出発~1日目
PARUKAが出発前、90歳の祖母が部屋から見える海や花火を楽しみにしている、とホテルに連絡してくれていた。
この日は皆疲れていたのでPARUKAとAIが地元のスーパーで購入したポキやフルーツなどを部屋でゆっくり食べた。
交代でシャワーを浴び、クイーンサイズのベッドの真ん中に母、両脇にPARUKAと私、窓側に並べたエキストラベッドにAI、と4人並んで就寝。
PARUKAが出発前、90歳の祖母が部屋から見える海や花火を楽しみにしている、とホテルに連絡してくれていた。
この日は皆疲れていたのでPARUKAとAIが地元のスーパーで購入したポキやフルーツなどを部屋でゆっくり食べた。
交代でシャワーを浴び、クイーンサイズのベッドの真ん中に母、両脇にPARUKAと私、窓側に並べたエキストラベッドにAI、と4人並んで就寝。
ベテラン医師がベテラン刑事に見えた瞬間だった。
私が社会人になったたころは、こういった趣のあるオフィスビルが左右に立ち並んでいた。
真偽のほどはわかりませんが、皇居を見おろすのは不敬にあたる、という理由で、建物の高さが制限されている、と聞かされたことがある。
今はつんと澄ました高層ビルばかりになってしまった。
皇居も見おろし放題。
このところの為替円相場について、私見を述べたいと思います。
母の血圧と、
ほぼ同水準だな。
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1985年9月、ニューヨークのプラザホテルにおいて、アメリカと日本はドル安円高を目指すことに合意した。
世に言う、「プラザ合意」です。
当時日本は円安の勢いに乗って車をはじめとした日本製品をがんがん輸出しており、アメリカの貿易赤字が膨らんでいた。
プラザ合意をきっかけに、日本はバブル経済に突入したのです。
*****
日本中が調子に乗っていたその時代のなかでも特に恩恵を受けた世代には、ある共通点がある。
それは英語で「サタデー」と綴るとき、ベイ・シティ・ローラーズの「サタデーナイト」のあのフレーズを、頭の中でつい歌ってしまうことです。
月曜や火曜が綴れなくても土曜だけはちゃんと綴れたこの世代は、ちょうどバブル期の20代前半と一致する。
恥ずかしながら私は今でもS、A、TUR、とやらなければサタデーを綴れません。
*****
ところでプラザ合意後の円相場はどれぐらいだったのかな、と調べてみた。
当時は円高にうかれて同期とハワイに行ったし、同僚はファッションの仕上げに必ずエルメスのスカーフを腰に巻いていたけれど、
母の血圧と、
ほぼ同水準だな。
150円ぐらい。
意外でした。
*****
ちなみにバブル期の同僚は皆、エルメスやルイヴィトンなどのブランドに夢中でしたが、私は欲しいと思ったことがなかった。
つい先日も、「30万のバッグを買うぐらいだったら3千円のバッグが100個欲しい」、と言ったところ、友人のヒロコちゃんに、
「・・100個はやめておこうか。しまう場所に困るし」。
とたしなめられ、それもそうだな、と、思った。
ブランドに疎いわたし ↓
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大仰なタイトルのわりにGW仕様のうすい内容の記事となりましたことを、お詫びいたします。
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バカ日傘。THE FIRST TAKE 。
近隣の住民と太宰治本人に配慮したのかもしれません。
小さな子ども連れの家族でいっぱい。
館内ではメイとサツキみたいな姉妹を沢山見かけました。
うちの娘たちもメイとサツキみたいだったなー。
室内は撮影禁止なので画像を少しお借りしています。
ねこバス。中に入れるのは子どものみ。
けっこう大きくて、子どもが20人くらいは余裕で入れます。
いきなりバスの上に駆け上る子どももいたりして、
うー。私も遊びたい。
左側に直径1メートル弱のくぼみがあって、何かな、と思っていたけれど、
そうか、まっくろくろすけ入れだったのか(笑)。
まっくろくろすけのぬいぐるみはおめめのところが固いのでお友だちになげないで、とお姉さんが注意していたけれど、投げたくなるよね。
「映画の生まれる場所(ところ)」は、5つの小部屋で構成されている。
ラピュタ文字盤。
メイちゃん、お母さんの「荷物とりにいこう」を、おやつ食べにいこう、と聞き間違えて、あえなく籠城終了。
しかしこういうことをするのは決まってメイちゃんです。
サツキは絶対やりません。
