィーチャーしたロサンゼルス出身の「シンセパンク」バンドのスクリーマーズ、5分過ぎに同じくロサンゼルス出身のウィアドーズのライヴ映像がアップされ、同地のバンドのレコード音源のプロデュースを多数手掛けたギーザ・Xが黎明期のカリフォルニアのパンクシーンについて語る。スクリーマーズはトマータ・ドゥ・プレンティー(1948年生まれ、2000年没)によって1975年にシアトルで結成されたタッパーウェアズというバンドを母体とする。翌年ロサンゼルスに移住した彼らはウィスキー・ア・ゴー・ゴーやロキシー等のクラブ出演で人気を博し、『ロサンゼルス・タイムス』等の地元紙でも絶賛されだ。また『ジンボ』のキャラクター制作で知られるイラストレーターのゲイリー・パンターがデザインしたクールなバンドロゴが印象に残る。活動期間は6年程と短かったのだがドラマーとして参加していたK.K.バレット(スパイク・ジョーンズ監督の20091年公開映画『かいじゅうたちのいるところ』のプロダクションデザイナーを務めた)等、バンド解散後もクリエイティブ面で優れた才能を発揮した一癖も二癖もあるメンバーが出入りしていた。ウィアドーズは1976年にジョンとディックスのデニー兄弟によって結成されだパンクバンドで、後にレッド・ホット・チリ・ペッパーズのデビューアルバムにドラマーとして参加するクリフ・マルティネスも一時期在籍していた。このマルティネスも他にキャプテン・ビーフハートのバンドメンバーに抜擢されたりもした才人で、現在では幅広く映画音楽の制作を手掛け、2011年公開の映画『ドライヴ』も彼の手によるものだ。ギーザ・Xはアリス・バッグ率いるザ・バッグスや後に大ブレイクしたゴーゴーズ等、女性パンクバンドの名も挙げてロサンゼルスのパンクシーンの開放性を語っている。続いてバイオレントなパフォーマンスで名を馳せたジャームスのライヴ映像が流れ、スラムピット(現在のモッシュピット)が生まれたのは彼らのライヴが最初だったようだ。
Flipside - Best Of Volume 1: Bad Religion, Circle Jerks, Dickies, Weirdos
※米国西海岸のファンジン『フリップサイド』の映像版『フリップサイドビデオ~ベスト・オブ・ヴォリューム1』。冒頭からバッド・レリジョン、26分過ぎからサークル・ジャークス、63分過ぎからウィアドーズ、97分過ぎからディッキーズのライヴ映像が収録されている。

6分過ぎにジャック・グリシャム(1961年生まれ)が登場するが彼はT.S.O.L.(True Sunds of Liberty)やカテドラル・オブ・ティアーズ、テンダー・フューリー、ジョイ・キラー等幾多のバンドのフロントマンとして活躍したが、ロサンゼルス近郊のロングビーチを拠点として活動を始めたT.S.O.L.は独特の陰影あるメロディーでポップなサウンドアプローチをしていた事もあり、後発のメタルバンドにも支持された。ガンズ・アンド・ローゼズは彼らの友人で1988年の大ヒット曲『スウィート・チャイルド・オブ・マイン』のプロモクリップではドラマーのスティーヴン・アドラーがT.S.O.L.のTシャツを着用している。
TSOL (SUBURBIA) DARKER MY LOVE & WASH AWAY IN HD
※T.S.O.L.がペネロープ・スフィーリス監督作品映画『サバービア』(1984年)での出演シーン。
Guns N' Roses - Sweet Child O' Mine
※ガンズ・アンド・ローゼズの『スウィート・チャイルド・オブ・マイン』のプロモクリップ。ドラマーがT.S.O.L.のTシャツを着用している。

11分過ぎにブラック・フラッグ、サークル・ジャークスという西海岸パンク~ハードコア・シーンの重要バンドのフロントマンだったキース・モリス(1955年生まれ)がインタビューに答えるが、彼は近年ではジャズをバックにスポークンワードのパフォーマンスを披露するミジェット・ハンドジョブというプロジェクトでも活動している。スポークンワードというのは時には音楽をバックにする事もあるが基本的にはパフォーマーが時事ネタや個人的心情を一人で喋り、主として話術の面白さを披露するものでポエトリーリーディングとも異なる独特な表現形態で、他に元ブラック・フラッグのヘンリー・ロリンズや元デッド・ケネディーズのジェロ・ビアフラ等ハードコア畑出身者にはバンド活動以外にもこうしたアプローチの表現活動をするアーティストは多い。