9月2日から17日にかけて、長い旅をした。
長女PARUKAとともに、ドイツのハイデルベルクに住む次女AIとスイスのチューリッヒ空港で合流し、念願だったスイスでの家族旅行を満喫した。
その後鉄道でドイツに入り、フッセン経由でハイデルベルクに住むように滞在した。
そしてひとりソウルに短期滞在して帰国した。
あまりにも盛りだくさんの経験に、私のおちょこレベルの感受性の器がぱんぱんになった。
このことについては大量の写真とともに追って記事を残すことで整理しきれない感受性を形にしておきたいと思っています。
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長期旅行にあたり、最大の懸念事項は日本に残る91歳の母のことだった。
一昨年夏、ロンドンに出掛けた際は、はじめてのショートステイ利用でえらい目にあった。
普段の週3日のデイケアさえも、基本毎回行き渋りがある。
ショートステイなんて姥捨て山に捨てられるぐらい酷いことだと思っているのです。
軽度の認知症により短期記憶が著しく低下した母は5分前のこともすぐに忘れてしまう。
ショートステイのことを伝え、激怒され、なだめすかし、なんとか渋々理解してもらい、あなたたちに迷惑はかけられないものね、と芝居がかったしおらしさを見せる母にありがとう、と感謝の意を伝え、5分後、初めて聞いたとまた驚かれ、なだめすかし、(以下省略)。
と、なるのが火を見るよりも明らかなため、一昨年は前日にはじめてショートステイの話をすることにした。
何度もこのくだりを繰り返すのは私が疲弊するばかりでなく、母も可哀想だからです。
前日。
ショートステイのことを伝えると母は、想定と一ミリたりとも違わない反応を見せた。
想定外だったのが、
>ショートステイのことを伝え、激怒され、なだめすかし、なんとか渋々理解してもらい、あなたたちに迷惑はかけられないものね、と芝居がかったしおらしさを見せる母にありがとう、と感謝の意を伝え、
↑ここまでに2時間かかったこと。

何とか母の合意を得て、一緒に好きな服を選び、荷造りし、5分後にまた新鮮な気持ちで激怒されることを想定して、合意事項をふたりで確認しながら母とのいつもの交換ノートに書き留めたのち、へとへとになって家に戻った。
そして翌朝5時前。
けたたましく家電が鳴り驚いて出てみると、激高した母だった。
「今ノートを見てびっくりした
。こんなこと勝手決めるなんて酷すぎる。私はこの家でちゃんとひとりでやれますのでショートステイには絶対に行かない」。

やっぱりね。

母は確かに独りで寝起きができ、トイレや着替えもでき、冷蔵庫のものを電子レンジで温めるぐらいの調理をして食事をとることもできる。
簡単な掃除や食器洗いもできる。敷地の中なら外に出ることができる。
だけどそれ以外、
戸締りも服薬も、日用品や食材の調達、古くなった食材の廃棄、猫の世話、洗濯(干すことはできることもある)エアコンの調整、ゴミ捨て、口腔ケア、害虫退治、その他の家事や身の回りのことは全て、母の認知の外側で、私が日々妖精のように片付けているのです。
何よりその日の予定を毎日ノートに書いてやらなければ不安でじっとしていられなくなるのです。
母は決して独りで暮らせてなどいないのです。
仕方がないとはいえ、そしてどこかではわかってくれていると知っているけれど、そんな私の3年半を母が理解していないことも地味に辛い。
また、認知症のせいばかりとは言えない母の昔からのこういった子どもじみた感情の堪え性のなさを久々に目の当たりにして、嫌になった。
父の5年半の介護では、こういう気持ちになることはなかった。

その日は電話を切ったあと、すぐに母の家に行き、またゼロから説得のくだりを経て2時間かけてなんとか理解してもらった。
送り出しはヘルパーさんにお願いした。
こうしてどうにかロンドンに出立することができましたが、もしものときのためにノートに書いた妹と従姉の連絡先に、日々30回ぐらい、「帰りたい」と、電話して泣きついたようで、色々罪悪感に苛まれた。

