9月25日(月)
9月14日(木)から20日(水)まで、中国の遼寧省・内モンゴルに行ってきました。
10世紀から12世紀初めにかけて、約200年の間、
この地域に勢力を伸ばした契丹(のちに国号を遼)の遺跡を訪ねる旅でした。
建国者耶律阿保機の長男であった耶律倍が隠棲した医巫閭山。
倍は、阿保機の太子でありながら、帝位を継ぐことができませんでした。
帝位を継いだ弟に疑心を抱かれて、ここに隠棲したのでしょうか?
このあたりの山の上に、倍とその子世宗の墓があると言われています。
みなさんは、墓の位置を求めて、けわしい道を上がって行かれましたが、
わたしはこのあたりで、ギブアップ。
あとから、行かれた方のお話を伺って、あきらめて正解だったと思いました。
「死の行軍」一旦、登ってしまえば、途中で引き返すこともできなかったそうです。
シラムレン。
16日に内モンゴル赤峰から、同じく内モンゴル巴林左旗に移動。
その途中に撮ったシラムレンの写真です。
この川の流域あたりが、契丹国の中心です。
巴林左旗にある遼上京の北塔。
上京南塔。
中国では、この遼の遺跡一帯を世界遺産に登録したい考えがあるらしく、
整備を急いでいます。
そのため、遺跡周辺の住宅に住んでいる人々の立ち退きを進めています。
写真は、そのための宣伝文句。
「平屋からマンションに、古い住宅から新しい住宅に。
早く新居に移って早く利益を受けよう。早く契約書にサインすれば、早く(いい)部屋が選べる」
というような意味のようです。
塔の周辺にたくさんありました。
上京の中に入ったときには、陽が落ちかけていました。
菩薩像です。
ここに、遼の中心的都 上京臨潢府がありました。
翌朝、もう一度、上京に寄りました。
盛り上がっている所は、城壁です。途切れているここは、西門の跡です。
その後、祖州城へ行きました。
祖州城は、阿保機の墓(祖陵)の奉陵邑です。
そこに、この写真のような石室があります。
お祀りをしたところなんでしょうか。
中国は、広いです。延々とバス移動。
ゆっくり昼食を取っている時間がないので、途中でパンを購入してもらいました。
この付近の売店で買いました。
巴林右旗にある白塔に着いたのは、やっぱり、陽が落ちかけているころでした。
ここから、巴林左旗のホテルにもどったころには、夜の10時を過ぎていました。
渤海は、この契丹に滅ぼされます。
その最後の王は、契丹に降伏したのち、遼の都上京に連れてこられました。
18日の朝は、最後の王と王妃が住んでいた跡をたずねました。
城壁もしっかりあって、けっして粗末な扱いを受けていたのではないことはわかりますが……
現在、そのあとは、ゴミ捨て場になっていました。
上の写真にある、小さな箱型の建物は、もしかして、トイレ?
下には、川が流れています。
あまり居心地のいい場所ではなかったので、わたしは、早々に引き上げてきましたが、
先生はじめ、一部の向学心溢れる方々は、渤海王の住まいの痕跡を求めて尚も奥深くへ。
尊敬します。
この日は、中京大定府のあった寧城を経由して、朝暘まで移動しました。
途中、牛肉麺をいただきました。
建物の向こうに見えるのが、中京の大塔。
中京の小塔には、柵があって、近くに寄ることができませんでした。
城壁の上に上がると、かすかに小塔が見えました。
写真右にあるのが、小塔です。
19日(火)は、朝暘から義県を経由して、瀋陽に移動しました。
義県では、まず、「万仏堂石窟」を見学。
ここに、現存している「契丹」最古の文字があるそうです。
その文字は、このお二方の納められている窟の左上の壁にあります。
よく見えない。
性能のいいカメラと腕で撮影に成功された方がいて、その方に見せていただきました。
最初の方に契丹の文字が、かろうじて見えました。
広勝寺の塔です。八角の塔です。
契丹って、どんだけ塔が好きなんや、と思いました。
遊牧民なので、塔や寺を建立するとか、仏教を信仰するとか、そういう発想はないものだとばかり
思い込んでいました。
思い込みは、よくないですね。
それと、どの塔を訪れても、風鐸の音のかわいらしさに魅かれました。
日本のお寺を訪れて、風鐸の音って、そんなに聞いたことがないように思います。
それだけ、草原は風がよく通るのでしょうね。
最後の訪問地は、奉国寺です。
チケット売り場の前では、トランプ遊びに興じる人々の姿が。
奉国寺の境内。
牌坊がありました。
いわゆる顕彰碑なのですが、この建物になぜか、心魅かれます。
お水ではありませんよ。
初めのころは、体調を悪くしてもいけないので、遠慮していましたが、
後半3日間は、解禁。
白酒もおいしいものです。特に、中華には合いますね。
楽しい旅でございました。