キース・モリスはスポークンワード・パフォーマンスさながらの芝居がかった語り口で初期のカリフォルニアのパンクシーンを回想するが、身振り手振りを含めて実に良い味を出している。彼によると1976年頃まで、当地のティーンエイジャーは週末はたいてい大麻パーティーをしたりスケートボードに勤しんだり、また赤、青、紫等色取り取りに髪を染め、派手なコスチュームでクラブに出かけてグラムロックを聴きながら踊ったりと各々自由なスタイルで楽しんでいたが、パンクロックが流行り始めるとそうした若者達が皆、この音楽やライフスタイルに夢中になった。彼は元々メインストリームのポップミュージックには全く関心がなく、パンク勃興以前にはロサンゼルスを拠点にパンクと同じようなアティテュード、マインドで活動していたフランク・ザッパやキャプテン・ビーフハートを聴いていたという。キースはロサンゼルス近郊のハーモーサビーチで生まれ育ち、同郷のグレッグ・ギン等とブラック・フラッグを結成した。1978年、グレッグが設立したインディペンデント・レーベルのSSTからシングル『ナーバス・ブレイクダウン』をリリースしたが翌年バンドを脱退し、後にパッド・レリジョンのギタリストとして活躍するグレッグ・ヘストン等と共に自らがリーダーシップを取って新たにサークル・ジャークスを結成した。サークル・ジャークスは1980年に当地のインディペンデント・レーベルであるフロンティア・レコードから1980年に『グループ・セックス』をリリース、この作品のアルバム・カバーはマリーナ・スケートボード・パークにパンクスを集めて撮影された写真が使用されている。その後、1980年代に3枚のアルバムをリリース後、キースがバグ・ランプという別プロジェクトでの活動に専念したりした為に一時期活動が停滞するが1995年に折からのパンクリバイバル・ブームに乗ってメジャーのポリグラム・レコードから『オディティーズ、アブノーマリティーズ・アンド・キュリオシティーズ』をリリースする。また2000年にはオフ!というプロジェクトを立ち上げ、カナダを拠点とするユニークなカルチャー雑誌の『ヴァイス』が設立したレコードレーベルからシングルとアルバムを1枚ずつリリースしている。
Circle Jerks: "Wild In the Streets"
※サークル・ジャークスのセカンドアルバム『ワイルド・イン・ザ・ストリーツ』(1982年)のタイトルトラックのライヴ映像。
Circle Jerks - Nervous Breakdown
※サークル・ジャークスの2009年南米チリのサンチャゴでのライヴ映像。ブラック・フラッグの名曲『ナーバス・ブレイクダウン』をパーフェクトにプレイ!
CIRCLE JERKS - Live At The House Of Blues.avi
同上のライヴ映像のフルバージョン。メンバーにはバッド・レリジョンのグレッグ・ヘトソンをフィーチャー。
Midget Handjob EPK (pt.1 of 3)
※キース・モリスのスポークンワード・プロジェクトであるミジェット・ハンドジョブの映像作品。

15分過ぎにプロスケートボーダーでストリートパンクバンド、USボムズのフロントマンとして活躍するドゥエイン・ピータース(1961年生まれ)がパンク~ハードコアとスケートボードとの関係について語る。彼は32歳になる1993年にUSボムズを結成し、2000年からディー・ハンズというプロジェクトでも活動しているが、これには後に彼の奥方となるコリー・パークス(トラッシーなR&Rバンド、ナッシュビル・プッシーの元メンバー)も参加している。ドゥエインはバンド活動を始める遥か前のパンク勃興期からスケートボーダーとしては名が通っており、著名なプロスケートボーダーで俳優でジャーナリストでもあるスティーヴ・オルソンは1970年代後半のドゥエインについて次のように証言している。「ドゥエイン・ピータースの場合、突然長髪を、バッサリ切ったんだ。彼は100%、パンクロックにのめり込んでいったね。ループを初めて決めたのもドゥエインだ。彼は今でも素晴らしいスケーターだよ。でも、最初にスケーターとなった頃は、ブロンドの長髪で、思い切りサーファー・キッズだったんだ。そのうち、よくトイレでスケーター達の髪の毛を切ったりして、パンク/スケートボードの融合を強力に推し進めた。」