この経験があまりにもしんどすぎて、昨年のハワイには母を連れて行ったけれど、そもそも海外旅行が好きではない母にとって、それはそれで大変だったのではないかと思う。(口では行きたいと言う
。)
*****
そして今年。
永年勤続休暇はPARUKAとともにAIの暮らす国へ出向き、どうしても家族3人で過ごしたいと思った。
母のショートステイについて、今回は少し前から地道に説得してみようと早めのスタートを試みたのですが、
今回もまた、なかなかにしんどかったです。
1回目。なんとか一昨年よりは比較的穏やかに説明を聞いてくれたので忘れないうち一緒にニコニコしながらメモに走り書きを残したところ、翌日、

凄まじく悪意に満ちた抗議声明を叩きつけられ、ちびりそうになる。
怒りのアドレナリンで何ならちょっとしっかりしたりして、1年以上前から使えなくなっていた電話まで使えるようになり、闇金の取り立てまがいの鬼電に、さすがにこちらも声を荒げてしまう。
しぶしぶ了承してくれたので久しぶりに新しい服やパジャマ、下着を買いそろえ、これを着て行けるのね、嬉しいわ

、と声をはずませてくれたのですがすぐに忘れて、
その後もノートに
『勝手に決めないで』
『私にも自由を下さい』
『決める前に相談してほしかった』
などと不穏なワードを書きなぐり、普段平和な交換ノートが一気にDEATH ノートみたいになってしまった。
毎日ゼロから相談していることについては当然ながら覚えちゃいなかった。
そのたび丁寧に、どうしてお母さんを独り家に置いてゆけないかを説明していたら、もっと厄介なことに今度は、

急激に自信を失って不安を強めてしまった。
洗濯機が回せないのよ、と涙声で5分置きに電話がかかってきたりした。(もともともう一人では洗濯機が使えませんが不安に思うこともなかった)
これでは今後の生活に支障が出てしまう。何より可哀想でいたたまれなくなった。
こうなったら、

作戦変更。
交換ノートに毎日、
『お母さんは日本一シッカリした91才です。』
と持ち上げたうえで、それでも家に独り放置はできないことを書くようにしてみた。
確かに91歳で何とか独りで暮らせているのはすごいことだと思ったからです。
すると驚いたことにたちまち機嫌が好転。普段やらない家事までも張り切ってこなしだしたのです。
(飼い猫の餌やりを推定30分おきぐらいに行った形跡あり。前週行ったばかりの梨園に予約の電話を入れた形跡あり。料理しようとした形跡あり。など。)
自分の親が誉めて伸びるタイプだったということを、この歳になってはじめて知った。
介護は個別性が高い。
母に効果のあったことがすべての老人に効果があるわけじゃないし、何なら次回母に同じやり方が通用するかもわかりません。
今回はたまたま上手く行っただけなのだ。
ご機嫌な母の日記帳。(いつもは私のノートを丸写しすることが多い)

「みきにほめられた。私が日本一シッカリしていると・・。91才です」「私は日本一シッカリした91才だそうです。そうかなァ~?」「みきイワク、私は日本一シッカリした91才だそう」
1日おきに、恐らく毎回新たな気持ちで喜びを記している。
これが本来の母。少女のようで可愛いです
。
かくして母は我々が日本を立つ前日の午後、ショートステイに旅立った。
あ、車で10分ほどのいつものデイケアの2階です。
前日の夜も当日の朝も「心配しなくて大丈夫。私行かないわよ。」と、頑張っていた。
出掛けぎりぎりまでいつものノートに手紙および想定問答集(3分おきに聞かれていること)をふたりで確認しつつ書き、このノートをいつも部屋に広げておいてくれるよう施設の相談員にお願いした。

前日には近所のいつもの美容室に連れて行き、綺麗にしてもらった。
お迎えの車に乗り込みながら、
「あなたはどこに行くの。・・ドイツ
!・・いいわねぇ。私も行きたいよ
・・」
涙声の途中で職員さんがドアをしゅたんと閉めてくれた。
ナイス職員さん。
このまま泣き言を聞かされたら心が揺らいでしまう。
知っている。
母は旅行になど行きたいわけじゃない。
無自覚に、ああしてこちらの罪悪感をくすぐっているだけなんだから。

