聖書本文:マルコによる福音書6章45節~56節
主題:キリストに目を向けて
今日の本文を読んでみると、水の上を歩く奇跡においてマルコによる福音書には1節だけ、今回の奇跡に対する弟子の反応において説明書きされている部分があります。
51イエスが舟に乗りこまれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。52パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。
52節の内容はマタイによる福音書には描かれていません。ちなみにヨハネによる福音書にも書かれていません。マルコによる福音書だけには、弟子達の驚きの理由が書かれています。それは5千人のパンの給食の出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。というものでした。ここに、5千人の給食の奇跡に続いて、水の上を歩く奇跡が描かれている理由があると言えます。イエス様は奇跡を行う時に、意味も目的もなく奇跡を行うことはありません。何かの目的と意図があるゆえに奇跡を行われたのでした。マタイによる福音書には、マルコにはない弟子達の反応が書かれています。
マタイ14:33舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。
マタイの本文には、弟子達の信仰告白が描かれています。それはイエスが本当に神の子であるという信仰告白でした。不思議なのは、イエス様が5千人に食べさせる奇跡を行った時には、このような告白は描かれていませんでした。パンの奇跡も驚くべきものでした。しかし、今日のマルコの本文によれば、そのようなパンの奇跡を目撃したにも関わらず、弟子たちはイエス様が『神の子』であることを理解していなかったようです。それゆえに、52節にあるように、パンの奇跡を目撃しても、心が鈍くなっていて、『イエス様が本当に神の子であること』を理解していなかったのだと分かります。聖書は何のために書かれたのでしょうか?イエス様は何のために来られたのでしょうか?まさに
ヨハネ20:31これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。
であります。しかし、弟子達自身が5千人の給食を通しても、イエスが神の子であることを十分に理解していなかったがために、主はこのような湖での奇跡を通してでも、イエス様の神の子としての品性を理解させ、信じさせたかったのだと分かります。今日の本文の前半には、イエス様は弟子たちと共にいませんでした。イエス様は一人、父なる神に祈るために山に登られていました。弟子たちは自分たちだけでガリラヤ湖を渡らなければなりませんでした。そこで大きな嵐が来て、逆風のゆえに前に進めないという出来事が起きていました。
そこにはどんな意味があるのでしょうか?弟子たちはイエス様なしで湖を渡ろうとする時に、大きな困難にぶつかることが分かります。逆風で前に進めませんでした。イエス様がおられない中で前に進もうとする時に、私達は大きな困難にぶつかります。私達の人生においてはどうでしょうか?私達は私達なりに色々な計画を立てます。それが実現するように努力するし、祈りもします。しかし、主が共に同じ船に乗っておられないならば、同じように大きな困難にぶつかるでしょう。前に進めないかもしれません。先週の聖霊降臨節の礼拝本文にもあるように、パウロがアジア地方に宣教に行く事は主の御心ではありませんでした。それゆえに、パウロの宣教はそれ以上前に進むことができませんでした。弟子たちはこの時、漕ぎ悩んでいました。私達リビングストーン教会の兄弟姉妹の今の信仰の状態はどうでしょうか?前に進んでいるでしょうか?それとも漕ぎ悩んでいるでしょうか?
12人の弟子たちはパンの出来事を見ても理解していませんでした。同じように出エジプト記のイスラエルの12部族は、天から降ってくるマナの奇跡を体験したとしても、自分たちの腹を満腹にさせることには関心はあったとしても、その天からのマナ、奇跡のパンを与えて食べさせて下さる主なる神様を心から信じることはありませんでした。イスラエル12部族は天から降るパンの奇跡を体験しました。しかし、マナに心を向けても、マナを与えて下さる主に心を向けませんでした。それが彼らの不信仰です。新約時代においても同じでした。イエス様は5千人にパンを食べさせました。そして5千人の男たちは食べて『満腹した』と書かれています。しかし、多くの人々はパンを食べて満腹はしたでしょう。その中のどれほどの人が「イエス様こそは本当に神の子である」ことを理解し、信じたでしょうか?むしろヨハネによる福音書6章によれば、パンの奇跡の後で、群衆はイエスをすぐさま自分たちの王様に担ぎあげようとしたと書かれています。ここに人間の堕落した罪の性質があります。群衆はパンを食べて満腹しても、そのパンの与え主であるキリスト、真のマナ、『命のパン』であるイエス・キリストに目を向けようとしませんでした。むしろ自分たちにとって都合の良い王様にしようとしました。弟子達もパンの奇跡をイエスの隣で目の当たりにしましたが、未だにイエスのことを神の子であると十分に信じていませんでした。
私達東京リビングストーン教会の兄弟姉妹はどうでしょうか?なにゆえにイエス様を信じるでしょうか?それはパンを与えてくれるからでしょうか?私達が日々、主が与えて下さる何かに注目して信仰生活を送るのではなく、全てのものの供給者、与え主である主なるキリストに目を向けて歩む私達リビングストーン教会の兄弟姉妹になることを願います。