門番小屋の上のカエルのモチーフには「出口」の文字が。
外に出てみるとバス停も可愛い。
PARUKAは深夜からホーチミンへのフライトがあり、ここで帰宅しました。
キンちゃんと会わせることができてよかった。
キンちゃんはPARUKAの良き理解者です。
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井の頭公園を抜けて吉祥寺駅に
キンちゃんに、「春節に髪は切らないほうがいい」、と言われてから2か月も、美容院に行くことを我慢していた。
軽いくせ毛である私は美容院には苦労していて、20代のころから20年以上、新しい門を叩いては失望する、といったことを繰り返していた。
切ったその日に文房具入れからハサミを取り出し、ジョキジョキと手直しすることもしばしばあった。
美容院難民だった私がようやく巡り合えた運命の美容師。ですが数年通ったある日、今日でここを辞めるんです、と言われて背筋が凍った。
その日美容院に行ったのも何か虫が知らせたのかもしれない。
もし春節だったら、今生の別れになるところだった。
慌てて転職先を尋ねたら、私の住む市にオープンしたモール内の、カット代金1,800円均一のチェーン店だと言う。
かくして私はこれまで5,000円で切ってもらっていた同じ美容師に、破格の値段で髪を切ってもらっている。
ひとつだけ難点があって、このお店は予約ができません。
のこのこ昼前に出掛けたりすれば4時間待ち、ということがあるので、開店前から行列に並ばなければいけない。
まあ文句は言えません、1,800円なのですから。
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今回も行列に並んでウエイティングリストに名前を書いたけれど、やはり1時間半待ちだった。
何をして時間を潰そうか、と考え、今回は本を読むことにしました。
旅行のガイドブック以外の本を買うのは何年ぶりだろう。
迷わず手に取ったのが、この本、
ノンフィクション作家沢木耕太郎による藤圭子へのロングインタビューです。
なぜ今藤圭子か。
先日尊敬する先輩にお会いしたとき、次回は藤圭子について語りましょう、と言われ、予習をしなければ、と思ったからだ。
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美容院の待ち時間で読み終えた。
インタビューは紀尾井町ホテルニューオータニ40階の、バーマルゴーで行われていた。
8杯のウォッカトニックを傾けながら語り合う28歳の女と31歳の男の会話。
沢木耕太郎はもともと藤圭子のファンということもあり、そこここに好きという気持ちが垣間見えて気恥ずかしい感じがある。
藤圭子の夫、宇多田照實氏が沢木耕太郎に激怒したという気持ちも少しわかる気がした。
あとがきには、一度は世に出すことを諦めたこの本を、藤圭子の自死後、娘の宇多田ヒカルに捧げる意図で出版に踏み切った、という主旨のことが書かれていた。
人がもっともらしいことを語るときは誰かの影響だったりすることもあって、学のある沢木耕太郎の語りにはちょいちょいそいういう青臭さを感じたのですが、藤圭子の言葉は違っていた。
ピュアで聡明で美しい28歳の藤圭子を、私はとても好きになった。
でも、娘として、この本を読みたいと思うかどうかはわかりませんでした。
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ってなわけで、予習、完了です!
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インタビューの中で藤圭子が、自分のことを酷く書くのは決まって女性セブン、と言っていたので、今回私、美容院で、女性セブンが運ばれてきたのをきっぱり断ってやりましたよ 。
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ところで、藤圭子の引退のきっかけのひとつが喉の手術により声が変わってしまったことだと知り、激しく同情した。
一緒にするのはものすごくおこがましいけれど私も今や、カラオケが楽しく歌えません ↓。
プロの歌手でもないのですから、と医者には諭されましたが、
悔しいです
(by ザブングル加藤。)
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桜が満開の時期を迎えているため、慌てて梅見の記事を書いています。
写真多めでお送りします。
20代のころに買った日帰り旅の本に載っていた三渓園に、やっと行くことができました。