その日夜遅く、混乱を極めた母から電話がかかって来た。
堰を切ったように話し始めた。
「ああ、みき。・・・良かった。
私ね。今新宿の病院で診察が終わったんだけれど、どうすれば良いかわからなくて
。。荷物も何にも持っていないのよ・・・」
側で親切な職員さんが「ここは病院じゃないですよ。いつもの〇〇ですよ」と、穏やかになだめてくださる声が聞こえた。
「今日からお母さんはショートステイするんだよ。大丈夫、お母さんの部屋にはちゃんと荷物も着替えもあるよ。部屋に戻ってノートを見てみてね。」
30分ほどかけて何度もなんども話すうち、母は次第に落ち着きをとりもどし、部屋があるのね、ノートを見てみるわね、と繰り返した。ああ、みきと話せてよかった、と心から安心したように言った。
そして、
「さっきからずっと、若い、優しーい男性が側で助けてくれているのよ
」 と言いながらうふふと笑った。
母は医療や介護に従事する若い男性が大好きです。
亡くなった弟を思い出すのかもしれない。
「良かったねぇ。息子だと思ってうんと頼りにして
!」
こっちも軽口を叩くと、そうするわ

、と言って電話は切れた。
母はそれからぐっすりと眠ったようだった。
マグニチュード8ぐらいの連日の怒りと悲しみで、きっと寝不足だったんだと思う。
とは思いましたがそれから私の方が眠れなくなった。
このまま認知症を進めてしまったらどうしよう

・・。


旅行中は1日1回、妹が母に電話を入れることになっていた。
くれぐれもフォローを頼んで出発しましたが、母は翌日からすっかり落ち着きを取り戻し、ご飯も残さずもりもり食べているらしかった。
夕方電話を入れると、何の用事でかけてきたのか、と聞かれるぐらいだったそうだ。
安心した。
そんな私が母の年齢になったとき、母レベルの自立が保てているでしょうか。
自信がありません。
3人の子どもたちは母にとても心配をかけた。
ひとりは先立ってしまった。
それでも悲嘆にくれることなく気丈に生きようとしている。
実は本当に、日本一シッカリした91歳なのかもしれません。
ブログにあれこれ書いちゃって、ごめんね。
*****
さて掲題の件です。
幼なじみのユーリちゃんは今年6月、自身の母親を施設に入居させた。
ものごごろついたときには一緒にいた私たちは、友人というより双子の姉妹のような関係です、姿かたちも性格も全く違いますが。
そんな訳でユーリちゃんの母親は私にとっても「ママ」だった。
ユーリちゃんにとって私の母は「おかあちゃま」でした。
一人っ子のユーリちゃんが、私に報告することをゴールにしてママの施設入居をやり遂げたと聞き、胸が一杯になった。
LINEには、"心底ほっとしました。ちょい切ないけど。" と、簡単に書かれていたけれど、決して簡単ではなかったことを私は知っている。
エネルギーが私の10分の1ぐらいのユーリちゃんがひとりで頑張った。
報告は近場のデニーズで、夕食を摂りなから聞いた。
介護がはじまる前から続いていたユーリちゃんのママへの献身。ここ数年は本当に大変そうだった。
そしてこうして夜に外食するのは実に22年ぶりだと聞き、呆然とした。
本当に良く頑張ってきたね。
あとは自分の人生を、楽しまなきゃね

。
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やりたいことリストについての記事が、とうとう100に達しました。
リストは日増しに膨らみ続け、本日現在、351件になっている。


ピンクのチェックは「やったこと」。タスカジさんは今日来ます!
生きているうちにやりきれる気がしない(笑)。
このリストを見て、「ブログにしてみては」と、アイディアをくれたのはユーリちゃんだった。
それまで自分がブログを書くなどと、考えたこともなかった。
だからリストの100記事目はユーリちゃんのことを書こうと思っていたのです。
結局がっつりわが母の介護記事になってしまいましたが。

ユーリちゃんが先日プレゼントしてくれた絵本。私の小さいころに少し似ている

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