US BOMBS - We are the problem (OFFICIAL VIDEO)
※USボムズのアルバム『ウィ・アー・ザ・プロブレム』(2006年)のタイトル・トラックのプロモクリップ。
Independent Trucks: Duane Peters
※ドゥエイン・ピータースのスケーティング映像。終盤、スケーティングを終えたドゥエインが車からディスクを一度放り投げ、それを拾って"Pistols,Devo,Stiff Little Fingers,and maybe Ramones Clash...that's it. You'll ripping.”などと言いながら改めて知人に渡してハイタッチする一連の所作は最高にクール。

20分過ぎにクリスチャン・デス、ゴス・プリーステス等のバンドを渡り歩き、最近はソロ・アーティストとして活動しているカリフォルニアの「ゴス・クィーン」、ジタン・デモン(1958年生まれ)が1980年代初頭のロサンゼルスのパンクシーンから何故クリスチャン・デスのようなゴスバンドが生まれたのか、その経緯について語る。クリスチャン・デスは1978年にロサンゼルス郊外のポモナで結成され、最近では「デスロック」等とも呼ばれているがコープスメイク(白塗りに隈取を施した、ゾンビを思わせるメイク)をしたり独特の耽美的なサウンド等、こうしたアプローチをするバンドの始祖でもある。バンドの主宰者でフロントマンでもあったロズ・ウィリアムス(1963年生まれ)は1998年4月1日に44歳の若さで自殺している。ジタン・デモンはポンペイ99'というニューウェイブバンドのヴォーカル兼キーボードとして音楽活動をスタートさせ、後に他のメンバー共々クリスチャン・デスに合流する。クリスチャン・デスはジタン加入前には同郷のパンクバンド、アドレッセンツのギタリストだったリック・アグニューが参加していたが、このラインナップでフロンティア・レコードからデビュー・アルバム『オンリー・シアター・オブ・ペイン』(1981年)をリリースしている。ジタン等が参加後にロズはデヴィッド・ボウイやルー・リードを思わせるヴォーカルスタイルを取って全体的な表現に深みを増した名盤『カタストロフィ・バレー』(1984年)をリリースする。パンクから発展してデスロック・アプローチをするようになったバンドには女性フロントウーマン、ダナ・キャンサー率いる45グレイブがおり、クリスチャン・デスと共にこの地のシーンを盛り上げた。
Pompeii 99 - The Nothing Song
※ジタン・デモンが音楽活動をスタートさせたポンペイ99の『ルック・アット・ユアセルフ』(1982年)収録曲『ザ・ナッシング・ソング』。時代を感じさせるスカテイストのチープなニューウェイブ・サウンド。
Christian Death - Live
※オリジナル・ラインナップによるクリスチャン・デスの1993年のロサンゼルスのパトリオット・ホールに於けるライヴのフルショウ。
Christian Death - Tales Of Innocence
※クリスチャン・デスの1986年リリースのアルバム『アトロシティー』収録の『テイルズ・オブ・イノセンス』+YouTube Mix。
The Adolescents-Who is Who
※ロサンゼルス近郊オレンジ・カウンティー出身のパンクバンド、アドレッセンツのファーストアルバム(1981年)収録曲『フー・イズ・フー』のライヴ映像。

25分過ぎにドン・ボールズが登場するが彼はジャームス、45グレイブ、セレブリティー・スキン、ヴォックス・ポップ、ヴェノーマス・インヴィジブル・アマンダ等のバンドでドラマーとして活躍したロサンゼルス・パンクシーンのツワモノだ。彼が執筆協力して出版された『レキシコン・デビル』(ブレンダン・ムレン、アダム・パーフレイ著)は『LAパンクの歴史~ジャームスの栄光と伝説』というタイトルで2004年に邦訳版も刊行されているが、これは目茶苦茶面白かった。またジャームスの軌跡を映画化したロジャー・グロスマン監督による『ジャームス~狂気の秘密』(2009年公開、原題"What We Do Is Secret")はDVD化されて日本語字幕入り版もリリースされているが、中々の秀作だ。