明治の実業家、原三渓が、自邸を一般の人々に開園したものだそうです。
関東大震災の際には横浜の復興に私財を投げ打ち、「横浜の恩人」と呼ばれた人です。
🌸
最初に撮った写真が猫。
野良猫だと思うが丸々と肥えています。
広い。これが私邸だったなんて。
梅の季節だというのに人っ子ひとりいない。
なぜならこの日は平日だったからです。
休暇を取っております。
良い天気。
園内ボランティアガイドのおじいちゃんに、あっちは梅がスゴいよ!、って言われてやったー!とはしゃぎましたが、行ってみると、
まだそんなにスゴくはなかった。
🌸
移築された古民家。こういうの大好き。
中に入ったところで撮った写真。
見た目どおりに写っています。
屋根の隙間から差し込む光が神秘的です。吸い込まれそう。
🌸
初音茶屋。戦前までここに吊るした茶釜のお湯を使って用意されたお茶を、誰もが自由に飲めたそうです。
芥川龍之介もここで一服お茶を飲み、俳句を残しています。
🌸
富士山が見えるかなー、と、高いところへ登ってみると、途中こんなものが。
(下の写真はお借りしたものです)
廃墟好きの私は好奇心が止まりません。
これは何。
そして何があったのか。
答えはすぐ目の前のパネルにありました。
パネルには、ここは三渓さんの義祖父、原善三郎が建てた別荘、松風閣の跡地、とありました。松風閣は関東大震災で消滅し、煉瓦部分は松風閣の玄関とのことでした。
ところが現在ではこのパネルの記載は間違いで、この煉瓦部分は善三郎の没後、原三渓が美術品の収蔵庫として増築したもの、と、言われているのだそうです。
いずれにしろ松風閣は、わずか2枚の絵ハガキ写真と屋上の人物写真が残っているのみで、設計図などの資料もなく、謎が多い。
松風閣の跡地には展望台が建てられている。
昔の写真と並べると面白い。
昔は海水浴や潮干狩りのあと、この納涼台から三渓園に出入りする人たちもいたらしい。当時は誰でも無料で入園できたそうです。
見えた!富士山!
夏にはあそこまで登ったなー。
🌸
あのあたりが原家の住まいだったのでしょう。
こんな豪邸にずっと住むのは気が引けるけど、親戚のおうちだったらいいのになー。
泊まってみたい。
🌸
ここまで来たからには、有名な三渓そばを食べてみたい。
ふむふむ。
で、
案の定肝心のそばの写真を撮り忘れたYO。
あったかい冷やし中華、とでも言えばよいでしょうか。
パネルに原家の家庭料理、とありますが、土曜日の昼に食べていたような、何だか懐かしい味がした。
そして三渓そばを食べたこの食堂、全テーブルもれなく、リタイア後の初老の夫婦がキレイにペアで座っておりました。
平日昼、って感じです
*****
一緒に有休を取ってくれたのは、中国人のキンちゃんです。
このあとタクシーを飛ばしてもうひとつの目的地、ラーメン博物館に行くのですが、そのことはまた後日。
ラーメン博物館を堪能したあとキンちゃんが、中華街に行きたいと言った。
おりしもこの日は春節の前日、大晦日にあたる日だった。
中華街には何回も行ったことがあるけれど、日本で春節を味わうことはもうないだろうから、とのことでした。
そうか。私も行ってみたい。
餃子。
4月から母の介護度が改定されたことに伴い、ケアマネジャー、デイケア、介護用品レンタルの業者等関係者を集めての会議が行われた。
デイケアには介護ロボットのさくらちゃんが徘徊していて、利用者を和ませているのだと言う。
こんな感じのやつだと思う。
母はさくらちゃんをとても可愛がっていて、連れて帰りたいわ、などとと言っているのだそうです。
そんな話ははじめて聞いた。
そのロボットは何をするのですか、と聞いたら、何もしません、と言われた。
ペットのような、愛玩用ロボットなのだそうです。
🤖
私の働くビルでは巡回警備を担うロボットがぐるぐると動き回っている。
先日先輩と、親の介護のことで立ち話をしていたら巡回ロボットがぐいぐい割り込んできて、ロボットと3人で介護話をする羽目になり、笑ってしまった。
介護に興味があったと見える。
彼も将来、母の施設にいるような愛玩用の介護ロボットを目指しているのかもしれません。
*****
昨年夏、同僚たちと都内で飲んだあと、軽くお茶をしようと近くのジョナサンに立ち寄ったら、ネコ型のロボットが健気に配膳業務をこなしていた。
こんな感じのロボット。
このロボットが、隣のテーブルにせっせとビールを運んでいた。
ロボットの配膳をワクワクしながら待っていたのに、我々のテーブルに料理を運んできたのは中高年の女性店員だった。
人間。
ビールを頼めばネコが運んでくれるのか。