ジャームスについて少し書いておくとフロントマンのダービー・クラッシュ(1958年生まれ、本名ジャン・ポール・ビーム)は1977年にジャームスを結成してから1980年12月7日に21歳でヘロインの過剰摂取で死去するまで僅か3年足らずのアーティスト活動歴だったのだが、ロック(特にパンク)の持つ暴力性、ニヒリズム、ペシミズム等ネガティブな側面を体現する一方、所謂「ロックスター」に憧れてナルシシズムに満ちたプライベートライフを送る等、相反する両面を持った人物で非常に興味深い。ダービーの書いたリリックはとても10代で書いたものとはおもえない程、どれも人間の本性に関する深い洞察に溢れたものだ。彼は母親が結婚、離婚を繰り返したりという、非常に複雑な家庭に生まれ育ち、幼少の頃より画才や詩才に溢れていたがやがてロックやオカルティズムに関心を持ち、『西洋の没落』(ジャームスも登場するペネローブ・スフィーリス監督による西海岸パンクシーンのドキュメンタリー映画『デクライン』のタイトルはこれから取られた)の名著があるドイツの歴史学者で哲学者でもあるオズヴァルト・シュペングラーに傾倒し、多大なる思想的影響を受けた。シュペングラーは「文明には各々独立したサイクルがあってそのサイクルが終わると文明そのものが死滅するもので、西洋文明もいずれそんな運命を辿る。」という独自の歴史観で知られヨーロッパ中心史観や文明観を批判したが、ダービーは彼の著書にあった「偉大な人間は、その存在自体が本人の思想の犠牲になるような生き様を選ぶものだ。」という言葉にいたく感銘を受けたようだ。そしてこの言葉はその後のダービーの運命を予見していたかのようだ。ダービーはジャームスのステージでの過激なライヴパフォーマンスが注目を浴び、地元のパンクコミュニティーでは顔役的な存在となり、またプライベートでも暴力沙汰やドラッグ浸りで自由奔放に振る舞ったが、本来の知的で思慮深い自己と、周囲が期待するそうした粗野で反道徳的なパンクスのキャラクターを演じ続けるのに疲弊していったようだ。ジャームスはシングルを2枚リリースした後、1979年に名盤『GI』をジョーン・ジェットのプロデュースによって制作する。ダービーはジョーンがランナウェイズ在籍時代から友人で、自分の知り合いで一番有名な人物にプロデュースを依頼しようと思い立って彼女に白羽の矢を立てたようだが実際にはレコーディング中、彼女は何もせずに居眠りばかりしていたと言う憎めないエピソードもある。この作品は主にカリフォルニアの音楽シーンをサポートしていた『スラッシュ』というファンジンが設立したスラッシュ・レコードからリリースされたが『ロサンゼルス・タイムス』初め各紙誌で絶賛された。ジャームスについては稿を改めてまた書いてみたい。
Germs - Lexicon Devil
※ジャームスのセカンドシングル『レキシコン・デビル』(1978年)のライヴ映像。
CDジャーナルWeb版から 映画『ジャームス 狂気の秘密』、シアターN渋谷にてレイトロードショー!
※ジャームスの伝記映画『ジャームス 狂気の秘密』のレビュー記事。

30分過ぎにはサンフランシスコのパンク~ハードコアシーンの総帥、ジェロ・ビアフラ(1958年生まれ)が当地の音楽シーンについて非常に雄弁に語る。彼はポリティカルなパンクバンドのパイオニアであるデッド・ケネディーズのフロントマンであり、またインディペンデント・レーベルの草分けであるオルタナティヴ・テンタクルズのオーナーを務め、また社会活動家、そしてスポークンワード・アーティストとしても有名である。1975~1976年頃にCBGBやマクシズ・カンサス・シティといったクラブを拠点としてニューヨークで起こったオリジナル・パンクムーブメントに呼応してサンフランシスコではザ・ナンズやクライム等のパンクバンドが活動を始めた。ジェロがデッドケネディーズを結成した1978年以前には米国の大手レコード会社はそうしたサンフランシスコのパンクバンドなどには見向きもしなかった。最初にメジャーのA&Mレコードと契約したサンフランシスコのバンド、ディッキーズはポップなサウンドとコミカルなキャラクターを前面に押し出してパンクバンドと言うよりニューウェイブバンドとして売り出した。