もうこうなったらネコが来るまで帰れま10(てん)。
先ほど、王貞治がハンクアーロンの記録を破った日に食べたというもやしそばをたらふく食したことも忘れ、私たちはかたっぱしからタブレットで注文をはじめた。
ビールもフライドポテトもから揚げもパフェも、運んできたのは相田みつをもがっかりするぐらい人間だった。
多分担当テーブルがあったのだろう、と、はちきれそうなお腹をさすりながら皆で反省した。
🤖
先週友人たちと出掛けた都内の某ホテルで体験したのは、携帯からQRコードを読み込んで、いちいち注文しなくてはならないハイテクなスィーツビュッフェだった。
面倒臭い。
実に面倒臭い。
ホテルで優雅な気分を味わうつもりで6千円を支払ったというのに、誰かひとりは常に携帯と格闘していて会話も弾まない。
我々中高年にはネコ型ロボットのジョナサンのほうが、よっぽど楽しかった。
*****
そういえば父を自宅で介護していたころ、アレクサを使ってみたことがあった。
父は新しもの好きで、亡くなる直前までスマートフォンを買いに連れて行ってくれ、と言っていたので、きっと喜ぶと思ったのです。
父のために大きく「アレクサ」と書いた手書きのシールを貼っていたのですが、父はいつも、「アレクさん」、って言っていた。
賢いアレクサは父のアレクさんをちゃんと認識し、律儀に返事をしてくれた。
けれどわが家のアレクサは何度か般若心経を読まされただけで、いつの間にか使われなくなりました。
父との思い出です ↓
*****
掲題のもやしそばについての記載が圧倒的に薄く、大変申し訳ありません。
月間ジャイアンツを愛読していた高校生のころから行ってみたいお店でした。
美味しかったです。
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PCやスマートフォンのリコメンド機能は恐ろしい。
先週仕事帰りに立ち寄った母の家でついこのような番組に見入ってしまった翌日、
『ライ麦畑でつかまえて』は善か悪か?完全なる問題作「キャッチャー・イン・ザ・ライ」
Amazonプライムに、サリンジャーの登場する映画をすかさずお勧めされたのです。
恥を承知で申し上げると私はサリンジャーの小説に興味を持ったことがなかったばかりか、邦題のフェミニンな印象から、ラブコメチックな甘い小説かと思っていた。
何ならサリンジャーが女性だと思い込んでいた。
世界中のサリンジャー信奉者の皆さまに、心から謝りたいです。
*****
映画を見終わると、また関連のインタビューとかコラムとかがお勧めされたりする。
まだ本も読んでいないというのに、サリンジャーの生い立ちや題名の由来などをひととおり学ぶはめになった。
この本を読んだ人は主人公のホールデンのどこかしらに自分を投影する、と言っている人もいた。
多感な高校生のころ、母の書棚にあった『人間失格』を読んで、不遜にも、「これは私だ」って思った。
もしかしたらあんな感じなのかな。
*****
主人公のホールデンは17歳。
森高千里によれば誰もいない海で二人の愛を確かめたくなるような年ごろだ。
かたや私は50代。
夜明けのベッドでふくらはぎがこむらがえりしがちな年ごろだ。
太宰に震えたピュアな気持ちが、そんな私にもまだ残っているのでしょうか。
確かめてみたくなった。
*****
この本の日本語版は、1964年に出版された(1984年に一部改訂)野崎孝訳のものと、2003年に出版された村上春樹訳のものがあるそうです。
いろいろな人の意見を読んで考えた結果、私は野崎さんの方を読んでみようかな、と思います。
*****
ところで何年か前、男性上司サタケさんに、業務で使用するトレンドワードを検索するよう指示を受けた。
サタケさんが見守る中、Google検索のボタンをポチっと押す。
げ。
検索結果の画面を縁取っていたのは、カラフルな下着の画像の数々だった。
昨日昼休みにこっそり下着の購入サイトを閲覧したことを思い出した。
平静を装う私。
無反応を装う上司。
地獄のような時間が流れた。
GoogleAIは無神経にずけずけリコメンドすることを厭わない。
さすがアメリカ生まれだな、と、思った。
*****
皆さんもどうかお気をつけください。
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スナックJUJUで懐かしい昭和歌謡を聞きながら、しょうもない思い出に浸りましたので書き残したいと思います(順不同)。
世の中はバブル全盛に向け、舞い上がっていた。