今では考えられない話だが当時は「パンク」という言葉自体、大手レコード会社にとっては疎ましいものでラモーンズやトーキングヘッズ、リチャード・ヘル&ザ・ヴォイドズ等多くのニューヨークパンクのバンドの作品をリリースしていたサイアー・レコード(ワーナー・ブラザーズが配給)は契約していたバンドについてパンクという呼称を止めて「ニューウェイブ」とする方針を決定した。サンフランシスコのバンドはデッド・ケネディーズの他にもMDC等、政治的な姿勢を打ち出すバンドが多かったのだが、それは1970年代にヒッピームーブメント発祥の地であった事の名残かも知れない。ジェロは1979年に自身が立ち上げたオルタナティヴ・テンタクルズ(以下ATと略記)から1980年にデビュー・アルバム『フレッシュ・フルート・フォー・ロッティング・ベジタブルズ』をリリースした後、4枚の作品をいずれもATからリリースした後に解散したが、その後も様々なバンドとのコラボレーション、スポークンワード、ATの運営、パレスチナ解放を目指すBDS(Boycott Devestiment and Sanctions)キャンペーン等の、社会活動と老いて尚意気盛ん、精力的に活動している。ジェロの社会活動については1979年にデビューアルバムのリリースと同時にサンフランシスコ市長選挙に出馬(得票数10人中4位と健闘)した事は有名な話であるが、1985年にリリースしたDKのサードアルバム『フランケンクライスト』はインサートされていたH.R.ギーガー(映画『エイリアン』のプロダクション・デザインを担当)のデザインによるポスターが猥褻だとしてロサンゼルス市副司法長官に告訴された。結果的にこの裁判はジェロ側が勝訴したのだがこの事件を契機にロックアーティストの「表現の自由」を巡る論争が全米で盛り上がり、各地の自治体でフランク・ザッパ等有名無名を問わず多数のロックアーティストを呼んで公聴会が開かれる騒ぎとなった。
Jello Biafra Runs For Mayor And Interviews
※ジェロ・ビアフラが1979年にサンフランシスコ市長選挙に出馬した際のドキュメント映像。
Dead Kennedys - In God We Trust Inc: Lost Tapes
※デッド・ケネディーズのシングル作品『イン・ゴッド・ウィ・トラスト』(1981年)制作時のドキュメント映像。
Jello Biafra& D.O.A. - FULL METAL JACKOFF
※ジェロ・ビアフラがカナダのパンクバンド、D.O.A.とコラボレーションしたアルバム『ラスト・スクリーム・オブ・ミッシング・ネイバーズ』(1989年)収録曲の『フルメタル・ジャックオフ』のライヴ映像。ジェロはスポークンワードや市長選挙出馬等の様々な活動を経て身に付けたであろうバリエーション豊かな自己表現スタイルを最終的にはこのようにライヴパフォーマンスに昇華させた。D.O.A.のヘヴィな演奏と一体になって時に政治演説の如く米国の政治・社会状況をボディランゲージ?を交えて痛烈にアジテーションしまくる様は圧巻だ。

51分過ぎにサンフランシスコのバンド、フリッパーの映像が流れるが、このバンドは前回触れたグランジムーブメントの主要バンドであるメルヴィンズ等、スラッジメタルバンドやノイズロックバンドの先駆者として後発のバンドにリスペクトされている。サンフランシスコのインディペンデント・レーベル、サブタレニアン・レコードから『ジェネリック・フリッパー』(1982年)、『ゴーン・フィッシン』(1984年)をリリースした後、ヴォーカリストのウィル・シャッターが1987年12月9日にヘロインの過剰摂取により死去するのだが、新たなラインナップで1993年には『アメリカン・グラフィシィー』をデフアメリカン・レコード(現在はアメリカン・レコーディングスと改称)からリリースしている。デフアメリカンの設立者でスレイヤーやレッド・ホット・チリ・ペッパーズ他、ロック史に残る重要な作品を数多く手掛けた名プロデューサーのリック・ルービンがフリッパーの大ファンだった事は有名な話である。
Flipper - Live Target Video 1980-81
※元祖スラッジバンド、フリッパーのライヴ映像作品。

この作品を通じて1980年代の西海岸パンク~ハードコアシーンを俯瞰してみると、どんな音楽ムーブメントにも同じような事が言えるのだが、非常に多彩な音楽性を持ったアーティスト、バンドが群雄割拠していた事に驚かされる。またカリフォルニア州といってもサンフランシスコからロサンゼルス、ロサンゼルス近郊のロングビーチ、ハーモーサビーチ、オレンジ・カウンティー、ポモナ等地域ごとに各々小さな音楽コミュニティーがあり、それらが相互に連携し、影響し合って音楽シーンを形成していた。作品中、登場するアーティストではキース・モリスとジェロ・ビアフラの二人はスポークンワードをやっているだけの事もあって話術も巧みで話の内容も圧倒的に面白い。
米国西海岸の初期パンクシーンについての個人的な思い出というと、以前書いたがヒップホップでを例にとると日本ではある時期まではニューヨーク産のものが本物で、それ以外の地域のものは格が落ちるという認識があったが、パンク~ハードコアに関しても同様に1980年代後半までは英国産のものが本物で米国産や他地域のものは敬遠されがちだった。そんな風潮に風穴を開けたのはカリフォルニア州ヴェニスビーチ出身のスイサイダル・テンデンシーズが日本で紹介された事がきっかけだったように思う。スイサイダル・テンデンシーズ(以下STと略記)はマイク・ミューアを中心に1981年に結成されたハードコアバンドで、マイクの実兄のジムはプロスケートボーダーとして知られ、STもスケートパンクとも称された。STが日本に紹介された1987年、僕が身を寄せたインディーズ系の原盤制作会社であるミュージック・ビジョンズは実はこの年、大手レコード会社の日本クラウンがSTのファーストアルバム(米国では1983年リリース)の日本盤を発売した際、そのライセンスリリースの仲立ちをしていたのだ。この頃、ミュージック・ビジョンズの社長(他に輸入レコードショップ、UKエディソンを経営)が経営していた下北沢のスケートボードショップのヴァイオレント・グラインド(現在の経営者は別人)の販売促進を目論んでSTの作品の日本でのリリースに踏み切ったようだ。ヴァイオレント・グラインドのスタッフに横浜出身の文殊川氏という方がいて、僕も彼にST初め米国のパンク~ハードコアバンドについて色々な情報を聞いてから米国、特に西海岸のバンドに関心を持った覚えがある。文殊川氏は元々スケートボーダーで日本でスケートボードとパンク~ハードコアの親和性を確認したのは彼の存在が最初だった。それまで日本のパンクスというと英国のパンクスの影響が色濃く、ファッションもそれに倣って鋲打ち革ジャンに革パン、黒のスリムジーンズ等が定番だったのだが、彼は明るい原色のTシャツやデニムジーンズを身に付けていた。
Suicidal Tendencies- "Institutionalized" Frontier Records
※スイサイダル・テンデンシーズの1983年リリースのデビューアルバム収録曲『インスティテューショナライズド』のプロモクリップ。

この時期には以前度々書いたDJイベント『ロンドンナイト』のDJをやっていた福田哲也氏がスケートボーダーにターゲットを絞った『スプラッター・ジ・エンド』(スケートナイト)というDJイベントを新宿のツバキハウスで定期的に開催したりしていた。当時の日本で活躍していたスケートパンクバンドでは現在でも活動しているローズ・ローズが知られている。彼らは1983年に結成され、もうキャリア30年にも及ぶが後にグラインドコアやデスメタル的なサウンドアプローチにチャレンジしたりと、その時々に於いて一番エクストリームなサウンドを追求しているようだ。また横浜を拠点に活動していたマッド・コンフラックスも純粋なスケートパンクではないが、それまでは英国のハードコアバンドからの影響が顕著だった日本のバンドの中で米国産のハードコア・テイストを盛り込み、独特のスタイルを確立したバンドとして印象深い。
ROSE ROSE - There's no realism
※日本のスラッシュメタルバンドのオムニバス・アルバム『スカル・スラッシュ・ゾーン』(1986年)収録のローズ・ローズの『ゼアズ・ノー・リアリズム』。同作品には何故かXジャパン(当時はまだX名義)も参加していた。
Roserose - Mosh of Ass
※インディペンデントレーベルのドグマからリリースされたローズ・ローズのデビュー・アルバム『モッシュ・オブ・アス』(1987年)のタイトル・トラック。
Mad Conflux-Lower
※横浜出身のハードコアバンド、マッド・コンフラックスの同郷のバンド、ジャンキーとのスプリットシングル(1987年)から『ロウアー』。