どういう流れか思い出せませんが、奥手な学生だった私もディスコに連れて行かれることが何度かあった。
ジュリアナ東京とかマハラジャとかが誕生する少し前のことで、入口で黒服に入店拒否されることもなかった。
従って店内にイケてる客は1割ほど、のこり9割の男女は内心おどおどしつつ見ようみまねで変な踊りを踊っていた。
だから「め組のひと」や「君の瞳に恋してる」みたいに聞き覚えのある曲が流れると、皆ホッとして、嬉しそうにうぇーい、と叫んでいた。
♪♪♪
社会人になってバブル景気は頂点を極めましたが、相変わらず私は素朴な服装で出社していた。
青いストライプのパジャマを買ったとき、パリっと糊のきいたシャツが勿体なくて、1回会社に着ていこう、と思った。
パジャマ姿で出社した私を見たイケてる同期のニシオちゃんに、みきちゃんが珍しくまともな恰好をしているので今日はディスコに行こう、と連れて行かれたのが、全盛期の青山 King & Queenだった。
今更これがパジャマだなんて言い出せなかった。
厳格な入店チェックにパジャマで挑み、突破できたときのスリルを今でも覚えています。
学生時代に入っていたのは、夏はテニス、冬はスキー、といった今で言うところのイベントサークルだった。
地方出身の男子学生が立ち上げたサークルで、その名も「ノスタルジー研究会」。
皆どこか東京に馴染みきれない優しい人たちでした。
私たち短大生は4年生の学生たちと仲が良く、何組かカップルもいた。
同時に卒業のタイミングを迎えた冬のスキー合宿のマイクロバスの中、男子学生たちが大声で、なごり雪を歌いはじめた。
女の子たちは皆都内の企業に就職が決まっていた。
一方男子学生は地元に戻ることを決めた人が多かった。
携帯電話もLINEもない時代、東京と地方はとても遠かった。
卒業後は皆散り散りになって会うこともなくなった。
母の十八番でした。
今聞けば、なるほどかなり桃色な内容です。
厳格だった母がなにゆえこのような曲を。
スナックJUJUのゲストのひとりとして登場したNOKKO。
往年のスターたちも人生の後半に差し掛かり、声のハリや声量に陰りが見えたりするものですが、いや、恐らく昔より歌、うまくなっているでしょう。
前に座る男性は号泣していて、奥さんに、どうした?、って訝しがられていた。
灰色の日に行きづまっても
あきらめはできないの Maybe Tomorrow
辛い年ごろなんだと思う。
有名な曲のフレーズをちょっと替え歌する、ボキャブラ天国という番組があった。
視聴者がハガキを出すコーナーもあって、友人のヒロコちゃんと時事ネタに挑戦しようと考えました。
まずは私の作品です。
ちょっと
出稼ぎに
来ただけのイラン人。
(上野公園の西郷さんの銅像周辺にイラン人が急増。)
ちなみにヒロコちゃんの作品は、
オリーブオイルで下痢。
(村山首相ナポリで開催の主要国首脳会議サミットで腹痛に倒れる。)
わかりにくいかもしれませんが、おおブレネリの替え歌です。
長女がまだ1歳になるかならないかのころ、はからずも次女を身ごもった。
長くなる育児休業に、このままでは社会復帰が難しくなる、と考え、オランダ人留学生を英語の家庭教師に雇った。
次女が誕生するまで、との約束でしたが実際出産の日が最後の授業となった。
やがて先生の帰国が決まった。
自宅に招き、ささやかなお別れ会を開いた。
確かオランダから先生のガールフレンドも来ていて、一緒に招いたように記憶している。
夫もいた。
6名中2名は外国人で、2名は地球に来て数か月~1年数か月の乳幼児。
1名は酔っぱらい。
もうこれだけで充分混沌としているというのに、よりによってこの日、夫の父が、当時私たちが住んでいた古い家を売りたい、などという込み入った話をしにやって来た。
先生は上機嫌でしゃべりまくり、大好きだというオフコースの「言葉にできない」を、繰り返し流すよう要求。あなたに会えて本当に良かった、と、大きな声で唱和する。
確かに私もこの歌は大好きですが、
今じゃない。
こうして私の長い一日が終わり、酔っ払いと乳幼児2人を前に、言葉にできない疲労感だけが残った。
かつての私の十八番。
結婚当時夫の草野球チームの面々とよく行ったスナックでいつも歌っていた。
まさかその後、この歌を地でゆく運命を辿るとは。
皆にそう思われたことだろうと思うと、ちょっと笑ってしまった。
♪♪♪
JUJUの歌う喝采を聞いてまた歌いたくなったけれど、聞かされるほうはどんな顔で聞いてよいのかわからないだろう。
あらためて夫に怒りたい気持ちになった。
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